それから十日後。芽依子は神薙家へ赴くことになった。
 僅かな荷物の他は身一つで出立する。着ているのは豪華な振袖ではなく木綿の着物。忠興は、嫁ぐ娘に足袋すら新調してくれなかった。
「芽依子お嬢さま……」
 門の前まで見送りに出てきてくれたのはキヨだけだ。少し離れたところに忠興の用意した(くるま)と車夫の姿が見える。
 それに乗り込もうと足を踏み出した芽依子をキヨが引き留め、耳元に唇を寄せた。
「お嬢さま。キヨは何もかも知っております。本当は祝福の印を持つ織江さまが嫁ぐはずだったこと。身代わりとなる芽依子お嬢さまのお身体に、偽物の痣が刻まれたこと……。ああ、なんと惨い!」
「キヨ……」
 むせび泣くキヨの背中を、芽依子はそっとさすった。
「それから、神薙家の主のことも聞きました。とても偏屈な方だと伺っております。そんな方のところへ嫁がなければならないなんて、おいたわしい。それに、もしお嬢さまに祝福の力がないと知ったら、件の公爵は何をするか分かりません。痣が偽物だということは、隠し通してくださいませ」
「分かっているわ」
 十日前につけられた火傷の痕が、まだじんわりと痛む。
 芽依子がそこを片手で押さえていると、キヨがもう片方の手に何かを落とし込んだ。
 小さな小さな硝子瓶だ。中にはさらさらした白い粉がほんの少し入っている。
「芽依子お嬢さま。それは、キヨの実家に伝わる『秘薬』でございます」
「秘薬? そういえばキヨの実家は確か、富山の方だったわね」
「はい。富山と言えば薬売り。キヨの実家は代々薬種問屋を営んでおります。二百年ほど前、ご先祖がとある薬の生成に成功いたしましたが、あまりに効果が強いため存在が秘匿されておりました。今お渡ししたものが、その秘薬にございます」
「この秘薬には、どんな効き目があるの?」
「効能はただ一つ――心の蔵を、止めること」
「……えっ」
「言ってしまえば毒薬でございます。狙った相手に耳かき一杯ほど含ませれば、その命を奪うことができるのです。薬自体は無味無臭。しかも、仮に遺体が検分されても痕跡は残りません。これがどういうことか、お分かりになりますか」
 問われた芽依子はその場で硬直していた。手の上に載った硝子瓶を少しでも動かしたら何かが起こりそうな気がして、怖気が走る。
「芽依子お嬢さま。祝福の印の秘密が漏れそうになったら……そうでなくても、辛くて家に帰りたくなったら、隙を見てこの秘薬を神薙家の主に呑ませるのです」
「――っ! そんな!」
 芽依子は口元を押さえて仰け反った。人を、死に至らしめるなんて……。
「安心してくださいまし。薬の痕跡は残らないのですから病死で片が付くはず。芽依子お嬢さまが疑われることはありません。それに、もともと神薙家の主は短命なのでしょう。祓い屋稼業とやらのせいで」
「でも、神薙家の主が亡くなってしまったら、お父さまが怒るのでは。お父さまの目的は、神薙家の姻族になって富を得ることよ……」
 だから芽依子は売られるのだ。表向きは仮初めの嫁として。
「大丈夫ですよ。旦那さまだって、お相手が亡くなればさすがに諦めるでしょう。考えてみてくださいまし。神薙家は金を積んでまで花嫁を捜している。そうしなければならないほど、花婿になる当主に問題があるのです。そんな方のところより、魚住家(ここ)にいた方がまだまし。いったんは嫁いでも、この秘薬を使えば何もかも元通りになります。だから……」
 それ以上言葉を発する代わりに、キヨは芽依子の手の平ごと硝子瓶を包み込んだ。中に入っている毒薬が揺れて、芽依子はぐっと唇を噛む。
「お分かりになりましたね。それでは芽依子お嬢さま――行ってらっしゃいませ」
 引き締まった顔つきで、キヨは手を離した。
 待っていた俥に芽依子が乗り込むと、慣れ親しんだ女中の姿はあっという間に遠ざかっていく。
 俥を呼んだのは父の忠興だ。娘を歩かせたくないという親心からそうしたわけではなく、むしろ逆。神薙家へ着く前に芽依子が逃げ出したりしないよう、車夫に監視させるつもりなのだろう。
 微かな揺れが芽依子の身体に伝わり、胸元の傷に響く。
 火傷の痕が薄くなったら、自分でもう一度なんとかしろ――忠興は薄笑いを浮かべながら、餞別代わりにあの焼き鏝を渡してきた。
