九月になり、再び学校生活がスタートした。まだまだ夏の暑さがおさまる気配はなく、登校だけで汗をかいてしまう。

「あついなー希色」
「だねぇ」
「じゃあ離れたらいいのに」
「それな」

 四限の音楽が終わり、教室に戻ってきたところだ。希色の背中には桃真がくっついていて、腹に腕を回し肩に額を擦りつけてくる。
 夏休みが明けてから、桃真の希色へのスキンシップはますます激しくなっている。その度に希色の胸は騒がしいのだが、嫌なわけでもなく甘受するばかりで。見ているだけで暑苦しいと、川合や佐々木からは苦情が上がっている。

「ねえそう言えばさ、昨日の日比谷翠のインスタ! 見た!?」
「あ! 見た見た! 表紙のヤツでしょ!?」

 桃真の頭を後ろ手にぽんぽんと撫でていると、クラスの女子が色めきだった声を上げた。その内容に、希色は思わず手を止める。
 女子たちが話している“日比谷翠の表紙のヤツ”とはつまり、希色ことKEYと撮影したM's modeのことだ。莫大な数から選ばれたのは、キスしそうなくらい近づいて、ふたりでカメラを睨みつけているような写真。昨日出版社の各SNSで披露され、希色もそれに合わせインスタへ投稿をしている。
 ――以前言っていた良いお知らせは、このことでした。初めての表紙です。撮影はとても緊張しましたが、いい写真になったんじゃないかなと思います。翠くんやスタッフの皆さんに感謝した一日でした。
 そう添えて、表紙の画像と撮影時の翠とのオフショットをアップした。以前からコメントをくれる人たちが感激してくれていて、昨夜はインスタを見るのを中々やめられなかった。

「日比谷翠もよかったけどさ、私はもうひとりの……なんだっけ」
「あ、KEYくん!」
「そうそう! あの子初めて見たけど、あんなかわいい男いなくない?」
「いないいない、余裕で負けた。でも私はやっぱり、日比谷翠だな~」
「てかイケメン同士のボーイズラブ、最高」
「分かる」

 翠の名前を教室で耳にすることは、以前から度々あった。だがKEYの名が出てきたのは初めてのことで、思わずびくりと体が跳ねる。女子とは誰ひとり、一度だって会話はしたことがない。クラスメイトとしてではない、モデルの自分のこととは言え、褒められているのが変な感じだ。

「希色?」

 くっついている桃真にもそれは伝ってしまったようで、不思議そうに名前を呼ばれた。

「あ、ううん、なんでもない」
「……希色も見た? 女子たちが喋ってるヤツ」
「あ……うん、見たよ」
「ふうん。俺も」
「…………?」

 桃真の纏う雰囲気が、急に冷たくなった気がする。声のトーンが少し低くなったし、あんなに離れがたいといった様子だったのに、するりと腕は解かれてしまった。横顔は怒っているようにも見える。

「……桃真? えっと、日比谷翠かっこよかったね?」
「…………」

 横目でちらりと希色を映し、無言のまま自分の席に座ってしまった。桃真がなぜ急にそんな態度になったのか、希色にはちっとも分からない。
 桃真は机を希色のほうに寄せ、座ったまま椅子をこちらへと滑らせた。希色も座るようにと腕を引かれる。促されるまま、希色も自身の席に腰を下ろした。

「桃真? どうかし……」
「俺はKEYがいいと思った」
「っ、え?」
「日比谷翠も、まあ……でもKEYの写真、よかったと思う」
「そう、なんだ?」

 希色の腕を掴んでいた桃真の手が、手のひらへと落ちてくる。そのまま机の下で繋がれて、そっと手の甲を撫でられる。思わず指先が跳ねたが、離さないとでも言うように更にきゅっと握られる。

「うん。すげーかっこよかった。希色は? そう思わない?」

 希色は今、ひどく混乱している。なににいちばん心臓を使えばいいか分からない。
 手に触れられるのは今やいつものことでも、こんな風にこっそりと、ふたりにだけ分かる温度は初めてではないか。これでは川合も佐々木も、またイチャついていると茶化しようがない。甘く打つ脈拍がふたりの秘密になってしまう。
 それから。桃真は翠のファンなのに、自分のこともちゃんと見てくれていた。しかも、KEYのことを“かっこいい”と。かわいいと褒められることはあっても、かっこいいだなんてほとんど言われたことがない。

「……ん、そう、だね。よく撮れてるなって思うかな」

 まぶたの裏がじんわりと熱い。いっそ桃真に抱きついてしまいたくなる。手を繋いでいなかったら、我慢できずそうしていたかもしれない。

「ん、だよな」

 桃真はどこか満足げに頷いて、もう片手で希色の髪を撫でてきた。
 さっきの冷たい表情はなんだったのだろうか。すっかり機嫌は元通りなようで、買ってきたらしいチョコレート菓子を開け始めている。

「はい希色、口開けて」
「お弁当より先に?」
「うん。ほら、あーん」
「あー……」

 口の中いっぱいに優しい甘さが広がって、目の前には桃真の満足そうな顔。女子たちが今も翠とKEYのことを熱く語っているのが、遠くに聞こえる。


 あっという間に十月になった。桃真は相変わらずべったりで、日に日に甘さが増している気がする。
 憧れの推しだから、初めてできた大事な友だちだから。逸る鼓動の理由はいくらでも探せる。だがそれらを並べていると、表紙の撮影時のことを思い出してしまうのだ。
 あの日恋人だったのは翠で、だが『好きな人は?』と問われ、桃真が思い浮かんで。
 恋なんてしたことがないから、経験をもってそうだとは言えない。だがしたことがないからこそ、これがそうなのだろうかと悩ましいのか。
 
