少し先の季節の服を着て、カメラの前でシャッター音の度にポーズをとる。
今日は都内某所のスタジオで行われている、メンズファッション誌“M's mode”の撮影に参加している。とは言え希色は、専属モデルである事務所の先輩、日比谷翠のいわゆるバーターだ。おこぼれをもらっているに過ぎず、誌面に載れても基本的に小さいカットだ。それでも希色は一切手を抜かず、真剣にレンズに向き合う。
「KEYくん、こっち見て。いいね。じゃあ今度は、そのまま視線外してみて。そう、その感じ」
カメラマンの言葉を嬉しく思いながらも、ここで満足してはいけないと背筋を伸ばす。
もっとたくさんのことを学びたい。翠からも、翠以外のモデルたちからも、現場の雰囲気からだって吸収するものは山ほどある。
オーケーをもらいスタジオ隅の控え場所へ戻ると、翠が手を上げてハイタッチを求めてきた。それに手を重ね、翠の隣の椅子へ腰を下ろす。
「希色、なんか最近めっちゃいい感じじゃない?」
「え、そうかな」
「そうだよ。なんつうの、今までより楽しそう。なんかいいことでもあった?」
「えー……うん、あった」
「マジ? なになに」
瞳の中を覗きこむように、翠が顔をぐっと寄せてくる。全国的人気モデルの整った顔を至近距離で浴びせられ、希色はつい「うわ」と変な声が出た。
日比谷翠、22歳。身長は175㎝の希色より10㎝も高く、185㎝。スタイル抜群。ここ最近の髪色はずっと緑、まつ毛の長い目は切れ長で、黙っていると恐ろしく感じるほどに美しい。それでいて気さくで、希色のことを弟のように可愛がってくれている。
初めて出逢った日、翠は希色を見るなり「いい子が入ったじゃん!」と歓迎してくれた。それから「敬語はやめて、日比谷さんなんてイヤだ翠くんって呼んで!」とぐいぐい距離を詰められた。
スカウトされて、事務所の早川モデルエージェンシーを信用できたのも、右も左も分からなかったのになんとかやってこれているのも。翠の存在あってのことだ。
「うわ、ってなんだよ~。ショック」
「ご、ごめん。だってイケメンが目の前にきて迫力が……」
「え、褒められた?」
「うん、めっちゃ褒めた」
「あは、やった」
機嫌をよくした様子で、翠が抱きついてくる。翠は人懐っこいタイプだ。初対面だろうと誰とでも気さくに話すし、話しやすい空気を作ってくれる。近くを通る雑誌社のスタッフも、今日も仲良いねと当たり前のように声をかけて過ぎていく。
「で? いいことって?」
「えっと、高校で友だち、できた」
「へえ、よかったじゃん。それでそんないい感じなん?」
希色が今までは学校で誰とも関わらずにいたことを、翠はもちろんマネージャーの前田も知っている。だからだろう、翠も喜んでくれたようで、頭を撫でてくれた。
「うん、多分。仲良くなれて嬉しくて。いいことって言われたら、それしかないよ」
「そっか。え~、でも希色にはもう俺がいたじゃん! 俺と仲良くなったのは嬉しくなかったの?」
けれどすぐに、翠の整ったくちびるがツンと尖ってしまう。
「もちろん翠くんと仲良くなれたのだってすごく嬉しかったよ! でも翠くんは友だちじゃなくて、先輩でしょ」
「確かにそうだけどさあ……そっか、友だち、ね。希色〜」
翠は不満げな声を隠そうともせず、それでいてじゃれてくる。それにくすくすと笑いながら水分を摂っていると、翠がスマートフォンのカメラを向けてきた。
「希色、こっち向いて」
「ん、待って、水が」
「そのままでいいじゃん。オフショットって感じで」
希色の肩を組み、翠が頭を寄せてくる。高い位置に構えられた画面をふたりで見上げ、翠がシャッターボタンを押す。
「いい感じに撮れた。ほら」
「ほんとだ」
「あとでインスタ上げるね」
翠はこまめにSNSを更新するタイプで、フォロワーもたくさんいる。希色の写真を載せる時は、決まって事務所の後輩のKEYだと紹介してくれるのだから優しい。
「希色も投稿する?」
「んー、オレはいいや」
「はは、ほんとこういうの苦手なのな」
「いつも見るだけで満足しちゃって。もっと投稿してって前田さんにも言われてるんだけど」
