翌日。希色は登校しながら、鼻歌でも口ずさんでしまいそうな自分をどうにか抑えていた。
昨日は家までの道のりを早足で帰った。桃真が持たせてくれたカップを、早く飾りたかったからだ。
そのまま飾るか、ペン立てにするか。少し迷ったが、汚れる可能性もあると思い至り、ペン立ての案はすぐに却下した。その代わりと中に入れてみたのは、デスクに飾ってあった手のひらサイズのペンギンくんのぬいぐるみだ。サイズはぴったりだったし、コーヒーショップのロゴがあしらわれている程度で透明だからよく見える。桃真が描いたイラストとぬいぐるみが並ぶように、入れる位置を細かに調節した。
希色にとってこのカップは、初めての推しグッズと言っていい。例えば桃真がアイドルだったならライブグッズなどを購入できたのだろうが、相手は一般人だ。まさか写真を撮るなんて、出来るはずもない。撮りためてきたペンギンくんのイラストの写真だけで満足していたが、実体として手にできるとその充足感は比べものにならなかった。
飾る場所を散々悩み、ベッドヘッドに落ち着いて。何度も手に取っては眺め、今朝も「いってきます」と告げて家を出てきた。部屋を出る前に振り返って、目にしっかりと焼きつけてきた。
「希色、おはよう」
「あ、桃真。おはよう」
校門を通ったところで、後ろから肩をぽんと叩かれた。直前に背後から聞こえていた駆け足の音はどうやら、桃真のものだったようだ。今日も笑顔が眩しい。
昨日の店員姿の桃真を思い出さずにいられず、希色はさりげなく俯く。きちんと切り替えなければ。昨日の出来事は桃真にとって、希色とのことではないのだから。
だが、腰を屈めて話しかけてきた桃真に、希色はうっかりしそうになる。
「希色、元気か? 疲れてる?」
「え? 大丈夫だよ。ほら、昨日チョコのドー……」
「…………」
言いかけて、ハッと口を噤む。気を引き締めたところだったのに、ショップで会った時と同じことを聞かれて、昨日の続きのように答えそうになってしまった。
違う、今は桃真のバイト先の客ではない。ただの友人の、顔を見せることすらできない望月希色だ。桃真の中で少しでも紐づけられてはいけないと、慌てて顔を上げる。
「えーっと、昨日は家にいただけでさ。チョコも食べて元気でしかない、っていうか」
「……へえ。それならよかった」
誤魔化せたようで、こっそり胸をなで下ろす。だがほっとしたのも束の間、今度は桃真の表情が気にかかった。先ほどまでの元気な様子とは一変して、どこか寂しそうに見える。
「桃真は? なんかあった?」
「え?」
「なんか、桃真のほうが元気なさそう、っていうか」
「…………」
力になれることがあるのなら、なんでもしてあげたい。虚をつかれたような顔が返って不安になる。だが次の瞬間には、力が抜けたように笑ってくれた。
「別に平気。でも元気ない時は励ましてもらえるんだ?」
「うん」
「マジか。今お願いしようかな」
「でも、別に平気って言わなかった?」
「あ……」
コーヒーショップでの桃真を、希色はずっと二十歳くらいの大人だと思っていた。だが学校での桃真は、そう感じていたのが不思議なくらいにあどけない時がある。
だからだろうか、歳の離れた兄を持ち弟気質な希色だが、こんな一面を見ると甘やかしたくなる自分に気づく。
「はは。でもいいよ。桃真、こっち」
「ん?」
半袖のシャツをツンと引っ張ると、桃真は首を傾げながらも屈んでくれた。近づいた頭に手を置いて、ぽんぽんと撫でてみる。
「励ますならこんな感じかな。どう?」
「…………」
「……あれ。なんか変? おーい、桃真?」
だが桃真は、なぜかぴたりと動きを止めてしまった。自分が桃真にそうされると嬉しいからやってみたのだが、自分がするには馴れ馴れしいことだったのかもしれない。そもそも友人などできないと思っていたのに、桃真の懐の深さにずいぶん気が緩んでしまったようだ。
慌てて手を離し後ずさろうとすると、けれど桃真に腕を掴まれる。
「あー……」
「桃真? ……ごめん、馴れ馴れしくしすぎた」
「いや、そんなことない。めっちゃ嬉しかった。でもすげー心配」
