「ハル君、どうしたの?」

 俺が思わず足を止めたのに釣られ、美桜が足を止める。
 顔を上げるとあいつはこっちを見てたけど、俺が驚いた理由はそれじゃない。

「なあ。あの人混み、何だ?」

 俺が前を向き指差した先には、背の高い街路樹を囲う人だかりができている。
 みんな、生い茂った木の上の枝葉を見てるみたいだけど……。

「何だろう? 行ってみる?」
「ああ」

 別にスルーしてもよかったんだけど、どうにもその状況が気になった俺は、美桜の誘いに頷き、人だかりに向かって歩き出した。

「ありゃ相当高いな」
「役所の人を呼んだほうがいいかしら?」

 なんてがやがやと騒いでいる群衆。
 ほとんどの人が俺より背が高いから、木の幹なんかは見る事ができなかったけど、みんな木を見上げてるって事は、そっちの方に何かあるって事か?

「ハル君。あれ!」

 美桜が驚きと焦りを顔に見せながら、斜め前方を指差す。
 だけど、人だかりのせいで何がそこにあるのか見えない。
 くそっ。焦れったいな。一体何があるんだ?

「ニャー」

 ジャンプして見てみるかと迷ったその瞬間。耳元に届いたのは、少し小さな子猫のような怯える鳴き声だった。
 もしかして、木の枝に子猫でも登ってるんだろうか。

「流石に高いし、俺達じゃ無理だな」

 と、運良く俺達の前から人混みを離れようと若者の集団が人垣をかき分け歩いて来たお陰で、そこに空きができる。
 その隙を狙い、俺は一気に人混みの最前列に立ち上を見た。

 よく見れば木の上、細い枝の先に、怯えた猫が丸まって動かずにいる。
 鳴き声が痛々しいけど、子猫があの高さから落ちたら流石にヤバそうな気もするし、いつ落ちてもおかしくない。

 放っておくと危ないけど、この木は結構上までいかないと枝がないから、誰も登れないのか。
 美桜が腕を伸ばしてジャンプも、一番低い枝にギリギリ手が届かなそうだ。

 何とか助けられないか?
 俺は自然と木の幹に目をやり、状態を確認する。
 意外に細かな節はちょこちょこあるから、指や足先は掛けられそう。
 ってことは、このルートなら、きっと上までいけるんじゃないか?
 俺が脳内で描き出したのは、この節を使って枝まで登り、猫を助ける道筋だ。

 実は俺、筋トレがわりに少し遠い公園にあるボルダリングウォールに通っているんだ。
 その経験が活かせるかもしれない。

「ハル君。何とかならないかな?」
「……美桜。これ持っててくれ」
「え?」

 不安げに隣で事を見守る美桜に、俺はジャケットを脱ぎそれを手渡す。
 驚きの声には答えず、シャツの袖のボタンを外し腕まくりをすると、そのまま人混みより前、木の幹まで歩み寄った。

「お、おい。坊主。何をするつもりだ?」
「あの猫を助けます」
「は!? 危ないからやめとけって!」
「美桜。俺が猫を助けたら、一番低い枝から手を伸ばして下ろす。お前は下で待機して猫を受け取ってくれ。いいな?」
「え? う、うん」

 周囲の声には耳を貸さず、俺は木を見たまま彼女に指示を出し、そのまま流れで腕を伸ばして届く木の節に右手を掛けた。

「ふー……」

 ……よし。いくぞ。
 ぎゅっと腕の筋肉を使い、手を掛けた腕を縮め、同時に地面を蹴ってより高い節に左手を伸ばした。
 指先が掛かったのを確認し、足元にある小さな節に片足のつま先を掛けて……よし。で、次のルートは……。
 順番に節に目をやっては腕を伸ばし、足を掛け、俺は少しずつ木の上に登っていく。

「なんだ!? あいつ猿かよ!?」

 なんて馬鹿にするような驚きの声も聞こえたけど、伊達に中学時代にチビ猿って呼ばれてないからな。その程度で心を乱されなんてするか。
 ……よし。ここで腕を伸ばして、一気に飛ぶ!

 俺がつま先で節を蹴り、その反動を利用し片腕を畳み、ぎゅんっと上に上がると、そのまま一番低い、しっかりした枝に手を掛けた。

「おおーっ!」

 周囲の驚きの声に、ちょっと爽快な気持ちになりつつも、集中力を切らさず何とか枝の上に上がり、一旦安堵の息を吐く。
 さて。ここからは少し楽だけど、枝が折れるかもしれないから、気を付けていかないと。

 ふと下を見ると、ハラハラする群衆と一緒に、美桜がこっちを心配そうに見ている。そんなあいつに笑顔を向けると、少しだけ自分の服を見た。 

 木の幹で擦れたせいで、汚れたり、木の皮の破片が刺さったり。一部は擦り傷になって破れたりしている。
 折角YUKINOさんに作ってもらったのに、とは思ったけど、形振(なりふ)り構ってられない。そっちはあとで謝ればいいだけ。まずは目の前の事に集中だ。

 俺は再び目線を猫のいる上方に向けると、少しずつ枝を伝い、猫がいるより高い枝を目指した。
 流石に枝を折るのは悪い。
 できる限り太くて丈夫な枝を足場にして、猫を驚かせないように、ゆっくり、少しずつ……。

 慎重に枝を選び上を目指した俺は、やっと猫がいる枝までやって来た。
 幹を背にし、しゃがんだまま猫を見ると、あいつは耳を畳み怯えたまま「ニャーニャー」とか細く鳴きなこっちを見てる。

「大丈夫。怖くないぞ。おいで」

 安心させるよう笑顔のまま、少し前に足をじりじりと動かす。

  メキッ

 と、一度小さな嫌な音が鳴り俺は足を止めた。
 これ以上先に行くのは危ないけど、まだ腕を伸ばしても届かない。
 こうなると、あとはあいつのご機嫌次第か。

「ほら。下りよう。おいで」

 優しく声を掛け、片手を伸ばす。
 そして、猫を信じてじっとしていると、ゆっくりと身を起こしたあいつは──は!?

