「翠くん、ごちそうさまでした」
「ありがとな、みど兄」
「どういたしまして。俺もめっちゃ楽しかったわ」
デザートを食べ終え、またひとしきり話してからファミレスを出た。終わらないでと願った夜だから、希色はどうにも離れがたい。それを察したのか、希色を見てニッと笑った翠が抱きついてきた。
「わっ、翠くん?」
「おい、みど兄離れろ」
「えー、いいじゃん。希色、嫌だった?」
「ううん、嫌じゃないよ」
翠が抱きついてくるのは、もはや日常茶飯事だ。とは言え外だから、少し驚いてしまった。
「希色と桃真、めっちゃ仲良しだって分かったけどさ。俺たちだっていつもこんなだよなー、希色」
「う、うん。翠くんがいつも抱きついてくるからね」
「あは、そうそう。……って、ふは、桃真すげー嫌そうな顔」
「え?」
翠の言葉に弾かれるように振り返ると、たしかに桃真が不貞腐れた顔をしていた。どうしたのだろうか。M's modeの表紙への嫉妬はKEYのファンだから、とさっき聞いたところだ。抱きつかれているのが面白くなかったかな、と希色は考えかけたが、自惚れがすぎるだろうと改める。
「桃真? どうしたの?」
「別に……」
「はは、桃真かーわいい」
「ちょ、みど兄やめろ」
希色を抱きしめたまま手を伸ばし、翠が桃真の頭を撫でる。くしゃくしゃと髪をかき混ぜられた桃真は、翠の腕を掴んで避けた。それから不服そうな視線を翠に向ける。
「みど兄ってさ、もしかして俺と、その……同じ気持ちなわけ? 意味分かるよな?」
そう言った桃真は、一瞬だけ希色をその瞳に映した。
「んー? うん、分かる。でも……それは内緒~」
「…………? なんの話?」
自分の頭上で繰り広げられている会話を、希色はちっとも理解できない。だがふたりは通じているらしく、なんだか仲間外れのようで寂しい。
「んー? 希色も桃真もかわいいって話」
「みど兄が食えないヤツって話だろ」
「はは、そう見えるかあ。でも俺はさ、嬉しいよ。桃真、今は楽しく毎日やってんだなって」
「……うっせ」
「…………?」
ケラケラと夜空を仰いで笑い、翠は希色と桃真の髪を同時に撫でた。結局ふたりの会話は最後まで見えず、希色は釈然としないままになってしまった。
寄るところあるから俺はここで、と言う翠を、桃真と共に見送る。
「じゃあな希色、また現場で」
「うん」
「桃真は……うーん、今度希色と俺の秘蔵ツーショット送ったげる」
「希色のとこだけトリミングして送って」
「はは、ひっど!」
両手で大きく手を振りながら、翠は夜の街へと吸いこまれていく。よく考えてみれば仕事の日以外で会ったのは初めてで、またこんな風に過ごせたらいいなと希色は思う。
「じゃあ俺たちも帰るか。家まで送る」
翠が見えなくなり、駅へ向かおうとした時だった。桃真の提案に希色は慌てて両手を振って見せる。お互い乗る電車は逆方向だからだ。
「え、いいよ! 電車反対だし、オレんちここから結構かかるし」
「だからだろ。ほら、行こ」
「でもわるいって」
「いいから。俺がそうしたいの」
申し訳なさで胸はいっぱいになる。時計を見ればもうすぐ二十一時になるところで、桃真だって早く帰るべきなのに。だが、喜んでいる自分がいるのも確かで。桃真ともっと一緒にいたいと思っていた。先に歩き出した桃真を追いかけ、隣に並ぶ。
「じゃあ、今度の時はオレが送る!」
「マジ? 楽しみにしてる」
つい口をついて出た“今度”を、桃真は当然のように受け取ってくれた。それだけで鼓動がひとつテンポを上げるから、浮ついてしまいそうな足取りをどうにか落ち着かせる。
駅までの道も電車に乗ってからも、桃真と色んな話をした。
