放課後になり、駅までの道を桃真と歩いた。改札前で別れ、自宅方面へ向かう電車に乗りこむ。窓の外を眺めながら思い出すのは、今日の桃真のことだ。
朝以降、桃真の様子は一見するといつもと変わらなかった。いつも通り希色の頭を撫で、いつも通り手に触れてきたりして。視線を感じて桃真のほうを向けば、いつも通り笑ってくれたけれど。直前までの感情が、眉に名残として現れていたように思う。なぜか切なそうに下がっていた眉に、希色の胸も苦しくなった。翠のことを想っていたのだろう。
KEYは希色なのだと知ったら、こんな日常はきっと失われる。そう考えると苦しくて、手に触れられる度に希色は縋るようにきゅっと握り返した。
「おはようございます」
自宅で着替えを済ませ、電車で事務所へと向かった。挨拶をするとすぐに、あちこちから「表紙おめでとう!」と声が上がった。優しいスタッフに恵まれていると何度も噛みしめる。ひとりひとりに丁寧に応えていると、奥のほうから翠がやってきた。
「希色~奥で社長たち待ってんぞ」
「うん、今行く」
翠はなぜかヘアワックスを持っていて、希色の歩くスピードに合わせ後ずさりしながら希色の前髪を弄り始める。事務所に来る時は、学校に通う姿とはなるべく変えるようにしている。髪も簡単にセットしてきてはいたのだが、翠の手によってしっかりセンターパートにされ、翠はいたく満足げだ。
「よし、希色のかわいい顔見えた」
「日比谷くんまるでKEYくんの専属ヘアメイクみたいだね」
「マジ? 副業でやってみようかな」
親しいからこそのスタッフの冗談に、翠も調子よく返事をしている。
「KEYくん、待ってたよ! こっちこっち」
「前田さん、社長。おはようございます」
「おはようKEYくん」
手招かれるままにソファへ腰を下ろす。向かいに社長と前田、隣には翠。自ずと背筋が伸びる希色に、社長が嬉しそうに微笑んだ。
「改めて、表紙デビューおめでとう。売れ行きも絶好調だそうだよ」
「編集部のほうから連絡があってね、売り切れの書店も多いみたいで。雑誌では異例のことなんだけど、増刷を予定しているらしい。これはすごいことだよ翠くん、KEYくん! 本当におめでとう!」
「やったな希色~」
「うん……すごいね翠くん」
増刷だなんて、まさかそんなことになっているとは考えても見なかった。翠が手を掲げてきて、それに合わせてハイタッチをする。髪をくしゃくしゃと撫でられ、口元が緩むのを抑えられない。
「今日、クラスの女の子たちもすごく話題にしてたんだ。翠くんのファンの子たちが、キャーキャー言ってたよ」
「マジ? さすが俺。で? KEYのことはなんて?」
鼻高々と言った様子のあと、声のトーンが柔らかくなって希色のことを尋ねてくる。確信している聞き方が、希色自身にも強い心をもたらす。
「表紙が公表された時、初めて女の子たちからKEYって名前が出て、びっくりした。今日も褒めてもらえてて……嬉しかったよ」
「そっか。希色~よかったな!」
「うん」
無事に発売日を迎えられた安堵に、社長にも労ってもらった喜びが混じる。すると前田が意味ありげな視線を送ってくる。声も何かを企んでいるよな、今まで聞いたことのないトーンだ。
「KEYくん、これで話は終わりじゃないんですよ」
「え。そうなんですか?」
「そうなんです! 社長、お願いします」
「ああ。KEYくん、今日は大切な話があるんだ」
「……はい」
翠のほうに向いていた体を、改めてきちんと正す。
五十代らしい社長は、さすがモデル事務所の社長と言ったところか、美しい顔立ちをしている。その顔にまっすぐに見つめられると、つい緊張してしまう。ごくりと喉を鳴らし、希色は続く言葉を待つ。
「編集部からの連絡はもうひとつあってね。KEYくんをM's modeの専属モデルとして迎えたい、とのことだ」
「え……え!? 本当ですか!?」
「ああ。今回の表紙は発売前からかなりの反響があったし、今日はSNSのトレンドにも入っている。しかも個人名で見ると、日比谷くんとKEYくんの件数に大差はない。注目されているんだよ。日比谷くんはもちろん、KEYくんもね」
「そう、なんですか……」
「希色はインスタしかやってないもんな。ほら、これ」
社長の言葉をどこか他人事のように聞いていると、翠がスマートフォンを見せてくれた。世界中の人が利用するSNSのトレンド欄に、本当に自分の名があった。
「どうするKEYくん。専属モデルの件、引き受ける?」
「っ、はい! 是非やらせてください! オレ、精いっぱい頑張ります!」
「うん、そう言ってくれると思ってたよ。前田くん、さっそく先方に連絡してくれるかな」
「はい、今すぐに」