「へ? えーっと、なにが?」
嬉しかったの言葉に安堵しつつ、希色は首を傾げる。心配とはなにがだろうか。理解も追いつかないままに、希色の肩に桃真が頭を乗せてくる。思わずドキッとするが、気を引き締める。桃真にとっては普通のことなのだろう。桃真にとって、“特別な友だち”とは普通にすること。変に捉えるのはきっと失礼だ。
「希色ー、簡単に人のこと信じちゃだめだぞ」
「…………? 警戒心は強いつもりだけど」
「全然じゃん」
「そうかな……よく分かんないけど、桃真の頭撫でたの、やっぱりよくなかった?」
「いや、俺はいい。めっちゃ嬉しい」
「はは、なにそれ」
「俺はいい……って言うか、希色にとって安心できる相手でいたい、って言うか」
桃真の言っていることが分かるような分からないような、いまいち意図が掴めない。だが、伝えられることならひとつ見つかった。
「オレ、桃真といると安心するよ」
「え?」
「オレ、桃真といると楽しいし。安心って言うか、信頼してるって言うか。オレにとって桃真はそんな感じだよ。そういう意味じゃなかった?」
「……いや、合ってる」
体を離した桃真を見上げると、大きな手はどこか恥ずかしそうに首の後ろを掻いていた。視線は合わなくて、いつもの自分を見ているみたいだ。
「はは」
「笑ったな希色……」
「ごめんごめん。教室行こっか」
「ん、だな」
午前の授業が終わり、昼休みになる。川合と佐々木がやってきて、希色と桃真の前の席を拝借し4つの机をくっつける。いつもの光景と言えることが、希色は毎日新鮮に嬉しい。
各々が弁当やコンビニで購入してきたパンなどを開ける中、希色はまずはペットボトルの水を口にする。四限目は体育だったから、喉が渇いていた。
「希色って水好きだよな」
「ん? うん、そうだね」
隣を見ると、頬杖をついている桃真と目が合った。頷きながらペットボトルの蓋を締め、弁当を開ける。
「他には?」
水を飲んでいるのはあくまでも習慣で、好きな飲み物はと聞かれたらコーヒーが思い浮かぶ。くだもののジュースなども好きだが、やはり希色にとって特別なのは桃真が働くショップのコーヒーだ。とは言え、桃真の前でそう答えるのは少し緊張するものがある。
「えっと、コーヒーも好き」
プチトマトを取ろうとした箸を止め、希色は思い切って答えた。
「へえ……学校で飲んでるの、見たことないな」
「うん。その……好きなコーヒーショップがあって、そこでしか飲まないから」
「……ふうん」
大胆なことを言ってしまった。だが、バイト先のショップに希色が来ているなんて桃真は知らないのだから大丈夫なはずだ。そうは思っても心臓は鼓動を速めて、顔が熱くなるのを感じる。どうしたものかと思いつつ桃真をそっと窺うと、どこか観察するような瞳がこちらへと注がれていた。
「…………? とう……」
「ん? 望月、なんか顔赤くねえ?」
「え?」
「調子悪いのか?」
桃真に声をかけようとしたところで、佐々木にそう尋ねられた。向かいに座る佐々木に気づかれてしまうほど、火照ってしまっていたようだ。
どれだけ桃真に翻弄されているのだろう。なんだか恥ずかしくなり返事に困っていると、川合が向こうの席から身を乗り出した。あっと思う暇もなく手が伸びてきて、反射的に身を縮こませてしまう。もしも手が前髪に当たって、顔を見られてはまずい。
心配してくれているのだと分かっているのに。川合と気まずいことになりたくない。逡巡する数秒の間に、目の前にはもう一本の腕が現れた。希色に触れる直前だった川合の手首が掴まれる。桃真だ。
「川合。希色に触んな」
「はあ? なんで」
昼休みの穏やかな空気が、一瞬で緊張感を帯びる。
「勝手に触るのはよくないだろ」
「……いや、望月にべったりのお前に言われたくないけど!?」
「俺はいいんだよ」
「なんで」
「希色の友だちだから」
「俺だって望月と友だちだけど!? ……え、友だちだよな!? 望月~!」
一触即発と思えたが、その予感はすぐに霧散した。あっけらかんとした桃真の身勝手とも言える言葉を、川合が戯れにキャッチしたからだ。おちゃらけた様に泣き真似をして希色に縋ってくる。佐々木も笑っていて、内心ほっとしつつ希色は頷く。
