雫浜には古い言い伝えがあった。かつてこの街を襲った大水害は人魚によるものである、と。当時の人間が遺した日記に、人魚は恐ろしい化け物であるということが綴られていた。大波を起こして無辜の民の命を大量に奪った人魚。雫浜の人々にとって、人魚は恐怖の対象だった。隣人と化け物、そのどちらであるかと問えば住人のほとんどが化け物だと答えるだろう。人魚は滅多に現れない妖怪だが、もし海に現れればたくさんの武器を構えて追い払い、場合によっては打ち倒す対象となる。
 姿かたちが人間に似ているか似ていないかは関係ない。妖怪が隣人なのか化け物なのかは、その性質と所業による。平穏に暮らしている温厚な妖怪も、突然何らかの衝動に駆られて人間や他の妖怪を襲ったり捕食したりするかもしれない。そうなれば、その者はその段階でこの国の国民ではなくなった。

 二十一年前、山登りに出かけた良家の令息が湖畔で美しい女と出会った。令息はすっかりその女に見惚れてしまって、職を探しているという女を自分の屋敷へと連れて帰った。使用人として働き始めた女と令息は互いに惹かれ合い、二人は徐々に愛を深めて行った。
 そして一年ほど経った頃、令息は両親に女を妻として迎えたい旨を話す。実は女は遠くの街の商家の娘なのだという。両親と喧嘩して家を飛び出して以来連絡を取っていなかったが、この度手紙を送り合うことができたのだそうだ。前向きに考えつつ先方にも確認するという令息の両親の返答に、令息と女は喜びを露わにした。
 そちらのお嬢さんとうちの息子の婚約を考えている。そんな手紙を先方に出した。すると、向こうからは嬉しそうな文面が返って来た。令息と女はまた喜んだ。
 手紙が返って来る少し前から、女は屋敷の離れで暮らすようになった。令息にも姿を見せず、部屋に籠って何かをしているようだった。絵が好きだと見せてくれたことがあった。きっと、大作に臨んでいるのだろう。
 挨拶に伺うという手紙が届いた。娘も連れて行きます、と。
 はて、何かがおかしい。娘はこの離れにいるというのに。
 令息は離れを訪ねた。熱心に作業をしていた何かが出来上がったらしく、女は令息を迎え入れてくれた。待ち構えていたのは大きな人魚の絵と、大きな腹を抱える女だった。令息はまず、女が子を身籠ったことに喜んだ。結婚を急がないと、と弾んだ声で言った。次に、美しくも狂気を孕んだ絵に怯えた。令息がおまえの両親が娘を連れてくると言っていると言うと、女はそれは妹だと答えた。
 女の家族が訪ねて来る一週間前、女は子供を産んだ。男の子だった。
 そして、女の家族がやって来た。想定よりもスムーズに移動できたそうで、予定よりも一日早かった。三人は簡単な挨拶をしてから一旦宿泊先へ向かうとのこと。その時、両親が連れている娘が名乗ったのは女の名前だった。
 これは明らかにおかしい。
 令息が離れを訪れると、赤ん坊を抱いた女が待っていた。何をそんなに慌てているのか、と女が言う。令息が事情を説明すると、女は笑った。
 ついに気が付かれてしまったか、と。