立ち上がった前田を見送ると、翠が抱きついてきた。突然のことで体勢を崩しそうになったが、抱き止められて希色も翠の背にしがみつく。
「はは、もう~翠くん」
抱きしめ返すと「うちの子かわいい」なんて言いながら、そのまま頭を撫でられた。くすくすと零れる笑みが止まらない。
「本当に君たち仲良しだね」
向かいに座る社長も、にこやかに笑ってくれているようだ。
「でしょー? あ、そうだ。社長、今の俺ら撮ってよ! はい、スマホ」
「社長に撮影を頼むとはいい度胸だね。と言いたいところだが、私も撮りたいなって思ってたんだ」
「社長最高!」
「じゃあ撮るよ」
社長が撮ってくれた写真には、ぎゅっとくっついて嬉しそうな自分たちの姿があった。希色のスマートフォンにも送ってもらっていると、社長とそれから電話連絡から戻った前田まで、その写真を欲しがった。
「翠くん、これインスタにアップするの?」
「希色の専属が公表されたらするつもり」
「そっか。じゃあオレもそうしようかな」
「あ、じゃあそん時は同時に投稿しよ!」
「うん、楽しみ」
まだ先のことではあるが、うきうきとしながら翠と計画を立てる。社長と前田はその様子まで見守ってくれていたようで、しみじみとした前田の声が届く。
「翠くんは本当にKEYくんがお気に入りだよね」
「んー? うん。後輩はみんな頑張ってほしいって思ってるけど、希色はなんていうか、特別なんだよな。だから今回の表紙の相手が希色で嬉しかったし、それがこうして希色の未来にも繋がっててさ、めっちゃテンション上がってる」
「翠くん……ありがとう。オレ、翠くんが先輩で本当によかったよ」
M's mode専属の契約などについては、日を改めてということになった。この後撮影が入っている翠と共に、希色も立ち上がる。それに続いた社長が、希色へ握手を求めてきた。
「これから忙しくなるね」
「はい。翠くんや他のモデルさんたち、スタッフさんたちの背中に必死に食らいついて頑張ります!」
「期待してるよ。あ、学校の勉強も疎かにしないようにね」
「え……そんな、社長まで」
全員に笑われ、翠に頭を撫でられる。みんなで子ども扱いして、と癪に思いはするけれど、その実この空気感が希色は好きだ。この事務所にスカウトしてもらえてよかったと、今日もまた噛みしめている。
早川モデルエージェンシーは、こじんまりとした五階建てのビルに入っている。エレベーターで翠と前田と共に1階まで降りる。駐車場へと向かいながら、前田が振り返った。
「KEYくん、おうちのほう通るし送ってくよ」
「あ……えっと」
今日は初めて表紙を飾った雑誌が発売され、ありがたいことに売れ行きもいい。しかも、専属モデルの話ももらえた。いいことがあった、褒めてもらえた。そうなると、やはりあのコーヒーショップに行きたくなる。だが、今朝の様子を思えば桃真はKEYに会いたくないかもしれない。躊躇いが生まれ、前田への返事に戸惑う。
「希色? どうした?」
立ち止まった希色に気づき、翠が引き返してくる。心配そうな顔色で、腰を屈めて覗きこまれる。逡巡ののち、希色は口を開く。翠に心の内を聞いてほしいと、そう思った。
「翠くん、オレ……」
「うん」
優しく相槌を打った翠は、「車に行っといて」と前田に促した。すぐに希色のほうへと振り返り、「それで?」とそっと尋ねてくれる。
「……オレ、行きたいところがあって」
「うん」
「でも、どうしようかなって」
「迷ってんだ?」
「うん」
「ふうん」
俯いていると、翠の両手に頬を包まれた。上を向くように促され、それから頬をむにゅりと潰される。不格好にとがったくちびるを、翠はおかしそうに笑った。
「はは、かーわいい」
「ちょ、みろりくん……」
「ふ、ごめんごめん。あのさ、希色」
「うん?」
頬へ入っていた力は抜かれ、けれど手はそのままに頬をすりすりと撫でられる。あたたかい体温がとても心地いい。
「行かなきゃじゃなくて、行きたい、なんだよな?」
「……うん」
「じゃあ行っといで。躊躇う理由が何かあるんだろうけどさ、希色はそうしたいんでしょ?」
「うん」
「決まりじゃん。あ、危ないとこじゃないよな?」
「うん。それは大丈夫」
「ん、分かった。じゃあ俺も心置きなく背中押せるわ。大丈夫、今日の希色は表紙デビューしたし、専属も決まったしで最強だから」
「あ、そっか。ふふ、最強か。なんか頑張れる気がしてきた」
翠くんに名言をもらった気がする、と言うと、翠は得意げに顎を上げて笑った。多くの人に愛される人気モデルは、心まで格好いい。迷う心を導いてもらった。
「ありがとう、翠くん。行ってくる」
「おう。どういたしまして」
「撮影頑張ってね」
「任せろ」
希色の髪をくしゃっと撫でた後、車のほうへ歩き始めた翠を見送る。けれど翠は立ち止まり、再びこちらへと戻ってきた。
