明治17年の晩春。
常城神社の森は宮司がほどほどに管理をしていたが、それでもこの季節は降り落ちる落葉で境内は鬱蒼としていた。その木陰で男女が、厳密に言えば女がしゃがみこみ、どうやら木の実やきのこを拾い集めているようだ。それを男がつまらなそうに眺めていた。
「凛。そろそろいくぞ」
「広道様、お待ちください。あ」
小さな木の根につまずく凛を広道が抱き止めれば、草木の香りがふわりと漂う。すみませんと謝る凛を押しとどめ、空を見ればわずかに陽は傾いていた。自然と広道の眉根に深い皺がよる。予定より随分時間がおしている。
「そろそろ帰らねばならん。夕飯の用意に間に合わぬだろう」
「大丈夫です。本日は牛の煮込みで既に仕込んで御座いますし、その他の副菜も全て完成しております。配膳するだけです」
凛は自信ありげにそう述べた。
凛は久我山医院の料理番だ。毎日40人分ほどの料理を作る。それを一手に引き受けている。それなりに大仕事だが、凛はその仕事が好きなのだ。だから全く苦にならない。夕刻はいつもなら下ごしらえなどに大わらわな時間であるところ、たまたま久我山家次男の広道が帰宅していたものだから、その日の献立を煮込みと簡単な前菜に変更して連れ出してもらっていた。見方によっては逢引というやつだ。
広道は無言で凛の手を引き、足元に石があるだの段があるだの注意を与えながら手水舎まで導き、袖をまくらせた手に柄杓で水をかける。
「ありがとうございます」
「構わん。今日はもう終わりだ。そろそろ俺の目も効かなくなる」
「あら。そんなに時間が経ちましたか」
「おそらく四時すぎだろうが、戻れば陽は落ちているかもしれん」
凛は手ぬぐいを使いながら、ふふふと微笑んだ。
「医院まで戻れば私ができますので」
広道の険のある目元を見えていない凛は、そのように答えた。けれども広道はそれも気に入らなかった。
そんな二人を二柱が眺めていた。
一柱は二人のいるこの常城神社の主神。もう一柱は主神にとっては最近沸いた賢しらな羽虫と思われている者だが、主神は面白そうだからと何くれとそれに色々、このあたりのことを教えていた。その柱も細かいことを気にするタイプでもなかった。そして主神は、その羽虫が二人を見てよからぬことを考えている、と何となく感じ取っていた。主神は腕を組み、ニヤニヤと面白そうにそれを見つめる。
「おいクピド。何をするつもりだよ」
「あすこにすれ違う二人が御座いますれば、引き寄せてしんぜようかと」
その声に主神は外を眺めた。その二人の片方からはその差配する医薬の気を感じ、片方からは同じく草木の香を感じた。そしてクピドと呼ばれた方も、その二人から差配する愛の気配を感じ取っていた。
けれどもクピドがこの国に現れたのは極最近であり、この国の人間の機微というものが未だよくわからなかった。レディファストの国から訪れたクピドには、仏頂面の広道がその内心を隠して凛を嫌っているような態度を取っているようにしか見えなかったのだ。クピトは自らの役目を恋の仲立ちと自認している。
「あの御仁の様子では、嫌っているようにも見えましょう」
けれども日の本の存在である主神は、なんとなく日本人の感性として、二人が過不足なく好き合っているのだろうなと感じていた。
「ふうん、それでお前はどうするつもりなのだ」
「取りいだしたるこのクピドの弓にて射ますれば、たちまち目の前の相手に思いを寄せまして御座候」
そしてクピドはその背から小さな弓矢を取り出し、構えた。瞬く間に狙いすまして矢を放ち、けれどもその瞬間、凛がよろけたのだ。主神がこっそり強い風をふかせたのだとは、クピトは気づかなかった。
「あっ狙いが」
「どうするつもりだい?」
「……仕方が御座いません。私めが顛末を然と確認して参りましょう」
何より、二柱とも、極めて悪戯好きだったのが運の尽きだ。
「どうした、凛」
「いえ、広道様、立ちくらみでしょうか」
「今日は随分歩いたからな」
広道はそれとなく凛の首筋に手を当て、やや熱を持っているのを感じた。そのためか、凛の呼吸が僅かに早くなっているのに気が付いた。広道は医者であるが、その専門は外科である。内科を専門とする兄の実道であればわかるだろうと思い、広道はさわさわと揺れる野草の籠ごと凛を抱え上げ、神社前に待たせていた馬車で帰路を急いだ。段々と暮れゆく日が、広道にはやけに不穏に思えたのだ。とはいえ急がせた馬車は30分ほどで久我山医院にたどり着く。
「ふむ。まあ風邪の初期症状だ。幸い今日の夕飯は既に用意してくれている。あとはゆっくり休めば良い」
「ありがとうございます、実道先生」
凛は深々と頭を下げた。
「それよりお前だ広道。顔が赤いぞ。測ってみろ」
御一新後にドイツから輸入された貴重な水銀式体温計が気軽に宙を舞い、広道の体温を38度4分と計測した。凛の熱より1度は高い。
「お前こそ休んではどうだ。そもそもお前のことだ。大学病院から休めと追い出されたのだろう? 案外お前の風邪が凛に移ったのかもな」
「む。大分復調したぞ」
「ぶりかえしたんだろう。伊予をつけよう」
「勘弁してくれ」
広道はわかりやすく顔をしかめた。伊予とは実道と広道の妹で、この久我山医院で看護婦をしている。患者の健康管理には極めて厳しいのだ。つまり広道が院内を彷徨い歩いて不用意に風邪引きを増やさないようにとのお目付け役である。
