梅雨が明けたら、あっという間に茹だるような夏がやって来た。
休み時間に廊下へ出る度に、ボタンをふたつ開けたシャツをパタパタと揺らし、「あちいな」と桃真が嘆く。それに頷く希色の胸は騒がしい。コーヒーショップでは見ることない推しの気だるげな様子は色っぽく、心臓がドギマギと困ってしまうのだ。
いや、友だちなのに何を戸惑うことがあるのか。気を取り直し暑いよねと共感し、そうすれば今度はクーラーの効いた教室に早く戻ろうと腕を取られる。触れられる手首は余計に熱くなるのに、ずっとこうしていたいな、なんて思ってしまう自分に希色は戸惑う。
「桃真、昨日の日比谷翠のインスタ見た?」
「あー、うん。多分?」
「多分? 昨日のは海で撮った写真だったよ」
「それは見てない気がする。その前のならちゃんとその日に見たけど。KEYと撮ってたやつ」
「へ、へえ、そうなんだ」
翠の話をすれば、最近の桃真はずっとこの調子だ。アカウントはちゃんとチェックしている様なのに、あまり興味がないような素振りをする。そして決まってKEYの名前を出す。興味を持ってもらえたのだろうか。いや、翠の隣にいるKEYが面白くないだけかもしれない。希色は内心穏やかではないのだが、なんてことないふりをするのに必死だ。
「そ、そうだ。お菓子。今日はラムネ持ってきたんだけど食べる?」
「あ、食べたい。あー」
「……オレが入れるの?」
「うん」
「もー……」
KEYの話題に戸惑う自分を誤魔化そうとお菓子に逃げたのに、桃真が口を開けて待機するので、今度は胸がきゅうきゅうと痛みだす。
恋ではない、断じてそうじゃない。自分にそう確認するのが、最近は習慣になってしまった。
今日も今日とて静かに深呼吸をし、ラムネを包むセロファンを開いて、桃真の口元に運ぶ。すると手首を掴まれて、コインほどの大きさのラムネに桃真はかじりついた。それから舌で器用に口内へと転がし、桃真は美味しそうに顔を綻ばせる。
「ん、あまずっぱ。これ好きだわ」
「そ、っか」
「うん。今度はラムネ色々開拓するか」
「ん、いいね」
「うん。希色が好きそうなの探してくる」
手首を掴んでいた手が、指先へと移動する。そのまま握りこまれ、桃真は机に頬をくっつけて目を瞑り、ラムネの味に浸っている。人の気も知らないで、とついくちびるが尖る。向かいの席では佐々木と川合が呆れたような顔をして、だがいつものことだったなという風にすぐに視線が逸れた。それを確認した希色は、指先をきゅっと曲げ桃真の爪を撫でてみる。くすぐったそうに笑う顔を自分にだけ見せる桃真に、ラムネより胸のほうが甘酸っぱい。
夏休みに入り、桃真や川合、佐々木たちとは会えない日々が始まった。
桃真とは毎日のようにメッセージのやり取りをし、通話をする日もそれなりにある。風呂も終え、あとは寝るだけの状態で自室でくつろぎながら、今日も桃真と会話中だ。
『希色と遊びたいんだけど、なかなか予定合わないな』
「そうだね」
夏休み中は多くシフトを入れているらしい桃真と、同じく夏休みだから都合がいいとばかりにレッスンや撮影がある希色。もう八月も半ばだが、一度も会えないままになっている。
「明日もバイト?」
『そう。もう5連勤』
それでも希色は、週に1回ほどのペースで仕事帰りにコーヒーショップへ通っている。友人同士としての会話はもちろんできないが、推し店員である桃真の姿を思う存分眺め、アイスコーヒーのカップにはペンギンくんを描いてもらえて。心を干上がらせることなく、暑い毎日を過ごせている。
桃真だって会いたいと言ってくれているのに、一方的に自分だけ会っているようでずるいかも。傲慢だろうかと思いつつ、そんな風に考えてしまう夏だ。