 それは今、風呂敷包みの一番奥にしまってある。
 偽物の痣――吐き通さなければならない嘘。その重みが、まだ微かに熱を持っている火傷の痕を抉る。
 悲しみと痛みをやり過ごしていると、ようやく俥が止まった。
 芽依子の目の前には、鬱蒼とした鎮守の杜が広がっていた。入り口には古びた石造りの鳥居が立っている。この奥に、芽依子の仮初めの夫がいるのだ。
 神薙家の現当主とはまだ一度も顔を合わせていなかった。知っているのは、志々雄という名前と年齢。そして、かなりの偏屈であること。
 一体どんな人物なのだろう……俥を降りた芽依子は、不安と風呂敷包みを抱えて歩き始めた。俥はそれ以上先に入れないのか車夫はついてきてくれず、薄暗い参道を一人で進まなければならない。
 しばらく歩くと、前を行く誰かの姿が目に入った。質素な木綿の着物を尻端折(しりはしょ)りにした老人だ。両方の手に荷物を抱えているせいか、足取りがひどくふらふらしている。
 なんだか危なっかしい……そう思っていたら、案の定、老人の身体が大きくよろめいた。
「大丈夫ですか!」
 芽依子は慌てて駆け寄って、痩せた背中に手を添える。
「すまんなぁ、お嬢さん。本殿まで行くんだがここの参道は長くて、年寄りには堪える」
「本殿なら、私も今から行くところでした。お荷物、半分お持ちします」
 遠慮する老人を押しきって、芽依子は荷物を一つ抱えた。大きな風呂敷包みの結び目から、立派な大根とみずみずしい葱がぴょこんと飛び出ている。
 二人で連れ立って歩き始めると、老人が気さくに話しかけてきた。
(わし)は、()きのいい野菜に目がなくてのぅ」
 買い物に行ったら八百屋の店先に新鮮な野菜がたくさん並んでいて、荷物が重くなってしまったとのこと。
 芽依子もその気持ちは少し分かる。魚住家ではお勝手の手伝いもさせられていた。真冬に冷たい水を使うのは辛かったが、土のついた芋や牛蒡を洗っていると新鮮な香りが漂ってきて、心が弾んだものだ。
 杜の中には参道がまっすぐ伸びている。樹々の間から零れてくる日差しが、地面にきらきらと落ちていた。緑のにおいと風に、身体をふわりと包まれる。
「本殿が見えてきたぞ」
 やがて、老人が前方を指さした。
「すごい……」
 芽依子は感嘆の吐息を漏らした。
 建物はさほど大きくなく古びているが、それが却って趣深い。あたりは綺麗に掃き清められており、息を大きく吸い込むと清浄な空気が身体じゅうに染み渡る。
 心地よかった。考えてみれば、生まれてからずっと屋敷に閉じ込められていて、門の外に出たのは初めてだ。鉄の輪がない足は思いのほか軽く、どこまでも歩けそうな気がして、自然と頬が緩んでくる。
 魚の身体を脱ぎ捨てて、水の底から上がってきた――深呼吸をしながら、芽依子はそう思った。
 そこへ、鋭い声が飛んできた。
「――粂治(くめじ)、帰ってきたのか」
 振り向いた瞬間、芽依子は息を呑んだ。
 立っていたのは一人の青年。背が驚くほど高く、身体つきは仁王のように逞しい。
 まず目を引くのは、見事な銀色の髪だった。それが日差しを受けて輝く様に、思わず見惚れる。
「お前は誰だ」
 白い着物に縹色の袴を身に付けた銀髪の青年は、芽依子をぎろりと睨みつけながら問うた。口を開いた拍子に、大きくて鋭い犬歯がちらりと覗く。
(――狼みたい)
 昔、キヨが動物図鑑を見せてくれたことがある。狼は時に人を襲う恐ろしい獣だ。
「お前は誰だ」
 その狼に再び同じことを聞かれ、芽依子はびくりと身体を竦める。
「魚住芽依子と申します。あの、私……」
 おそるおそる名乗ると、先ほど粂治と呼ばれた好々爺が「ええっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「魚住って、じゃあ、お嬢さんは、旦那さまの縁談の相手ってことかい?! そんな恰好してっから、てっきりどこかの奉公人だとばかり……あぁ、こりゃ失礼」
「いえ、お気になさらず」
 身なりがみすぼらしいのは事実だ。粂治とそんなやりとりをしていると、狼のような青年がふっと一つ息を吐く。
「芽依子といったな。俺は神薙家の当主、志々雄だ」
 神薙家の当主。すなわち、これから嫁ぐ相手。芽依子はその志々雄の神々しい姿をじっと見つめることしかできなかった。