仕事を始めるまでは、本当に閲覧するためだけのアカウントを持っていた。宣伝にもなるからとの事務所からの助言で新しく取得したのだが、まだ3回ほどしか投稿したことはない。希色との写真をアップする際、毎度KEYのアカウントへのリンクも貼ってくれる翠には、ちょっと申し訳なくもあったりする。
「ま、そういうところも希色らしくて俺は好きだけどね」
「あはは、ありがとう」
午後を過ぎた頃、希色の撮影は無事に全て終了した。翠と共に控え室に戻り、ひと息つく。
「希色ー、俺コーヒー飲むけど希色も飲む?」
「ううん、水飲むから平気」
「あれ? コーヒー飲むようになったって言ってなかったっけ」
「うん、そうなんだけど、好きなお店があって……」
「お待たせしました! お昼買ってきましたよ!」
翠と話していると、外に出ていた前田が元気よく戻ってきた。手には袋をいくつか提げていて、ひとつひとつ味を説明しながらサンドイッチをテーブルに広げてくれる。
「美味そう! 俺これもらっていい?」
「あ、翠くんは待って!」
翠はこれから隣県に移動しての、屋外での撮影予定が入っている。このままスタジオでの撮影なら見学させてもらうところだが、今日はそうもいかないようだ。
座ったまま食べ始めようとした翠を、前田が急かす。
「翠くんは車で食べてもらおうと思ってたんだよ、そろそろ出なきゃ!」
「ちょっと待って、今インスタ上げてるから」
だが翠はサンドイッチをすでに食べ始めていて、ゆっくりと立ち上がった。片手でスマートフォンを操作しインスタへの投稿を終えて、サンドイッチを持ったままの手でバッグを掴み、希色の頭を撫でてくる。器用なものだ。
「じゃあな希色、気をつけて帰るんだぞ」
「うん」
「送ってあげられなくてごめんね、KEYくん。変な人に着いていったら駄目ですからね」
「子どもじゃないんで大丈夫ですってば」
過保護な先輩とマネージャーを見送って、希色もサンドイッチを完食する。ペットボトルに少し残っていた水を飲みきり、帰る支度をはじめる。
髪のセットなどはそのままに私服に着替え、まだ残っている雑誌社のスタッフたちに挨拶をし、日曜日で人の多い外へと出る。少し悩んで、意を決しコーヒーショップのあるほうへと歩き出す。
五月ももう下旬だが、ショップへ行くのは二年生に進級して以来、今日が初めてだ。四月からこっち、仕事で褒められたことがなかったわけではないのだけれど。
推しの店員が同級生だと発覚し、しかも友人になった。とは言え桃真は、クラスメイトの望月希色の顔を見たことは一度もない。だから、日頃の自分と客の自分が同一人物だと桃真は知らない、そう分かっているのだが。ショップに顔を出すのはどこか憚られるものがあった。
だが今日は、そうも言っていられなかった。翠にコーヒーを飲むかと聞かれた時断ったのは、コーヒーをどうせ飲むのなら、あのショップのブレンドがいいと思ったからだ。それになにより、店員姿の桃真を見たくてたまらない。もう限界だった。
店の10メートルほど手前で、希色は一旦立ち止まる。どうか桃真が出勤していますように、と願いながら中の様子を窺うと、レジにその姿を発見できた。つい顔が緩むのを感じつつ、深呼吸をひとつしてゆっくりと店内へ入る。
「いらっしゃいませ」
すぐに、レジを担当している桃真と目が合った。今や桃真は友人とは言え、推しは推しだ。そもそも顔が見える状態の今の自分と桃真は、友人ではないのだし。このショップで会えることは、やはり特別だ。
もちろん「希色」と声をかけられることもない。分かっていたことではあるが、気づかれていないのだと安堵する。だがすぐに、桃真の様子に違和感を覚える。いつものように微笑んでくれることもなく、目を逸らされてしまった。緊張しているかのような、強張った様子が伝わってくる。
注文の待機列に並びながら、希色はぐるぐると考えこむ。知らずの内に何かしでかして、嫌われてしまっただろうか。だがここに来るのは久しぶりで、何かなんてしようもないはずだ。
そこまで考えて、ふとひとつの可能性に思い至り、希色は慌ててスマートフォンを起動する。開くのは翠のインスタアカウントだ。そこには、先ほど撮った希色とのツーショットがアップされている。投稿されたのは一時間弱前。すでにコメントも多くついていて、“KEYくんと本当に仲が良いね”だとか、翠と自分の距離の近さを喜ぶようなものが多い。それは以前からで、特に何を思うこともなかったのだが。
