翌日の朝。
 志々雄は一朗太と顔を合わせるなり、彼が持っていた舞扇を取り上げた。
「この扇に呪いがかかっている可能性がある。少し調べたい。再びお前に返すまで、踊りの稽古はするな」
 一朗太は口を尖らせた。
「えぇ……園遊会に備えて踊り込もうと思っていたんですが、いけませんか」
「駄目だ。俺がいない間に踊って、呪いが発動したらどうする。転んで足でも挫けば、それこそ舞台には立てんぞ」
「で、でも……稽古ができないなら、僕は一体、何をすれば……」
「暇なら境内の掃除でもすしておけばいいだろう。とにかく、俺がいいと言うまで踊りから離れろ。分かったな」
 志々雄はただでさえ鋭い目を眇め、くわっとかぶりつきそうな勢いで言い放つ。
「うぅ……わ、分かりました」
 一朗太は身を竦ませつつ頷いた。もはや、狼に睨まれる子羊である。
 こうして次期宗家は扇の代わりに熊手を持ち、境内に散らばった落ち葉と格闘することとなった。
「うっ、重い。芽依子さん、粂治さん。落ち葉って、集まるとこんなにずっしりするものなんですね……」
 志々雄の言いつけとはいえ、あまりにも不憫だった。一朗太は大切に育てられた名家の跡取り。華族令嬢なのに箒を使い慣れている芽依子とはわけが違う。
「一朗太さん、無理をなさらないでください」
「みんなで手分けしましょうや」
 泣き言を漏らす一朗太に、芽依子と粂治はすかさず手を貸した。
 へっぴり腰ながらも一朗太は熊手を握り続けた。
 三人で力を合わせた結果、お日さまがてっぺんに来るころには落ち葉がこんもりとした山になった。
 粂治がそれに火を付け、洗った芋を放り込む。芽依子が握ったおむすびと合わせて、ささやかな昼餉である。
「――うわぁ、美味しい! この芋は、どこかの名産品ですか? おむすびの方は、献上米か何かを使っているんでしょうか」
 焼いただけの芋とただの塩むすびを、一朗太は庭に面した濡れ縁に腰かけて一心不乱に食べた。
 粂治がその様子を眺めて、目を細くする。
「いやいや、決して高価なものじゃありません。芋も米も近くの農家から安く分けてもらったものですわい。芋は形が(いびつ)で米は粒が揃ってないが、味はいいでしょう」
「はい。こんな美味しいもの、僕は初めて食べました!」
 結局、お盆の上に残っていた芋とおむすびの半分が一朗太の腹の中に納まった。
 その一朗太から舞扇を取り上げた志々雄は、どこかへ出かけてしまっている。呪いのことを調べると言っていたが、詳しい話は誰も聞かされていない。
 神主のいない境内で、一朗太は芽依子たちの方を勢いよく振り返った。
「外の掃除は終わりですよね。午後からは何をしますか? 僕も手伝います。なんでもやりますよ!」
 そう言って腕まくりまでする一朗太に、粂治が障子の張り替えを頼んだ。
 名家の令息は作業にかなり四苦八苦していたが、それでも途中で投げ出すことはしなかった。幾度かの失敗を経て、障子窓が綺麗に生まれ変わったのは夕刻である。
「ああ、やっとできた! 障子をぴんと張るのって難しいんですね。今まで踊りしかしてこなかったから、貴重な経験です」
 一朗太は額の汗を拭って、ふぅと息を吐く。
 張り替えに使った糊があちこちにこびりついていた。その姿が妙におかしくて、芽依子と粂治は顔を見合わせて笑う。
「三人とも、ここにいたか」
 ほのぼのとした雰囲気は、鋭い声で打ち破られた。
