十九時半に、桃真が働くコーヒーショップ近くのファミリーレストランで待ち合わせ。
 一旦帰宅した希色は私服に着替え、少しだけ悩んでから前髪をセンターパートにセットした。念のためにとマスクをし、失敗はくり返さないぞとキャップも被る。
 そわそわと逸る気持ちを抑えられなくて、早めに家を出た。母にひと言、友だちと夕飯を食べてくると伝えて外出したのだが。それからずっと、家族のトーク画面はひっきりなしに更新されている。あの希色が友だちとご飯だなんて、と全員が感激しているのだ。
 実際、ファミレスに友人と行くなんて、過去に一度もなかった。同級生たちが当たり前にやっていることでも、希色にとっては一大事だ。こんな日が自分にあるなんて、思ってもみなかった。それを桃真と経験できている。マスクをしていてよかった、ひとりで歩いているのににやける顔を隠してくれるから。


 途中寄り道をしつつ、約束の五分前にファミレス前へ到着した。中に入る前に、スマートフォンのインカメラで身だしなみを確認する。コーヒーショップへ行く時はいつも仕事の後だから、プロの手で髪もメイクも整えられている状態だ。だが今日は自分で髪をセットしたのみ。変なところがないかしっかりとチェックし、意を決して桃真にメッセージを送る。するとすぐに返事が返ってきた。

《もう中にいる。奥のほうの席》
《分かった、すぐ行く》

 入店し、声をかけてくれた店員に俯きがちに待ち合わせなのだと告げる。奥のほうへ進むと、入り口からは死角の席に桃真の姿が見えた。手を上げて合図をしてくれている。
 つい数時間前まで学校で会っていたのに、希色の胸はちいさく緊張の音を立てる。顔が見える状態で、コーヒーショップの客ではなく素の自分として会うのはこれが初めてだからだ。

「桃真、待った? って……え?」

 逸る足をなんとか抑えつつ、桃真が座る席へと到着した。そこで初めて、桃真の前にもうひとりの人物がいることに気がついた。
 こちらを見てピースサインを送ってくるその人を、希色はよく知っている。だが、地球がひっくり返ったくらいに驚いている自信がある。

「えっ、な、え!? みっ……!」
「希色、シー……な?」

 つい名前を叫びそうになった希色に、桃真が苦笑しながら人差し指を口元に添えてそう言った。
 危なかった。多くの人がいるこんな場所で、有名人の名前を叫んでしまうところだった。
 両手で口を押え、コクコクと必死に頷いてから、どうにか桃真の隣へ腰を下ろす。

「……え、なんで? なんで翠くんがここにいるの?」

 翠がいる。桃真と共に。全く意味が分からない。他の客の視界から消えるようにと背を屈め、小声で目の前の翠に尋ねる。

「はは、なんででしょ~?」
「ええ……」
「希色、当ててみてよ」

 だが翠は頬杖をついて、質問をし返してきた。緑色の髪を綺麗に収めたキャップの下で、楽しそうに口角を上げて笑っている。

「まさか……ファンと連絡先交換してたってこと?」
「ブー、そんなことしないって」
「……今そこでたまたま桃真と会って、話しかけられたとか?」
「ううん、俺が呼んだ」
「あ、桃真ネタばらし早いってー」

 翠はそう言うが、そのネタの内容は一ミリも理解できていないから安心してほしい。
 桃真が翠を呼んだ? 一体どういうことだ。希色はぽかんとしたまま、桃真と翠の顔を交互に見る。

「みど兄、希色いじめんなよ」
「いじめてないしー。希色が俺じゃなくて桃真の隣に座ったから、ちょっと拗ねただけ」
「拗ねてるの? こっちに座ったのに別に深い意味はな……え、桃真今、“みど兄”って言った?」
「うん」
「え……お兄ちゃん!?」
「まあ、そういうこと。正しくはいとこのだけどな」
「ええ……」

 あんぐりと開いた口が塞がらない。だが“いとこ”というワードに希色は聞き覚えがあった。夏休みの前、希色と同じ高校に通ういとこがいるのだと、学校まで迎えに来てくれた翠が言っていたのを思い出す。あれは桃真のことだったのか。

