桃真とKEYの話をしてから一週間ほどが過ぎた。何がきっかけだったのかは分からないが、ここ最近で桃真との仲がより深くなったように希色は感じている。
 学校ではほとんどの時間を共に過ごしているし、下校後や休日もよくメッセージのやり取りをしている。恒例になった昼食時のおやつタイムに、希色からも桃真の口元にお菓子を運んだことがあったのだが。残っていたお菓子は全て食べさせて食べさせられて、とすることになってしまった。川合と佐々木はどこか呆れたように、生温かい目で見ていたっけ。
 照れくさい気持ちはもちろんある、相手は推しなのだから澄ました顔をしていたって内心大嵐だ。だがそれを越えるくらい、桃真とのそんな時間が希色は好きだった。もし急に失ったら、心に大きな穴が空くのは目に見えている。それくらいに、桃真との時間は居心地がよかった。

「希色、帰ろ」
「うん」

 ホームルームが終わり、放課後を迎える。すぐに立ち上がった桃真に倣い、希色も後に続く。

「桃真は今日バイト?」
「うん。希色は?」
「オレもだよ」
「体調は? 本当に平気なのか?」

 学生のうちは学業を優先できるようにと、仕事は基本的に土日に入ることが多い。だが今日は、事務所へ来るようにとマネージャーの前田から昨夜連絡があった。急遽の連絡、しかも呼ばれた先は事務所だ。今までにない出来事で、希色は昨日からずっと緊張しっぱなしだった。それは顔にも出ているようで、朝からずっと桃真に心配をかけてしまっている。

「平気だよ」
「ほんとかー?」

 大きな背を折り曲げて、桃真がジトリとした目を向けてくる。いつもそうだが、桃真には瞳の奥まで見透かされそうな気がしてしまう。前髪をそっと押えながら、必死に平気だと伝える。事務所に呼ばれたから緊張している、なんて言えるはずもなく、取り繕うことしかできない。

「本当だよ! 本当になんともないから」
「ん、分かった。でも無理すんなよ。心配だから」
「うん、ありがとう」

 昇降口に下り、靴を履く。六月になり、梅雨入りを迎えた東京には今日も雨が降っている。ガラスに垂れる雨粒を見ながら桃真も履き替えるのを待っていると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。翠からのメッセージだ。

《希色の学校の近くにいたから迎えに行く》
「え!?」
「希色? どうした?」

 メッセージの内容に目を疑って、思わず大きな声が出てしまった。桃真が近づいてきて、後ろから頭に顎を乗っけられる。翠と連絡を取る仲だと知られるわけにはいかない。スマートフォンの画面が見えないように思わず隠すと、面白くなさそうにぐりぐりと顎が刺さってくる。地味に痛い。

「……誰から?」
「えっと、バイト先の人。ごめん桃真、ちょっと返事したいから」
「……はーい」

 ちぇ、とでも言いたげな口ぶりで返事をした桃真は、けれどすぐに離れてくれた。希色の腕を引き、昇降口の端まで歩いて壁にもたれかかる。少し開かれた長い脚の間で向かい合って、左腕は桃真の手にあるまま、翠に返信する。

《騒ぎになるからいいよ!》
《車だから大丈夫。駅の方面の角に路駐してるからおいで》

 どうやらすでに到着しているらしい。翠はたまに強引なところがある。もちろんありがたいし、翠のそんなところも好きなのだけれど。
 ――もう少し、桃真と一緒にいたかったな。
 わがままな想いが芽生えてしまった。だが翠を無下にしたいわけではない。気持ちを切り替えて、桃真を見上げる。

「桃真ごめん、そこまで迎えに来てくれてるらしくて」
「マジ? じゃあここでバイバイ?」
「そうだね」
「…………」

 この高校から最寄りの駅までは、歩いて5分強。その時間さえ惜しんでくれるのは、申し訳なくありつつも嬉しい。逃げてしまった桃真の視線を追いかけ、覗きこむ。

「ごめんね?」
「あー、うん。俺も拗ねてごめん。行くか」
「うん」

 校門までのほんの数メートルを、桃真と並んで噛みしめるように歩く。傘と雨音が邪魔して、会話もままならなかったのが残念だ。

「じゃあ桃真、風邪ひかないようにね」
「希色もな」
「うん、バイバイ」
「おう、また明日」

 翠の車はもう見えている。桃真も同じ方向に帰るのだが、翠に気づかれるわけにはいかず、校門前で希色は手を振った。それからすぐに駆け出し、車に乗りこむ。

「希色おかえり~」

 運転席の翠は、ハンドルに両手を置いて寄りかかりながら希色を迎えた。

「前田さんも一緒かと思った」
「俺だけでしたー」
「えっと、ありがとう。翠くんがいるってみんなにバレたら大変だから、早く行こ」
「ん、だな」

 翠の袖を引いて、今すぐここを離れようと急かす。するとエンジンをかけ背後を確認した翠が、「ん?」と何かを見つけたかのように背を伸ばした。

「あれって……」
「どうしたの?」

 かけているサングラスを左手でずらし、目に映った何かを確認しているようだ。希色も真似て背筋を伸ばしてみたが、あいにく助手席からでは雨が窓を流れているのも相まって、翠が何を見ているのか分からない。

