「だから、翠くんが来たらまずいって」
「えー、なんで」
「翠くんがいるって分かったら、店の中パニックになるじゃん」
「大丈夫だって、気をつけるからさあ。希色の友だちに会ってみたいし、俺も桃真の店のコーヒー飲みたいし! な?」
「もー……絶対バレないように大人しくしててよ?」
「約束する」
日に日に寒さが深まっている、一月の日曜日。撮影を終え、マネージャーの前田に送ってもらっているところだ。
年が明けてすぐ、M's modeの専属モデルになることが正式に発表された。専属としてのデビューは四月発売のものから。今日は、その記念すべきナンバーのための撮影だった。特集を3ページ組んでもらえることになっていて、写真と共に翠との対談も掲載される予定だ。
「KEYくん、この辺りでいいですか?」
「はい、大丈夫です! 前田さんいつもありがとうございます」
「どういたしまして。今日もお疲れ様。じゃあ翠くんのこと、よろしくね」
「はい」
「え、前田さんそれ逆じゃない?」
「うーん、翠くんはKEYくんのことになると、暴走しそうだからなあ。今日はこれが正解だね」
「ちょ、希色~前田さんが意地悪!」
「前田さん、任せてください! 行くよ、翠くん」
「ええ、希色までマジか……」
ちぇ、とくちびるを尖らせる翠の手を引いて、外に出る。向かうのは桃真が働くコーヒーショップだ。
今日は前々から、桃真、川合、佐々木と遊ぶ約束をしてあった。希色にとって、友人と呼べる誰かと休日に遊ぶなんて、公園を走り回った小学生の頃以来のことだ。もう自分にはないことだと思っていた。M's mode専属としての初仕事日と重なったのも相まって、実は昨夜はなかなか寝つけなかったくらい、浮かれていることを希色は自覚している。
待ち合わせはここ、コーヒーショップ。街へ出かける前に、せっかくだからコーヒーでも飲みながら桃真を待っていよう、というわけだ。
「うわ、ちょっと待った翠くん」
コーヒーショップの目の前でふと振り返り、希色は思わずぎょっとした。翠があまりにも無防備に、その端正な姿を曝け出していたからだ。いつもの黒マスクも今日はしていない。これではすぐに、人気モデルの日比谷翠だと行き交う人々に気づかれてしまう。
キャップの中に目立つ緑色の髪をちゃんとしまうように言うと、翠は素直に返事をしてくれた。だがそれだけでは心許ない。翠をよろしくと前田に任されたばかりだしと、希色は自分がしていたマフラーを翠の首に巻きつけた。左右、それから下からの角度も確認する。“いい男”の雰囲気はどうしたって駄々洩れだが、及第点かなとひとり納得して頷く。
「うん、まあこんな感じかな」
「オーラは消せないけどな」
「それはそう」
「はは、希色大好き」
入店すると、さっそく桃真と目が合った。手を振ると振り返してくれたが、じとりとした目が希色の後ろに立つ翠を捉えている。翠は意に介す様子もなく、希色の肩に顎を乗せてきた。
「あは、桃真激おこじゃーん」
「そうかな。ねえ翠くん、なに飲む?」
「希色と同じのがいい」
「分かった。ホットのブレンドをふたつお願いします、店内で飲みます」
「……かしこまりました。お支払いは後ろの方がどうぞ」
「え、俺指名? 桃真ってほんとかわいいよな」
この三人で顔を合わせるのは、ファミレスで夕飯を共にして以来だが。桃真はどこか強く翠を意識しているところがあって、翠はそれを楽しそうにあしらう。その関係性は今も健在のようだ。
ご馳走してくれた翠に礼を言い、受け渡しカウンターでコーヒーを待つ。今日も桃真が淹れてくれていて、今も憧れている横顔を眺めるのはどうしたってやめられない。
「お待たせしました。希色はこっちな」
「ありがとう」
「え、同じの頼んだのになんで?」
「みど兄はこっち。頼むから静かにしてろよ」
今日も描いてもらえたペンギンくんは、寒そうな顔をしている。吹き出しには“あったかくしてね”とのやさしいひと言つきだ。カップを覗きこみ「希色の好きなヤツじゃん。なるほど」と頷く翠を連れ立って、奥の席へと向かう。川合と佐々木がすでにいるのは、入店時から見えていた。
「望月ー」
「川合くん、佐々木くん、お待たせ」
「いーえ。それで、そちらの人は?」
「えーっと、驚かないで欲しいんだけど……」
そこまで言って、希色は口元に手を添えて背を屈めた。それに倣うようにして身を乗り出してくれたふたりに、小さな声で翠の正体を明かす。
「先輩の翠くんです。ふたりに会いたいって、一緒に来ちゃったんだ」
「えっ……え!?」
「うわ、マジか」
大声が出そうになったのか、佐々木は慌てて両手で口を塞いだ。ファッションが好きな佐々木だから、かなりの衝撃のようだ。川合は一見冷静で、だが目を見開いて確かに驚いている。
ふたりの反応を見た翠は満足そうに、どうも、とキャップを少しだけ浮かせて笑顔を見せた。
「日比谷翠です。どうしても希色の友だちに会いたくてさ、急にごめんね。コーヒー飲んだら帰るから、お邪魔してもいい?」
