「ん? ()の件なら謝るなって言っただろ?」

 敢えて話を逸らした俺に対し。

「そ、そっちもそうだけど。そっちじゃない」

 そう言いながら、美桜がどこか自信なさげにこっちを見上げた。
 身長差のせいで滅多に見られない、レア過ぎる彼女の上目遣いに、さっきからドキドキが止まらない。
 くそっ。やっぱり俺、こいつが好きなんだな……。
 そう再認識していると、

「あの、お昼の時。その……ごめんね」
「ん? あー。あれは、俺が勝手に先輩達を怒鳴っただけだろ?」
「そ、そんな事ない! ほんとは、あたしがきちっと断らなきゃいけなかったのに。ハル君、あたしが言えないのわかってて、代わりに言ってくれたでしょ……」

 俺の幸せな気分を罰に変えるかのように、俯いたままの美桜が、ぎゅっと唇を噛む。
 その顔を見ただけでわかる。自分のせいだって後悔してるのが。

 ったく。こいつは昔っからそうだ。
 何だかんだ言ってくるけど、根は凄く優しいんだよ。
 まあ、物心ついた頃からずっと幼馴染なんだ。そんな性格だって、とっくの昔に知ってるけどな。

 だから、さっき俺を待ってた時点で、絶対この話をするなってわかってた。
 でも、そのせいで笑わないあいつを見るのなんて、やっぱり耐えられない。

 俺は階段を一段だけ降りると、久々にあいつの髪をくしゃくしゃっと撫でてやる。

「そんな顔するなって」
 
 突然の事に目を丸くした美桜に、俺は空気を読まずにまた笑った後、そのままあいつの脇を抜け、先に階段を下って行く。

「お前は、周囲の空気を読み過ぎなんだよ。それで自分が辛くなってたら意味ないだろ」
「で、でも……」
「いいか? お前のそういう優しさは悪い事じゃないし、俺がその気遣いを無駄にするのも、本当はどうかとは思った。でも俺は、お前と違って空気なんて読めない。だからこっちが勝手に言いたい事を言っただけ。それなのに謝られたって、正直こっちが困るんだよ」

 俺は後ろを振り返らず、ただ階段を降りて行く。
 ここじゃ、絶対に振り返りたくなかった。
 あいつとの身長差を、より強く感じるだろうから。

 美桜はさっきと同じで、やっぱり俺に並ばない。
 だけど、話ができているだけで、俺にとって十分幸せな距離だ。

「もし、お前が俺がした事に感謝してるって言うなら、謝ってないで素直に礼でも言えって。悪いけど、落ち込まれてる方がよっぽど迷惑だからな」

 自分の素直になれない気持ちのせいで、言葉が悪くなってる。実際、顔が笑ってない。
 だけど、あいつに顔が見えない事をいいことに、俺はせめてそれが笑い話として聞こえるよう、声の明るさだけは失わないよう心掛けた。

 そして、やっと長い階段を下り終えた俺は、そのままさっさと歩みを止めず、駅に向け──。

「ハル君! 勝手に先に行かないでよ!」

 また俺を呼び止めた美桜。
 同時に駆け出したであろう足音が聞こえたかと思うと、俺の脇で止まる。
 隣を見上げれば、そこには口を尖らせた彼女の不貞腐れた顔。

 ほんと。こいつは表情豊かだな。
 だから飽きなかったんだ。ずっと一緒にいても。
 あいつの顔を見て自然と頬が緩む。だけど、心は素直になれなかった。

「別にいいだろ? 早く帰ろうぜ」
「やだ!」
「は? やだって。何でだよ?」
「だって、その……」

 さっきと同じく、目を泳がせながらちらちらとこっちの様子を伺った美桜は、

「ありがと」

 未だバツが悪そうな顔で、ぽつりとそう口にした。
 ……ほんと。世話が焼けるな。

「いいって。但し、次に礼を言う時は、ちゃんと笑えよな」

 生意気な口を聞き、代わりに笑ってやった俺は、そのまま独り歩き出す。
 けど、今度はあいつも一緒に歩き出した。

 人目がなければ、身長差があってもそこまで気にせずにいられるんだろうか?
 せめて、そうあって欲しいけど……なんて願っていると、あいつから納得いかなそうな声が聞こえた。

「もう。謝ってもお礼言っても、一言多いじゃん」
「ああ。お前だって知ってるだろ? 俺はそういう奴」
「まー、それは否定しないけど」
「だろ? だから諦めろって」

 俺が美桜を見上げ、あいつが俺を見下ろしながら、何時もみたいに憎まれ口を叩き、夕陽に照らされながら二人並んで歩く。

 相変わらずあいつは不満気だし、俺は俺で、あいつが身長差で劣等感を感じてないかと気が気でない。
 何か話を繋げておかないと、気持ちが滅入るな……そうだ。

「それよりお前、なんで俺と同じ高校にしたんだよ?」

 俺がそう尋ねると、美桜はギクッという顔をする。
 そりゃ、前触れもなくこんな話を振られたら、そんな顔にもなるか。

 あいつが俺と同じ高校を受験すると知ったあの日から、ずっと聞けず仕舞いだったこの話。
 理由はずっと気になっていたんだけど、あいつと距離を取ってたし、何となく触れづらくって聞けなかったんだよ。

 おろおろと、妙に落ち着きがなくなる美桜。
 おいおい。勝手に付いて来ておいて、そんなに言いにくい事かよ。
 困り果ててるのか。顔まで赤くしてるし……。

  ──「……ハル君と、離れたくなかったから」

 ……なんて話、流石にないよな……って、ばっか! 何を考えてんだよ!