「いとこがいたわ」
「へえ、そうなん……え! 翠くんのいとこ!?」

 翠があまりに普通のトーンで言うので、一瞬スルーしそうになった。思わず大きな声が出て、希色は再度目を凝らしてみる。だがやはり、目視することは叶わなかった。

「うん。そっか、希色と同じ高校だったんだな。アイツの入学決まった時に学校名聞いた気はするけど、完全に忘れてた」

 まさか同じ高校に翠の親戚がいるだなんて。驚いたと同時に、そのいとこには特に翠と一緒にいるところを見られてはならないと強く焦る。KEYとしての自分ならまだいいが、今は前髪で顔を隠し、この学校の制服を着たただの生徒なのだ。

「翠くん、早く行こ! 早く!」

 それに自分だけじゃない。いとこに翠も見つかったら、声をかけに近づいてくるかもしれない。一刻も早くここを離れようと翠を急かす。

「はーい、今出すよ」
「いとこの人にオレのこと、絶対言っちゃダメだよ!」
「うん、もちろん」

 外から見えないようにと、助手席のシートにずるずると背中を滑らせる。翠のいとこがどんな人なのか興味はあったが、翠の車に同乗する自分を見られないことのほうが、何よりも重要だった。

 車を停めていた場所から、角を三度ほど曲がった。これくらい離れれば、さすがに見つかることもないだろう。希色は安堵の息をこぼしながら、そう言えば、と翠に尋ねる。

「あれ、翠くん今日はオフ?」
「うん。でも事務所に来てーって昨日連絡あってさあ」
「そうだったんだ。もしかして同じ話なのかな」
「俺はちょっと聞いちゃった」
「え、そうなの!? ……もしかして、オレ怒られたりする?」
「え? はは、違うよ。それは大丈夫」

 そんなこと考えてたのか、と笑いながら、赤信号に止まった車内で翠は希色の頭を撫でた。そのまま前髪をかき上げられてしまう。

「学校終わったんだし、こうしといてよ。今日もかわいい」
「嬉しくない……」
「そこがいいのに」
「……そう言ってもらえるから、この仕事してるけど。でもやっぱり、かっこいい男になりたい」
「希色ならなれるよ」
「そうかなあ」

 事務所に到着して、事務作業をしているスタッフたちにふたりで挨拶をする。いつだって笑顔で迎えてくれる人たちで、希色はこの場所が好きだ。
 希色たちに気づいた前田が自分の席から立ち上がって、そのまま奥の応接スペースへと案内された。翠と並んでソファに腰を下ろし、テーブルを挟んで反対側に前田が座る。

「今日は急に呼び出してごめんね」
「前田さんが何のことか言わないから、怒られるのかなって希色ビビってたよ」
「そうなの!? ごめんごめん、せっかくならサプライズにしようと思っちゃって」
「サプライズ?」

 希色が首を傾げると、翠と前田、ふたりの視線がこちらのほうへと注がれる。翠はにやりと笑んでいて、前田はどこか得意げに鼻を鳴らした。

「実は……翠くんとKEYくん、ふたりに表紙の依頼がきました!」
「え……え!? 表紙!? オレも!?」
「やったな希色~、大抜擢じゃん」
「え……うそ、夢?」
「夢じゃないよ。翠くんが専属のM's modeから、正式に依頼がきたんだ」

 前田はまっすぐに希色を見てそう言った。嘘なんてついていないと、そのキラキラと輝く瞳を見れば分かる。体温が急激に上がり、浅くなった息を希色はどうにか落ち着ける。

「どうしよ、すごく嬉しいです……でも、なんでオレに?」

 誌面でもまだ、大きく掲載されたことはないに等しい。それなのに表紙に、なんて青天の霹靂だ。

「翠くんの採用は決まっていたところに、現場で君たちの仲がいいのを見ていたスタッフが提案したそうだよ」
「そ、そんなことあるんですね……」
「元々、いつかBLをテーマに表紙を撮りたいって構想はあったらしいんだ」
「…………? びーえる?」
「ボーイズラブのことだよ。男の子同士の恋愛ってこと。翠くんはもちろん、KEYくんも華があるからね。並んだら絵になる。僕もぴったりだと思うよ」
「男の子同士の、恋愛……」
「希色、俺とそういう撮影はイヤ?」
「え? ううん、そういうんじゃなくて。恋愛、ってのがピンとこなくて」