コーヒーショップに通っていたのはモデルのKEYで、それは望月希色だった。最初から気づかれていたと分かった今、これからはどんな気持ちでコーヒーショップに行ったらいいのかちょっと悩んでいる――そう言ったら桃真は、どっちの希色で来てもペンギンくんは描いてあげる、なんて言ってくれた。そういう問題ではなかったのだがその気安さが嬉しくて、悩んでいるのが馬鹿らしくも思えた。
それからひとつ、桃真に相談したいことが希色はあった。今日のところは、クラス全員にKEYであることを内緒にしたけれど。川合と佐々木にまで嘘をついているのが気がかりだった。今朝は大変だったな、と労わってくれたふたりに、曖昧な笑顔を返したままでいたくない。
「だから、ふたりにだけは話したいなって。友だち、って思ってるから」
「ん、いいんじゃね。明日の昼は、今朝の屋上前のとこにアイツらも呼んで食うか」
「あ、それいい」
「決まりな。まあ、希色の秘密知ってんの、俺だけってのも好きだったけど」
混雑している電車内、出入り口のそばでくっついて立つ桃真が、耳元で囁いた。確かにそれは、希色も同じだったりするのだけれど。だが桃真はすぐに「アイツらも希色のこと大事なダチだと思ってんだから、喜ぶよ」と髪を撫でてくれた。
駅までで大丈夫だと何度伝えても、桃真は家の前まで行くと言って聞かなかった。駅から自宅のマンションまでは、歩いて五分ほど。桃真だって高校生なのに、これ以上遅くなるのは絶対によくない。だが、桃真の表情がどこか強張っているように見えて。なにかそうしたい理由があるのかもしれないと、じゃあお願いしますと希色は頷いた。
同じ電車を降りた人はそれなりにいたが、しばらく押し問答をしていたからか、辺りに人はほとんどいない。家までの静かな夜道を、桃真とふたりで歩く。
友だちと呼べる相手と夕飯を共にして、暗い中を一緒に帰る。このくらいのこと、一般的な高校生たちにはなんてことのない日常なのかもしれない。だが希色にとっては新鮮だ。たったこれだけのことで胸がせわしなく動くのは、初めての友だちとだからなのか、それとも桃真だからこそなのか。
「この先曲がったらもう着くよ」
そんなことを考えていたら、五分なんてあっという間だった。名残惜しい思いで桃真を見上げ、マンションのすぐ手前の角を指さす。すると、どうしてだろう。つい先ほどまで楽しく話していたのに、見たこともないくらい寂しそうな顔をする桃真の顔がそこにはあった。
「……桃真?」
名前を呼ぶと、桃真が一歩近づいてきた。じいっと見つめられたかと思ったら、肩に頭がぽすんと乗せられる。額を擦りつけられると、胸の奥に甘酸っぱいなにかが降り積もるようだ。希色はそっと息を飲む。
「あのさ、希色」
「……ん?」
「一個聞いていい?」
ゆっくりと顔を上げた桃真が、希色の左手を取った。桃真にそんな顔をさせるなにかを自分が取り除けるのなら、なんでもしてあげたい。そう伝えたくて、指先をそっと握り返し強く頷いた。
「うん、いいよ」
「希色は、みど兄のこと……」
「…………? 翠くん?」
「……あー、いや」
なにかを言い淀み、体が離れた。桃真の表情は未だ変わらない。希色は両手を伸ばし、桃真の頬を包む。すると桃真は目を見開いて、眉間をくしゅっと歪ませた。大きく息を吸ったと思ったら、そのくちびるから少し掠れた自分の名前が届く。
「っ、希色」
「うん」
「……希色はさ、好きな人、って、いんの?」
「好きな人? え、っと、それは、恋愛の意味で?」
「うん」
「…………」
こういった話は、翠や前田と少し話したことがあるくらいだ。その時に自ずと浮かんだ顔は、他でもない桃真で。その本人に問われている、恋はしているのかと。だが希色は未だにその答えを持ち合わせていない。
桃真のことは好きだ。友だちとしても、推しとしても。特別な友だちだと、大切に思っている。だからなのか、恋をしたことがないからなのか。最終的な判断がつかないのだ。
「いない」
「ん、そっか」
「……と、思う」
「思う?」