「うん、友だちだと思ってるよ」
「ほらあ!」
「でも触んのは駄目」
「あーはいはい、お前だけがいいってことな」
川合はそう言って、降参だとでも言うように両手を顔の横に上げてみせた。
突然のことに驚きつつ、桃真のおかげで顔を見られずに済んで希色は安堵する。顔を隠している理由を話したことはないが、もしかして助けてくれたのだろうか。食事に戻った川合たちに聞こえないようにと、桃真の袖をツンと引いて小さく伝える。
「桃真、あの、ありがとう」
「んー? 俺はなにも。てか食おうぜ、腹減った」
「うん」
なにも、なんて言うくせに、ぽんと頭を撫でてくれた手はやはり優しい。
桃真はおにぎりやパンなどをたくさん食べるのに、ちいさな弁当の希色よりいつも先に食べ終わる。今日も例に漏れずな桃真は、ごちそうさまと手を合わせてスマートフォンを触り始めた。
机に置いたままそうするから、覗くつもりはなくても丸見えだ。画面には、インスタの翠のアカウントが映し出されている。最新のものは昨日希色と撮ったツーショットだ。ピリッとした緊張感が希色に走る。大丈夫だ、落ち着け。顔は見られていないのだから、自分だとは気づかれない。
「あ、新しいの来てる」
「……え? まだ見てなかった?」
「うん、今見た」
ということは、翠ファンの桃真はKEYを疎ましく思っているのかも、なんて昨日の推測はやはり杞憂だったのか。だとすると、昨日コーヒーショップで目が合った瞬間の、ちょっと素っ気ない態度は何だったのだろうか。その後のドーナツを勧めてくれた優しさにばかり浸っていたけれど、改めて気になってくる。
口に入っていたたまごやきを緩慢に咀嚼し、弁当をしまいながら昨日の桃真を思い出していると。肩にトンと桃真がぶつかってきた。それだけではない。あろうことか希色の頭に自身の頭を置くようにして、寄りかかってくる。
なんだ、この状況は。友人なのだから何でもないふりをしなければ、と思いはするが、駆け出してしまった心臓を鎮めるのは容易ではない。桃真といると、いつだって希色の心は忙しい。こっそり深呼吸をするので精いっぱいだ。
「なあ希色」
「……ん?」
「日比谷翠の隣に写ってるKEYだけどさ」
「うん……えっ、へ!?」
それは突然のことだった。あまりにさらっと言うものだから、逸る胸を必死に落ち着けていたのも相まってか、一度は普通に返事をしてしまったが。今、桃真の口から、もうひとりの自分であるKEYの名が出たのではないか。希色の体は思わず跳ね、椅子がガタリと音を立てる。
「桃真、き、KEYのこと知ってるんだ?」
動揺を悟られないようにと慎重に口を開くと、上擦った声になってしまった。もしかすると、自分は隠し事が下手なのかもしれない。
「もちろん」
「へ、へえ……」
「……希色もKEY知ってんだな」
「う、うん。ほら、よく日比谷翠と写ってるし」
だが桃真は希色の態度に疑問を抱くこともなさそうで、視線は画面に向けられたままだ。
「まあな……なあ、KEYはさ、あんまり投稿しないよな」
「え……KEYのアカウントもチェックしてるの?」
「うん、してる」
「そう、なんだ……」
昨日はもしかしたら、なんて思ったりもしたけれど。桃真がKEYを知っているのかどうか、把握する機会はなかった。だが「もちろん」と答えるくらいには、桃真の中でしっかりとKEYという存在が認知されているようだ。それならばコーヒーショップでの希色を十中八九、KEYだと認識しているだろう。
いつから知ってくれているのかは定かではないが、KEYだと分かっていて、それでも桃真はそっとしておいてくれている。桃真の思いやりがじんわりと沁みていく。それからますます、推されたいという気持ちが膨らんでくる。それに値する一流のモデルになりたい。桃真が見てくれているのなら、もっと頑張れる気がする。
「桃真ってファッション雑誌とか見るんだ?」
「うん、たまにだけど買ってる」
「そっか」
これまでも持っていたつもりの向上心が、ぐっと強くなるのを感じる。SNSの更新も、もっと心がけてみるのもいいかもしれない。