「希色、これあげる」
「…………? マスク?」
「あ、もちろん新品だから安心して」
手渡されたのは、個包装の黒いマスクだった。翠が使っているところをよく見るのと同じものだ。急にどうしたのだろうと首を傾げると、翠は眉を下げて笑った。
「こんだけバズってんだから、そのまま街に出たら気づかれるよ」
「あ……そっか。そうなのかな」
「そうだよ。こんなイケてんだから」
「イケてる……」
「貸して」
マスクは翠の手に戻り、希色の耳へと紐をかけてくれた。位置を丁寧に整えてもくれて、翠には本当にいつも世話になりっぱなしだ。
「よし、これでオッケー」
「気づかれない?」
「うん。まあ俺だったら秒で希色だって分かるけど」
それじゃあ今度こそ、と車に乗った翠と前田に手を振る。戸惑いは未だゼロになったわけではないが、翠にもらった言葉は大きな力になった。よし、と呟き希色も歩き出す。
コーヒーショップが近づくほどに、心臓はバクバクと速度を上げる。顔を合わせた瞬間に、そっけない態度を取られたらどうしよう。もう生きてはいけないと思うくらいには、絶望してしまうかもしれない。
信号を待つ多くの人々の中で、自分の靴が見えるほどに俯く。青信号に変わり、人波に合わせて歩き出す。止まってなどいられない東京の街は、時に残酷という言葉がよく似合う。
大通りから一本曲がり、家電量販店の前で希色はふと足を止めた。「あっ」と小さく息を飲み、目の前のものに駆け寄ってしゃがみこむ。カプセルトイの機械だ。数多く置かれている中に、ペンギンくんの商品のものが一台ある。
カプセルトイの景品としてペンギンくんのキーホルダーが販売されるという情報は、先月から仕入れていたのに。M's modeの発売時期と重なっていたからか、すっかり失念してしまっていた。
ラインナップは5種類で、1回300円。財布には2回分しか小銭がなく、近くに両替機は見当たらない。是非ともコンプリートしたいところだが仕方がない。また後日探すとして、今日のところは2回分購入しようと希色は気合を入れた。
できる限り少額で揃えたい。さすがに2回だけで被ることもそうないだろう。だが願いもむなしく、続けて出てきたのは同じものだった。ふにゃりとした顔で首を傾げている、いちばんオーソドックスなポーズのペンギンくんだ。
つい落胆してしまったが、可愛いことには変わりない。ふたつを大事にバッグにしまって、希色は再び目的地へと歩き出す。ペンギンくんで高揚した胸は、また一気に緊張感を帯びていく。
コーヒーショップの目の前に到着し、ボディバッグのベルトを両手でぎゅっと握りこむ。
深呼吸を2回して店内へと入ると、すぐに桃真と目が合った。マスクをしているが、すぐに気づいてくれたことがわずかに目を丸くした桃真の表情で分かった。だがほんの一瞬では、疎まれているかどうかの判断はつかない。
ごくりと息を呑み、桃真のレジ前へと立つ。
「いらっしゃいませ」
「ホットのブレンドをひとつお願いします。えっと……テイクアウトで」
見つめることが出来ず、桃真の感情は分からない。ここへ来て怖気づいてしまった希色は、テイクアウトで注文をした。内心嫌がられているかもと考えたら、店内でゆっくりお茶をする勇気は出なかった。
「かしこまりました。コーヒーはあちらのほうでお渡しします」
「はい」
数歩歩く動作すら、ぎこちないものになってしまう。桃真がコーヒーを作る横顔もとびきりかっこいいのに、顔を上げられなくてもったいない。そうは思っても、心臓が脈打つごとに心は強張っている。
「お待たせしました、ブレンドです」
「っ、ありがとう、ございます」
希色のコーヒーが準備できたようだ。緊張のあまり、上擦った声が出てしまう。うつ向きがちに受け取ると、そこにはいつものようにペンギンくんのイラストが描いてあった。目尻を下げ、やわらかく笑っている。吹き出しも書いてあり、そこにあった台詞に希色は息を飲んだ。勢いよく顔を上げる。
「あの、これ……」
吹き出しの中には、“雑誌買いました”と書いてあった。KEYだと認識されている、推測できていたことではあるが、こうして直接的に言葉をもらうのは初めてだ。
金魚みたいにぱくぱくと口が開閉するばかりで、なにも言えない。するとカウンター越しに桃真は腰を屈め、口元に片手を添えてささやいた。
「応援してます」
「っ!」
肩を跳ねゆっくりと視線を動かすと、照れくさそうに笑んで会釈をされる。ドドド、と怒涛のように血液が体中を巡るのが分かる。またたく間に顔は熱くなり、まるで心臓が耳元で鳴っているみたいだ。
「あ、ありがとうございます。す、すごく嬉しいです」
嬉しい……嬉しいうれしい!