「も、もちろんっす」
店内に背を向ける位置に翠を座らせ、希色も隣に腰を下ろす。川合と佐々木は目を丸くしたままだが、翠はふたりに興味津々なようでひっきりなしに話しかけている。学校での希色のことを聞いたり、佐々木がよくファッション誌を読むのだと知って嬉しそうにしたり。
一緒に行きたいと言われた時はどうなることかと思ったが、翠を連れてきたのは間違った判断ではなかったようだ。翠はいつも自分を気にかけてくれていて、モデル業界で出逢った人の中でもとび抜けて優しい。後輩の友人まで大切にしてくれる人なんて、そういないだろう。自慢の先輩だ。
「どしたー希色、ニコニコして」
「んー? ううん、なんでもないよ」
ほんとかー? と口角を上げながら、翠が希色の頬を指先でつついてくる。そんな翠の顔には、川合と佐々木の視線が未だマジマジと向けられている。
「俺、初めて芸能人に会った」
「それな……って、望月もそうなんだよな。話には聞いてたし分かってたんだけど、ちゃんと顔出してんの初めて見たからさ、改めて実感してるとこ」
だがその視線はすぐに、希色へとやって来た。翠のことに気を取られていたが、佐々木の言う通りだと思い至り、希色は前髪に触れながらそっと俯く。
プロの手でメイクを施され、髪もセットしてもらって。撮影の後はいくらか自信も体に纏えているようで、こうして顔を出して過ごせるけれど。ただの望月希色としてプライベートで新たに真正面から見られるのは、随分と久しぶりだ。
「うう、ちょっと恥ずかしいかも……」
「まあ確かに、佐々木が言うように望月も芸能人なわけだけど。それより友だちってほうが俺らはデカいからさ。慣れてこうぜ、な?」
「そうそう!」
「川合くん、佐々木くん……うん、ありがとう」
自分はモデルのKEYなのだと、川合と佐々木に告げた日を思い出す。騙すようになったことを希色は詫びたが、謝ることなんてないとただただ温かく受け入れてくれた。それからはより仲も深まった気がしていて。今もこうして変わらず、ここぞという時には友情を感じさせてくれるふたりが希色は好きだ。
「みど兄、希色に近すぎ」
四人で声を潜めつつ談笑していると、仕事を終えたらしい桃真が背後から顔を出した。希色と翠の間に半ば無理やり椅子を押しこみ、割って入ってくる。
「桃真。お疲れ様」
「さんきゅ。希色もお疲れ」
「あれ、桃真はコーヒーないの?」
「みんな飲み終わる頃だろうと思って」
「そっか。オレのでよかったら飲む? 飲みかけだし冷めちゃってるけど、桃真が作ったの美味しいよ」
「じゃあひとくち貰う」
カップを差し出すと、桃真は希色の手ごと掴んだ。飲みやすいようにと手から力を抜けば、口をつけながら上目に希色を見て微笑む。
桃真はずっと、希色がKEYだと気づいていた。そう知ってからというもの、このショップへ来る度に希色は不思議な心地がする。以前までは、コーヒーを目当てに来るただの客と店員の関係だったけれど。今は友人の希色としても迎えられる。
憧れで推しで、特別な友だちで。ひとりとひとりなのに、様々な関係で桃真と繋がっていることをより強く感じられる場所になった。苦いはずのコーヒーが、最近は腹に落ちてくる頃にはなんだか甘い気さえする。
「ねえねえ、佐々木くん川合くん。希色と桃真ってもしかして、学校でもこの感じ?」
「っすね、もはやデフォっす。もうつっこむのも諦めたよな。なにより本人たちが楽しそうだし」
「これで付き合ってないとか、よく分かんないですけどね」
「そっかあ……」
「てか俺さっきめっちゃ気になったんすけど、土屋、日比谷さんのこと“みど兄”って呼びませんでした?」
「ああ、うん。俺と桃真はいとこだから」
「え……っ」
「はぁ!? いとこ!?」
桃真と話していた希色は、川合の大きな声に顔を上げた。慌てた顔をした佐々木が川合の背を叩き、川合はハッとしたように口を手で覆う。翠はと言えばケラケラと笑って「そんなに気にしなくたって大丈夫だって」とふたりを宥めていて。川合の発した言葉から察するに、桃真と翠の関係を知ったのだろうと窺えた。
3人の様子に希色が微笑んでいると、桃真がこちらを見ていることに気づく。目が合えば「楽しいな」とニッと笑って頭を撫でてくれた。
ああ、この時間を大事に思っているのは自分だけじゃないのだ。たったそれだけのことが、ひとりで三年を過ごす決意をした中三の冬がある希色には、深く沁み入る。改めて4人の顔を見渡すと、なんだか胸がいっぱいになってきた。
友人関係の男子たちが、休日のコーヒーショップで談笑している。どこにでもある光景だ。窓ガラス一枚隔てた外は凍えるほど寒くて、雪の予報も出ていたなと思い出す。だが希色の心には、あたたかいものばかりが降り積もる。鼻先がツンと痛んで、いよいよ視界がぼやけてきた。それを見逃さないのは、やはり桃真だ。
「希色? どうした……」
「桃真……オレ、高校なんていつ辞めてもいいって思ってたんだ」
「…………」
