雫浜市の中心部は、海に近く運河が至る所に走る平地である。鉄道の駅があり、市庁舎があり、港があり、その他主要な施設がある。内陸に入って行くと徐々に坂が増え、坂の上には高級住宅街があり、学校や神社が多いのも高台の方である。さらに街の外に向かうと徐々に人家が減り、怪異課が置いている物見櫓が化け物の襲来に目を光らせるようになる。特に隣町との境界が道ではなく森になっている場所では、常に誰かが警備に当たっていた。
 中心部自体は平地であるものの、市政に関わる施設の多くが高台に第二の拠点を置いていた。かつて、大水害があった。その際に海辺がほとんど波にさらわれてしまったため、もしもに備えているのだという。昔と比べると港も道も建物も運河も強固になったため自然に負けることは随分と減ったが、備えあれば憂いなしである。
 雫浜第二市庁舎の前で、燈華は懐中時計を包んだ風呂敷を咥え直した。
 昨日拾った女の子の落とし物。今朝になって交番に届けに行ったのだが、名前が書いてあるから本人に直接渡した方が早いと言われた。落としたことに気が付かない限り取りに来ることはないのだから、それでは懐中時計がかわいそうだ。燈華は巡査から聞いた住所を頼りに、人力車に乗ったり路面電車に乗ったりして坂の上までやって来た。首から提げたがま口はちょっぴり軽くなってしまっている。
 交番で対応してくれた巡査は懐中時計に書かれた名前を見てぎょっとしていた。その反応で、使用人風のおじいさんを連れていたことと深水という姓を見てもしやと思ったものが確信に変わった。あの女の子はやはりお嬢様だったのだと。もしかしたらお巡りさんは自分が落とし主と接したくなかったのかもしれないな、と燈華は思った。
 深水家は雫浜有数の名家である。海運で発展したこの街の基礎を創った貴族の流れを汲む一族で、長い歴史の中で幾人もの素晴らしい人材を輩出して来た。深水姓など国中探せばいくらでもいるが、雫浜で深水と言えばこの一族でほぼ間違いなかった。
 高級住宅街のなかをきょろきょろしながら歩く燈華のことを綺麗な身形の婦人が怪訝そうに眺めていた。この辺りには人間が多く住み、妖怪を珍しく思う者や苦手意識を持つ者も少なくなかった。ちなみに、もう少し神社や学校のある方向へ進めば人間と妖怪が半々になる。
 立派な塀や立派な生垣や昔からあると思しき立派な石垣に囲まれた家が立ち並んでいた。小さな花が咲き誇っている生垣の角を曲がると、より一層大きな家の姿が見えて来た。どこまで続くのだろうという塀に囲まれ、大きな門扉がどんと構えていて、庭に生える巨木が頭を覗かせている。