翠の隣に立つKEYに、妬いていると言っていたのに。それでも桃真は、KEYを応援してくれているのだ。舞い上がらずにはいられない。
桃真に推されたいと思っていた、それだけのモデルになりたいと自分を鼓舞してきた。桃真のいちばんにはなれないとしたって、こうして応援していると言葉を届けてもらえる。こんな日が、本当に来るなんて。
この感激をどう伝えたらいいのだろう。ありがとうのひと言じゃ到底足りはしない。
幸い、今は注文に並ぶ客もいない。どうにか、と頭を回転させる希色はふと思いついた。手に持っていたコーヒーを一度カウンターに置き、バッグの中を探る。取り出したのは、先ほどゲットしたばかりのカプセルトイのペンギンくんだ。
「あ、あの、手……出してもらえますか」
少しかかとを上げて、手を口元に添えてささやく。
「手? はい、こんな感じですか?」
店員が客から何かをもらうなんて、もしかしたら怒られたりするのだろうか。他のスタッフがこちらを見ていないことを確認しつつ、桃真の手にペンギンくんのキーホルダーを乗せる。それを見て、桃真はそっと目を見開いた。
「もしよかったら、もらってください」
「え、でもペンギンくんですよ? いいんですか?」
「はい、あの……さっきカプセルのを回したんですけど、被ったやつで」
「なるほど。じゃあ、お揃いってことですか?」
「っ、確かに、そうなりますね」
「そっか。はは、すごく嬉しいです。ありがたくもらいます。でも、なんで俺に?」
受け取ってもらえてよかった。桃真に言われるまで気づかなかったが、おそろいという事実も飛び上がりそうなほどに嬉しい。
緩む顔をマスクの下でむにゅむにゅと動かしつつ、希色は桃真と目を合わせる。これだけはきちんと伝えたい。
「雑誌見てもらえたのも、応援してるって言ってもらえたのも本当に嬉しくて。お礼です。あと……オレも、店員さんのこと、その……応援、してます」
「……え?」
「ここのコーヒーも好きですけど、店員さんに会えるのもいつも楽しみで……ってすみません。気持ち悪いかもですけど。うう、あの、じゃあこれで! また来ます!」
客に応援しているなんて言われても怖いだろうか。そう思うと尻すぼみになってしまった。
再び顔を上げられなくなり、勢いのままに希色は走り出す。慌てたように「ありがとうございました!」と言ってくれた桃真の声が、雑踏に飛び出した希色にもよく届いた。
コーヒーショップから離れ、近くのコンビニ前で足を止める。外壁にもたれ、深く息を吐く。体中どこもかしこも、さきほどの桃真とのやり取りに鼓動している。胸元に手を当てる。暮れ始めた空に顔を上げ、目をつむる。
声をかけられたのは、そうして呼吸を落ち着けていた時だった。いつの間に近くに人がいることに、気づけなかった。
「あのー……」
すぐそばに聞こえる声に、驚いて目を開く。高校生と思われる女の子がそばに立っていた。視線は確かに希色を捉えていて、何事だろうかと姿勢を正す。
「はい。えっと……?」
「もしかして、KEYくんですか?」
「え……」
希色はまず耳を疑った。今まで一度たりとも、街中でKEYだと気づかれたことはないからだ。それこそ、ずっと見ていてくれたのだろう人は、桃真だけだった。
今日はマスクだってしているのに。返事もできないままに目を見開いていると、沈黙は肯定と捉えられたらしい。女の子は声のボリュームをワントーン上げた。
「あ、あの! M's mode買いました!」
その声は周囲の注目を集めてしまった。何事かと訝しむ通行人の視線が、希色にまで突き刺さる。
「あ……ありがとうございます。あの、ちょっと声を……」
初めて声をかけてもらったのだ、応援してくれる人を大切にしたい。だが何と言えばいいのか全く分からず、上手く対応することができない。
こういう時、翠はどうしているんだっけ。そういった瞬間に居合わせたことはあるのに、混乱した頭では思い出せない。
「私インスタも前から見てて! 本当にずっと応援してたんです!」
「そうなんですね。えっと……」
これも、学校ですら碌に人と会話してこなかった弊害か。
しどろもどろとしている間に、ふたり3人と周りに人が増えてきた。その内のひとりは「KEYじゃん!」と大声を上げて、誰かへと電話をかけ始める。スマートフォンのカメラを向けてくる人もいる。
小さな騒ぎは周囲へと伝染していって、軽く人だかりになってしまった。最初に声をかけてきた女の子はついに、希色の服の袖をつまんでくる。
ああ、まずい。通行人の迷惑になってしまう。希色は大きく息を吸って口を開いた。
「あの、すみません。もう行かないといけないので……」
不満げに眉を下げる女の子の手の中から、そっと腕を引く。囲んでいる人たちに頭を下げて、希色はそこから走り出した。
引き止める声はたくさん聞こえたが、振り切ることなく進む。歩道を走り、角を曲がりもう少し走って立ち止まる。膝に手をついて、荒い呼吸をくり返す。