 現れたのは志々雄だ。今しがた戻ってきたばかりのようで、黒っぽい着物と灰色の袴――外出着のまま、芽依子たちを見据えている。
 粂治がすかさず駆け寄った。
「旦那さま。お戻りでしたか」
「粂治、留守番ご苦労だった。暗くなったから参道の石燈籠に火を灯してきてくれ」
「お任せください」
 素早く去っていく粂治を見送ったあと、志々雄は一朗太に向き直った。
「お前は本殿に来い。話がある」
「……えっ、僕、一人で行くんですか」
 一朗太はごくりと息を呑んでから、怯えきった顔つきで芽依子を見る。志々雄は眉間に皺を寄せた。
「――芽依子も一緒に来てくれ」
 芽依子はもちろん頷いた。
 三人で、静謐な雰囲気に満ちた本殿に足を踏み入れる。
「まず、これの件だが」
 腰を下ろすや否や、志々雄は何かを取り出した。今朝、一朗太から取り上げた舞扇だ。
「……やっぱり、その扇に呪いがかかっているんですか?」
 一朗太が尋ねると、志々雄の首が左右に振られた。
「いや。これはただの扇だった。悪しき気は感じられん。それに、今日一日お前の身に異変はなかったようだな。なら、すでに狐の呪いは解けている」
「ほ、本当ですか?!」
「――お前は、俺の言うことが信じられないのか」
 ぎろり。志々雄は鋭い目を少し眇める。
「い、いえ! 神薙神社の神主さまの力は絶大だと聞いています。だから、もう大丈夫なんですね。信じます。言われてみれば、昨日より気分がいいし……」
 確かに、一朗太の顔色はかなりよくなった。時折心からの笑みも見えて、芽依子も安堵していたところだ。
「この扇をお前に返す。もう一度言うが、呪いは解けた。試しに、何か踊ってみろ」
「えっ、踊るんですか。ここで?」
 先ほど『信じます』と口にしたものの、やはり不安が拭いきれていないようだ。
 志々雄はそんな一朗太を、ただまっすぐに見つめる。
「嫌なら無理強いはしない。踊るか踊らないかは――自分で決めろ」
「…………」
 戻ってきた扇にじっと視線を落としたまま、一朗太はしばし口を閉ざす。
 だがやがて静かに立ち上がり、顔つきをぐっと引き締めた。
「僕、踊ります。試しに……ということは、あまり長くない曲がいいですよね。何にしようかな」
「『玉兎』なんてどうですかい?」
 ふいに、明るい声が割って入った。
 粂治がぺこぺこと頭を下げながら本殿に上がってくる。石灯籠に火を入れ終えたらしい。
「儂は踊りには詳しくねぇが、玉兎って曲だけは知ってる。月にいる兎が餅をついたり、昔話の『かちかち山』のくだりが出てきたりして面白いんだ。若旦那、踊ってくれませんかねぇ」
 粂治に期待のまなざしを向けられて、一朗太はふっと笑みを零した。
「玉兎ですか。いいですね。僕も好きですよ。何せ今の宗家――父から、一番初めに手ほどきを受けた曲ですから。……ああ、そうだ。粂治さん、もし歌詞が分かるなら、あなたが地方をやってくれませんか」
「えぇっ、儂が唄うんですかい?!」
「ぜひお願いします! 少々間違えても構いません。粂治さんの唄に僕が合わせますから」
「粂治。お前は庭仕事の合間によく何か唄っているだろう。やってみろ」
 口を挟んだのは志々雄だった。
「ありゃ志々雄さま、儂の鼻歌を聞いていたんですかい。いやはや、なんともお恥ずかしい。……ですが、そう仰るならこの粂治、一肌脱ぎますぞ!」
 主に促された粂治は「よし」と袖をまくり上げた。
 一朗太は本殿の端まで行き、芽依子たちと向かい合う。