翠のファンである桃真が、面白くないと感じていても不思議ではない。自分がモデルのKEYだと認識されているのかすら定かではなかったが、先ほどの桃真の様子に照らし合わせれば頷けるものがある。
翠と仲良くしている自分とは、会いたくなかったのではないだろうか。
「お待たせしました。お次の方、こちらへどうぞ」
「あ……」
桃真に会いたくてここへ来たけれど、今日ばかりは他のスタッフのレジへ誘導されることをつい願ったのだが。運がいいのか悪いのか、桃真のほうのレジへと呼ばれてしまった。うつ向きがちにそちらへと足を向ける。
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
「店内でお召し上がりでよろしいですか?」
「あ……え、っと」
その言い回しは、いつも店内で休んでいくことを覚えてくれているからこそのものだ。今までだったら、特別な接客のようで喜ぶところだが。今日はテイクアウトしてしまおうかと迷う。桃真にとっては、一刻も早く目の前から消えてほしいのかもしれないから。
そうと決まればと希色は顔を上げる。するとそこには、なぜかしゅんと眉を下げた、どこか気づかわしげな桃真の顔があった。
「お客様、あの、すごくお節介しちゃうんですけど」
「…………? はい」
声を潜め背を屈める桃真につられ、希色もカウンター越しに耳を寄せた。
「もしよかったら、甘いものも一緒にいかがですか」
「……え?」
「急にすみません。もしかしてお疲れなのかな、と思って。甘いものって、疲れ取れませんか? コーヒーともよく合いますよ」
桃真はそう言って、隣にあるショーケースを指差した。その中にはケーキやクッキー、具だくさんのサンドなどが陳列されている。桃真に視線を戻せば、「もちろんご無理なく」と希色が断りやすいようにだろう、ひと言を添えてくれた。
桃真はKEYだと知っている、だから翠と仲がいい自分に会いたくなかった。そう考えたのは勘違いだったのだろうか。桃真の目に自分は疲れているように映ったらしく、なんとか元気づけようとしてくれているのが分かる。その優しさを受け取らない選択肢など、希色にはない。
「っ、あの、それじゃあチョコレートがかかってるドーナツをひとつ、お願いします」
「ほんとに? あ、勧めておいてすみません。無理してないかなと」
「全然です。あの、甘いの大好きなので」
「よかったです。コーヒーはいつものでよろしいですか? 今の時期だと、アイスもおすすめです」
「じゃあ、アイスで。お店でいただきます」
「かしこまりました」
コーヒーとドーナツをトレイで受け取って、いつもの隅の席へ腰を下ろす。初めて注文したアイスコーヒーは透明なプラスチックのカップに注がれていて、今日も桃真がペンギンくんの絵を描いてくれた。今回はなんと吹き出しつきで、ペンギンくんが「ごゆっくり」と希色を労わってくれている。
まずはコーヒーをひとくち。夏も近づいている青空の下、スタジオからここへ来るまでについ早足になってしまっていたし、桃真とのやり取りもイレギュラーなものばかりで体が火照っている。冷たいコーヒーは体に沁み渡るように美味しくて、今の希色にぴったりだった。桃真に嫌われたかもしれない、なんて勘違いが解けた安堵も相まってまた格別だ。
続いてドーナツをかじり、希色は思わず目を見張った。コーヒーしか注文したことがなかったが、フードもとびきり美味しい。緊張だとか疲れだとかが、ほどけていくのを確かに感じる。ちょうどいい甘さについ少し顎が上がって、もう一度コーヒーを口に含む。ああ、本当だ。桃真が言っていたように、甘いものとコーヒーはよく合う。希色がコーヒーを飲むのはこの店でのみだから、今まで知る機会がなかった。もったいないことをしてきたのかな、と思いつつ、桃真の勧めで知られたことが希色の胸を明るくする。
ペンギンくんの言葉通りいつまでもここでゆっくりしていたいが、そうも言ってはいられない。ちいさくなったドーナツの最後のひとくちを食べ、コーヒーを飲み終える。ごちそうさまでしたと手を合わせ、トレイを持って立ち上がる。返却口へ向かいかけ、だが希色はふと立ち止まった。