『希色は? 明日バイト?』
「うん、そう。実は今ドキドキしてる」
『バイトのことで? なんで?』
「うーん、なんて言うか……初めてのことに挑戦することになってるから」
『……へえ。そうなんだ』
明日はいよいよ表紙撮影の日だ。スキンケアを念入りにして、今日ばかりは桃真との通話も早めに切り上げて就寝しなければと思っている。だが心を落ち着けるために、もう少し桃真の声を聞いていたい。
「うん。でも楽しみにしてたから、頑張る」
『……ん。応援してる』
「ありがとう」
昨夜は名残惜しくもきちんと早めに通話を終えたが、すぐに眠ることはできなかった。目を瞑っても、どうしても撮影のことを考えてしまったからだ。
「希色、緊張してる?」
「う……してる」
前田が自宅まで迎えに来てくれて、途中で翠を拾い、14時頃にスタジオへ入った。いよいよ今日は、M's modeの表紙撮影の日だ。
今は控室で翠とふたり、着替えとメイクを終えて待機しているところだ。椅子に腰を下ろし顔を強張らせていると、目の前に立った翠が両手でそっと頬を包んできた。
「希色なら大丈夫だよ」
「……そうかな」
「うん。この仕事まだ始めたばっかなのに、よくやってる。現場でも周り見て研究してるの分かるし、家でも雑誌見たりしてるんだろ?」
「……うん、してる」
「うん。今回のコンセプトとして確かに俺と仲良いってのは条件だったかもだけど、絶対にそれだけじゃない。人の声にちゃんと耳を傾けられて、見ることができる目がある素直な希色だから、そういうKEYを見てくれてる人がいたから選ばれたんだよ。自信持って一緒にカメラの前に立とうな」
「翠くん……ありがとう」
「おう」
「なんか、頑張れる気がしてきた」
「はは、いいじゃん」
間もなく撮影が始まるとのことで、カメラや機材がセットされたスタジオへ向かう。大勢いる編集部の人たちやスタッフに挨拶をし、カメラの前に立つ。ヘアメイクや衣装担当のスタッフがやってきて、最高の状態で写れるようにと翠と希色を今一度整えていく。
今日用意されていた衣装は発売時期に合わせ、秋を彷彿とさせる濃いめのブラウンのもの。テーラードジャケットの襟やポケットなどがチェック模様になっていて、きちんとした印象にかわいらしさが混じる。それぞれに違ったアクセントがあしらわれているが、ふたりお揃いのものだ。
希色の前髪はセンターパートに分けられ、全体的にヘアアイロンで巻き緩くウェーブがかかっている。翠の鮮やかな髪は無造作にセットされることが多いが、今日は流す程度にシックに整えられている。
「そろそろ始めようか」
「はい!」
カメラマンから声がかかり、大きな返事をする。黄色のカラーバックの中心にはソファが置かれていて、翠と一緒に腰を下ろす。
「じゃあまずは、いつもみたいにイチャイチャしてもらおうかな」
「い、いつもみたいにイチャイチャ?」
「はは、KEYめっちゃびっくりしてる」
カメラマンの言葉につい目を丸くすると、翠がけらけらと笑う。イチャイチャなんてした覚えはないのだが、日頃からそんな風に見えているということだろうか。
釈然としないが、翠との会話に多くのスタッフたちが笑い、空気が和んだのが分かる。
このあたたかい人たちに、ここに立つことを選んでもらえたのだ。望まれているものを、いやそれ以上のものを表現したい。
ひとつ深呼吸をして、翠と目を合わせる。すると翠がにやりと笑って、それこそいつものように肩に手を回してきた。一瞬で空気が変わった。シャッターが次々と切られるのを耳に、ポーズを少しずつ変えてゆく。
「どう? 緊張とけてきた?」
「うん、大分」