 男同士なことは何も問題ではない。ただ希色にとって、恋愛はどこか遠い話だった。誰かに恋をしたこともなければ、そういう想いを抱かれた覚えもない。きちんとしたコンセプトが用意されているのに、表現できるだろうか。表紙に抜擢された喜びも束の間、気が引き締まったのと同時に不安も生まれてくる。

「そうなん? 俺、希色は好きな人ができたんだと思ってたわ」
「……え? なんで?」
「ほら、希色最近グッと良くなったから」
「僕も正直そう思ってたよ。違ったんだ?」
「っ、全然! オレはその、最近友だちができて、すごく嬉しくて。その影響だと思うんですけど、全然恋とかはないです」
「そうなんだ」
「翠くんには言ったじゃん」
「まあ確かに聞いたけど。恋もしてんのかと思ってた。へえ……違うんだ」
「違うよー……恋なんてしたことないし」

 この春から日々が楽しくなったのは間違いなく桃真のおかげで、それ以外に変わったことはない。それなのに、第三者から恋をしていると思われていただなんて。まさかのことに、ボンと音でも鳴るかのように希色は顔が熱くなった。
 それじゃあまるで、桃真に恋をしているみたいじゃないか。

「まあその話はこの辺にして。詳しくはまた連絡するけど、撮影は八月あたり、発売は十月の予定だよ。KEYくん、初めての表紙、がんばろうね」
「はい!」

 動揺している暇はない。ざっくりとしたスケジュールが実感を連れてきて、希色は背筋を伸ばして返事をした。

「今日はこの話を直接伝えたかったんだ。ふたりとも、来てくれてありがとう」
「本当だよ~、俺オフだったのに」
「でも翠くん、KEYくんのリアクション見たかったでしょ」
「それはそう! さすが前田さん、さんきゅ」

 翠はもう何度もファッション雑誌の表紙を飾っている。慣れている様子に憧れを抱きつつ、希色の頭には桃真の言葉が蘇っていた。

『KEYはさ、あんまり投稿しないよな』

 先週からずっと気になっていて、SNSの投稿を何度も試みたのだが。習慣づいていないせいで、何を載せたらいいのかちっとも分からないまま、時間だけが経っていた。

「あの、前田さん。今日のこと、インスタに上げてもいいですか?」
「表紙のこと? 詳細はまだオフレコだね……」
「そっか、そうですよね」
「いや、うーんどうしようか。翠くん、何かいい案ない? せっかくKEYくんがSNSにやる気出してくれてるから!」
「はは、前田さん必死。んー……近々いいお知らせができます、とかは?」
「あ、いいね! KEYくん! それでいこう!」

 未熟な自分に親身になってくれる、前田の優しさが嬉しい。翠の提案を頂くことに決まって、ポケットからスマートフォンを取り出す。画像必須のSNSだ、自撮りをしようとしてふと考える。
 KEYのアカウントを桃真が見てくれている。自分ひとりの写真より、翠も写っていたほうが喜んでくれるのではないか。

「翠くん、一緒に写ってもらってもいい?」
「おう、もちろん。ちょっと待って、今いとこにメッセージ送ってるから」
「さっきの? オレが同じ学校にいるってこと、絶対言わないでね?」
「分かってるって」

 メッセージを送り終えた翠が、希色の肩を抱いてくる。顔がくっつきそうなほどに近づいて、学校指定のネクタイを慌てて外し、シャッターを数回押した。

「こんな感じでいいかな」
「ん、いいじゃん」

 翠にも確認してもらい、一枚の写真を選んだ。
 “お久しぶりです。近々いいお知らせができそうです。喜んでもらえたらいいな。写真は事務所の先輩の翠くんと”
 キャプションを入力し、翠に習いながら翠のアカウントをタグ付けして、いざ、と気合を入れて投稿する。
 桃真は本当に見てくれるだろうか。見てくれたとして、きっと桃真の目は翠に釘付けだろうけど。ほんの数秒でも、KEYのことも見つめてくれたらいいのに。
 桃真の瞳に顔を晒した自分が映る――そんな光景を想像するだけで、表紙が決まったと聞いた瞬間の興奮が重なっていくみたいだった。


 翌日。
 昇降口で靴を履き替え階段のほうへ向かうと、少し先に桃真の姿があった。桃真を目に映した瞬間、蘇ってくるのは昨日の翠と前田の言葉だ。
 ――希色は好きな人ができたんだと思ってたわ。
 心臓がトクトクと速度を上げ、いやいや違うから、と小さく首を振る。桃真の元へと走り寄り、大きな背をぽんとたたく。