このカップを捨ててしまうのがどうしても惜しい。いつも通り写真も撮ったけれど。しばしカップのペンギンくんと見つめ合い、気づく。これを持って帰るのはどうだろうか。本当は今までだって、桃真がペンギンくんを描いてくれたカップを捨てるのは断腸の思いだったが、紙だからと諦めていた。だが今日はアイスを飲んだからプラスチック製だ。帰って綺麗に洗えば、飾っておける。名案だ。
「ドーナツどうでしたか?」
考えこんでいた希色は、桃真の声に弾かれるように顔を上げた。近くに来ていたことに気づいていなかった。どうやらテーブルを拭いて周っていたらしい。
「あの、すごく美味しかったです。おすすめしてもらえて良かったです、また食べます」
「本当ですか、よかった。あ、トレイお預かりします」
「あ……あ、待ってください!」
「…………? はい」
桃真の手にトレイが渡ってしまい、希色は慌てて引き止める。カップがまだトレイの上にあるからだ。だが、持って帰りたいなんて言ったら怪しまれるだろうか。全部飲み干さなきゃよかったと今になって思う。そうすれば自然と持ち出せたのに。
「お客様? どうかされましたか?」
「あの……」
気持ち悪いなんて思われたら立ち直れない。だが希色は、どうしても諦められなかった。
「はい」
「それ、持って帰ってもいいですか?」
「え……このカップですか?」
「……はい。その、ペンギンくん……」
居た堪れずに視線を逸らしながら言うと、桃真が不思議そうに首を傾げるのが視界の端に映った。気まずくなってもうここに来られない、なんてことには絶対になりたくない。どうにかしなければ。でも上手い言い訳が見つからない。カップだって諦められない。
言葉の続かない希色に、だが桃真はそっと微笑む。
「これ、洗ってくるんでちょっと待っててくださいね」
「……え?」
「すぐですから」
希色が呆気に取られている間に、桃真は颯爽とカウンターの向こうへと行ってしまった。そして言った通り、すぐに戻ってくる。
「お待たせしました。どうぞ」
本当に綺麗に洗ってあって、テイクアウト用の紙袋まで用意してくれたようだ。何から何まで至れり尽くせりで、受け取るのに躊躇してしまう。
「わざわざすみません、袋までもらって……いいんですか?」
「もちろんです。そのまま手に持って帰るのも邪魔になるでしょうし」
「っ、邪魔なんかじゃないです!」
「へ……」
「あ……」
つい大声が出てしまった。やってしまった、と手を口に当てると、桃真の目がやわらかな弧を描いた。
「はは! 本当に好きなんですね、ペンギンくん。俺が描いた下手な絵なのに」
桃真の笑顔がとても眩しい。推しの笑顔をこんな間近で浴びてしまったからか、心臓が早鐘を打ち始める。
「いえ、あの、店員さんが描いてくれるのが、嬉しいので」
「そうですか?」
「はい、いつもありがとうございます」
ペンギンくんはもちろん好きだ。だが桃真が描いてくれたからこその価値、というものがある。それはとびきりの、どれだけお金を積まれたって譲れないくらいのものだ。そう力説したくなるが、客に推されているなんて知ったら、それこそ本当に気味悪がられるに違いない。希色はぐっと堪える。
「それじゃあオレ、帰ります」
「またお待ちしてます」
桃真が声をかけてくれるので、出口へと歩きながら振り返って返事をする。
「また来ます」
「はい」
「それじゃ」
「はい」
途切れないのがくすぐったい会話を、自分から止めるしかないのが辛い。それでもどうにか最後に会釈をし、外へと出た。紙袋を胸に抱き、最後にもうひと目だけ桃真を見たいと振り返る。するとまだこちらを見ていたようで、ガラス越しに目が合ってしまった。クラスメイトとしての自分だったら手を振るけれど、今は桃真にとってただの客で。どうしたものかと固まっていると、桃真のほうから手を振ってくれた。
「うわあ……」
思わず声が出つつもそっと振り返すと、桃真の笑みがぐっと深くなるのが見えた。
早鐘を打ち続けていたからか、いよいよ胸がきゅうと鳴きはじめる。痛い気がするけれど、不快ではなくて。この感覚を手放したくなくて、不思議な想いが希色の体中を巡る。
ショップに入ってすぐの時は、桃真の表情に不安を覚えたけれど。来てよかった。躊躇なんてしていないで、またすぐに来ようと思う。
胸に居座る甘い疼きに浸りながら歩きだし、希色は大きくゆっくりと息を吐いた。