「特別大切な人は、いる。もしかしてその人のこと……って考えたりもするんだけど、恋したことないから分かんなくて」
「…………」
真剣でそれでどこか迷子のような目をする桃真に、今の希色が伝えられる精いっぱいの本心だ。くちびるを噛んでいるのが胸に痛い。この会話のなにが桃真にそんな顔をさせるのだろう。戸惑いながらも希色は、同じ質問を返す。
「桃真は? 好きな人、いるの?」
学校で桃真に声をかけてくる中には、女の子もたくさんいる。たまに呼び出されているのだって知っている。また告られてんだろうな、といつものことだとばかりに話す川合と佐々木の声が、頭の奥でぐわんと響く。桃真がその気になれば、明日にだって恋人はできるだろう。
「いるよ」
「……そう、なんだ」
まっすぐに希色を見つめ桃真はそう答えた。相手の見当はつかないが、真剣な想いだとその瞳から伝わってくる。
ああ、なぜ視界がぼやけるのだろう。桃真にバレないようにと細く息を逃がす。だが、希色の異変に桃真が気づかないはずもなかった。
「希色? どうした? っ、泣いて……どっか痛いか?」
「分かんない。でも、なんか……苦しい」
どこか痛いのかと問われれば、誰かを想う桃真の心を知って、急激に胸が痛みはじめている。だが理由にたどり着けないのだから、そんな答えしか希色は返せない。
「それって……いや、なんでもない。希色、おいで」
腕をそっと引かれ、抱きしめられる。桃真の大きな体の中は、自分の心が見つからない今の希色にとって世界みたいだ。屈んでくれている背に縋るように、希色も腕を回す。髪をそっと撫でられると、染みこんでくる優しさはまた涙になってしまう。
「桃真、服濡れる……」
「そんなのいいから」
汚してはいけないと離れようとすると、絶対に許さないとばかりに桃真の腕に力がこもった。その仕草に更に涙を誘われて、希色もぎゅっと抱きしめ返す。
「桃真……」
「希色、希色……」
髪に顔を埋めるようにして名前を囁かれると、なぜかピリピリと背が痺れる。得体の知れない感覚は、だけどちっとも嫌じゃない。桃真のあたたかさにほっとして、痛む心の端っこはどこか甘く疼くようでもある。
しばらくそうしていると、どうにか涙は落ち着いた。腕を少しほどけば額同士が合わさった。視点が合わないほど近くに桃真の瞳があり、思わずたじろぐ。
「桃真、近い……」
「みど兄とも表紙でこんくらい近かっただろ」
「あ、あれは翠くんと恋人って設定だったから……」
まさかここで表紙の件を持ち出されるとは。恋人だったからと答えれば、桃真の眉が寂しそうに下がってしまった。
「……ふーん。俺は駄目?」
「駄目っていうか……」
「じゃあ嫌?」
「っ、そんなことない!」
「じゃあこうしてていいよな」
「うう、今の聞き方はずるいと思う」
「はは、うん。ずるい聞き方した自覚ある、ごめん。でもこうしてたいから、いい?」
「……うん」
桃真に上手く言いくるめられたような、それでいて自分の願望が叶ったような。撮影時の翠との接近は恋人という役柄があってこそで、でも桃真は推しで、友だちで。額で鼓動を共有するみたいなこんなのは、おかしいはずなのに、うるさい心臓が邪魔をして、うまく考えられない。
「希色」
「わ……っ」
身を委ねていると名前を呼ばれ、今度は頬と頬が重なった。これはもう、翠と演じた恋人以上のことをしているのではないか。頬に熱が集まるのが分かる、たまらなく恥ずかしい。でもそれを言ったら、桃真はさすがに離れてしまうだろうか。想像するだけで寂しくて、桃真の首へと両手を回す。
「っ、希色?」
「桃真」
名前を呼んで、重なったままの頬をすり寄せる。驚いたのか桃真の体は一瞬跳ねたが、すぐにぎゅっと抱きしめられた。離さないでほしい、その気持ちが伝わったのかなと思うと、かかとが浮いて笑みが零れた。
「ふふ、桃真とこうするの、すごく好きかも」