ふたりにだけ聞こえるボリュームで翠が声をかけてくる。シャッター音やカメラマンの声にかき消される程度のそれは、内緒話みたいだ。
「よかったじゃん」
「でも、オレたち恋人みたいに見えてるのかな」
「んー、見えてるんじゃない? いつもイチャイチャしてるらしいし?」
「それ、身に覚えがないんだけど」
「俺たちにとっては普通のことだもんな。んー、じゃあどうせだしもっと近づくか」
「え?」
もっとだなんて、これ以上どうやって? そう疑問に思うほど密着していたのだが。翠の指先が希色の顎をとらえ、顔が寄せられた。もう片手では腰を抱かれている。角度によってはキスをしているように見えるかもしれない。突然のことに思わず体が強張ると、妖しく笑んだ翠がささやく。
「俺のこと、今は希色の恋人にしてくれる?」
「恋人……」
恋人にしてと言われても、誰かと付き合ったことなど一度もない。だがこの表紙のコンセプトはボーイズラブだ。まさにそれを求められている。モデルとしてのポージングだとか以上の、プラス要素があったほうがいいのではないか。
「難しい?」
「……うん、付き合ったことないし」
「じゃあ、好きな人は?」
「それは……いないってば」
「そう?」
「ん……でも今はオレも、翠くんの恋人、やりたい」
「はは、やった」
いないと答えておきながら、希色の胸には浮かんできた笑顔があった。桃真だ。気づいた瞬間に頬がぶわりと熱くなり、か細い息が零れる。違う、違うのに。
「ふたりとも、そのままこっち視線ちょうだい! うん、すごくいいね」
だがそれが功を奏したのか、頬の熱を感じた瞬間、カメラマンが高揚したように声を張り上げた。誘われるままにカメラを見てから、また翠と見つめ合う。
「希色、すごくいいよ」
「翠くん……」
翠の妖艶な瞳が希色を射抜いている。思わずその頬に手を伸ばし、またグッと顔が近づいて。本当に恋人だったら、こんな表情はきっと誰にも見せたくないだろうな。そう感じたままに、こちらを切り取ろうとする第三者であるカメラを睨みつける。
シャッター音の後ろで上がるスタッフたちの歓声が、どこか遠くに聞こえるようだった。
撮影は滞りなく進み、ソファから立ち上がったりカラーバックの色を変えたりしつつ何百枚もの写真を撮った。どれが選ばれるかはまだ分からないが、カメラマンにも編集部の人たちにも、マネージャーの前田にも、それから翠にも。たくさんの拍手と褒め言葉をもらった。胸から溢れそうなほど満たされていて、なんだかぼんやりとしてしまう。
「希色、お疲れ様」
「翠くんもお疲れ様」
「もう帰んの?」
「うん」
「そっか。ん~なんか離れがたいんだけど」
控室に戻って、私服に着替えて。抱きついてくる翠を抱きしめ返しながら、希色はくすくすと笑う。
「翠くんはこの後も仕事でしょ」
「そうだけどー。せっかくさっきまで希色と恋人だったのに」
「うん、そうだね」
「このままバイバイとか寂しすぎ……恋人気分のままごはん行ったりしたかった」
「あ、オレも行きたい。今度行こう?」
「マジ? 約束な! 恋人気分もそん時は続行だからな?」
「はは、うん。分かった」
今日も今日とて翠と前田に「気をつけて帰るように」と心配されながら、希色はスタジオを出た。外は夕焼けに染まる時間で、じっとりと重たい暑さが肌にまとわりつく。
先ほどまで多くの人に囲まれていたからだろうか、高揚したままの心と目の前の光景がアンバランスで、なんだか切なさを覚える。とは言え、達成感でいっぱいだ。そうするとやはり、コーヒーショップへと行きたくなる。