「中に餅つく玉兎 餅じゃござらぬ望月の~」

 粂治の唄が聞こえてくると一朗太は微かに口角を上げ、ぴょんぴょんと跳ねるような動きをした。
 まさに兎だ、と芽依子は思った。
 一番初めに手ほどきを受けたというだけあって、子供でも踊れる曲なのだろう。それを、じきに宗家となる一朗太が全力で舞っている。

「後から火打ちで かちかち
 かちかち かっちかち かちかちの山という内に~」

 かちかち山のくだりに入ると、曲調はますます賑やかになった。
 一朗太の顔には、玉のような汗と満面の笑みが浮かんでいた。一つ一つの動きに躍動感があり、だが無駄な力は一切加わっていない。
 神社の本殿は、もはや立派な舞台と化していた。
 なんだかとても楽しそう――舞手の心の内が、見ている芽依子にもひしひしと伝わってくる。

「風に千種の花兎 風情ありける~」

 粂治の声が長く伸び、本殿の中に溶け込んでいたところで一朗太はぴたりと動きを止めた。
 いわゆる『決め』。舞はこれにて終了である。
「――ああ、ちゃんと踊れた」
 華やかな余韻が消える頃、一朗太がようやく口を開いた。光る汗が幾筋も伝う顔には、何かを断ち切ったように晴れ晴れとした表情が浮かんでいる。
「実は僕、つい先ほどまで踊りをやめてしまおうと思っていたんです。襲名披露を控えているのに稽古が進まないうえに、呪いを受けて身体が思うように動かなくなって、何もかも投げ出したくなった」
 予期せぬ告白を受けて、芽依子は「えっ」と呟いた。
 志々雄も驚いて目を見開き、粂治は身を乗り出す。
「藤園流の若旦那ともあろうお方が踊りをやめるなんて、そんなことが許されるんですかい?!」
「僕が次の宗家に選ばれたのは、今の宗家と血の繋がりがあるからです。要するに、ただの七光りなんですよ。僕より優れた弟子は山ほどいる。雄介さん――典子さんのお兄さんもその一人です。僕が踊りをやめたら、きっと彼が次期宗家になるでしょう」
 でも……と、一朗太は一度唇を引き結んだ。
「僕は肝心なことを忘れていた。園遊会や襲名披露のことがあって、最近は上手く踊らなければと焦っていましたが、そんなことは二の次でよかったんだ。今日、稽古から少し離れてみて分かりました。――僕は好きなんですよ、踊ることが!」
 向けられたまなざしに迷いはない。
 一朗太は志々雄にぺこりと頭を下げた。
「神主さま。呪いを解いてくださってありがとうございます。これから稽古場に戻って、とにかく踊ります。心ゆくまで!」
 素早く身を翻し、まさに踊るように本殿を出ていく一朗太の姿は驚くほど軽やかだった。今までまとわりついていた重たいものが、跡形もなく消えている。
「さすがは志々雄さまだ。狐の呪いを跳ね返したんですねぇ!」
 粂治が感心したように言った。
 しかし、褒められた志々雄は神妙な面持ちで首を横に振る。
「いや、俺は何もしていない。今回一朗太を苦しめたのは、狐の呪いなどではない」
「はぁ? 呪いじゃねぇんですかい?! じゃあ一体、何が原因だったんです」
 素っ頓狂な声を発する粂治をよそに、志々雄は本殿の出入り口に歩み寄った。
 つい先ほど、一朗太がここから出ていったばかりだ。引き戸を開けると外に通じていて、傍らには大きな賽銭箱が置かれている。
 志々雄はそちらを睨んで鋭い声を発した。
「――いつまで隠れているつもりだ」
 芽依子ははっと目を凝らした。よく見ると、鮮やかな山吹色の布地が賽銭箱の陰からはみ出している。誰かがそこにしゃがみ込んでいるようだ。
 その誰かは、観念したのかすぐに立ち上がった。
「典子さん……」
 芽依子は驚いて名を口にした。同じように面食らっていた粂治は「いつからそこに隠れていたんですかい」と尋ねる。
 典子はきまり悪そうに顔を顰めた。
「ここに来たのは少し前ですわ。参道まではもっと早くに辿り着いていたのですけど、暗くて不気味で先に進めなかったの。石燈籠に火が入って少し明るくなったから、なんとかここまで。……というより、隠れていただなんて人聞きの悪いことを言わないで。わたくしはただ、座って休んでいただけよ」
 すかさず、志々雄が首を左右に振った。
「それは嘘だな。お前はそこに隠れて様子を窺っていたんだ。自分の目論見が露見していないか、確かめるつもりだったんだろう」
「目論見って、何のことですかい」
 粂治が志々雄と典子を交互に眺めながらはて、と首を捻る。
「わ、わたくしには分かりませんわ」
 典子は眉をひそめた。そんな彼女の鼻先に、志々雄の人差し指が突きつけられる。
「高津典子――一朗太に呪いをかけたのは、お前だ」
 信じられない言葉が飛び出し、芽依子は目を見開いた。婚約者を――じきに添う相手を、呪うなんて……。
「な、何を仰いますの、神主さま。わたくしが呪いをかけただなんて、そんな……」
 芽依子たちにまじまじと見つめられた典子が引きつった顔に無理やり笑みを浮かべた。
 志々雄は僅かに肩を落とす。
「否定するなら、こう言い換えてもいい。お前は一朗太に言葉で暗示をかけて不安な気持ちを煽った。そうやって、大事な舞台で失敗するように仕向けた。言葉や態度に潜む棘は、目に見えずとも心に突き刺さる。いわゆる言霊(ことだま)――一朗太を苦しめていたのは、お前から発せられた嫉妬や悪意だ」
 志々雄の話を聞いているうちに、昨日見た光景が芽依子の心に蘇る。
 典子は弱りきった一朗太にぴたりと貼り付き、耳元で熱心に語りかけていた。

『宮家の園遊会ではお一人で踊ることになりますけど、目の肥えたみなさまの前で、立派に大役を果たしてくださいますわよね?』
『ねぇ、一朗太さん。宮家の方々だけでなく、門下全員があなたに注目していますわ』
『失敗は、絶対に許されなくてよ』