「トラウマがある、って前に言ったと思うけど……昔、友だちだと思ってた子から顔が女みたいだって冷やかされてさ、あっという間にコンプレックスになって。前髪伸ばして顔隠して、中学までの同級生が誰も行かない高校選んで。もう誰とも関わる気なかった。でも……今、めっちゃ楽しい」
「希色……そっか」
「桃真が……桃真が四月に声をかけてくれなかったら、こんな今絶対になかった。だから、ありがとう。はは、みんなの顔見てたらなんか、感動しちゃって」
堪えきれず、鼻をぐすんと啜る。すると桃真の大きな手に頬を包まれて、親指が滲んだ涙をさらってゆく。開ける視界に映るのは、いつの間にかこちらを見ている全員のやわらかな顔で。泣き顔を恥ずかしく思う暇もなく、手が次々に伸びてきて髪をかき混ぜられてしまった。
「う、うわ、ちょ、みんな! ボサボサになるって!」
「望月~これからも楽しむぞ!」
「土屋もいいけど、俺らとも遊ぶんだからな」
「へへ、うん。よろしくお願いします」
川合と佐々木が手を掲げてくれて、それぞれの手に重ねてハイタッチをする。するとそれを見ていた翠が、必死な様子で立ち上がった。
「ちょ、希色~! 俺は!? 俺のことも大事に思ってる!?」
「もちろん! 翠くんは自慢の先輩だよ。仕事頑張れてるのは、翠くんがいるからだよ」
目立っては大変だからと、座るように促しながら答える。桃真越しにテーブル上に手が伸びてきて、希色はそれをきゅっと握った。
「うう、希色~……桃真ちょっとどいて、希色ハグするから」
「絶対どかねぇし。てか希色に触りすぎ」
「桃真にだけは言われたくないねー。それに今握ってくれたのは希色からだから!」
「……うるせ」
翠をあしらった桃真はそちらに背を向け、乱れた希色の髪を整え始める。バイト中の桃真はいつだって落ち着いているから、普段見せてくれる子どもみたいな表情にこの場所で会えるのはなんだか新鮮だ。
「なあ、希色」
少しむくれたくちびると、丁寧に髪に触れてくれる手。見逃さないようにとじいっと眺めていると、桃真がそっと希色の名を呼んだ。
「ん?」
「俺もさ、希色と出逢って世界が変わった。ありがとうって思ってるよ」
「……え。ほんとに?」
「こいつらといるのとか学校とか、前までは正直、その場だけだしなって適当にやり過ごしてて。ドライって言われんの、そういうとこなんだろうな。でも二年になって希色と喋るようになって、すげー楽しくなってきて。考え方、変わってきてると思う。それに……誰かをこんな大切に想ったことない。あ、もちろん希色のことな」
「…………」
「はは、希色の顔さっきより熱くなった」
髪を撫でていた手が、再び頬を包んでくる。火照った熱が伝わるのを恥ずかしいと思うのに、輝くような桃真の笑顔に釘付けになってしまってそれどころではない。
桃真の光が、希色の中にまっすぐ落ちてくる。眩しくて、キラキラと光っていて、自分なんかに向けてもらっていいものなのかと卑下してしまいそうなくらいだ。だが違う。まばゆいほどの光は、自分に伝えるための言葉と共に溢れ出してきたものだから。卑屈になるよりも、同じだけ真摯な想いを返すのがきっといい。
「ねえ、桃真」
「ん?」
桃真は推しで、友だちで、ドキドキすることもたくさんあって。それらが詰まった胸は幸せで、それでいて時々涙になることもあって。この感情が一体なんなのか、未だにひとつの名前で呼ぶことはできていないけれど。
それでも確かなことが、ひとつだけある。
「オレ、桃真のこと、大好きだよ」
特別で、大好きで、これからも桃真とずっと一緒にいられたらいいのに。様々な表情をいちばん近くで見るのは、できることなら自分がいい。そんな願いを抱いてしまう。ずいぶん身勝手になってしまった、いや、自分を大事にできるようになったのかもしれない。桃真が色づけた、カラフルなこの世界のおかげで。
「っ! ちょ、っと待って」
今の感情を拙くも言葉にできた。それに希色が満足していると、桃真が慌てだした。大きな手は口元を覆っていて、膝に肘をついて俯いてしまった。こんな桃真は見たことがない気がする。
「桃真? どうしたの?」
「いや、どうしたって……希色、ちなみに大好きってどういう……」
「え? 桃真は推しで、特別な友だちで、大好きだよって意味だけど……」
「あー……うん、そうだよな、うん……」
「…………? えっと……」
顔は見せてくれないし、質問の意図も分からず心配が募る。芯から冷える冬だし、お腹でも痛くなったのだろうか。だが翠や川合、佐々木はなぜかニヤニヤと笑って桃真を見ている。
「完全にやられたな。ど真ん中ストレート、強烈なストライク」
「だねぇ。投げた本人はそういうつもりじゃないみたいだけど」
「まだ先は長そうだな~桃真」
「え? え、なに? みんな何の話してるの?」
3人の会話がなにを指しているのか分からず、ますます状況が掴めない。狼狽えていると、桃真が希色の肩に額を乗せてきた。頭の上にクエスチョンマークを飛ばしたまま、希色は桃真の背をぽんぽんと撫でる。