東京の人波をすり抜けながらショップへ到着すると、ガラス越しに見える桃真の姿。昨夜、今日はバイトだと言っていたからいるのは分かっていた。だが心臓は、まるで驚いたみたいに歪な拍を打つ。
撮影中「好きな人は?」と翠に問われた時、桃真の笑顔が思い浮かんでしまったからだ。夏休み前、桃真と一緒にいる時に、恋じゃないと何度も何度も確かめたのに。
「こんにちは」
桃真と目が合い、カウンターの前に立つ。自分に気づくと綻ぶ顔が、いつだって嬉しい。
「こんにちは。アイスのブレンドをひとつお願いします」
「アイスのブレンドをおひとつですね。店内のご利用でよろしかったですか?」
「はい」
「かしこまりました」
注文を終えると、桃真は他の店員に声をかけてコーヒーを作り始める。きっと自分の分を作っている。他の客の時にどうしているのかは分からないが、ここ最近はもうずっと希色の来店時にはそうしてくれている。
受け渡しのカウンターで待っていると、桃真がコーヒーを持ってやってきた。手渡されたコーヒーを見ると、今日もペンギンくんを描いてくれている。よく見ると吹き出しつきで、その台詞に希色は静かに目を見張った。
「今日も、頑張ったね……」
「今日も一日頑張ったんだろうなと思って。書いちゃいました」
表紙に抜擢されてから、喜びと共にずっと緊張を抱えていた。ついに当日を迎え、撮影を終え、達成感に満たされている。だが今度は、これを見る人たちに自分は歓迎されるだろうか、と気がかりが生まれたのも確かで。
そんな今日の希色に桃真が添えてくれた言葉は、あまりにもあたたかい。カップに両手を添え、桃真の文字をそろりと撫でる。
「……あの、オレ、今日は新しい仕事をしてきたところで」
「そうなんですね」
「だからこれ、すごく嬉しいです。ありがとうございます」
「喜んでもらえてよかったです。今日もお疲れ様です」
「あ……あの、店員さんも、お疲れ様です。ここに来るの、オレにとってご褒美なので」
やわらかく笑ってくれる桃真があまりにも格好良くて。少し躊躇いながらも、希色は思い切ってそう伝えた。胸がドクドクと大きな音を立てていて、反応を見るのはちょっと難しい。
「えっと、今日はやっぱり持って帰ります、トレイ準備してもらったのにすみません」
「へ? あっ」
カップを手に取った希色は、ぺこりと頭を下げ足早に出口へ向かう。引き止めようとしてくれる声が聞こえたけれど、立ち止まる勇気はなかった。
コーヒーショップから大分離れたところで、息を切らしながら希色はようやく足を止めた。ご褒美だなんて、思い切ったことを言った自分が恥ずかしくて飛び出してきたはずなのに、今は違う感情も心に巣食っていることに気づく。
どうやら自分は欲張りになってしまったようだ。労いの言葉を書いてくれた桃真に、“店員さん”じゃなくて“桃真”と呼びかけられたらどんなに良かっただろう、なんて。
クラスメイトになる前はほんの一言二言、店員の桃真と言葉を交わすだけで有頂天だったのに。友だちとしての自分に見せてくれるどこか子どもっぽい口ぶりや、甘えるようなスキンシップが無性に恋しい。コーヒーショップに訪れる客としてではなく、ただの希色として桃真に会いたい。
誰かを強く求めるような感覚は初めてのことだ。もしかすると、こういう感情を恋と呼ぶのだろうか。だが自分の中を必死に探したところで、経験がないのだから判断がつかない。そもそも恋かどうかは関係なく、桃真のことが大好きなのだから、余計に気持ちの名前は分からない。
「……夏休み、はやく終わらないかな」
横断歩道の先には、夕陽のとろけそうなオレンジがまだまだ熱を孕んでいる。
水平線に落ちたら夜の海でじゅわりと冷えて、早く秋を連れてきてくれたらいいのに。そうしたらまた毎日、桃真に会えるのに。