「っ、もー、希色~。ん……俺も、好きだよ」
「うん。あはは、くすぐったいよ」
しばらく抱きしめ合った後、どちらからともなくゆっくりと腕をほどいた。よくよく考えなくたって、道路上で恥ずかしいことをしていたのだけれど。名残惜しむ指先が、お互いの腕を伝って握り合う。
「じゃあな」
「うん」
「あーあ、帰りたくねえ」
「ふふ、うん、オレも」
「はは、嬉しい。……でも、さすがに帰るわ」
「……うん」
「いや本当は嫌だけど」
「うん、オレも」
「ん……また明日な」
「うん、また明日。おうちに着いたら教えてね」
「はは、希色の過保護」
「だって心配だもん」
「そっか。ありがとう」
「うん……あ! ペンギンくん、ストラップにしてもらうの忘れてた……」
「あ、マジだ」
「話すことたくさんあって忘れてたね」
「だな。明日学校でやろ」
「うん、ありがとう」
じゃあな、と言ってからもしばらく手を離せないままだった。少しずつ後ずさり始めた桃真に手を振りながら、朝起きたらまたすぐ会えるからと切なさを誤魔化す。
今日という日は随分と、たくさんのことが起こった。クラスで正体がバレる危機が迫って、桃真にはまさかの最初からKEYだと知られていて――ひとりでは乗り越えられなかったはずの一日の終わりは、けれど妙に清々しい。それは一日中、桃真と過ごせたからに他ならない。共犯になると言ってくれたことも、初めての夜のおでかけも、翠も交えて楽しい夕飯を食べられたのも、自分でも理解できない涙にハグをくれたのも。ずっと大事な思い出にするのだと、すでに分かる。
「希色! おやすみ!」
「おやすみ!」
大きく振ってくれる手に、希色も懸命に振り返す。
――オレの推しで大切な友だちは、なんて格好いいのだろう。胸が妙な鼓動を打って、困ってしまうくらいに。
「あ、帰りながらラインしていいー?」
「はは、うん!」
夜の道は暗いはずなのに、希色の瞳には桃真がやけに煌めいて映った。
「ありがとな、みど兄」
「どういたしまして。俺もめっちゃ楽しかったわ」
デザートを食べ終え、またひとしきり話してからファミレスを出た。終わらないでと願った夜だから、希色はどうにも離れがたい。それを察したのか、希色を見てニッと笑った翠が抱きついてきた。
「わっ、翠くん?」
「おい、みど兄離れろ」
「えー、いいじゃん。希色、嫌だった?」
「ううん、嫌じゃないよ」
翠が抱きついてくるのは、もはや日常茶飯事だ。とは言え外だから、少し驚いてしまった。
「希色と桃真、めっちゃ仲良しだって分かったけどさ。俺たちだっていつもこんなだよなー、希色」
「う、うん。翠くんがいつも抱きついてくるからね」
「あは、そうそう。……って、ふは、桃真すげー嫌そうな顔」
「え?」
翠の言葉に弾かれるように振り返ると、たしかに桃真が不貞腐れた顔をしていた。どうしたのだろうか。M's modeの表紙への嫉妬はKEYのファンだから、とさっき聞いたところだ。抱きつかれているのが面白くなかったかな、と希色は考えかけたが、自惚れがすぎるだろうと改める。
「桃真? どうしたの?」
「別に……」
「はは、桃真かーわいい」
「ちょ、みど兄やめろ」
希色を抱きしめたまま手を伸ばし、翠が桃真の頭を撫でる。くしゃくしゃと髪をかき混ぜられた桃真は、翠の腕を掴んで避けた。それから不服そうな視線を翠に向ける。
「みど兄ってさ、もしかして俺と、その……同じ気持ちなわけ? 意味分かるよな?」
そう言った桃真は、一瞬だけ希色をその瞳に映した。
「んー? うん、分かる。でも……それは内緒~」
「…………? なんの話?」
自分の頭上で繰り広げられている会話を、希色はちっとも理解できない。だがふたりは通じているらしく、なんだか仲間外れのようで寂しい。
「んー? 希色も桃真もかわいいって話」
「みど兄が食えないヤツって話だろ」