「アイツらの言うことは気にしなくていいからな」
「でも……あれ、桃真の顔……」
肩口でちらりとこちらを見る桃真と目が合って、希色は気づいてしまった。その頬がほんのりと染まっていることに。それを言葉にしそうになったところで、桃真が慌てたように希色の口元に人差し指を当ててくる。
「希色、言うな。恥ずいから……頼む」
「う、うん、わかった」
くちびるに桃真の指が沈む感覚がくすぐったい。それでもどうにか頷くと、桃真が安堵の息をついた。こんな桃真も初めて見る。その喜びについクスッと笑えば、今度は不満げな顔が向けられる。
「希色~笑ったな? ……言っとくけど、俺がこんなんなってんの、希色のせいだからな」
「え、オレ? ……もしかして、大好きって言ったから?」
「そう、当たり」
まさか自分の言葉ひとつで、桃真がこんな風になるとは思ってもみなかった。翻弄されるのはいつも自分ばかりだと思っていたが、そうでもなかったらしい。
桃真は困っているのだからと申し訳ない気持ちの中に、どうしても通じ合ったような嬉しさが混じる。またむくれちゃうかな、と思いつつ小さく笑っていると、桃真の体越しに翠たちと目が合った。3人とも、今はやわらかく微笑んで自分たちを見ていて。
先ほどはみんなをあしらうようだった桃真に教えたら、安堵してくれるだろうか。そう思ったのだが、希色は開きかけた口を閉じ、また桃真の背をトンと撫でる。
このメンバーで一緒にいられることは間違いなく喜びだけど、なんだか今は桃真をひとりじめしていたい。そんな風に思ってしまったから。
「若い子たちとたくさん喋って、なんか高校生に戻った気分だわ」
「翠くんも大して変わらないでしょ」
「はは、希色はほんとかわいい」
「おいみど兄、希色に抱きつくのやめろ」
「なんだよ~桃真にだけは言われたくないし、良いじゃん。俺もう帰るんだし。希色との別れを惜しんでんの」
桃真が落ち着くのを待ってから、コーヒーショップの外へ出た。この後は各自が好きな店に寄ったりしながらブラブラして、夕飯を一緒に食べて解散、という予定になっている。
だが、そうだった。当初から翠はコーヒーを飲んだら帰ると言っていたのを思い出す。自分も行きたいと翠が言いだした時は、確かに困ったはずなのに。5人での時間があまりに楽しくて、このまま翠も一緒なのだといつの間にか思いこんでいた。
翠に抱きしめられるがまま、引き止めるわけにもいかないよなと思いつつ、翠の服の裾をそっと握りこむ。すると「あのー」とどこか遠慮がちな声が後方から聞こえてきた。川合だ。
「日比谷さん、これから用事あるんすか」
「ううん、家に帰るつもりだよ」
「じゃあ、この後も一緒にどうすか。もちろん迷惑だったり嫌じゃなかったら、っすけど」
「…………」
翠が閉口するのはちょっと珍しい。表情が見たくなった希色は腕をほどいた。するとそこにはきょとんとした顔の翠がいて、川合に希色、それから桃真、佐々木へと視線を巡らせた。
「え、いいの?」
「もちろんっすよ。な?」
川合の問いかけに、希色はブンブンと首を縦に振った。たまにはいいこと言うじゃん、と川合をからかうのは佐々木で、桃真も「別にいいんじゃね」と頷いている。翠に突っかかるようなところが桃真にはあるが、信頼からの気安さだと感じているから納得の反応だった。
「やった、決まりだね! 翠くんとこんなに遊べるの初めてじゃない? 嬉しい」
「っ、希色~俺も! って桃真! 邪魔すんなよお」
「やだ」
再び翠が抱きついてくると思ったら、翠の額に手を当てて、桃真がそれを制した。人気モデル・日比谷翠のちょっと間抜けな顔も、桃真のいたずらっ子のような表情も普段はなかなか見られないものだ。つい目に焼きつけるように眺め、ふと振り返れば川合と佐々木もおかしそうに笑っていて。
ああ、これは宝物だ。希色はまた噛みしめずにいられない。
ちょっと前までは、こんな今があるなんて考えもしなかった。モデル業界でコンプレックスが少しずつ取り得になるのを実感できて、推しと友人になれて、その先に繋がる絆があって。自分の存在も確かに、このあたたかな輪のひとつのピースなのだ。
そんなことを考えていたら、またじわりと涙が滲んできてしまった。どうにも今日は涙もろい。気づかれないようにとそっと鼻を啜れば、けれど桃真と翠が見逃してはくれなかった。
「っ、どうした?」
「希色!?」
「……ふふ」
焦るふたりの大きな手に、髪をかき混ぜられる。それがくすぐったくて、嬉しくて。心配をかけていると分かっているのに、顔がにやけるのをどうにも抑えられない。
「ん? 希色もしかして笑ってる?」
「ほんとだ」
潤んだ視界に大きく映る桃真と翠それぞれの腕を、希色はぎゅっと掴んだ。きょとんとした表情のふたりも、同じ気持ちになってくれますように。そう願いながら希色は、強く頷いた。
「すごく幸せだなって思ってただけだよ」
希色の目の前に広がるのは、大切な人たちの今日一番の笑顔。今にも雪が降りそうなグレーの空の下、希色の胸にはカラフルな喜びが溢れている。