休み時間に廊下へ出る度に、ボタンをふたつ開けたシャツをパタパタと揺らし、「あちいな」と桃真が嘆く。それに頷く希色の胸は騒がしい。コーヒーショップでは見ることない推しの気だるげな様子は色っぽく、心臓がドギマギと困ってしまうのだ。
いや、友だちなのに何を戸惑うことがあるのか。気を取り直し暑いよねと共感し、そうすれば今度はクーラーの効いた教室に早く戻ろうと腕を取られる。触れられる手首は余計に熱くなるのに、ずっとこうしていたいな、なんて思ってしまう自分に希色は戸惑う。
「桃真、昨日の日比谷翠のインスタ見た?」
「あー、うん。多分?」
「多分? 昨日のは海で撮った写真だったよ」
「それは見てない気がする。その前のならちゃんとその日に見たけど。KEYと撮ってたやつ」
「へ、へえ、そうなんだ」
翠の話をすれば、最近の桃真はずっとこの調子だ。アカウントはちゃんとチェックしている様なのに、あまり興味がないような素振りをする。そして決まってKEYの名前を出す。興味を持ってもらえたのだろうか。いや、翠の隣にいるKEYが面白くないだけかもしれない。希色は内心穏やかではないのだが、なんてことないふりをするのに必死だ。
「そ、そうだ。お菓子。今日はラムネ持ってきたんだけど食べる?」
「あ、食べたい。あー」
「……オレが入れるの?」
「うん」
「もー……」
KEYの話題に戸惑う自分を誤魔化そうとお菓子に逃げたのに、桃真が口を開けて待機するので、今度は胸がきゅうきゅうと痛みだす。
恋ではない、断じてそうじゃない。自分にそう確認するのが、最近は習慣になってしまった。
今日も今日とて静かに深呼吸をし、ラムネを包むセロファンを開いて、桃真の口元に運ぶ。すると手首を掴まれて、コインほどの大きさのラムネに桃真はかじりついた。それから舌で器用に口内へと転がし、桃真は美味しそうに顔を綻ばせる。
「ん、あまずっぱ。これ好きだわ」
「そ、っか」
「うん。今度はラムネ色々開拓するか」
「ん、いいね」
「うん。希色が好きそうなの探してくる」
手首を掴んでいた手が、指先へと移動する。そのまま握りこまれ、桃真は机に頬をくっつけて目を瞑り、ラムネの味に浸っている。人の気も知らないで、とついくちびるが尖る。向かいの席では佐々木と川合が呆れたような顔をして、だがいつものことだったなという風にすぐに視線が逸れた。それを確認した希色は、指先をきゅっと曲げ桃真の爪を撫でてみる。くすぐったそうに笑う顔を自分にだけ見せる桃真に、ラムネより胸のほうが甘酸っぱい。
夏休みに入り、桃真や川合、佐々木たちとは会えない日々が始まった。
桃真とは毎日のようにメッセージのやり取りをし、通話をする日もそれなりにある。風呂も終え、あとは寝るだけの状態で自室でくつろぎながら、今日も桃真と会話中だ。
『希色と遊びたいんだけど、なかなか予定合わないな』
「そうだね」
夏休み中は多くシフトを入れているらしい桃真と、同じく夏休みだから都合がいいとばかりにレッスンや撮影がある希色。もう八月も半ばだが、一度も会えないままになっている。
「明日もバイト?」
『そう。もう5連勤』
それでも希色は、週に1回ほどのペースで仕事帰りにコーヒーショップへ通っている。友人同士としての会話はもちろんできないが、推し店員である桃真の姿を思う存分眺め、アイスコーヒーのカップにはペンギンくんを描いてもらえて。心を干上がらせることなく、暑い毎日を過ごせている。
桃真だって会いたいと言ってくれているのに、一方的に自分だけ会っているようでずるいかも。傲慢だろうかと思いつつ、そんな風に考えてしまう夏だ。