「はは、そう見えるかあ。でも俺はさ、嬉しいよ。桃真、今は楽しく毎日やってんだなって」
「……うっせ」
「…………?」
ケラケラと夜空を仰いで笑い、翠は希色と桃真の髪を同時に撫でた。結局ふたりの会話は最後まで見えず、希色は釈然としないままになってしまった。
寄るところあるから俺はここで、と言う翠を、桃真と共に見送る。
「じゃあな希色、また現場で」
「うん」
「桃真は……うーん、今度希色と俺の秘蔵ツーショット送ったげる」
「希色のとこだけトリミングして送って」
「はは、ひっど!」
両手で大きく手を振りながら、翠は夜の街へと吸いこまれていく。よく考えてみれば仕事の日以外で会ったのは初めてで、またこんな風に過ごせたらいいなと希色は思う。
「じゃあ俺たちも帰るか。家まで送る」
翠が見えなくなり、駅へ向かおうとした時だった。桃真の提案に希色は慌てて両手を振って見せる。お互い乗る電車は逆方向だからだ。
「え、いいよ! 電車反対だし、オレんちここから結構かかるし」
「だからだろ。ほら、行こ」
「でもわるいって」
「いいから。俺がそうしたいの」
申し訳なさで胸はいっぱいになる。時計を見ればもうすぐ二十一時になるところで、桃真だって早く帰るべきなのに。だが、喜んでいる自分がいるのも確かで。桃真ともっと一緒にいたいと思っていた。先に歩き出した桃真を追いかけ、隣に並ぶ。
「じゃあ、今度の時はオレが送る!」
「マジ? 楽しみにしてる」
つい口をついて出た“今度”を、桃真は当然のように受け取ってくれた。それだけで鼓動がひとつテンポを上げるから、浮ついてしまいそうな足取りをどうにか落ち着かせる。
駅までの道も電車に乗ってからも、桃真と色んな話をした。
コーヒーショップに通っていたのはモデルのKEYで、それは望月希色だった。最初から気づかれていたと分かった今、これからはどんな気持ちでコーヒーショップに行ったらいいのかちょっと悩んでいる――そう言ったら桃真は、どっちの希色で来てもペンギンくんは描いてあげる、なんて言ってくれた。そういう問題ではなかったのだがその気安さが嬉しくて、悩んでいるのが馬鹿らしくも思えた。
それからひとつ、桃真に相談したいことが希色はあった。今日のところは、クラス全員にKEYであることを内緒にしたけれど。川合と佐々木にまで嘘をついているのが気がかりだった。今朝は大変だったな、と労わってくれたふたりに、曖昧な笑顔を返したままでいたくない。
「だから、ふたりにだけは話したいなって。友だち、って思ってるから」
「ん、いいんじゃね。明日の昼は、今朝の屋上前のとこにアイツらも呼んで食うか」
「あ、それいい」
「決まりな。まあ、希色の秘密知ってんの、俺だけってのも好きだったけど」
混雑している電車内、出入り口のそばでくっついて立つ桃真が、耳元で囁いた。確かにそれは、希色も同じだったりするのだけれど。だが桃真はすぐに「アイツらも希色のこと大事なダチだと思ってんだから、喜ぶよ」と髪を撫でてくれた。
駅までで大丈夫だと何度伝えても、桃真は家の前まで行くと言って聞かなかった。駅から自宅のマンションまでは、歩いて五分ほど。桃真だって高校生なのに、これ以上遅くなるのは絶対によくない。だが、桃真の表情がどこか強張っているように見えて。なにかそうしたい理由があるのかもしれないと、じゃあお願いしますと希色は頷いた。
同じ電車を降りた人はそれなりにいたが、しばらく押し問答をしていたからか、辺りに人はほとんどいない。家までの静かな夜道を、桃真とふたりで歩く。
友だちと呼べる相手と夕飯を共にして、暗い中を一緒に帰る。このくらいのこと、一般的な高校生たちにはなんてことのない日常なのかもしれない。だが希色にとっては新鮮だ。たったこれだけのことで胸がせわしなく動くのは、初めての友だちとだからなのか、それとも桃真だからこそなのか。