 しばらく向き合っていると、神主姿の狼は不機嫌そうに顔を顰める。
「そういえば今日、どこぞの男爵家がうちに娘を送り込んでくると言っていたな。どうでもいいことだから、失念していた」
 どうでもいい……冷たく放たれた言葉に、芽依子は目を見開く。
「俺は爵位を得ているが、本職は神主。他の華族のような贅沢な暮らしは、ここではできないぞ。うちの使用人は、そこにいる粂治だけだ。粂治は飯炊きと境内の掃除で手一杯だから身の回りのことは自分でしろ。それが嫌なら――」
 出ていけ、と志々雄は言った。
 伝わってくるのは激しい拒絶の意志。少しも触れられていないのに、突き飛ばされたときのような衝撃を感じる。
 志々雄はそのままくるりと背を向けた。
 美しい銀色の髪が、どんどん遠ざかっていった。


 本殿の奥に建つ質素な平屋が、神薙家の当主の住まいだった。
 芽依子は粂治の案内で中を一通り見て回った。庭はあるがごく小さく、どの部屋もたいして広くない。こんなところに華族……中でも身分が上の公爵が住んでいるとは誰も思わないだろう。
 だが、中は隅々まで磨かれていて、畳のいい香りがした。
 志々雄は「どうでもいい」と言っていたが、芽依子の部屋もちゃんと用意されていた。寝具や文机などが置かれたそこはとても日当たりがよく、設けられた窓からは花々が植わった庭が見える。
 魚住家の門の前でキヨに別れを告げたのが昼下がりのこと。それから俥に揺られて帝都の端にあるここまで辿り着き、家の中を見て回ったり荷物を置いたりしているうちに日が暮れた。
 芽依子はこれから夕餉の支度をするという粂治に手伝いを申し出た。
「華族のお嬢さんにそんなことされられねぇです」
 粂治は何度も固辞したが半ば強引に押しきり、二人でこれまた質素なお勝手に立つ。
「旦那さまを……志々雄さまを見て即座に踵を返さなかったお嬢さんは、芽依子さまが初めてですわい」
 鍋の中身を掻き回しながら粂治が苦笑した。
「私の他にも、ここに来たご令嬢がいらっしゃるのですか」
「今までにも花嫁候補として何人かのお嬢さんがきた。志々雄さまはふた親を亡くしていてご兄弟もいないから、跡取りを設けなければ神薙家はお取り潰しになっちまう。そのことを分家筋がひどく心配してなぁ……。勝手にどこぞの華族さまと話をつけたらしい」
 芽依子の父に話を持ちこんできた伯爵も『どこぞの華族さま』の一人だろう。
「けど、やってきたお嬢さん方は志々雄さまやこの屋敷を見て逃げ帰っちまいました」
 豪華な振袖を纏ってやってきた花嫁候補たちのうち何人かは志々雄の姿を見て悲鳴を上げ、別の何人かは「お金持ちだと聞いていたから来てあげたのに」と、喚いたそうだ。
「そもそも、分家筋が強引に話を進めるのが悪い。志々雄さまは、誰かと添う気など毛頭ないんだ。何せ、自ら人を遠ざけておりますからなぁ」
 粂治の話によれば、四歳のときに父親を、十二のときに母親を亡くして一人になった志々雄に、手を差し伸べる大人は誰もいなかったという。
 銀の髪と鋭い犬歯を持って生まれた志々雄は、幼いころから『獣の化身』などと言われて忌み嫌われてきた。成長して人並み以上に屈強な肉体を得ると、今度は粗暴な男だと眉をひそめられた。
「嫌われているなら近寄るのをやめる……志々雄さまはそう決断したんでしょう。普段はあまり鎮守の杜から出ず、人と関わらないようにしていなさる。ご自分のものなのに、神薙家の財産にもまるで興味がない。ただ粛々と、お祓いをするだけです。儂は先々代の時分から神薙家に仕えておりますが、ここでの暮らしは穏やかそのものだ。分家連中が引っ掻き回さなければ波風など立たないのに、仕度金を餌にしてお嬢さん方を次々と寄越すから、志々雄さまはますます頑なになっちまって……」
 芽依子は粂治の話を聞いて、先ほど漂ってきた拒絶感を痛いほど理解した。志々雄はきっと、「またろくでもないのが来た」と思っているに違いない。
 そんなことをつらつらと考えていると、粂治が切った葱を鍋の中に放り込みながら芽依子に笑みを向けた。