今日は都内某所のスタジオで行われている、メンズファッション誌“M's mode”の撮影に参加している。とは言え希色は、専属モデルである事務所の先輩、日比谷翠のいわゆるバーターだ。おこぼれをもらっているに過ぎず、誌面に載れても基本的に小さいカットだ。それでも希色は一切手を抜かず、真剣にレンズに向き合う。
「KEYくん、こっち見て。いいね。じゃあ今度は、そのまま視線外してみて。そう、その感じ」
カメラマンの言葉を嬉しく思いながらも、ここで満足してはいけないと背筋を伸ばす。
もっとたくさんのことを学びたい。翠からも、翠以外のモデルたちからも、現場の雰囲気からだって吸収するものは山ほどある。
オーケーをもらいスタジオ隅の控え場所へ戻ると、翠が手を上げてハイタッチを求めてきた。それに手を重ね、翠の隣の椅子へ腰を下ろす。
「希色、なんか最近めっちゃいい感じじゃない?」
「え、そうかな」
「そうだよ。なんつうの、今までより楽しそう。なんかいいことでもあった?」
「えー……うん、あった」
「マジ? なになに」
瞳の中を覗きこむように、翠が顔をぐっと寄せてくる。全国的人気モデルの整った顔を至近距離で浴びせられ、希色はつい「うわ」と変な声が出た。
日比谷翠、22歳。身長は175㎝の希色より10㎝も高く、185㎝。スタイル抜群。ここ最近の髪色はずっと緑、まつ毛の長い目は切れ長で、黙っていると恐ろしく感じるほどに美しい。それでいて気さくで、希色のことを弟のように可愛がってくれている。
初めて出逢った日、翠は希色を見るなり「いい子が入ったじゃん!」と歓迎してくれた。それから「敬語はやめて、日比谷さんなんてイヤだ翠くんって呼んで!」とぐいぐい距離を詰められた。
スカウトされて、事務所の早川モデルエージェンシーを信用できたのも、右も左も分からなかったのになんとかやってこれているのも。翠の存在あってのことだ。
「うわ、ってなんだよ~。ショック」
「ご、ごめん。だってイケメンが目の前にきて迫力が……」
「え、褒められた?」
「うん、めっちゃ褒めた」
「あは、やった」
機嫌をよくした様子で、翠が抱きついてくる。翠は人懐っこいタイプだ。初対面だろうと誰とでも気さくに話すし、話しやすい空気を作ってくれる。近くを通る雑誌社のスタッフも、今日も仲良いねと当たり前のように声をかけて過ぎていく。
「で? いいことって?」
「えっと、高校で友だち、できた」
「へえ、よかったじゃん。それでそんないい感じなん?」
希色が今までは学校で誰とも関わらずにいたことを、翠はもちろんマネージャーの前田も知っている。だからだろう、翠も喜んでくれたようで、頭を撫でてくれた。
「うん、多分。仲良くなれて嬉しくて。いいことって言われたら、それしかないよ」
「そっか。え~、でも希色にはもう俺がいたじゃん! 俺と仲良くなったのは嬉しくなかったの?」
けれどすぐに、翠の整ったくちびるがツンと尖ってしまう。
「もちろん翠くんと仲良くなれたのだってすごく嬉しかったよ! でも翠くんは友だちじゃなくて、先輩でしょ」
「確かにそうだけどさあ……そっか、友だち、ね。希色〜」
翠は不満げな声を隠そうともせず、それでいてじゃれてくる。それにくすくすと笑いながら水分を摂っていると、翠がスマートフォンのカメラを向けてきた。
「希色、こっち向いて」
「ん、待って、水が」
「そのままでいいじゃん。オフショットって感じで」
希色の肩を組み、翠が頭を寄せてくる。高い位置に構えられた画面をふたりで見上げ、翠がシャッターボタンを押す。
「いい感じに撮れた。ほら」
「ほんとだ」
「あとでインスタ上げるね」
翠はこまめにSNSを更新するタイプで、フォロワーもたくさんいる。希色の写真を載せる時は、決まって事務所の後輩のKEYだと紹介してくれるのだから優しい。
「希色も投稿する?」
「んー、オレはいいや」
「はは、ほんとこういうの苦手なのな」
「いつも見るだけで満足しちゃって。もっと投稿してって前田さんにも言われてるんだけど」
仕事を始めるまでは、本当に閲覧するためだけのアカウントを持っていた。宣伝にもなるからとの事務所からの助言で新しく取得したのだが、まだ3回ほどしか投稿したことはない。希色との写真をアップする際、毎度KEYのアカウントへのリンクも貼ってくれる翠には、ちょっと申し訳なくもあったりする。