「えー、なんで」
「翠くんがいるって分かったら、店の中パニックになるじゃん」
「大丈夫だって、気をつけるからさあ。希色の友だちに会ってみたいし、俺も桃真の店のコーヒー飲みたいし! な?」
「もー……絶対バレないように大人しくしててよ?」
「約束する」
日に日に寒さが深まっている、一月の日曜日。撮影を終え、マネージャーの前田に送ってもらっているところだ。
年が明けてすぐ、M's modeの専属モデルになることが正式に発表された。専属としてのデビューは四月発売のものから。今日は、その記念すべきナンバーのための撮影だった。特集を3ページ組んでもらえることになっていて、写真と共に翠との対談も掲載される予定だ。
「KEYくん、この辺りでいいですか?」
「はい、大丈夫です! 前田さんいつもありがとうございます」
「どういたしまして。今日もお疲れ様。じゃあ翠くんのこと、よろしくね」
「はい」
「え、前田さんそれ逆じゃない?」
「うーん、翠くんはKEYくんのことになると、暴走しそうだからなあ。今日はこれが正解だね」
「ちょ、希色~前田さんが意地悪!」
「前田さん、任せてください! 行くよ、翠くん」
「ええ、希色までマジか……」
ちぇ、とくちびるを尖らせる翠の手を引いて、外に出る。向かうのは桃真が働くコーヒーショップだ。
今日は前々から、桃真、川合、佐々木と遊ぶ約束をしてあった。希色にとって、友人と呼べる誰かと休日に遊ぶなんて、公園を走り回った小学生の頃以来のことだ。もう自分にはないことだと思っていた。M's mode専属としての初仕事日と重なったのも相まって、実は昨夜はなかなか寝つけなかったくらい、浮かれていることを希色は自覚している。
待ち合わせはここ、コーヒーショップ。街へ出かける前に、せっかくだからコーヒーでも飲みながら桃真を待っていよう、というわけだ。
「うわ、ちょっと待った翠くん」
コーヒーショップの目の前でふと振り返り、希色は思わずぎょっとした。翠があまりにも無防備に、その端正な姿を曝け出していたからだ。いつもの黒マスクも今日はしていない。これではすぐに、人気モデルの日比谷翠だと行き交う人々に気づかれてしまう。
キャップの中に目立つ緑色の髪をちゃんとしまうように言うと、翠は素直に返事をしてくれた。だがそれだけでは心許ない。翠をよろしくと前田に任されたばかりだしと、希色は自分がしていたマフラーを翠の首に巻きつけた。左右、それから下からの角度も確認する。“いい男”の雰囲気はどうしたって駄々洩れだが、及第点かなとひとり納得して頷く。
「うん、まあこんな感じかな」
「オーラは消せないけどな」
「それはそう」
「はは、希色大好き」
入店すると、さっそく桃真と目が合った。手を振ると振り返してくれたが、じとりとした目が希色の後ろに立つ翠を捉えている。翠は意に介す様子もなく、希色の肩に顎を乗せてきた。
「あは、桃真激おこじゃーん」
「そうかな。ねえ翠くん、なに飲む?」
「希色と同じのがいい」
「分かった。ホットのブレンドをふたつお願いします、店内で飲みます」
「……かしこまりました。お支払いは後ろの方がどうぞ」
「え、俺指名? 桃真ってほんとかわいいよな」
この三人で顔を合わせるのは、ファミレスで夕飯を共にして以来だが。桃真はどこか強く翠を意識しているところがあって、翠はそれを楽しそうにあしらう。その関係性は今も健在のようだ。
ご馳走してくれた翠に礼を言い、受け渡しカウンターでコーヒーを待つ。今日も桃真が淹れてくれていて、今も憧れている横顔を眺めるのはどうしたってやめられない。
「お待たせしました。希色はこっちな」
「ありがとう」
「え、同じの頼んだのになんで?」
「みど兄はこっち。頼むから静かにしてろよ」
今日も描いてもらえたペンギンくんは、寒そうな顔をしている。吹き出しには“あったかくしてね”とのやさしいひと言つきだ。カップを覗きこみ「希色の好きなヤツじゃん。なるほど」と頷く翠を連れ立って、奥の席へと向かう。川合と佐々木がすでにいるのは、入店時から見えていた。
「望月ー」
「川合くん、佐々木くん、お待たせ」
「いーえ。それで、そちらの人は?」
「えーっと、驚かないで欲しいんだけど……」
そこまで言って、希色は口元に手を添えて背を屈めた。それに倣うようにして身を乗り出してくれたふたりに、小さな声で翠の正体を明かす。
「先輩の翠くんです。ふたりに会いたいって、一緒に来ちゃったんだ」
「えっ……え!?」
「うわ、マジか」
大声が出そうになったのか、佐々木は慌てて両手で口を塞いだ。ファッションが好きな佐々木だから、かなりの衝撃のようだ。川合は一見冷静で、だが目を見開いて確かに驚いている。
ふたりの反応を見た翠は満足そうに、どうも、とキャップを少しだけ浮かせて笑顔を見せた。
「日比谷翠です。どうしても希色の友だちに会いたくてさ、急にごめんね。コーヒー飲んだら帰るから、お邪魔してもいい?」
「も、もちろんっす」