「桃真。おはよう」
「ん……はよ」

 振り返った桃真は横目に希色を映し、すぐに前へと向き直った。違和感が希色を襲う。

「…………?」

 どうしたのだろう。いつもだったら希色が桃真に見つけられるほうで、挨拶のあとは頭を撫でられたり、だらりと凭れかかられるのが常なのに。
 階段を上がり、廊下を少し走って、桃真の半歩前に出て顔を覗きこむ。

「桃真? もしかして具合悪かったりとかする?」
「……いや、平気」

 平気、と言うがくちびるは薄らと尖っていて、ジトリとした瞳が希色へと向けられた。そんな顔を見たのは初めてだ。この状況からすると、自分が何かしてしまったのだろうとしか思えない。慌てた希色は、とっさに桃真の腕を掴む。

「な、なに? どうしたの?」
「…………」
「桃真……?」

 昨日は雨の中、校門で手を振って別れた。そのあとは、珍しくメッセージのやり取りをすることもなく今日を迎えている。
 翠と密着したKEYの写真が面白くなかった? いや、自分がKEYだなんて桃真は知らないのだから、桃真がどう感じていたとしたって今は関係ない。

「希色、あのさ……」
「……ん?」

 思い当たることがなく困惑していると、桃真が何か言いたげに希色を呼んだ。廊下には人が増えてきて、邪魔にならないようにと窓際に避けて身を寄せる。騒がしい空間で、桃真だけに集中する。
 いつもの廊下がふたりだけの世界みたいだ。

「……昨日」
「うん」
「連絡があって」
「うん。えっと、誰から?」
「それは、み……」
「み?」

 桃真の視線が空を彷徨って、希色をとらえる。物言いたげな色はどこかへと消え去って、今度は寂しそうに見える。こんなに心細そうな桃真は知らない。心配でそろそろと手を頭に伸ばそうとすると、触れるよりも早く希色の肩に額を乗せてきた。長い息を吐いて、桃真はつぶやく。

「……ごめん、やっぱなんでもない」
「なんでもないようには見えないけど……」
「はは、だよな。でも大丈夫」
「ほんと?」
「ほんと。ただ、俺ってちっせえ男だなって」
「桃真が? そんなことないよ」
「希色は優しいな」
「桃真が元気ない時は励ますって言ったじゃん。それに、桃真が小さい男なんかじゃないっていうのは本心だし」
「希色……」

 額を揺らす甘えるみたいな仕草に、希色はそっと息を飲む。顔を見られずに済んでよかった、きっと赤い顔をしているから。なんて安堵していると、誰かに背中をぽんと叩かれた。佐々木だ。

「おはよ、望月」
「あ、おはよう」

 その後ろには川合もいて、桃真がくっついていることに気づくと目を見開いた。歩みは止めないまま、桃真の髪をくしゃくしゃと撫でていく。

「土屋ー、イチャつくなら場所考えろよー」
「うっせえ、ほっとけ」

 イチャついている、は否定しない桃真に、また昨日の翠たちの言葉を思い出してしまった。違う違う、とどうにか追い払っても、離れない桃真の体温がまた連れてきてしまう。心を落ち着かせようと深呼吸をすると、桃真が首をもたげた。

「希色? どうかしたか?」
「……いや、うん、大丈夫」
「ほんとに?」

 いつの間にか立場が逆転して、今度は希色のほうが心配されてしまう。しゅんと眉を下げ、桃真は希色の両頬を手で包んできた。額を合わせ、熱はなさそうかな、なんて言う。
 あまりの至近距離に途切れる息が恥ずかしい。気づかれないようにとそっと息を飲む。
 髪の上からじゃ正確な体温は分からない、そんなことはきっとお互いに分かっている。だが離れてほしいわけじゃないから言う気にはなれなくて、桃真もやっぱり離れなくて。指先で頬を撫でてくれている手に、希色は手を重ねた。

「ほんとに大丈夫だよ」
「ん、そっか。それならよかった」

 朝のホームルームの予鈴が鳴って、生徒たちが徐々に教室に吸いこまれていく。廊下が大分空いてから、「俺たちも行くか」と桃真が希色の髪をぽんと撫でた。

「うん、そうだね。桃真」
「ん?」
「元気になった?」
「あ……うん、なった。凹んでたの今忘れてたくらい」
「そっか。よかった」

 先を行くのでもなく、後ろにつくのでもなく。桃真は隣に並んで歩いてくれる。教室までのたった数メートルの距離だって、そんなことが夢みたいに嬉しい。

「ふふ」
「ん? どした?」
「ううん、なんでもないよ」
「なんだよー、なんか嬉しそうじゃん」
「うん、それは当たり」

 恋じゃないけれど、そうじゃないはずだけれど。特別な友だちだと言ってくれた桃真のことが、希色だって特別で。ずっとそんな関係でいたいと、桃真の感覚が残る前髪に希色はそっと触れた。