「この先曲がったらもう着くよ」
そんなことを考えていたら、五分なんてあっという間だった。名残惜しい思いで桃真を見上げ、マンションのすぐ手前の角を指さす。すると、どうしてだろう。つい先ほどまで楽しく話していたのに、見たこともないくらい寂しそうな顔をする桃真の顔がそこにはあった。
「……桃真?」
名前を呼ぶと、桃真が一歩近づいてきた。じいっと見つめられたかと思ったら、肩に頭がぽすんと乗せられる。額を擦りつけられると、胸の奥に甘酸っぱいなにかが降り積もるようだ。希色はそっと息を飲む。
「あのさ、希色」
「……ん?」
「一個聞いていい?」
ゆっくりと顔を上げた桃真が、希色の左手を取った。桃真にそんな顔をさせるなにかを自分が取り除けるのなら、なんでもしてあげたい。そう伝えたくて、指先をそっと握り返し強く頷いた。
「うん、いいよ」
「希色は、みど兄のこと……」
「…………? 翠くん?」
「……あー、いや」
なにかを言い淀み、体が離れた。桃真の表情は未だ変わらない。希色は両手を伸ばし、桃真の頬を包む。すると桃真は目を見開いて、眉間をくしゅっと歪ませた。大きく息を吸ったと思ったら、そのくちびるから少し掠れた自分の名前が届く。
「っ、希色」
「うん」
「……希色はさ、好きな人、って、いんの?」
「好きな人? え、っと、それは、恋愛の意味で?」
「うん」
「…………」
こういった話は、翠や前田と少し話したことがあるくらいだ。その時に自ずと浮かんだ顔は、他でもない桃真で。その本人に問われている、恋はしているのかと。だが希色は未だにその答えを持ち合わせていない。
桃真のことは好きだ。友だちとしても、推しとしても。特別な友だちだと、大切に思っている。だからなのか、恋をしたことがないからなのか。最終的な判断がつかないのだ。
「いない」
「ん、そっか」
「……と、思う」
「思う?」
「特別大切な人は、いる。もしかしてその人のこと……って考えたりもするんだけど、恋したことないから分かんなくて」
「…………」
真剣でそれでどこか迷子のような目をする桃真に、今の希色が伝えられる精いっぱいの本心だ。くちびるを噛んでいるのが胸に痛い。この会話のなにが桃真にそんな顔をさせるのだろう。戸惑いながらも希色は、同じ質問を返す。
「桃真は? 好きな人、いるの?」
学校で桃真に声をかけてくる中には、女の子もたくさんいる。たまに呼び出されているのだって知っている。また告られてんだろうな、といつものことだとばかりに話す川合と佐々木の声が、頭の奥でぐわんと響く。桃真がその気になれば、明日にだって恋人はできるだろう。
「いるよ」
「……そう、なんだ」
まっすぐに希色を見つめ桃真はそう答えた。相手の見当はつかないが、真剣な想いだとその瞳から伝わってくる。
ああ、なぜ視界がぼやけるのだろう。桃真にバレないようにと細く息を逃がす。だが、希色の異変に桃真が気づかないはずもなかった。
「希色? どうした? っ、泣いて……どっか痛いか?」
「分かんない。でも、なんか……苦しい」
どこか痛いのかと問われれば、誰かを想う桃真の心を知って、急激に胸が痛みはじめている。だが理由にたどり着けないのだから、そんな答えしか希色は返せない。
「それって……いや、なんでもない。希色、おいで」
腕をそっと引かれ、抱きしめられる。桃真の大きな体の中は、自分の心が見つからない今の希色にとって世界みたいだ。屈んでくれている背に縋るように、希色も腕を回す。髪をそっと撫でられると、染みこんでくる優しさはまた涙になってしまう。
「桃真、服濡れる……」
「そんなのいいから」
汚してはいけないと離れようとすると、絶対に許さないとばかりに桃真の腕に力がこもった。その仕草に更に涙を誘われて、希色もぎゅっと抱きしめ返す。
「桃真……」
「希色、希色……」