『希色は? 明日バイト?』
「うん、そう。実は今ドキドキしてる」
『バイトのことで? なんで?』
「うーん、なんて言うか……初めてのことに挑戦することになってるから」
『……へえ。そうなんだ』
明日はいよいよ表紙撮影の日だ。スキンケアを念入りにして、今日ばかりは桃真との通話も早めに切り上げて就寝しなければと思っている。だが心を落ち着けるために、もう少し桃真の声を聞いていたい。
「うん。でも楽しみにしてたから、頑張る」
『……ん。応援してる』
「ありがとう」
昨夜は名残惜しくもきちんと早めに通話を終えたが、すぐに眠ることはできなかった。目を瞑っても、どうしても撮影のことを考えてしまったからだ。
「希色、緊張してる?」
「う……してる」
前田が自宅まで迎えに来てくれて、途中で翠を拾い、14時頃にスタジオへ入った。いよいよ今日は、M's modeの表紙撮影の日だ。
今は控室で翠とふたり、着替えとメイクを終えて待機しているところだ。椅子に腰を下ろし顔を強張らせていると、目の前に立った翠が両手でそっと頬を包んできた。
「希色なら大丈夫だよ」
「……そうかな」
「うん。この仕事まだ始めたばっかなのに、よくやってる。現場でも周り見て研究してるの分かるし、家でも雑誌見たりしてるんだろ?」
「……うん、してる」
「うん。今回のコンセプトとして確かに俺と仲良いってのは条件だったかもだけど、絶対にそれだけじゃない。人の声にちゃんと耳を傾けられて、見ることができる目がある素直な希色だから、そういうKEYを見てくれてる人がいたから選ばれたんだよ。自信持って一緒にカメラの前に立とうな」
「翠くん……ありがとう」
「おう」
「なんか、頑張れる気がしてきた」
「はは、いいじゃん」
間もなく撮影が始まるとのことで、カメラや機材がセットされたスタジオへ向かう。大勢いる編集部の人たちやスタッフに挨拶をし、カメラの前に立つ。ヘアメイクや衣装担当のスタッフがやってきて、最高の状態で写れるようにと翠と希色を今一度整えていく。
今日用意されていた衣装は発売時期に合わせ、秋を彷彿とさせる濃いめのブラウンのもの。テーラードジャケットの襟やポケットなどがチェック模様になっていて、きちんとした印象にかわいらしさが混じる。それぞれに違ったアクセントがあしらわれているが、ふたりお揃いのものだ。
希色の前髪はセンターパートに分けられ、全体的にヘアアイロンで巻き緩くウェーブがかかっている。翠の鮮やかな髪は無造作にセットされることが多いが、今日は流す程度にシックに整えられている。
「そろそろ始めようか」
「はい!」
カメラマンから声がかかり、大きな返事をする。黄色のカラーバックの中心にはソファが置かれていて、翠と一緒に腰を下ろす。
「じゃあまずは、いつもみたいにイチャイチャしてもらおうかな」
「い、いつもみたいにイチャイチャ?」
「はは、KEYめっちゃびっくりしてる」
カメラマンの言葉につい目を丸くすると、翠がけらけらと笑う。イチャイチャなんてした覚えはないのだが、日頃からそんな風に見えているということだろうか。
釈然としないが、翠との会話に多くのスタッフたちが笑い、空気が和んだのが分かる。
このあたたかい人たちに、ここに立つことを選んでもらえたのだ。望まれているものを、いやそれ以上のものを表現したい。
ひとつ深呼吸をして、翠と目を合わせる。すると翠がにやりと笑って、それこそいつものように肩に手を回してきた。一瞬で空気が変わった。シャッターが次々と切られるのを耳に、ポーズを少しずつ変えてゆく。
「どう? 緊張とけてきた?」
「うん、大分」