 いよいよ、翠と希色が表紙を飾るM's modeの発売日を迎えた。
 朝から翠や前田、それから社長からも初の表紙を祝うメッセージが入っていた。放課後には事務所へ行く予定になっている。その時に直接お礼を言わせてもらおうと、返信は簡潔な文章で送った。
 学校に到着すると、教室の中は驚いたことにM's modeの話題で持ちきりだった。登校前にコンビニで買ってきた者がいたらしく、それを中心に女子たちの輪ができている。

「いいなー、私が寄ったコンビニは売り切れだった」
「帰りに本屋寄ってみる?」
「行く行く! 絶対欲しいもん!」
「てか中にもたくさんページあるよ!?」
「うわ、KEYくんかわいすぎほんとやばい」
「日比谷翠は色気がダダ漏れ」

 黄色い声は明るく高く、クラスの雰囲気を染め上げる。先に登校していた佐々木は女子たちを眺めながら、エネルギーに圧倒されているようだ。

「すごいことになってんなー」
「そうだね」
「まあ俺も持ってんだけど。じゃーん」
「え、佐々木くんも?」
「うん、毎回買ってるし」
「そうだったんだ」

 女子たちに注目してもらえるのはもちろん嬉しい。だが雑誌の本来のターゲット層である男性に見てもらえているのは、モデルとして喜びもひとしおだ。こっそり噛みしめていると、佐々木の視線が希色の背後に移る。

「おはよー土屋」
「……はよ」

 今日は珍しく、桃真のほうが遅かったようだ。騒いでいる女子たちに煩わしそうな視線を向けた後、どかりと自身の席に腰を下ろす。

「土屋、日比谷翠のファンなんだろ? よく望月と話してるよな」
「……まあ」

 桃真の机の上に、佐々木がM's modeを広げる。

「今朝買ってきたんだけど見る? 俺、今までモデルに注目したことあんまなかったんだけどさ。かわいいな、KEYって。ファンになりそう」

 KEYに対してではあるが、佐々木にかわいいと言われる日が来るとは思ってもみなかった。KEYが自分だと気づかれている様子は微塵もなくとも、なんだか居た堪れない。不自然に見えないように、こっそりと視線を窓の外へと逃す。

「ちょ、なにすんだよぉ。おい、蹴んなって」

 すると、慌てたような佐々木の声が耳に届いた。何事かと振り返ると、佐々木の足を蹴る桃真の姿があった。つつく程度の軽くではあるが、無言でそうする様に希色はぽかんと口を開ける。

「はよー。って、あのふたり何してんの?」
「オレも分かんない……」

 朝練を終えた川合も教室へやって来て、桃真と佐々木の謎の小競り合いに一緒に首を傾げた。
 いや、理解できていないのは佐々木もか。ストップストップ! と川合が桃真と佐々木の間に割って入った。

「で? どうした?」
「……別になんも」
「なんもって顔じゃねえじゃん。俺なんか変なこと言っちゃった?」
「…………」

 佐々木はこういう時、空気が悪くならないように誘導するのが上手い。それはそれで気に食わないのか、桃真は答えようとしない。とは言え喧嘩したいわけでもなかったのだろう、気まずそうに目を逸らしながら小さく話し始める。

「蹴って悪かった」
「謝るんかい。別にいいけど……」

 クラスの中は相変わらず騒がしいのに、4人の間にだけ沈黙が流れてしまう。それを変えようとしたのか、佐々木がワントーン高く声を上げた。

「あ、分かった。この表紙か!」
「……は?」
「だって土屋、日比谷翠のファンなんだろ? こんなカップルみたいな写真見て妬けちゃうみたいな? なーんて……」
「うん、そうかも」
「……え?」

 佐々木は単に冗談のつもりだったのだろう。なんてな、と茶化そうとして、だがそれを遮ってまで桃真が肯定してしまった。佐々木に希色、そして川合も口をあんぐりと開けて顔を見合わせる。
 翠と一緒に写るKEYを見て、桃真は面白くないのではないか。そんな風に思ったことは度々あるが、やはりそうだったのか。

「なんだよ土屋~、お前かわいいとこあんじゃん!」
「うっせ」
「あっは、顔赤くなってんぞ」
「お前もうるせえよ川合」

 空気が一瞬でほどけて、桃真の机の前にしゃがみ腕だけを乗せた佐々木がケラケラと笑う。川合も安心したように希色の前の席に座り、大きなおにぎりをふたつ取り出した。だが希色だけは、発覚した事実を飲みこんで胸が薄暗くなっている。
 希色自身も翠のことが好きだからこそ、桃真が翠のファンだと知った時はテンションが上がった。だがもうひとりの自分であるKEYが、翠を想う桃真の心を乱している。申し訳ないような寂しいような、そのどちらものような。判断のつかない感情が希色の中に渦巻く。
 今は落ち着いたのか、桃真の笑う声が聞こえる。それに少しだけ安堵しつつ、窺うように桃真へと視線を映す。すると桃真もこちらを見ていたようで。目が合って、そっと口角を上げて微笑まれる。
 KEYの正体を知ったら、もうこんな風に笑ってくれないかもしれない。優しい桃真のあたたかさを、手放すことになるのかも。
 想像するだけで胸は狭くなって、じんわりと涙が浮かぶ。顔を隠していてよかったなとこっそり鼻を啜りながら、3人の話し声に不格好な笑い声を混ぜた。