店内に背を向ける位置に翠を座らせ、希色も隣に腰を下ろす。川合と佐々木は目を丸くしたままだが、翠はふたりに興味津々なようでひっきりなしに話しかけている。学校での希色のことを聞いたり、佐々木がよくファッション誌を読むのだと知って嬉しそうにしたり。
一緒に行きたいと言われた時はどうなることかと思ったが、翠を連れてきたのは間違った判断ではなかったようだ。翠はいつも自分を気にかけてくれていて、モデル業界で出逢った人の中でもとび抜けて優しい。後輩の友人まで大切にしてくれる人なんて、そういないだろう。自慢の先輩だ。
「どしたー希色、ニコニコして」
「んー? ううん、なんでもないよ」
ほんとかー? と口角を上げながら、翠が希色の頬を指先でつついてくる。そんな翠の顔には、川合と佐々木の視線が未だマジマジと向けられている。
「俺、初めて芸能人に会った」
「それな……って、望月もそうなんだよな。話には聞いてたし分かってたんだけど、ちゃんと顔出してんの初めて見たからさ、改めて実感してるとこ」
だがその視線はすぐに、希色へとやって来た。翠のことに気を取られていたが、佐々木の言う通りだと思い至り、希色は前髪に触れながらそっと俯く。
プロの手でメイクを施され、髪もセットしてもらって。撮影の後はいくらか自信も体に纏えているようで、こうして顔を出して過ごせるけれど。ただの望月希色としてプライベートで新たに真正面から見られるのは、随分と久しぶりだ。
「うう、ちょっと恥ずかしいかも……」
「まあ確かに、佐々木が言うように望月も芸能人なわけだけど。それより友だちってほうが俺らはデカいからさ。慣れてこうぜ、な?」
「そうそう!」
「川合くん、佐々木くん……うん、ありがとう」
自分はモデルのKEYなのだと、川合と佐々木に告げた日を思い出す。騙すようになったことを希色は詫びたが、謝ることなんてないとただただ温かく受け入れてくれた。それからはより仲も深まった気がしていて。今もこうして変わらず、ここぞという時には友情を感じさせてくれるふたりが希色は好きだ。
「みど兄、希色に近すぎ」
四人で声を潜めつつ談笑していると、仕事を終えたらしい桃真が背後から顔を出した。希色と翠の間に半ば無理やり椅子を押しこみ、割って入ってくる。
「桃真。お疲れ様」
「さんきゅ。希色もお疲れ」
「あれ、桃真はコーヒーないの?」
「みんな飲み終わる頃だろうと思って」
「そっか。オレのでよかったら飲む? 飲みかけだし冷めちゃってるけど、桃真が作ったの美味しいよ」
「じゃあひとくち貰う」
カップを差し出すと、桃真は希色の手ごと掴んだ。飲みやすいようにと手から力を抜けば、口をつけながら上目に希色を見て微笑む。
桃真はずっと、希色がKEYだと気づいていた。そう知ってからというもの、このショップへ来る度に希色は不思議な心地がする。以前までは、コーヒーを目当てに来るただの客と店員の関係だったけれど。今は友人の希色としても迎えられる。
憧れで推しで、特別な友だちで。ひとりとひとりなのに、様々な関係で桃真と繋がっていることをより強く感じられる場所になった。苦いはずのコーヒーが、最近は腹に落ちてくる頃にはなんだか甘い気さえする。
「ねえねえ、佐々木くん川合くん。希色と桃真ってもしかして、学校でもこの感じ?」
「っすね、もはやデフォっす。もうつっこむのも諦めたよな。なにより本人たちが楽しそうだし」
「これで付き合ってないとか、よく分かんないですけどね」
「そっかあ……」
「てか俺さっきめっちゃ気になったんすけど、土屋、日比谷さんのこと“みど兄”って呼びませんでした?」
「ああ、うん。俺と桃真はいとこだから」
「え……っ」
「はぁ!? いとこ!?」
桃真と話していた希色は、川合の大きな声に顔を上げた。慌てた顔をした佐々木が川合の背を叩き、川合はハッとしたように口を手で覆う。翠はと言えばケラケラと笑って「そんなに気にしなくたって大丈夫だって」とふたりを宥めていて。川合の発した言葉から察するに、桃真と翠の関係を知ったのだろうと窺えた。
3人の様子に希色が微笑んでいると、桃真がこちらを見ていることに気づく。目が合えば「楽しいな」とニッと笑って頭を撫でてくれた。
ああ、この時間を大事に思っているのは自分だけじゃないのだ。たったそれだけのことが、ひとりで三年を過ごす決意をした中三の冬がある希色には、深く沁み入る。改めて4人の顔を見渡すと、なんだか胸がいっぱいになってきた。
友人関係の男子たちが、休日のコーヒーショップで談笑している。どこにでもある光景だ。窓ガラス一枚隔てた外は凍えるほど寒くて、雪の予報も出ていたなと思い出す。だが希色の心には、あたたかいものばかりが降り積もる。鼻先がツンと痛んで、いよいよ視界がぼやけてきた。それを見逃さないのは、やはり桃真だ。
「希色? どうした……」
「桃真……オレ、高校なんていつ辞めてもいいって思ってたんだ」
「…………」