ふたりにだけ聞こえるボリュームで翠が声をかけてくる。シャッター音やカメラマンの声にかき消される程度のそれは、内緒話みたいだ。
「よかったじゃん」
「でも、オレたち恋人みたいに見えてるのかな」
「んー、見えてるんじゃない? いつもイチャイチャしてるらしいし?」
「それ、身に覚えがないんだけど」
「俺たちにとっては普通のことだもんな。んー、じゃあどうせだしもっと近づくか」
「え?」
もっとだなんて、これ以上どうやって? そう疑問に思うほど密着していたのだが。翠の指先が希色の顎をとらえ、顔が寄せられた。もう片手では腰を抱かれている。角度によってはキスをしているように見えるかもしれない。突然のことに思わず体が強張ると、妖しく笑んだ翠がささやく。
「俺のこと、今は希色の恋人にしてくれる?」
「恋人……」
恋人にしてと言われても、誰かと付き合ったことなど一度もない。だがこの表紙のコンセプトはボーイズラブだ。まさにそれを求められている。モデルとしてのポージングだとか以上の、プラス要素があったほうがいいのではないか。
「難しい?」
「……うん、付き合ったことないし」
「じゃあ、好きな人は?」
「それは……いないってば」
「そう?」
「ん……でも今はオレも、翠くんの恋人、やりたい」
「はは、やった」
いないと答えておきながら、希色の胸には浮かんできた笑顔があった。桃真だ。気づいた瞬間に頬がぶわりと熱くなり、か細い息が零れる。違う、違うのに。
「ふたりとも、そのままこっち視線ちょうだい! うん、すごくいいね」
だがそれが功を奏したのか、頬の熱を感じた瞬間、カメラマンが高揚したように声を張り上げた。誘われるままにカメラを見てから、また翠と見つめ合う。
「希色、すごくいいよ」
「翠くん……」
翠の妖艶な瞳が希色を射抜いている。思わずその頬に手を伸ばし、またグッと顔が近づいて。本当に恋人だったら、こんな表情はきっと誰にも見せたくないだろうな。そう感じたままに、こちらを切り取ろうとする第三者であるカメラを睨みつける。
シャッター音の後ろで上がるスタッフたちの歓声が、どこか遠くに聞こえるようだった。
撮影は滞りなく進み、ソファから立ち上がったりカラーバックの色を変えたりしつつ何百枚もの写真を撮った。どれが選ばれるかはまだ分からないが、カメラマンにも編集部の人たちにも、マネージャーの前田にも、それから翠にも。たくさんの拍手と褒め言葉をもらった。胸から溢れそうなほど満たされていて、なんだかぼんやりとしてしまう。
「希色、お疲れ様」
「翠くんもお疲れ様」
「もう帰んの?」
「うん」
「そっか。ん~なんか離れがたいんだけど」
控室に戻って、私服に着替えて。抱きついてくる翠を抱きしめ返しながら、希色はくすくすと笑う。
「翠くんはこの後も仕事でしょ」
「そうだけどー。せっかくさっきまで希色と恋人だったのに」
「うん、そうだね」
「このままバイバイとか寂しすぎ……恋人気分のままごはん行ったりしたかった」
「あ、オレも行きたい。今度行こう?」
「マジ? 約束な! 恋人気分もそん時は続行だからな?」
「はは、うん。分かった」
今日も今日とて翠と前田に「気をつけて帰るように」と心配されながら、希色はスタジオを出た。外は夕焼けに染まる時間で、じっとりと重たい暑さが肌にまとわりつく。
先ほどまで多くの人に囲まれていたからだろうか、高揚したままの心と目の前の光景がアンバランスで、なんだか切なさを覚える。とは言え、達成感でいっぱいだ。そうするとやはり、コーヒーショップへと行きたくなる。
東京の人波をすり抜けながらショップへ到着すると、ガラス越しに見える桃真の姿。昨夜、今日はバイトだと言っていたからいるのは分かっていた。だが心臓は、まるで驚いたみたいに歪な拍を打つ。