 励ましているだけのように思えるが、よく考えてみるとそうではない。
 失敗は絶対に許されない――こんな風に言われ続ければ、重圧が否応なくのしかかる。
 典子は、真綿で首を絞めるように一朗太を追い詰めていたのだ。
 真実に気付いて息を呑む芽依子の横で、志々雄は淡々と言い募った。
「俺は今日、藤園流の関係者に話を聞いてきた。一朗太と高津雄介……お前の次兄は、次期宗家の座を争っていたそうだな。弟子たちの中には高津雄介を推す者も多かった。妹のお前もその一派だ。だが、次の宗家に指名されたのは一朗太だった」
 今日、志々雄が外に出ていった理由を芽依子はようやく把握した。一人で聞き込みをしていたのだ。
「一朗太を後継に指名したのは現宗家だ。その威光には誰にも逆らえない。お前は表向きは騒がず、裏で恨みを募らせた。そんな中、好機が訪れた」
「宮家の園遊会ですな、旦那さま」
 粂治が渋い顔と声で主に相槌を打つ。
「そうだ。大舞台で失敗をすれば、一朗太は次期宗家の座を追われるかもしれん。そうすれば自分の兄に席が巡ってくる。だから言葉で一朗太の不安をかき立てた。さらに一朗太が狐の石像に傷をつけたことを利用して『呪いだ』と騒ぎ、恐怖心を煽った。扇がなくなったり、寝所に獣の毛が紛れ込んでいたりしたのも、高津典子――お前の仕業だな」
「そんなこと、わたくしは知らな……」
「知らないはずはない。お前は、高津雄介を次期宗家にしたい連中と手を組んでいただろう。呪いに見せかけてあれこれ悪戯を仕掛けたときも、奴らと協力していた。何人かがすでに口を割っているんだ。お前が一朗太を陰でどんなに悪し様に言っていたか、俺はすべて把握している」
 典子の協力者たちは、聞き込みに来た志々雄を見て震え上がったことだろう。身体がやたらと大きく、狼のように恐ろしい者に迫られたら、隠し事などできない。
「あ……ああ……」
 聞こえてきたのは典子の呻き声だった。高価な振袖に包まれた身体が、とうとうその場に崩れ落ちる。
「典子さん。なぜこんなことを……。一朗太さんと添い遂げるおつもりだったのでは……」
 芽依子は気付けばそう口にしていた。
 すると、典子は大きく顔を歪めた。
「添い遂げるですって? 冗談はやめてちょうだい。わたくしが本気で一朗太さんに……あんなぼんくらに嫁ぐはずがないじゃない!」
「えっ」
「わたくしが一朗太さんと婚約したのは、近くにいれば次期宗家の座から引きずり下ろせると思ったからよ。あの人が落ちぶれるのを見届けたら、すぐに別れるつもりだったわ。わたくし、あの人のことが大嫌い! お兄さまから宗家の座を奪っておいてのうのうとしているなんて、許せない」
 一度溢れた感情を止めることができなくなったのか、典子は拳を握り締めながら苛立ちを爆発させた。
「一朗太さんみたいなうだつの上がらない七光りが流派を率いていくだなんて、わたくし、どうしても納得がいかないわ! 雄介お兄さまの方が踊りの才がある。宗家は、誰よりも実力のある人が務めるべきよ」
「待て。お前は一朗太に才がないと言うのか」
 辛辣な言葉を止めたのは志々雄だった。
 はっと身を竦めた典子に、狼神主はまっすぐ問いかける。
「さっき、ここで踊る一朗太の姿を覗き見ていただろう。あれを目の当たりにしてもまだ、意見は変わらないか」
「神主さま……わたくしが戸の隙間から中の様子を見ていたのを、知っていらしたの?」
「ああ。知っていたが、あえて放置した。言葉で説明するより、実際に見せた方が早いからな。……もう一度問う。一朗太の踊りを見て、お前はどう思った」
「わ、わたくしは……」
 典子は言葉を詰まらせた。
 一方、芽依子の脳裡には一朗太の晴れやかな笑みが浮かんでいた。心底楽しそうに踊っていた姿に、今でも胸が熱くなる。