用事なんてないのに、嘘をついてしまった。罪悪感がじわりと生まれるが、騒ぎになるよりよかったのだと自分に言い聞かせる。
またKEYだと気づかれるわけにはいかない。マスクをしているのにあんなことになったのだから、このままではまた同じことになるかもしれない。
これ以上の変装なんて今はできない、と考えたところでふと思い立つ。最強の変装方法を自分は身につけているではないか。
希色はきょろきょろと辺りを見渡す。追ってくる人はもういない。道路側に背を向け、翠がセットしてくれた前髪を乱雑に崩す。黒いマスクは目立つから、外してしまうのがいいだろう。こうすればいつも通りの、ただの高校生の望月希色だ。
これで間違いなく、KEYだと気づかれることはない。安堵した希色は天を仰いで息をつく。
今はただ、桃真相手にだけ鼓動を打っていたかった。
朝以降、桃真の様子は一見するといつもと変わらなかった。いつも通り希色の頭を撫で、いつも通り手に触れてきたりして。視線を感じて桃真のほうを向けば、いつも通り笑ってくれたけれど。直前までの感情が、眉に名残として現れていたように思う。なぜか切なそうに下がっていた眉に、希色の胸も苦しくなった。翠のことを想っていたのだろう。
KEYは希色なのだと知ったら、こんな日常はきっと失われる。そう考えると苦しくて、手に触れられる度に希色は縋るようにきゅっと握り返した。
「おはようございます」
自宅で着替えを済ませ、電車で事務所へと向かった。挨拶をするとすぐに、あちこちから「表紙おめでとう!」と声が上がった。優しいスタッフに恵まれていると何度も噛みしめる。ひとりひとりに丁寧に応えていると、奥のほうから翠がやってきた。
「希色~奥で社長たち待ってんぞ」
「うん、今行く」
翠はなぜかヘアワックスを持っていて、希色の歩くスピードに合わせ後ずさりしながら希色の前髪を弄り始める。事務所に来る時は、学校に通う姿とはなるべく変えるようにしている。髪も簡単にセットしてきてはいたのだが、翠の手によってしっかりセンターパートにされ、翠はいたく満足げだ。
「よし、希色のかわいい顔見えた」
「日比谷くんまるでKEYくんの専属ヘアメイクみたいだね」
「マジ? 副業でやってみようかな」
親しいからこそのスタッフの冗談に、翠も調子よく返事をしている。
「KEYくん、待ってたよ! こっちこっち」
「前田さん、社長。おはようございます」
「おはようKEYくん」
手招かれるままにソファへ腰を下ろす。向かいに社長と前田、隣には翠。自ずと背筋が伸びる希色に、社長が嬉しそうに微笑んだ。
「改めて、表紙デビューおめでとう。売れ行きも絶好調だそうだよ」
「編集部のほうから連絡があってね、売り切れの書店も多いみたいで。雑誌では異例のことなんだけど、増刷を予定しているらしい。これはすごいことだよ翠くん、KEYくん! 本当におめでとう!」
「やったな希色~」
「うん……すごいね翠くん」
増刷だなんて、まさかそんなことになっているとは考えても見なかった。翠が手を掲げてきて、それに合わせてハイタッチをする。髪をくしゃくしゃと撫でられ、口元が緩むのを抑えられない。
「今日、クラスの女の子たちもすごく話題にしてたんだ。翠くんのファンの子たちが、キャーキャー言ってたよ」
「マジ? さすが俺。で? KEYのことはなんて?」
鼻高々と言った様子のあと、声のトーンが柔らかくなって希色のことを尋ねてくる。確信している聞き方が、希色自身にも強い心をもたらす。
「表紙が公表された時、初めて女の子たちからKEYって名前が出て、びっくりした。今日も褒めてもらえてて……嬉しかったよ」
「そっか。希色~よかったな!」
「うん」
無事に発売日を迎えられた安堵に、社長にも労ってもらった喜びが混じる。すると前田が意味ありげな視線を送ってくる。声も何かを企んでいるよな、今まで聞いたことのないトーンだ。
「KEYくん、これで話は終わりじゃないんですよ」
「え。そうなんですか?」
「そうなんです! 社長、お願いします」
「ああ。KEYくん、今日は大切な話があるんだ」
「……はい」
翠のほうに向いていた体を、改めてきちんと正す。
五十代らしい社長は、さすがモデル事務所の社長と言ったところか、美しい顔立ちをしている。その顔にまっすぐに見つめられると、つい緊張してしまう。ごくりと喉を鳴らし、希色は続く言葉を待つ。
「編集部からの連絡はもうひとつあってね。KEYくんをM's modeの専属モデルとして迎えたい、とのことだ」
「え……え!? 本当ですか!?」
「ああ。今回の表紙は発売前からかなりの反響があったし、今日はSNSのトレンドにも入っている。しかも個人名で見ると、日比谷くんとKEYくんの件数に大差はない。注目されているんだよ。日比谷くんはもちろん、KEYくんもね」
「そう、なんですか……」
「希色はインスタしかやってないもんな。ほら、これ」