「トラウマがある、って前に言ったと思うけど……昔、友だちだと思ってた子から顔が女みたいだって冷やかされてさ、あっという間にコンプレックスになって。前髪伸ばして顔隠して、中学までの同級生が誰も行かない高校選んで。もう誰とも関わる気なかった。でも……今、めっちゃ楽しい」
「希色……そっか」
「桃真が……桃真が四月に声をかけてくれなかったら、こんな今絶対になかった。だから、ありがとう。はは、みんなの顔見てたらなんか、感動しちゃって」
堪えきれず、鼻をぐすんと啜る。すると桃真の大きな手に頬を包まれて、親指が滲んだ涙をさらってゆく。開ける視界に映るのは、いつの間にかこちらを見ている全員のやわらかな顔で。泣き顔を恥ずかしく思う暇もなく、手が次々に伸びてきて髪をかき混ぜられてしまった。
「う、うわ、ちょ、みんな! ボサボサになるって!」
「望月~これからも楽しむぞ!」
「土屋もいいけど、俺らとも遊ぶんだからな」
「へへ、うん。よろしくお願いします」
川合と佐々木が手を掲げてくれて、それぞれの手に重ねてハイタッチをする。するとそれを見ていた翠が、必死な様子で立ち上がった。
「ちょ、希色~! 俺は!? 俺のことも大事に思ってる!?」
「もちろん! 翠くんは自慢の先輩だよ。仕事頑張れてるのは、翠くんがいるからだよ」
目立っては大変だからと、座るように促しながら答える。桃真越しにテーブル上に手が伸びてきて、希色はそれをきゅっと握った。
「うう、希色~……桃真ちょっとどいて、希色ハグするから」
「絶対どかねぇし。てか希色に触りすぎ」
「桃真にだけは言われたくないねー。それに今握ってくれたのは希色からだから!」
「……うるせ」
翠をあしらった桃真はそちらに背を向け、乱れた希色の髪を整え始める。バイト中の桃真はいつだって落ち着いているから、普段見せてくれる子どもみたいな表情にこの場所で会えるのはなんだか新鮮だ。
「なあ、希色」
少しむくれたくちびると、丁寧に髪に触れてくれる手。見逃さないようにとじいっと眺めていると、桃真がそっと希色の名を呼んだ。
「ん?」
「俺もさ、希色と出逢って世界が変わった。ありがとうって思ってるよ」
「……え。ほんとに?」
「こいつらといるのとか学校とか、前までは正直、その場だけだしなって適当にやり過ごしてて。ドライって言われんの、そういうとこなんだろうな。でも二年になって希色と喋るようになって、すげー楽しくなってきて。考え方、変わってきてると思う。それに……誰かをこんな大切に想ったことない。あ、もちろん希色のことな」
「…………」
「はは、希色の顔さっきより熱くなった」
髪を撫でていた手が、再び頬を包んでくる。火照った熱が伝わるのを恥ずかしいと思うのに、輝くような桃真の笑顔に釘付けになってしまってそれどころではない。
桃真の光が、希色の中にまっすぐ落ちてくる。眩しくて、キラキラと光っていて、自分なんかに向けてもらっていいものなのかと卑下してしまいそうなくらいだ。だが違う。まばゆいほどの光は、自分に伝えるための言葉と共に溢れ出してきたものだから。卑屈になるよりも、同じだけ真摯な想いを返すのがきっといい。
「ねえ、桃真」
「ん?」
桃真は推しで、友だちで、ドキドキすることもたくさんあって。それらが詰まった胸は幸せで、それでいて時々涙になることもあって。この感情が一体なんなのか、未だにひとつの名前で呼ぶことはできていないけれど。
それでも確かなことが、ひとつだけある。
「オレ、桃真のこと、大好きだよ」
特別で、大好きで、これからも桃真とずっと一緒にいられたらいいのに。様々な表情をいちばん近くで見るのは、できることなら自分がいい。そんな願いを抱いてしまう。ずいぶん身勝手になってしまった、いや、自分を大事にできるようになったのかもしれない。桃真が色づけた、カラフルなこの世界のおかげで。
「っ! ちょ、っと待って」
今の感情を拙くも言葉にできた。それに希色が満足していると、桃真が慌てだした。大きな手は口元を覆っていて、膝に肘をついて俯いてしまった。こんな桃真は見たことがない気がする。
「桃真? どうしたの?」
「いや、どうしたって……希色、ちなみに大好きってどういう……」
「え? 桃真は推しで、特別な友だちで、大好きだよって意味だけど……」
「あー……うん、そうだよな、うん……」
「…………? えっと……」
顔は見せてくれないし、質問の意図も分からず心配が募る。芯から冷える冬だし、お腹でも痛くなったのだろうか。だが翠や川合、佐々木はなぜかニヤニヤと笑って桃真を見ている。
「完全にやられたな。ど真ん中ストレート、強烈なストライク」
「だねぇ。投げた本人はそういうつもりじゃないみたいだけど」
「まだ先は長そうだな~桃真」
「え? え、なに? みんな何の話してるの?」
3人の会話がなにを指しているのか分からず、ますます状況が掴めない。狼狽えていると、桃真が希色の肩に額を乗せてきた。頭の上にクエスチョンマークを飛ばしたまま、希色は桃真の背をぽんぽんと撫でる。
「アイツらの言うことは気にしなくていいからな」