常城神社の森は宮司がほどほどに管理をしていたが、それでもこの季節は降り落ちる落葉で境内は鬱蒼としていた。その木陰で男女が、厳密に言えば女がしゃがみこみ、どうやら木の実やきのこを拾い集めているようだ。それを男がつまらなそうに眺めていた。
「凛。そろそろいくぞ」
「広道様、お待ちください。あ」
小さな木の根につまずく凛を広道が抱き止めれば、草木の香りがふわりと漂う。すみませんと謝る凛を押しとどめ、空を見ればわずかに陽は傾いていた。自然と広道の眉根に深い皺がよる。予定より随分時間がおしている。
「そろそろ帰らねばならん。夕飯の用意に間に合わぬだろう」
「大丈夫です。本日は牛の煮込みで既に仕込んで御座いますし、その他の副菜も全て完成しております。配膳するだけです」
凛は自信ありげにそう述べた。
凛は久我山医院の料理番だ。毎日40人分ほどの料理を作る。それを一手に引き受けている。それなりに大仕事だが、凛はその仕事が好きなのだ。だから全く苦にならない。夕刻はいつもなら下ごしらえなどに大わらわな時間であるところ、たまたま久我山家次男の広道が帰宅していたものだから、その日の献立を煮込みと簡単な前菜に変更して連れ出してもらっていた。見方によっては逢引というやつだ。
広道は無言で凛の手を引き、足元に石があるだの段があるだの注意を与えながら手水舎まで導き、袖をまくらせた手に柄杓で水をかける。
「ありがとうございます」
「構わん。今日はもう終わりだ。そろそろ俺の目も効かなくなる」
「あら。そんなに時間が経ちましたか」
「おそらく四時すぎだろうが、戻れば陽は落ちているかもしれん」
凛は手ぬぐいを使いながら、ふふふと微笑んだ。
「医院まで戻れば私ができますので」
広道の険のある目元を見えていない凛は、そのように答えた。けれども広道はそれも気に入らなかった。
そんな二人を二柱が眺めていた。
一柱は二人のいるこの常城神社の主神。もう一柱は主神にとっては最近沸いた賢しらな羽虫と思われている者だが、主神は面白そうだからと何くれとそれに色々、このあたりのことを教えていた。その柱も細かいことを気にするタイプでもなかった。そして主神は、その羽虫が二人を見てよからぬことを考えている、と何となく感じ取っていた。主神は腕を組み、ニヤニヤと面白そうにそれを見つめる。
「おいクピド。何をするつもりだよ」
「あすこにすれ違う二人が御座いますれば、引き寄せてしんぜようかと」
その声に主神は外を眺めた。その二人の片方からはその差配する医薬の気を感じ、片方からは同じく草木の香を感じた。そしてクピドと呼ばれた方も、その二人から差配する愛の気配を感じ取っていた。
けれどもクピドがこの国に現れたのは極最近であり、この国の人間の機微というものが未だよくわからなかった。レディファストの国から訪れたクピドには、仏頂面の広道がその内心を隠して凛を嫌っているような態度を取っているようにしか見えなかったのだ。クピトは自らの役目を恋の仲立ちと自認している。
「あの御仁の様子では、嫌っているようにも見えましょう」
けれども日の本の存在である主神は、なんとなく日本人の感性として、二人が過不足なく好き合っているのだろうなと感じていた。
「ふうん、それでお前はどうするつもりなのだ」
「取りいだしたるこのクピドの弓にて射ますれば、たちまち目の前の相手に思いを寄せまして御座候」
そしてクピドはその背から小さな弓矢を取り出し、構えた。瞬く間に狙いすまして矢を放ち、けれどもその瞬間、凛がよろけたのだ。主神がこっそり強い風をふかせたのだとは、クピトは気づかなかった。
「あっ狙いが」
「どうするつもりだい?」
「……仕方が御座いません。私めが顛末を然と確認して参りましょう」
何より、二柱とも、極めて悪戯好きだったのが運の尽きだ。
「どうした、凛」
「いえ、広道様、立ちくらみでしょうか」
「今日は随分歩いたからな」
広道はそれとなく凛の首筋に手を当て、やや熱を持っているのを感じた。そのためか、凛の呼吸が僅かに早くなっているのに気が付いた。広道は医者であるが、その専門は外科である。内科を専門とする兄の実道であればわかるだろうと思い、広道はさわさわと揺れる野草の籠ごと凛を抱え上げ、神社前に待たせていた馬車で帰路を急いだ。段々と暮れゆく日が、広道にはやけに不穏に思えたのだ。とはいえ急がせた馬車は30分ほどで久我山医院にたどり着く。
「ふむ。まあ風邪の初期症状だ。幸い今日の夕飯は既に用意してくれている。あとはゆっくり休めば良い」
「ありがとうございます、実道先生」
凛は深々と頭を下げた。
「それよりお前だ広道。顔が赤いぞ。測ってみろ」
御一新後にドイツから輸入された貴重な水銀式体温計が気軽に宙を舞い、広道の体温を38度4分と計測した。凛の熱より1度は高い。
「お前こそ休んではどうだ。そもそもお前のことだ。大学病院から休めと追い出されたのだろう? 案外お前の風邪が凛に移ったのかもな」
「む。大分復調したぞ」
「ぶりかえしたんだろう。伊予をつけよう」
「勘弁してくれ」
広道はわかりやすく顔をしかめた。伊予とは実道と広道の妹で、この久我山医院で看護婦をしている。患者の健康管理には極めて厳しいのだ。つまり広道が院内を彷徨い歩いて不用意に風邪引きを増やさないようにとのお目付け役である。