昨日は家までの道のりを早足で帰った。桃真が持たせてくれたカップを、早く飾りたかったからだ。
そのまま飾るか、ペン立てにするか。少し迷ったが、汚れる可能性もあると思い至り、ペン立ての案はすぐに却下した。その代わりと中に入れてみたのは、デスクに飾ってあった手のひらサイズのペンギンくんのぬいぐるみだ。サイズはぴったりだったし、コーヒーショップのロゴがあしらわれている程度で透明だからよく見える。桃真が描いたイラストとぬいぐるみが並ぶように、入れる位置を細かに調節した。
希色にとってこのカップは、初めての推しグッズと言っていい。例えば桃真がアイドルだったならライブグッズなどを購入できたのだろうが、相手は一般人だ。まさか写真を撮るなんて、出来るはずもない。撮りためてきたペンギンくんのイラストの写真だけで満足していたが、実体として手にできるとその充足感は比べものにならなかった。
飾る場所を散々悩み、ベッドヘッドに落ち着いて。何度も手に取っては眺め、今朝も「いってきます」と告げて家を出てきた。部屋を出る前に振り返って、目にしっかりと焼きつけてきた。
「希色、おはよう」
「あ、桃真。おはよう」
校門を通ったところで、後ろから肩をぽんと叩かれた。直前に背後から聞こえていた駆け足の音はどうやら、桃真のものだったようだ。今日も笑顔が眩しい。
昨日の店員姿の桃真を思い出さずにいられず、希色はさりげなく俯く。きちんと切り替えなければ。昨日の出来事は桃真にとって、希色とのことではないのだから。
だが、腰を屈めて話しかけてきた桃真に、希色はうっかりしそうになる。
「希色、元気か? 疲れてる?」
「え? 大丈夫だよ。ほら、昨日チョコのドー……」
「…………」
言いかけて、ハッと口を噤む。気を引き締めたところだったのに、ショップで会った時と同じことを聞かれて、昨日の続きのように答えそうになってしまった。
違う、今は桃真のバイト先の客ではない。ただの友人の、顔を見せることすらできない望月希色だ。桃真の中で少しでも紐づけられてはいけないと、慌てて顔を上げる。
「えーっと、昨日は家にいただけでさ。チョコも食べて元気でしかない、っていうか」
「……へえ。それならよかった」
誤魔化せたようで、こっそり胸をなで下ろす。だがほっとしたのも束の間、今度は桃真の表情が気にかかった。先ほどまでの元気な様子とは一変して、どこか寂しそうに見える。
「桃真は? なんかあった?」
「え?」
「なんか、桃真のほうが元気なさそう、っていうか」
「…………」
力になれることがあるのなら、なんでもしてあげたい。虚をつかれたような顔が返って不安になる。だが次の瞬間には、力が抜けたように笑ってくれた。
「別に平気。でも元気ない時は励ましてもらえるんだ?」
「うん」
「マジか。今お願いしようかな」
「でも、別に平気って言わなかった?」
「あ……」
コーヒーショップでの桃真を、希色はずっと二十歳くらいの大人だと思っていた。だが学校での桃真は、そう感じていたのが不思議なくらいにあどけない時がある。
だからだろうか、歳の離れた兄を持ち弟気質な希色だが、こんな一面を見ると甘やかしたくなる自分に気づく。
「はは。でもいいよ。桃真、こっち」
「ん?」
半袖のシャツをツンと引っ張ると、桃真は首を傾げながらも屈んでくれた。近づいた頭に手を置いて、ぽんぽんと撫でてみる。
「励ますならこんな感じかな。どう?」
「…………」
「……あれ。なんか変? おーい、桃真?」
だが桃真は、なぜかぴたりと動きを止めてしまった。自分が桃真にそうされると嬉しいからやってみたのだが、自分がするには馴れ馴れしいことだったのかもしれない。そもそも友人などできないと思っていたのに、桃真の懐の深さにずいぶん気が緩んでしまったようだ。
慌てて手を離し後ずさろうとすると、けれど桃真に腕を掴まれる。
「あー……」
「桃真? ……ごめん、馴れ馴れしくしすぎた」
「いや、そんなことない。めっちゃ嬉しかった。でもすげー心配」
「へ? えーっと、なにが?」