『――僕は好きなんですよ、踊ることが!』

 この先どういう立場に置かれても、誰に何と言われても、一朗太は踊ることをやめないだろう。宗家になるかどうかなど、彼にとってはもはや二の次なのだ。
 あれほど踊りを愛している者はいない。好きだという気持ちは、どんな才にも勝る。
「あの踊りを見てもまだ考えが変わらないのなら、勝手にしろ。だが、お前がこの先いくら一朗太に呪いをかけても――俺が必ず解く」
 志々雄が静かに言うと、典子は再び項垂れた。
 そのままくるりと踵を返して、走り出す。
「粂治、追いかけろ。もう日が落ちている。俥に乗せて家まで送り届けてやれ」
「承知しました、旦那さま」
 主に命じられて、粂治がすぐさま典子のあとを追いかけていく。
 薄暗い境内に残されたのは二人だけ。志々雄は芽依子をじっと見つめた。
「呪いは確かに存在する。物の怪や悪霊にとり憑かれることも、ないとは言えん。だが本当に怖いのはもっと別のものだ。それが何か、芽依子にも分かっただろう」
「――はい」
 芽依子は頷いた。
「あの人のことが大嫌い!」と叫んだ典子の顔は、まるで、般若のようだった。彼女は一朗太に寄り添うふりをして、心の奥のどす黒いものをぶつけていた……。
「それで芽依子――お前はいつ、ここを出ていくんだ」
「えっ」
 ふいに言われ、芽依子はびくりと肩を震わせた。
 出ていくことが前提になっている台詞だった。だが、志々雄がそう口にしたくなる気持ちは嫌ほど分かる。
 おそらく、志々雄にとっては芽依子が――金と引き換えに送り込まれてきただけの仮初めの嫁が、邪魔でしかないのだろう。
 ここを放り出されたら、芽依子には行く当てなどない。父のもとに戻れば、きっと今度こそ『始末』される……。
「芽依子」
 唇を噛み締める直前、名前を呼ばれた。その声が思いのほか優しくて、込み上げてきた悲しみがすっと引っ込む。
「早く出ていった方がいいぞ。こんなところにいても、お前が困るだけだ」
「困る? 私が、ですか」
「ああ。何せここは神域だ。使用人や調度品は最低限しか置けない。だから贅沢とは無縁になるし、身の回りのことも自分でする羽目になる。俺はこの暮らしにもう慣れているが……華族のお前には、不便じゃないのか」
 芽依子はそこで気付いた。
 眼光は相変わらず鋭く、口調はそっけないが、言葉の端々に温かさがある。志々雄は、芽依子のことを気遣ってくれているのだ。
 とくん……と、芽依子の胸の鼓動が早くなる。やや困ったような顔で、志々雄は先を続けた。
「とにかく、ここにいてもいいことなんて何一つない。どうしたって俺の役目――祓い屋の仕事と接することになる。おぞましいものを目の当たりにするんだ。気持ちのいい場所ではないだろう」
 おぞましいものと聞いて、般若のような典子の顔が脳裡を掠める。
 芽依子は一瞬俯きかけたが、すぐに顔を上げた。
「志々雄さま。私は特に困っていません。だって、自分のことを自分でするのは、当たり前です」
「当たり前……」
「はい! それに、祓い屋のお仕事のことも大丈夫です。少し辛いこともありましたけど、それでも一朗太さんはもう一度踊れるようになりました。志々雄さまは、ちゃんと悪いものを『祓った』んです」
 おそらく、志々雄は初めから典子を疑っていた。呪い云々と言って扇を取り上げたのは、上手く踊れず煮詰まっていた一朗太に肩の力を抜いてもらうためだ。
 しばらく稽古から遠ざかったことで、一朗太は改めて踊りが好きなのだと気付けた。志々雄はさらに、『呪いは解けた』と自ら断言することで典子のおぞましい言霊を吹き飛ばしたのだ。
 神薙家に伝わる力を――志々雄のやり方を、芽依子は自分の目で見た。
 だからこそ、言えることがある。
「この先、何があっても大丈夫だと思います。志々雄さまが、傍にいてくれれば」
「――!」
 志々雄は一瞬息を呑み、そのまま二度ほど瞬きをした。しばらくして、ぽつりと口を開く。
「夕餉の器に、皿で蓋をしたのはお前か」
 思いがけないことを聞かれて、芽依子は慌てて頷いた。
「はい。あの、もしかして余計なことだったでしょうか」
「いや、そんなことはない。これからも――ああやって出してくれると助かる」
「これからって……じゃあ」
 芽依子が何か言う前に、志々雄は踵を返した。遠ざかっていく背中に、初めて会った日のような拒絶感は漂っていない。
 心が温かくなる半面、ちくりと痛んだ。
 押さえたままの胸。着物の下には、偽物の痣がある。
 真実を知られそうになったら相手を殺せ――そうまでして隠し通さなければならない、大きな嘘だ。
 だが。
(志々雄さまになら、本当のことを言っても大丈夫かもしれない)
 芽依子はそんなことを考えていた。
 美しい銀色の髪を、目で追いながら。



               了