「ま、そういうところも希色らしくて俺は好きだけどね」
「あはは、ありがとう」
午後を過ぎた頃、希色の撮影は無事に全て終了した。翠と共に控え室に戻り、ひと息つく。
「希色ー、俺コーヒー飲むけど希色も飲む?」
「ううん、水飲むから平気」
「あれ? コーヒー飲むようになったって言ってなかったっけ」
「うん、そうなんだけど、好きなお店があって……」
「お待たせしました! お昼買ってきましたよ!」
翠と話していると、外に出ていた前田が元気よく戻ってきた。手には袋をいくつか提げていて、ひとつひとつ味を説明しながらサンドイッチをテーブルに広げてくれる。
「美味そう! 俺これもらっていい?」
「あ、翠くんは待って!」
翠はこれから隣県に移動しての、屋外での撮影予定が入っている。このままスタジオでの撮影なら見学させてもらうところだが、今日はそうもいかないようだ。
座ったまま食べ始めようとした翠を、前田が急かす。
「翠くんは車で食べてもらおうと思ってたんだよ、そろそろ出なきゃ!」
「ちょっと待って、今インスタ上げてるから」
だが翠はサンドイッチをすでに食べ始めていて、ゆっくりと立ち上がった。片手でスマートフォンを操作しインスタへの投稿を終えて、サンドイッチを持ったままの手でバッグを掴み、希色の頭を撫でてくる。器用なものだ。
「じゃあな希色、気をつけて帰るんだぞ」
「うん」
「送ってあげられなくてごめんね、KEYくん。変な人に着いていったら駄目ですからね」
「子どもじゃないんで大丈夫ですってば」
過保護な先輩とマネージャーを見送って、希色もサンドイッチを完食する。ペットボトルに少し残っていた水を飲みきり、帰る支度をはじめる。
髪のセットなどはそのままに私服に着替え、まだ残っている雑誌社のスタッフたちに挨拶をし、日曜日で人の多い外へと出る。少し悩んで、意を決しコーヒーショップのあるほうへと歩き出す。
五月ももう下旬だが、ショップへ行くのは二年生に進級して以来、今日が初めてだ。四月からこっち、仕事で褒められたことがなかったわけではないのだけれど。
推しの店員が同級生だと発覚し、しかも友人になった。とは言え桃真は、クラスメイトの望月希色の顔を見たことは一度もない。だから、日頃の自分と客の自分が同一人物だと桃真は知らない、そう分かっているのだが。ショップに顔を出すのはどこか憚られるものがあった。
だが今日は、そうも言っていられなかった。翠にコーヒーを飲むかと聞かれた時断ったのは、コーヒーをどうせ飲むのなら、あのショップのブレンドがいいと思ったからだ。それになにより、店員姿の桃真を見たくてたまらない。もう限界だった。
店の10メートルほど手前で、希色は一旦立ち止まる。どうか桃真が出勤していますように、と願いながら中の様子を窺うと、レジにその姿を発見できた。つい顔が緩むのを感じつつ、深呼吸をひとつしてゆっくりと店内へ入る。
「いらっしゃいませ」
すぐに、レジを担当している桃真と目が合った。今や桃真は友人とは言え、推しは推しだ。そもそも顔が見える状態の今の自分と桃真は、友人ではないのだし。このショップで会えることは、やはり特別だ。
もちろん「希色」と声をかけられることもない。分かっていたことではあるが、気づかれていないのだと安堵する。だがすぐに、桃真の様子に違和感を覚える。いつものように微笑んでくれることもなく、目を逸らされてしまった。緊張しているかのような、強張った様子が伝わってくる。
注文の待機列に並びながら、希色はぐるぐると考えこむ。知らずの内に何かしでかして、嫌われてしまっただろうか。だがここに来るのは久しぶりで、何かなんてしようもないはずだ。
そこまで考えて、ふとひとつの可能性に思い至り、希色は慌ててスマートフォンを起動する。開くのは翠のインスタアカウントだ。そこには、先ほど撮った希色とのツーショットがアップされている。投稿されたのは一時間弱前。すでにコメントも多くついていて、“KEYくんと本当に仲が良いね”だとか、翠と自分の距離の近さを喜ぶようなものが多い。それは以前からで、特に何を思うこともなかったのだが。