 突然、一気に跳躍して飛びついてきた猫。
 その身軽さと早さに完全に虚を突かれた俺は、ふらっとしてそのまま後方に倒れそうになる。

「ハル君!?」

 美桜の悲鳴。
 くそっ! ここで落ちれるか!
 咄嗟に両手で胸に収まる猫を抱え、枝を蹴り幹に向け飛ぶと、俺はそのまま背中を幹にぶつけ、枝に尻もちを突いた。

 背中に走る痛み。
 だけど、それ以上に咄嗟の行動が功を奏して枝から落ちずに済んだ安堵と、ヒヤリとした突然の展開にバクバクいっている鼓動の方がヤバい。

「ニャー」

 と、胸に収まった猫がこっちに不安そうな瞳で小さく鳴く。
 怖かったのか。しっかり爪が服に刺さっているんだけど、その光景はショックってより愛らしい。

「怖かったよな? 大丈夫だから」

 ちょっと癒された俺は、ほほえみながら猫の頭を撫でた。

「さて。後は下りるだけだな。悪いけどそのままじっとしててくれよ」

 言葉がわかるかも怪しい相手にそう声を掛けると、俺にしがみついている猫を片手で支えながら、ゆっくりと枝を伝い下りていく。
 そして、何とか一番下の太い枝までたどり着いた。

「ハル君! 大丈夫!?」

 さっきの事もあったからか。相変わらず不安を色濃く出している美桜に、俺は安心させるように笑ってやる。

「ああ。じゃあ、言った通りにいくぞ。いいな?」
「う、うん!」

 両手を握り、しっかり頷くあいつを見て俺も頷き返すと、今度は猫の方を見た。

「もう少しだから。大人しくできるか?」
「ニャー」
「よし。じゃあ、爪は立てるなよ?」

 偶然か。俺の言葉に相槌を打つ猫に微笑ましくなりながら、素直に言うことを聞き爪を収めた猫を片手に持つ。
 そのまま枝に腹ばいになった俺は、ゆっくりと猫を乗せた手をゆっくりと下ろして行く。
 下から美桜が、両手を伸ばしているけど、ただ伸ばしたんじゃ届かない。

 こうなったら……。
 俺は片手でしっかり枝を抱えつつ、半身を枝からはみ出させ、より手を低くしようと足掻いた。
 後、もう少し……。
 腕をぷるぷるとさせながら、腕を伸ばしていたその時。突然木が大きくざわめいた。
同時に襲った強風。体が風にあおられた反動で、枝を持っていた手がつるりと滑る。

「ああっ!」
「ハル君!」

 しまったっ!
 周囲の悲鳴と美桜の青ざめた顔を見た瞬間、咄嗟に体が動いた。
 反転し枝の方を向く体をそのままに、猫をもう一度胸の前に抱え、体を丸める。
 落ちても背中を打つだけ。でも、猫が無事ならそれで──。

 痛みを覚悟したはずの俺の体が、別の衝撃とともに動きが止まる。

 あれ?
 思わず胸にうずくまっていた猫が顔を上げ、俺と顔を見合わせる。

「ハル君! 大丈夫!?」

 いやに近い呼び声に、猫と一緒に顔をそっちに向けると……めちゃくちゃ近い位置に、美桜の心配そうな顔があった。
 これ……まさか……。
 恐る恐る自分の状況を確認すると……俺は、両腕で美桜の胸の前で抱えられていた。

「ハル君!?」

 あまりに綺麗な収まり具合に呆然としていると、美桜がもう一度俺を呼んだ。

「え? あ、ああ。大丈夫」

 何とか笑顔を返すと、同時に周囲から拍手や喝采が起こった。

「姉ちゃんよくやったぞ!」
「坊主も凄かったな!」

 そこにあるのは俺達を褒めた言葉のはず……なんだけど……。
 俺は周囲の歓声を聞きながら、ごまかすような笑みを浮かべるしかできない。
 いや、だって。今のこの状況、どう考えたってダサいし、何なら普通こういうのって、男女役割が逆だろって……。
 美桜も俺と同じ気持ちなのか。引きつった笑みを見せている。

「ニャー!」

 と。そんな歓声に負けない猫の鳴き声が歩道の床の方から聞こえると、耳をピンッと立てた猫が、そのまま俺の胸から勢いよく下に飛び降りた。

「ニャーニャー!」
「ニャー!」

 釣られて下を見ると、そこには親猫らしい猫に子猫がじゃれつく姿。
 子猫が無事でホッとしたし、その光景には癒やされる。
 だからって、見惚れてこのままってのは、お互い晒し者にしかならないよな……。

「み、美桜。悪い。そろそろ下ろしていいぞ」
「あ、う、うん」

 バツが悪そうに俺が言うと、はっとした美桜が慌てて俺を地面に立たせてくれた。
 周囲はさっきの歓声から一転、みんな猫の愛らしさに夢中。
 下手に呼び止められずにこの場を離れるなら、今しかないな。

「と、とりあえず、帰ろっか」
「そ、そうだな」

 タイミングよく美桜が声を掛けてきたのに便乗し、俺達はその場を後にしたんだけど、流石にこんなボロボロの格好じゃこれ以上デートなんて無理。
 で、俺達はそのまま帰りの電車に乗って、家に帰る事にした。

 ただ、やっぱりさっきの抱っこのせいで気まずくて、全然会話らしい会話ができなかったんだ。