「でも……あれ、桃真の顔……」
肩口でちらりとこちらを見る桃真と目が合って、希色は気づいてしまった。その頬がほんのりと染まっていることに。それを言葉にしそうになったところで、桃真が慌てたように希色の口元に人差し指を当ててくる。
「希色、言うな。恥ずいから……頼む」
「う、うん、わかった」
くちびるに桃真の指が沈む感覚がくすぐったい。それでもどうにか頷くと、桃真が安堵の息をついた。こんな桃真も初めて見る。その喜びについクスッと笑えば、今度は不満げな顔が向けられる。
「希色~笑ったな? ……言っとくけど、俺がこんなんなってんの、希色のせいだからな」
「え、オレ? ……もしかして、大好きって言ったから?」
「そう、当たり」
まさか自分の言葉ひとつで、桃真がこんな風になるとは思ってもみなかった。翻弄されるのはいつも自分ばかりだと思っていたが、そうでもなかったらしい。
桃真は困っているのだからと申し訳ない気持ちの中に、どうしても通じ合ったような嬉しさが混じる。またむくれちゃうかな、と思いつつ小さく笑っていると、桃真の体越しに翠たちと目が合った。3人とも、今はやわらかく微笑んで自分たちを見ていて。
先ほどはみんなをあしらうようだった桃真に教えたら、安堵してくれるだろうか。そう思ったのだが、希色は開きかけた口を閉じ、また桃真の背をトンと撫でる。
このメンバーで一緒にいられることは間違いなく喜びだけど、なんだか今は桃真をひとりじめしていたい。そんな風に思ってしまったから。
「若い子たちとたくさん喋って、なんか高校生に戻った気分だわ」
「翠くんも大して変わらないでしょ」
「はは、希色はほんとかわいい」
「おいみど兄、希色に抱きつくのやめろ」
「なんだよ~桃真にだけは言われたくないし、良いじゃん。俺もう帰るんだし。希色との別れを惜しんでんの」
桃真が落ち着くのを待ってから、コーヒーショップの外へ出た。この後は各自が好きな店に寄ったりしながらブラブラして、夕飯を一緒に食べて解散、という予定になっている。
だが、そうだった。当初から翠はコーヒーを飲んだら帰ると言っていたのを思い出す。自分も行きたいと翠が言いだした時は、確かに困ったはずなのに。5人での時間があまりに楽しくて、このまま翠も一緒なのだといつの間にか思いこんでいた。
翠に抱きしめられるがまま、引き止めるわけにもいかないよなと思いつつ、翠の服の裾をそっと握りこむ。すると「あのー」とどこか遠慮がちな声が後方から聞こえてきた。川合だ。
「日比谷さん、これから用事あるんすか」
「ううん、家に帰るつもりだよ」
「じゃあ、この後も一緒にどうすか。もちろん迷惑だったり嫌じゃなかったら、っすけど」
「…………」
翠が閉口するのはちょっと珍しい。表情が見たくなった希色は腕をほどいた。するとそこにはきょとんとした顔の翠がいて、川合に希色、それから桃真、佐々木へと視線を巡らせた。
「え、いいの?」
「もちろんっすよ。な?」
川合の問いかけに、希色はブンブンと首を縦に振った。たまにはいいこと言うじゃん、と川合をからかうのは佐々木で、桃真も「別にいいんじゃね」と頷いている。翠に突っかかるようなところが桃真にはあるが、信頼からの気安さだと感じているから納得の反応だった。
「やった、決まりだね! 翠くんとこんなに遊べるの初めてじゃない? 嬉しい」
「っ、希色~俺も! って桃真! 邪魔すんなよお」
「やだ」
再び翠が抱きついてくると思ったら、翠の額に手を当てて、桃真がそれを制した。人気モデル・日比谷翠のちょっと間抜けな顔も、桃真のいたずらっ子のような表情も普段はなかなか見られないものだ。つい目に焼きつけるように眺め、ふと振り返れば川合と佐々木もおかしそうに笑っていて。
ああ、これは宝物だ。希色はまた噛みしめずにいられない。
ちょっと前までは、こんな今があるなんて考えもしなかった。モデル業界でコンプレックスが少しずつ取り得になるのを実感できて、推しと友人になれて、その先に繋がる絆があって。自分の存在も確かに、このあたたかな輪のひとつのピースなのだ。
そんなことを考えていたら、またじわりと涙が滲んできてしまった。どうにも今日は涙もろい。気づかれないようにとそっと鼻を啜れば、けれど桃真と翠が見逃してはくれなかった。
「っ、どうした?」
「希色!?」
「……ふふ」
焦るふたりの大きな手に、髪をかき混ぜられる。それがくすぐったくて、嬉しくて。心配をかけていると分かっているのに、顔がにやけるのをどうにも抑えられない。
「ん? 希色もしかして笑ってる?」
「ほんとだ」
潤んだ視界に大きく映る桃真と翠それぞれの腕を、希色はぎゅっと掴んだ。きょとんとした表情のふたりも、同じ気持ちになってくれますように。そう願いながら希色は、強く頷いた。
「すごく幸せだなって思ってただけだよ」
希色の目の前に広がるのは、大切な人たちの今日一番の笑顔。今にも雪が降りそうなグレーの空の下、希色の胸にはカラフルな喜びが溢れている。