嬉しかったの言葉に安堵しつつ、希色は首を傾げる。心配とはなにがだろうか。理解も追いつかないままに、希色の肩に桃真が頭を乗せてくる。思わずドキッとするが、気を引き締める。桃真にとっては普通のことなのだろう。桃真にとって、“特別な友だち”とは普通にすること。変に捉えるのはきっと失礼だ。
「希色ー、簡単に人のこと信じちゃだめだぞ」
「…………? 警戒心は強いつもりだけど」
「全然じゃん」
「そうかな……よく分かんないけど、桃真の頭撫でたの、やっぱりよくなかった?」
「いや、俺はいい。めっちゃ嬉しい」
「はは、なにそれ」
「俺はいい……って言うか、希色にとって安心できる相手でいたい、って言うか」
桃真の言っていることが分かるような分からないような、いまいち意図が掴めない。だが、伝えられることならひとつ見つかった。
「オレ、桃真といると安心するよ」
「え?」
「オレ、桃真といると楽しいし。安心って言うか、信頼してるって言うか。オレにとって桃真はそんな感じだよ。そういう意味じゃなかった?」
「……いや、合ってる」
体を離した桃真を見上げると、大きな手はどこか恥ずかしそうに首の後ろを掻いていた。視線は合わなくて、いつもの自分を見ているみたいだ。
「はは」
「笑ったな希色……」
「ごめんごめん。教室行こっか」
「ん、だな」
午前の授業が終わり、昼休みになる。川合と佐々木がやってきて、希色と桃真の前の席を拝借し4つの机をくっつける。いつもの光景と言えることが、希色は毎日新鮮に嬉しい。
各々が弁当やコンビニで購入してきたパンなどを開ける中、希色はまずはペットボトルの水を口にする。四限目は体育だったから、喉が渇いていた。
「希色って水好きだよな」
「ん? うん、そうだね」
隣を見ると、頬杖をついている桃真と目が合った。頷きながらペットボトルの蓋を締め、弁当を開ける。
「他には?」
水を飲んでいるのはあくまでも習慣で、好きな飲み物はと聞かれたらコーヒーが思い浮かぶ。くだもののジュースなども好きだが、やはり希色にとって特別なのは桃真が働くショップのコーヒーだ。とは言え、桃真の前でそう答えるのは少し緊張するものがある。
「えっと、コーヒーも好き」
プチトマトを取ろうとした箸を止め、希色は思い切って答えた。
「へえ……学校で飲んでるの、見たことないな」
「うん。その……好きなコーヒーショップがあって、そこでしか飲まないから」
「……ふうん」
大胆なことを言ってしまった。だが、バイト先のショップに希色が来ているなんて桃真は知らないのだから大丈夫なはずだ。そうは思っても心臓は鼓動を速めて、顔が熱くなるのを感じる。どうしたものかと思いつつ桃真をそっと窺うと、どこか観察するような瞳がこちらへと注がれていた。
「…………? とう……」
「ん? 望月、なんか顔赤くねえ?」
「え?」
「調子悪いのか?」
桃真に声をかけようとしたところで、佐々木にそう尋ねられた。向かいに座る佐々木に気づかれてしまうほど、火照ってしまっていたようだ。
どれだけ桃真に翻弄されているのだろう。なんだか恥ずかしくなり返事に困っていると、川合が向こうの席から身を乗り出した。あっと思う暇もなく手が伸びてきて、反射的に身を縮こませてしまう。もしも手が前髪に当たって、顔を見られてはまずい。
心配してくれているのだと分かっているのに。川合と気まずいことになりたくない。逡巡する数秒の間に、目の前にはもう一本の腕が現れた。希色に触れる直前だった川合の手首が掴まれる。桃真だ。
「川合。希色に触んな」
「はあ? なんで」
昼休みの穏やかな空気が、一瞬で緊張感を帯びる。
「勝手に触るのはよくないだろ」
「……いや、望月にべったりのお前に言われたくないけど!?」
「俺はいいんだよ」
「なんで」
「希色の友だちだから」
「俺だって望月と友だちだけど!? ……え、友だちだよな!? 望月~!」
一触即発と思えたが、その予感はすぐに霧散した。あっけらかんとした桃真の身勝手とも言える言葉を、川合が戯れにキャッチしたからだ。おちゃらけた様に泣き真似をして希色に縋ってくる。佐々木も笑っていて、内心ほっとしつつ希色は頷く。