社長の言葉をどこか他人事のように聞いていると、翠がスマートフォンを見せてくれた。世界中の人が利用するSNSのトレンド欄に、本当に自分の名があった。
「どうするKEYくん。専属モデルの件、引き受ける?」
「っ、はい! 是非やらせてください! オレ、精いっぱい頑張ります!」
「うん、そう言ってくれると思ってたよ。前田くん、さっそく先方に連絡してくれるかな」
「はい、今すぐに」
立ち上がった前田を見送ると、翠が抱きついてきた。突然のことで体勢を崩しそうになったが、抱き止められて希色も翠の背にしがみつく。
「はは、もう~翠くん」
抱きしめ返すと「うちの子かわいい」なんて言いながら、そのまま頭を撫でられた。くすくすと零れる笑みが止まらない。
「本当に君たち仲良しだね」
向かいに座る社長も、にこやかに笑ってくれているようだ。
「でしょー? あ、そうだ。社長、今の俺ら撮ってよ! はい、スマホ」
「社長に撮影を頼むとはいい度胸だね。と言いたいところだが、私も撮りたいなって思ってたんだ」
「社長最高!」
「じゃあ撮るよ」
社長が撮ってくれた写真には、ぎゅっとくっついて嬉しそうな自分たちの姿があった。希色のスマートフォンにも送ってもらっていると、社長とそれから電話連絡から戻った前田まで、その写真を欲しがった。
「翠くん、これインスタにアップするの?」
「希色の専属が公表されたらするつもり」
「そっか。じゃあオレもそうしようかな」
「あ、じゃあそん時は同時に投稿しよ!」
「うん、楽しみ」
まだ先のことではあるが、うきうきとしながら翠と計画を立てる。社長と前田はその様子まで見守ってくれていたようで、しみじみとした前田の声が届く。
「翠くんは本当にKEYくんがお気に入りだよね」
「んー? うん。後輩はみんな頑張ってほしいって思ってるけど、希色はなんていうか、特別なんだよな。だから今回の表紙の相手が希色で嬉しかったし、それがこうして希色の未来にも繋がっててさ、めっちゃテンション上がってる」
「翠くん……ありがとう。オレ、翠くんが先輩で本当によかったよ」
M's mode専属の契約などについては、日を改めてということになった。この後撮影が入っている翠と共に、希色も立ち上がる。それに続いた社長が、希色へ握手を求めてきた。
「これから忙しくなるね」
「はい。翠くんや他のモデルさんたち、スタッフさんたちの背中に必死に食らいついて頑張ります!」
「期待してるよ。あ、学校の勉強も疎かにしないようにね」
「え……そんな、社長まで」
全員に笑われ、翠に頭を撫でられる。みんなで子ども扱いして、と癪に思いはするけれど、その実この空気感が希色は好きだ。この事務所にスカウトしてもらえてよかったと、今日もまた噛みしめている。
早川モデルエージェンシーは、こじんまりとした五階建てのビルに入っている。エレベーターで翠と前田と共に1階まで降りる。駐車場へと向かいながら、前田が振り返った。
「KEYくん、おうちのほう通るし送ってくよ」
「あ……えっと」
今日は初めて表紙を飾った雑誌が発売され、ありがたいことに売れ行きもいい。しかも、専属モデルの話ももらえた。いいことがあった、褒めてもらえた。そうなると、やはりあのコーヒーショップに行きたくなる。だが、今朝の様子を思えば桃真はKEYに会いたくないかもしれない。躊躇いが生まれ、前田への返事に戸惑う。
「希色? どうした?」
立ち止まった希色に気づき、翠が引き返してくる。心配そうな顔色で、腰を屈めて覗きこまれる。逡巡ののち、希色は口を開く。翠に心の内を聞いてほしいと、そう思った。
「翠くん、オレ……」
「うん」
優しく相槌を打った翠は、「車に行っといて」と前田に促した。すぐに希色のほうへと振り返り、「それで?」とそっと尋ねてくれる。
「……オレ、行きたいところがあって」
「うん」
「でも、どうしようかなって」
「迷ってんだ?」
「うん」
「ふうん」
俯いていると、翠の両手に頬を包まれた。上を向くように促され、それから頬をむにゅりと潰される。不格好にとがったくちびるを、翠はおかしそうに笑った。
「はは、かーわいい」
「ちょ、みろりくん……」
「ふ、ごめんごめん。あのさ、希色」
「うん?」
頬へ入っていた力は抜かれ、けれど手はそのままに頬をすりすりと撫でられる。あたたかい体温がとても心地いい。
「行かなきゃじゃなくて、行きたい、なんだよな?」
「……うん」
「じゃあ行っといで。躊躇う理由が何かあるんだろうけどさ、希色はそうしたいんでしょ?」
「うん」
「決まりじゃん。あ、危ないとこじゃないよな?」
「うん。それは大丈夫」
「ん、分かった。じゃあ俺も心置きなく背中押せるわ。大丈夫、今日の希色は表紙デビューしたし、専属も決まったしで最強だから」
「あ、そっか。ふふ、最強か。なんか頑張れる気がしてきた」
翠くんに名言をもらった気がする、と言うと、翠は得意げに顎を上げて笑った。多くの人に愛される人気モデルは、心まで格好いい。迷う心を導いてもらった。