翠のファンである桃真が、面白くないと感じていても不思議ではない。自分がモデルのKEYだと認識されているのかすら定かではなかったが、先ほどの桃真の様子に照らし合わせれば頷けるものがある。
翠と仲良くしている自分とは、会いたくなかったのではないだろうか。
「お待たせしました。お次の方、こちらへどうぞ」
「あ……」
桃真に会いたくてここへ来たけれど、今日ばかりは他のスタッフのレジへ誘導されることをつい願ったのだが。運がいいのか悪いのか、桃真のほうのレジへと呼ばれてしまった。うつ向きがちにそちらへと足を向ける。
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
「店内でお召し上がりでよろしいですか?」
「あ……え、っと」
その言い回しは、いつも店内で休んでいくことを覚えてくれているからこそのものだ。今までだったら、特別な接客のようで喜ぶところだが。今日はテイクアウトしてしまおうかと迷う。桃真にとっては、一刻も早く目の前から消えてほしいのかもしれないから。
そうと決まればと希色は顔を上げる。するとそこには、なぜかしゅんと眉を下げた、どこか気づかわしげな桃真の顔があった。
「お客様、あの、すごくお節介しちゃうんですけど」
「…………? はい」
声を潜め背を屈める桃真につられ、希色もカウンター越しに耳を寄せた。
「もしよかったら、甘いものも一緒にいかがですか」
「……え?」
「急にすみません。もしかしてお疲れなのかな、と思って。甘いものって、疲れ取れませんか? コーヒーともよく合いますよ」
桃真はそう言って、隣にあるショーケースを指差した。その中にはケーキやクッキー、具だくさんのサンドなどが陳列されている。桃真に視線を戻せば、「もちろんご無理なく」と希色が断りやすいようにだろう、ひと言を添えてくれた。
桃真はKEYだと知っている、だから翠と仲がいい自分に会いたくなかった。そう考えたのは勘違いだったのだろうか。桃真の目に自分は疲れているように映ったらしく、なんとか元気づけようとしてくれているのが分かる。その優しさを受け取らない選択肢など、希色にはない。
「っ、あの、それじゃあチョコレートがかかってるドーナツをひとつ、お願いします」
「ほんとに? あ、勧めておいてすみません。無理してないかなと」
「全然です。あの、甘いの大好きなので」
「よかったです。コーヒーはいつものでよろしいですか? 今の時期だと、アイスもおすすめです」
「じゃあ、アイスで。お店でいただきます」
「かしこまりました」
コーヒーとドーナツをトレイで受け取って、いつもの隅の席へ腰を下ろす。初めて注文したアイスコーヒーは透明なプラスチックのカップに注がれていて、今日も桃真がペンギンくんの絵を描いてくれた。今回はなんと吹き出しつきで、ペンギンくんが「ごゆっくり」と希色を労わってくれている。
まずはコーヒーをひとくち。夏も近づいている青空の下、スタジオからここへ来るまでについ早足になってしまっていたし、桃真とのやり取りもイレギュラーなものばかりで体が火照っている。冷たいコーヒーは体に沁み渡るように美味しくて、今の希色にぴったりだった。桃真に嫌われたかもしれない、なんて勘違いが解けた安堵も相まってまた格別だ。
続いてドーナツをかじり、希色は思わず目を見張った。コーヒーしか注文したことがなかったが、フードもとびきり美味しい。緊張だとか疲れだとかが、ほどけていくのを確かに感じる。ちょうどいい甘さについ少し顎が上がって、もう一度コーヒーを口に含む。ああ、本当だ。桃真が言っていたように、甘いものとコーヒーはよく合う。希色がコーヒーを飲むのはこの店でのみだから、今まで知る機会がなかった。もったいないことをしてきたのかな、と思いつつ、桃真の勧めで知られたことが希色の胸を明るくする。
ペンギンくんの言葉通りいつまでもここでゆっくりしていたいが、そうも言ってはいられない。ちいさくなったドーナツの最後のひとくちを食べ、コーヒーを飲み終える。ごちそうさまでしたと手を合わせ、トレイを持って立ち上がる。返却口へ向かいかけ、だが希色はふと立ち止まった。