 魔が差したかのように、ふっとそんな夢のような台詞と、あいつの恥じらう表情を思い浮かべてしまい、俺も顔が少し熱くなる。
 慌ててそっぽを向き顔を隠していると、あいつの声が耳に届く。

「だ、だって……。ハ、ハル君って、あたしが目を離したら、何しでかすか分かんないしー?」

 どこか渋々といった、気まずそうな一言。
 ……ま、そりゃそうか。俺達なんて、ただの幼馴染だもんな。
 あっさり夢が崩壊したせいか。一気に顔の熱が冷め、自然と肩を竦める。

「あっそ。通学時間十五分。気心知れた友達もいる快適高校ライフを、そんな理由で捨てるとか。ばっかじゃねーの?」
「べ、別にいいじゃん! そっちこそ、何でわざわざこんな遠い高校選んだのよ。別にあっちの学校だって。偏差値足りてたじゃん」
「……お前の迷惑になりたくないからに、決まってんだろ」

 ……なーんて。
 本当はそう言い返したいんだけど。

「気分転換」
「……は?」

 俺が放った一言に、返ってきたのは呆れ声。改めて美桜を見上げると、納得いかないって顔をしてる。
 だけど、俺はその嘘を真実にすべく、やれやれって顔をしてやる。

「だから。気分転換だよ」
「ほ、本気で言ってるの!?」
「当たり前だろ。幼稚園から中学まで、見慣れた友達と見慣れた景色しかなくて、ちょっと飽きてたし。だったら少し離れた高校でも選べば、気分も変わるだろって」
「ほんとに? ほんとーに、それだけ?」
「ああ」

 急に真剣な顔になり、美桜がそう念押ししてくるのにちょっと驚きながら、俺は相槌打つ。

「じゃあ、千景おばさんに理由を話さなかったのも……」
「言えるわけないだろ。こんな理由」
「……まー、確かに」

 さっきまでの不満気だった表情から一変。あいつは神妙な顔をする。
 これは多分、素直に納得した顔だな。こういうバカ正直な所はほんと助かる。

 しっかし……。美桜の奴、本気でお人好しだろ。友達より幼馴染を取るとか。
 どうせ家は隣同士。俺が多少避けてるとはいえ、会おうと思えばすぐ会えるってのに……。

 俺はふっと微笑む。
 身長差なんて関係なしに、あいつがこうやって俺を気にしてくれてるってだけで、また嬉しくなったから。

 まあ、そういう理由なら、少しは付き合ってやるか。
 あいつが幸せになるまでの間なら、多少わがままを言っても許されるだろ。

「ま、お前もそんな理由なら、俺から目を離すなよ」
「……え?」
「え? じゃねーよ。どうせこの先、俺は今日みたいな事をしでかすからな。見張っておくってなら、ちゃんと監視しとかないと止められないぞ」
「……」

 その言葉に、あいつが目を丸くしたまま固まる。
 って、そんな風になるような事を言ったか? 俺。

「どうした?」
「え? あ、ううん。その、やっぱハル君って、あたしがいないと駄目なんだなーって。うんうん」

 はっとした美桜が何かをごまかすように、両腕を組んでわざとらしく納得した仕草を見せる。
 ったく。何を考えてたか知らないけど、そういう事なら……。

「は? それはこっちの台詞だろ? 寝坊はするわ。先輩達に言いくるめられそうになるわ──」
「そ、それはもう言いっこなし! ハル君だって許してくれたじゃん!」

 俺が少しムッとした顔になったのを見て、気に障ったと勘違いしたのか。慌ててそんな言い訳をする美桜。
 そんなあいつを、無言でじーっと見つめた俺は。

「ああ。とっくに許してるよ。だから、さっさと帰ろうぜ」

 態度を一変。冗談だと伝わるようにんまり笑うと、言葉通りさっさと歩き出した。

 こうやって、こいつをからかって一緒に帰れるのも、あとどれくらいだろう?
 いつか美桜に男ができたら、流石にお役御免だろうか。

「もおっ! あたしの目から逃れられると思わないでよね!」

 なんて言って、並んで歩いてくれてるうちは、まだ大丈夫そうだけど。

 どうせなんだ。今の内に、こうやってあいつといられる幸せを味わってやる。
 で、あいつにお似合いの男ができたら、後はあいつが幸せになるよう見守るだけ。
 こんなチビな俺の幸せなんて、それで十分だ。

 鬱々とした気持ちを、沈む夕日と一緒に心の奥に沈めながら、俺はそんなわがままを決め込む事にした。