「ありがとう、翠くん。行ってくる」
「おう。どういたしまして」
「撮影頑張ってね」
「任せろ」
希色の髪をくしゃっと撫でた後、車のほうへ歩き始めた翠を見送る。けれど翠は立ち止まり、再びこちらへと戻ってきた。
「希色、これあげる」
「…………? マスク?」
「あ、もちろん新品だから安心して」
手渡されたのは、個包装の黒いマスクだった。翠が使っているところをよく見るのと同じものだ。急にどうしたのだろうと首を傾げると、翠は眉を下げて笑った。
「こんだけバズってんだから、そのまま街に出たら気づかれるよ」
「あ……そっか。そうなのかな」
「そうだよ。こんなイケてんだから」
「イケてる……」
「貸して」
マスクは翠の手に戻り、希色の耳へと紐をかけてくれた。位置を丁寧に整えてもくれて、翠には本当にいつも世話になりっぱなしだ。
「よし、これでオッケー」
「気づかれない?」
「うん。まあ俺だったら秒で希色だって分かるけど」
それじゃあ今度こそ、と車に乗った翠と前田に手を振る。戸惑いは未だゼロになったわけではないが、翠にもらった言葉は大きな力になった。よし、と呟き希色も歩き出す。
コーヒーショップが近づくほどに、心臓はバクバクと速度を上げる。顔を合わせた瞬間に、そっけない態度を取られたらどうしよう。もう生きてはいけないと思うくらいには、絶望してしまうかもしれない。
信号を待つ多くの人々の中で、自分の靴が見えるほどに俯く。青信号に変わり、人波に合わせて歩き出す。止まってなどいられない東京の街は、時に残酷という言葉がよく似合う。
大通りから一本曲がり、家電量販店の前で希色はふと足を止めた。「あっ」と小さく息を飲み、目の前のものに駆け寄ってしゃがみこむ。カプセルトイの機械だ。数多く置かれている中に、ペンギンくんの商品のものが一台ある。
カプセルトイの景品としてペンギンくんのキーホルダーが販売されるという情報は、先月から仕入れていたのに。M's modeの発売時期と重なっていたからか、すっかり失念してしまっていた。
ラインナップは5種類で、1回300円。財布には2回分しか小銭がなく、近くに両替機は見当たらない。是非ともコンプリートしたいところだが仕方がない。また後日探すとして、今日のところは2回分購入しようと希色は気合を入れた。
できる限り少額で揃えたい。さすがに2回だけで被ることもそうないだろう。だが願いもむなしく、続けて出てきたのは同じものだった。ふにゃりとした顔で首を傾げている、いちばんオーソドックスなポーズのペンギンくんだ。
つい落胆してしまったが、可愛いことには変わりない。ふたつを大事にバッグにしまって、希色は再び目的地へと歩き出す。ペンギンくんで高揚した胸は、また一気に緊張感を帯びていく。
コーヒーショップの目の前に到着し、ボディバッグのベルトを両手でぎゅっと握りこむ。
深呼吸を2回して店内へと入ると、すぐに桃真と目が合った。マスクをしているが、すぐに気づいてくれたことがわずかに目を丸くした桃真の表情で分かった。だがほんの一瞬では、疎まれているかどうかの判断はつかない。
ごくりと息を呑み、桃真のレジ前へと立つ。
「いらっしゃいませ」
「ホットのブレンドをひとつお願いします。えっと……テイクアウトで」
見つめることが出来ず、桃真の感情は分からない。ここへ来て怖気づいてしまった希色は、テイクアウトで注文をした。内心嫌がられているかもと考えたら、店内でゆっくりお茶をする勇気は出なかった。
「かしこまりました。コーヒーはあちらのほうでお渡しします」
「はい」
数歩歩く動作すら、ぎこちないものになってしまう。桃真がコーヒーを作る横顔もとびきりかっこいいのに、顔を上げられなくてもったいない。そうは思っても、心臓が脈打つごとに心は強張っている。
「お待たせしました、ブレンドです」
「っ、ありがとう、ございます」
希色のコーヒーが準備できたようだ。緊張のあまり、上擦った声が出てしまう。うつ向きがちに受け取ると、そこにはいつものようにペンギンくんのイラストが描いてあった。目尻を下げ、やわらかく笑っている。吹き出しも書いてあり、そこにあった台詞に希色は息を飲んだ。勢いよく顔を上げる。
「あの、これ……」
吹き出しの中には、“雑誌買いました”と書いてあった。KEYだと認識されている、推測できていたことではあるが、こうして直接的に言葉をもらうのは初めてだ。
金魚みたいにぱくぱくと口が開閉するばかりで、なにも言えない。するとカウンター越しに桃真は腰を屈め、口元に片手を添えてささやいた。
「応援してます」
「っ!」
肩を跳ねゆっくりと視線を動かすと、照れくさそうに笑んで会釈をされる。ドドド、と怒涛のように血液が体中を巡るのが分かる。またたく間に顔は熱くなり、まるで心臓が耳元で鳴っているみたいだ。
「あ、ありがとうございます。す、すごく嬉しいです」
嬉しい……嬉しいうれしい!