「しかしまぁ、芽依子さまは今まで来た他のお嬢さん方とどこか違いますなぁ。さっきも言いましたが、志々雄さまを見て逃げ出さなかったのは芽依子さまだけだ。それに、お勝手仕事を手伝う華族さまというのも珍しい。まさか、自ら野菜を洗ってくださるとは」
「あ、ごめんなさい。素晴らしいお大根だったので、つい手に取りたくなって……」
 魚住家でいつもやっていたことだ。大根の立派さにつられて、自然と身体が動いてしまった。
「謝らないでくだせぇ。責めているんじゃありません。実は儂は、芽依子さまが……魚住家の娘さんがこの家に来てくれると聞いて、とても楽しみにしとったんですよ」
「まぁ、そうなのですか?」
「ええ。志々雄さまご本人が乗り気でないのに嫁なんて……と思っておりました。でも、魚住家なら話は別だ。何といっても、芽依子さまは、祝福の印を持っていなさる!」
「えっ……」
 祝福の印――その言葉を聞いて、芽依子の背筋が凍りつく。
「芽依子さまもお聞き及びでしょうが、祓い屋という仕事のせいで神薙家の当主は短命なことが多いのです。先代の当主、志々雄さまのお父上も二十九で世を去りました。……でも、芽依子さまの祝福の力があれば、志々雄さまはきっと、無事に長生きできる!」
 好々爺の目に、期待の光が宿っている。明るい顔つきと声が、重圧となってのしかかってくる。
 ――違うのです、粂治さん。私、実は……。
 思わず本当のことを口走りそうになって、芽依子は唇を噛んだ。

『もしお嬢さまに祝福の力がないと知ったら、件の公爵は何をするか分かりません』
『言ってしまえば、毒薬でございます』

 志々雄の狼に似た相貌とキヨの言葉、そして荷物の奥にしまい込んである硝子瓶が心の中で交錯する。
 そのとき粂治が「よし」と明るい声を発した。
「味噌汁ができましたよ、芽依子さま。あとは揚げ出し豆腐を作りましょう。大根は、おろしてそれに添えましょうかね」
 さっと腕まくりをした粂治につられて、芽依子も頷いた。
「分かりました。では、大根おろしは私がやりますね」
 二人で手分けして料理の続きに取りかかる。
 質素だが美味しそうなおかずができあがり、飯も炊けると、粂治は一人分を取り分けてお盆の上に並べた。
「これは志々雄さまの分です。儂らはそこの六畳間でいただきましょう」
「志々雄さまは、一緒に召し上がらないのですか」
「ええ。志々雄さまはいつも夜中まで本殿で書き物をしたり、座禅を組んだりしていなさる。飯はそのあとです。儂は通いの使用人で、戌の刻になる前に家路についちまうから、志々雄さまの分の夕餉は本殿の入り口に置いておくんですよ」
 戌の刻とは夜の八時前後だ。そこから夜中まで料理を置いておいたら、冷めてしまう。
 芽依子がその点を口にすると、粂治はやや困り顔になった。
「冷めるのは儂も気になっとりますが、志々雄さまが『そのまま置いておけばいい』と仰るもんで」
「そうですか。それならせめて、ご飯をおむすびにしましょう」
 芽依子は今にもお盆を持ってお勝手を出ていこうとしていた粂治を引き留め、手早くおむすびを二つ握った。それを竹の皮に包み、夕餉の膳に添える。
「冷めてしまうのはどうしようもありませんが、竹の皮で包めば米粒が乾いてしまうのは防げます」
「なるほど、芽依子さまの言う通りだ。そうだ! おかずには蓋をしましょう」
 粂治はポンと膝を打った。
 だが、すぐに眉をハの字にする。
「……駄目だ。ここには蓋付きの器なんて気の利いたものはありませんよ、芽依子さま」
 傍らの棚を見れば、置いてあるのは素朴な食器ばかり。
 だが、芽依子は皿を一枚手に取って言った。
「大丈夫です。一回り大きなお皿を逆さまにして被せれば、蓋の代わりになります。見た目は少し、よくないですが」
 芽依子は魚住家で食事の最中にも用を言いつけられ、中座することが多かった。大きな器を被せて乾燥を防ぐやり方は、その際に思いついたものだ。こうすれば、時間を置いても少しは美味しくいただける。
「はは、こりゃあいい。今度から、志々雄さまの夕餉はこうやって持っていこう。芽依子さま。いい知恵を授けてくれて助かりました」
 お盆を運んでいく粂治の背中を見送りながら、芽依子はそっと胸元を押さえる。
『いいか芽依子、嘘を吐き通せ』
 父、忠興から言われたことを思い出したら、偽物の痣――火傷の痕がひどく疼いた。