「うん、友だちだと思ってるよ」
「ほらあ!」
「でも触んのは駄目」
「あーはいはい、お前だけがいいってことな」
川合はそう言って、降参だとでも言うように両手を顔の横に上げてみせた。
突然のことに驚きつつ、桃真のおかげで顔を見られずに済んで希色は安堵する。顔を隠している理由を話したことはないが、もしかして助けてくれたのだろうか。食事に戻った川合たちに聞こえないようにと、桃真の袖をツンと引いて小さく伝える。
「桃真、あの、ありがとう」
「んー? 俺はなにも。てか食おうぜ、腹減った」
「うん」
なにも、なんて言うくせに、ぽんと頭を撫でてくれた手はやはり優しい。
桃真はおにぎりやパンなどをたくさん食べるのに、ちいさな弁当の希色よりいつも先に食べ終わる。今日も例に漏れずな桃真は、ごちそうさまと手を合わせてスマートフォンを触り始めた。
机に置いたままそうするから、覗くつもりはなくても丸見えだ。画面には、インスタの翠のアカウントが映し出されている。最新のものは昨日希色と撮ったツーショットだ。ピリッとした緊張感が希色に走る。大丈夫だ、落ち着け。顔は見られていないのだから、自分だとは気づかれない。
「あ、新しいの来てる」
「……え? まだ見てなかった?」
「うん、今見た」
ということは、翠ファンの桃真はKEYを疎ましく思っているのかも、なんて昨日の推測はやはり杞憂だったのか。だとすると、昨日コーヒーショップで目が合った瞬間の、ちょっと素っ気ない態度は何だったのだろうか。その後のドーナツを勧めてくれた優しさにばかり浸っていたけれど、改めて気になってくる。
口に入っていたたまごやきを緩慢に咀嚼し、弁当をしまいながら昨日の桃真を思い出していると。肩にトンと桃真がぶつかってきた。それだけではない。あろうことか希色の頭に自身の頭を置くようにして、寄りかかってくる。
なんだ、この状況は。友人なのだから何でもないふりをしなければ、と思いはするが、駆け出してしまった心臓を鎮めるのは容易ではない。桃真といると、いつだって希色の心は忙しい。こっそり深呼吸をするので精いっぱいだ。
「なあ希色」
「……ん?」
「日比谷翠の隣に写ってるKEYだけどさ」
「うん……えっ、へ!?」
それは突然のことだった。あまりにさらっと言うものだから、逸る胸を必死に落ち着けていたのも相まってか、一度は普通に返事をしてしまったが。今、桃真の口から、もうひとりの自分であるKEYの名が出たのではないか。希色の体は思わず跳ね、椅子がガタリと音を立てる。
「桃真、き、KEYのこと知ってるんだ?」
動揺を悟られないようにと慎重に口を開くと、上擦った声になってしまった。もしかすると、自分は隠し事が下手なのかもしれない。
「もちろん」
「へ、へえ……」
「……希色もKEY知ってんだな」
「う、うん。ほら、よく日比谷翠と写ってるし」
だが桃真は希色の態度に疑問を抱くこともなさそうで、視線は画面に向けられたままだ。
「まあな……なあ、KEYはさ、あんまり投稿しないよな」
「え……KEYのアカウントもチェックしてるの?」
「うん、してる」
「そう、なんだ……」
昨日はもしかしたら、なんて思ったりもしたけれど。桃真がKEYを知っているのかどうか、把握する機会はなかった。だが「もちろん」と答えるくらいには、桃真の中でしっかりとKEYという存在が認知されているようだ。それならばコーヒーショップでの希色を十中八九、KEYだと認識しているだろう。
いつから知ってくれているのかは定かではないが、KEYだと分かっていて、それでも桃真はそっとしておいてくれている。桃真の思いやりがじんわりと沁みていく。それからますます、推されたいという気持ちが膨らんでくる。それに値する一流のモデルになりたい。桃真が見てくれているのなら、もっと頑張れる気がする。
「桃真ってファッション雑誌とか見るんだ?」
「うん、たまにだけど買ってる」
「そっか」
これまでも持っていたつもりの向上心が、ぐっと強くなるのを感じる。SNSの更新も、もっと心がけてみるのもいいかもしれない。