翠の隣に立つKEYに、妬いていると言っていたのに。それでも桃真は、KEYを応援してくれているのだ。舞い上がらずにはいられない。
桃真に推されたいと思っていた、それだけのモデルになりたいと自分を鼓舞してきた。桃真のいちばんにはなれないとしたって、こうして応援していると言葉を届けてもらえる。こんな日が、本当に来るなんて。
この感激をどう伝えたらいいのだろう。ありがとうのひと言じゃ到底足りはしない。
幸い、今は注文に並ぶ客もいない。どうにか、と頭を回転させる希色はふと思いついた。手に持っていたコーヒーを一度カウンターに置き、バッグの中を探る。取り出したのは、先ほどゲットしたばかりのカプセルトイのペンギンくんだ。
「あ、あの、手……出してもらえますか」
少しかかとを上げて、手を口元に添えてささやく。
「手? はい、こんな感じですか?」
店員が客から何かをもらうなんて、もしかしたら怒られたりするのだろうか。他のスタッフがこちらを見ていないことを確認しつつ、桃真の手にペンギンくんのキーホルダーを乗せる。それを見て、桃真はそっと目を見開いた。
「もしよかったら、もらってください」
「え、でもペンギンくんですよ? いいんですか?」
「はい、あの……さっきカプセルのを回したんですけど、被ったやつで」
「なるほど。じゃあ、お揃いってことですか?」
「っ、確かに、そうなりますね」
「そっか。はは、すごく嬉しいです。ありがたくもらいます。でも、なんで俺に?」
受け取ってもらえてよかった。桃真に言われるまで気づかなかったが、おそろいという事実も飛び上がりそうなほどに嬉しい。
緩む顔をマスクの下でむにゅむにゅと動かしつつ、希色は桃真と目を合わせる。これだけはきちんと伝えたい。
「雑誌見てもらえたのも、応援してるって言ってもらえたのも本当に嬉しくて。お礼です。あと……オレも、店員さんのこと、その……応援、してます」
「……え?」
「ここのコーヒーも好きですけど、店員さんに会えるのもいつも楽しみで……ってすみません。気持ち悪いかもですけど。うう、あの、じゃあこれで! また来ます!」
客に応援しているなんて言われても怖いだろうか。そう思うと尻すぼみになってしまった。
再び顔を上げられなくなり、勢いのままに希色は走り出す。慌てたように「ありがとうございました!」と言ってくれた桃真の声が、雑踏に飛び出した希色にもよく届いた。
コーヒーショップから離れ、近くのコンビニ前で足を止める。外壁にもたれ、深く息を吐く。体中どこもかしこも、さきほどの桃真とのやり取りに鼓動している。胸元に手を当てる。暮れ始めた空に顔を上げ、目をつむる。
声をかけられたのは、そうして呼吸を落ち着けていた時だった。いつの間に近くに人がいることに、気づけなかった。
「あのー……」
すぐそばに聞こえる声に、驚いて目を開く。高校生と思われる女の子がそばに立っていた。視線は確かに希色を捉えていて、何事だろうかと姿勢を正す。
「はい。えっと……?」
「もしかして、KEYくんですか?」
「え……」
希色はまず耳を疑った。今まで一度たりとも、街中でKEYだと気づかれたことはないからだ。それこそ、ずっと見ていてくれたのだろう人は、桃真だけだった。
今日はマスクだってしているのに。返事もできないままに目を見開いていると、沈黙は肯定と捉えられたらしい。女の子は声のボリュームをワントーン上げた。
「あ、あの! M's mode買いました!」
その声は周囲の注目を集めてしまった。何事かと訝しむ通行人の視線が、希色にまで突き刺さる。
「あ……ありがとうございます。あの、ちょっと声を……」
初めて声をかけてもらったのだ、応援してくれる人を大切にしたい。だが何と言えばいいのか全く分からず、上手く対応することができない。
こういう時、翠はどうしているんだっけ。そういった瞬間に居合わせたことはあるのに、混乱した頭では思い出せない。
「私インスタも前から見てて! 本当にずっと応援してたんです!」
「そうなんですね。えっと……」
これも、学校ですら碌に人と会話してこなかった弊害か。
しどろもどろとしている間に、ふたり3人と周りに人が増えてきた。その内のひとりは「KEYじゃん!」と大声を上げて、誰かへと電話をかけ始める。スマートフォンのカメラを向けてくる人もいる。
小さな騒ぎは周囲へと伝染していって、軽く人だかりになってしまった。最初に声をかけてきた女の子はついに、希色の服の袖をつまんでくる。
ああ、まずい。通行人の迷惑になってしまう。希色は大きく息を吸って口を開いた。
「あの、すみません。もう行かないといけないので……」
不満げに眉を下げる女の子の手の中から、そっと腕を引く。囲んでいる人たちに頭を下げて、希色はそこから走り出した。
引き止める声はたくさん聞こえたが、振り切ることなく進む。歩道を走り、角を曲がりもう少し走って立ち止まる。膝に手をついて、荒い呼吸をくり返す。
用事なんてないのに、嘘をついてしまった。罪悪感がじわりと生まれるが、騒ぎになるよりよかったのだと自分に言い聞かせる。
またKEYだと気づかれるわけにはいかない。マスクをしているのにあんなことになったのだから、このままではまた同じことになるかもしれない。
これ以上の変装なんて今はできない、と考えたところでふと思い立つ。最強の変装方法を自分は身につけているではないか。
希色はきょろきょろと辺りを見渡す。追ってくる人はもういない。道路側に背を向け、翠がセットしてくれた前髪を乱雑に崩す。黒いマスクは目立つから、外してしまうのがいいだろう。こうすればいつも通りの、ただの高校生の望月希色だ。
これで間違いなく、KEYだと気づかれることはない。安堵した希色は天を仰いで息をつく。
今はただ、桃真相手にだけ鼓動を打っていたかった。