撮影中「好きな人は?」と翠に問われた時、桃真の笑顔が思い浮かんでしまったからだ。夏休み前、桃真と一緒にいる時に、恋じゃないと何度も何度も確かめたのに。
「こんにちは」
桃真と目が合い、カウンターの前に立つ。自分に気づくと綻ぶ顔が、いつだって嬉しい。
「こんにちは。アイスのブレンドをひとつお願いします」
「アイスのブレンドをおひとつですね。店内のご利用でよろしかったですか?」
「はい」
「かしこまりました」
注文を終えると、桃真は他の店員に声をかけてコーヒーを作り始める。きっと自分の分を作っている。他の客の時にどうしているのかは分からないが、ここ最近はもうずっと希色の来店時にはそうしてくれている。
受け渡しのカウンターで待っていると、桃真がコーヒーを持ってやってきた。手渡されたコーヒーを見ると、今日もペンギンくんを描いてくれている。よく見ると吹き出しつきで、その台詞に希色は静かに目を見張った。
「今日も、頑張ったね……」
「今日も一日頑張ったんだろうなと思って。書いちゃいました」
表紙に抜擢されてから、喜びと共にずっと緊張を抱えていた。ついに当日を迎え、撮影を終え、達成感に満たされている。だが今度は、これを見る人たちに自分は歓迎されるだろうか、と気がかりが生まれたのも確かで。
そんな今日の希色に桃真が添えてくれた言葉は、あまりにもあたたかい。カップに両手を添え、桃真の文字をそろりと撫でる。
「……あの、オレ、今日は新しい仕事をしてきたところで」
「そうなんですね」
「だからこれ、すごく嬉しいです。ありがとうございます」
「喜んでもらえてよかったです。今日もお疲れ様です」
「あ……あの、店員さんも、お疲れ様です。ここに来るの、オレにとってご褒美なので」
やわらかく笑ってくれる桃真があまりにも格好良くて。少し躊躇いながらも、希色は思い切ってそう伝えた。胸がドクドクと大きな音を立てていて、反応を見るのはちょっと難しい。
「えっと、今日はやっぱり持って帰ります、トレイ準備してもらったのにすみません」
「へ? あっ」
カップを手に取った希色は、ぺこりと頭を下げ足早に出口へ向かう。引き止めようとしてくれる声が聞こえたけれど、立ち止まる勇気はなかった。
コーヒーショップから大分離れたところで、息を切らしながら希色はようやく足を止めた。ご褒美だなんて、思い切ったことを言った自分が恥ずかしくて飛び出してきたはずなのに、今は違う感情も心に巣食っていることに気づく。
どうやら自分は欲張りになってしまったようだ。労いの言葉を書いてくれた桃真に、“店員さん”じゃなくて“桃真”と呼びかけられたらどんなに良かっただろう、なんて。
クラスメイトになる前はほんの一言二言、店員の桃真と言葉を交わすだけで有頂天だったのに。友だちとしての自分に見せてくれるどこか子どもっぽい口ぶりや、甘えるようなスキンシップが無性に恋しい。コーヒーショップに訪れる客としてではなく、ただの希色として桃真に会いたい。
誰かを強く求めるような感覚は初めてのことだ。もしかすると、こういう感情を恋と呼ぶのだろうか。だが自分の中を必死に探したところで、経験がないのだから判断がつかない。そもそも恋かどうかは関係なく、桃真のことが大好きなのだから、余計に気持ちの名前は分からない。
「……夏休み、はやく終わらないかな」
横断歩道の先には、夕陽のとろけそうなオレンジがまだまだ熱を孕んでいる。
水平線に落ちたら夜の海でじゅわりと冷えて、早く秋を連れてきてくれたらいいのに。そうしたらまた毎日、桃真に会えるのに。