このカップを捨ててしまうのがどうしても惜しい。いつも通り写真も撮ったけれど。しばしカップのペンギンくんと見つめ合い、気づく。これを持って帰るのはどうだろうか。本当は今までだって、桃真がペンギンくんを描いてくれたカップを捨てるのは断腸の思いだったが、紙だからと諦めていた。だが今日はアイスを飲んだからプラスチック製だ。帰って綺麗に洗えば、飾っておける。名案だ。
「ドーナツどうでしたか?」
考えこんでいた希色は、桃真の声に弾かれるように顔を上げた。近くに来ていたことに気づいていなかった。どうやらテーブルを拭いて周っていたらしい。
「あの、すごく美味しかったです。おすすめしてもらえて良かったです、また食べます」
「本当ですか、よかった。あ、トレイお預かりします」
「あ……あ、待ってください!」
「…………? はい」
桃真の手にトレイが渡ってしまい、希色は慌てて引き止める。カップがまだトレイの上にあるからだ。だが、持って帰りたいなんて言ったら怪しまれるだろうか。全部飲み干さなきゃよかったと今になって思う。そうすれば自然と持ち出せたのに。
「お客様? どうかされましたか?」
「あの……」
気持ち悪いなんて思われたら立ち直れない。だが希色は、どうしても諦められなかった。
「はい」
「それ、持って帰ってもいいですか?」
「え……このカップですか?」
「……はい。その、ペンギンくん……」
居た堪れずに視線を逸らしながら言うと、桃真が不思議そうに首を傾げるのが視界の端に映った。気まずくなってもうここに来られない、なんてことには絶対になりたくない。どうにかしなければ。でも上手い言い訳が見つからない。カップだって諦められない。
言葉の続かない希色に、だが桃真はそっと微笑む。
「これ、洗ってくるんでちょっと待っててくださいね」
「……え?」
「すぐですから」
希色が呆気に取られている間に、桃真は颯爽とカウンターの向こうへと行ってしまった。そして言った通り、すぐに戻ってくる。
「お待たせしました。どうぞ」
本当に綺麗に洗ってあって、テイクアウト用の紙袋まで用意してくれたようだ。何から何まで至れり尽くせりで、受け取るのに躊躇してしまう。
「わざわざすみません、袋までもらって……いいんですか?」
「もちろんです。そのまま手に持って帰るのも邪魔になるでしょうし」
「っ、邪魔なんかじゃないです!」
「へ……」
「あ……」
つい大声が出てしまった。やってしまった、と手を口に当てると、桃真の目がやわらかな弧を描いた。
「はは! 本当に好きなんですね、ペンギンくん。俺が描いた下手な絵なのに」
桃真の笑顔がとても眩しい。推しの笑顔をこんな間近で浴びてしまったからか、心臓が早鐘を打ち始める。
「いえ、あの、店員さんが描いてくれるのが、嬉しいので」
「そうですか?」
「はい、いつもありがとうございます」
ペンギンくんはもちろん好きだ。だが桃真が描いてくれたからこその価値、というものがある。それはとびきりの、どれだけお金を積まれたって譲れないくらいのものだ。そう力説したくなるが、客に推されているなんて知ったら、それこそ本当に気味悪がられるに違いない。希色はぐっと堪える。
「それじゃあオレ、帰ります」
「またお待ちしてます」
桃真が声をかけてくれるので、出口へと歩きながら振り返って返事をする。
「また来ます」
「はい」
「それじゃ」
「はい」
途切れないのがくすぐったい会話を、自分から止めるしかないのが辛い。それでもどうにか最後に会釈をし、外へと出た。紙袋を胸に抱き、最後にもうひと目だけ桃真を見たいと振り返る。するとまだこちらを見ていたようで、ガラス越しに目が合ってしまった。クラスメイトとしての自分だったら手を振るけれど、今は桃真にとってただの客で。どうしたものかと固まっていると、桃真のほうから手を振ってくれた。
「うわあ……」
思わず声が出つつもそっと振り返すと、桃真の笑みがぐっと深くなるのが見えた。
早鐘を打ち続けていたからか、いよいよ胸がきゅうと鳴きはじめる。痛い気がするけれど、不快ではなくて。この感覚を手放したくなくて、不思議な想いが希色の体中を巡る。
ショップに入ってすぐの時は、桃真の表情に不安を覚えたけれど。来てよかった。躊躇なんてしていないで、またすぐに来ようと思う。
胸に居座る甘い疼きに浸りながら歩きだし、希色は大きくゆっくりと息を吐いた。