髪に顔を埋めるようにして名前を囁かれると、なぜかピリピリと背が痺れる。得体の知れない感覚は、だけどちっとも嫌じゃない。桃真のあたたかさにほっとして、痛む心の端っこはどこか甘く疼くようでもある。
しばらくそうしていると、どうにか涙は落ち着いた。腕を少しほどけば額同士が合わさった。視点が合わないほど近くに桃真の瞳があり、思わずたじろぐ。
「桃真、近い……」
「みど兄とも表紙でこんくらい近かっただろ」
「あ、あれは翠くんと恋人って設定だったから……」
まさかここで表紙の件を持ち出されるとは。恋人だったからと答えれば、桃真の眉が寂しそうに下がってしまった。
「……ふーん。俺は駄目?」
「駄目っていうか……」
「じゃあ嫌?」
「っ、そんなことない!」
「じゃあこうしてていいよな」
「うう、今の聞き方はずるいと思う」
「はは、うん。ずるい聞き方した自覚ある、ごめん。でもこうしてたいから、いい?」
「……うん」
桃真に上手く言いくるめられたような、それでいて自分の願望が叶ったような。撮影時の翠との接近は恋人という役柄があってこそで、でも桃真は推しで、友だちで。額で鼓動を共有するみたいなこんなのは、おかしいはずなのに、うるさい心臓が邪魔をして、うまく考えられない。
「希色」
「わ……っ」
身を委ねていると名前を呼ばれ、今度は頬と頬が重なった。これはもう、翠と演じた恋人以上のことをしているのではないか。頬に熱が集まるのが分かる、たまらなく恥ずかしい。でもそれを言ったら、桃真はさすがに離れてしまうだろうか。想像するだけで寂しくて、桃真の首へと両手を回す。
「っ、希色?」
「桃真」
名前を呼んで、重なったままの頬をすり寄せる。驚いたのか桃真の体は一瞬跳ねたが、すぐにぎゅっと抱きしめられた。離さないでほしい、その気持ちが伝わったのかなと思うと、かかとが浮いて笑みが零れた。
「ふふ、桃真とこうするの、すごく好きかも」
「っ、もー、希色~。ん……俺も、好きだよ」
「うん。あはは、くすぐったいよ」
しばらく抱きしめ合った後、どちらからともなくゆっくりと腕をほどいた。よくよく考えなくたって、道路上で恥ずかしいことをしていたのだけれど。名残惜しむ指先が、お互いの腕を伝って握り合う。
「じゃあな」
「うん」
「あーあ、帰りたくねえ」
「ふふ、うん、オレも」
「はは、嬉しい。……でも、さすがに帰るわ」
「……うん」
「いや本当は嫌だけど」
「うん、オレも」
「ん……また明日な」
「うん、また明日。おうちに着いたら教えてね」
「はは、希色の過保護」
「だって心配だもん」
「そっか。ありがとう」
「うん……あ! ペンギンくん、ストラップにしてもらうの忘れてた……」
「あ、マジだ」
「話すことたくさんあって忘れてたね」
「だな。明日学校でやろ」
「うん、ありがとう」
じゃあな、と言ってからもしばらく手を離せないままだった。少しずつ後ずさり始めた桃真に手を振りながら、朝起きたらまたすぐ会えるからと切なさを誤魔化す。
今日という日は随分と、たくさんのことが起こった。クラスで正体がバレる危機が迫って、桃真にはまさかの最初からKEYだと知られていて――ひとりでは乗り越えられなかったはずの一日の終わりは、けれど妙に清々しい。それは一日中、桃真と過ごせたからに他ならない。共犯になると言ってくれたことも、初めての夜のおでかけも、翠も交えて楽しい夕飯を食べられたのも、自分でも理解できない涙にハグをくれたのも。ずっと大事な思い出にするのだと、すでに分かる。
「希色! おやすみ!」
「おやすみ!」
大きく振ってくれる手に、希色も懸命に振り返す。
――オレの推しで大切な友だちは、なんて格好いいのだろう。胸が妙な鼓動を打って、困ってしまうくらいに。
「あ、帰りながらラインしていいー?」
「はは、うん!」
夜の道は暗いはずなのに、希色の瞳には桃真がやけに煌めいて映った。