「ええ、信じられない……そんなことあるんだ」

 目の前に答えがある、ふたりがそうだと言っている。だがすんなりと飲みこむにはあまりにも驚愕の事実だ。それでも希色は必死に頭を回転させる。

「えっと……今朝桃真が言ってた隠してることって、翠くんのことだった、ってこと?」
「うん。最初に日比谷翠のファンなのかって聞かれた時、否定できずにごめんな?」
「ううん、謝らなくていい、けど……え、ファンってところから違うの? じゃああのペンは? 翠くんのノベルティの」
「あれはみど兄にもらった」
「ペン? ああ、あれか。そう言えば桃真にあげたな」
「そうだったんだ……」


 聞きたいことはまだまだたくさんあるが、ひとまずなにか食べようということになった。翠はハンバーグ、希色はカルボナーラで桃真はミートソースパスタ。端末で注文を済ませ、運ばれてきた料理を食べながらも話はつきない。

「でも俺もビックリだったわ。珍しく桃真から連絡きたと思ったら、希色と3人で会いたいんだけど、って」
「会うのがいちばん早いと思って」
「確かにな。あ、俺は希色がKEYだって言ってないからな?」
「うん、分かってるよ。翠くんのこと信じてるし。実は今日さ、学校行ったらちょっと騒ぎになってて……」

 今朝クラスで起きたことを、手短に翠に伝える。頬張っていたハンバーグをごくんと飲みこみ、翠は目を見開いた。

「マジか。どこで誰が見てるか分かんないもんだな」
「うん、ほんとビックリした……もう隠してるの無理かなって思ったけど、桃真が助けてくれたんだ」
「希色、口んとこソースついてる」
「え、どこ?」
「そっちじゃなくて右。ほら、これ」
「ありがと」

 慌てて指で触れてみたが、そっちじゃないと笑って桃真が紙ナプキンで拭いてくれた。ありがたくされるがままになっていると、翠の視線がマジマジと向けられていることに気づく。

「希色さ、今年の春くらいからいい感じになってきたの、友だちのおかげって言ってたじゃん」
「うん」
「それは桃真のことだった、で合ってる?」
「うん、そうだね」
「そっかあ。へえ~……マジでビックリだわ。世間て狭いな、てヤツ?」
「ほんとだね。オレもまだ信じられないもん、ふたりがいとこだって」

 今日、希色と翠は驚きの事実を知った。まだどこか夢心地なくらいだ。しみじみと頷き合っていると、桃真がこちらを向いた。

「まあ俺も驚いたけどな」
「…………? なにが?」

 桃真はパスタを食べ終え、「ごちそうさま」と手を合わせる。それから頬杖をつき、その瞳に希色を映す。

「みど兄のインスタにめっちゃ綺麗な子出てきたなと思ってたら、バイト先に来た時とか」
「へ……」
「どうにか仲良くなりたくて、そういうのやったことなかったのにカップに絵なんて描いて、少しずつ喋れるようになって喜んでたら同じクラスになるし」
「ちょ、桃真……」
「今回の表紙見た時は、驚いたというかめっちゃ妬いたな。まあそれまでも何回も嫉妬してたけど……みど兄、コンセプトがあったとはいえ希色に近すぎ」
「っ、待って、妬いたって言ってたのそっち!?」
「うん。さっきも言ったけど、俺はみど兄のファンじゃないし。最初から希色のファンだったから」
「……たまに桃真が素っ気ない時、オレてっきり、翠くんがKEYと一緒にいるのが嫌なのかなって思ってた」
「マジ? うわ、そんな態度取ってたとかごめん。でもそれ全部逆」

 思い返せば桃真がどこか強張った顔をしていたり、ふてくされたような表情を見せることはそれなりにあった。それらが全て、桃真の言う通り“逆”、つまりKEYを想ってのものだったというのか。KEYのファンだと今朝言っていたのはお世辞ではなく、桃真の本心だったらしい。
 希色の手から、パスタを巻きつけていたフォークが落ちる。皿にぶつかって、カランと金属音を立てた。それから、じわりと目が潤んでくる。

「え、待った待った。なに、希色お気にのコーヒーショップの店員が、桃真だったってこと?」

 呆然とする希色の前で、翠も絶賛驚いている最中のようだ。希色の顔を覗きこみながら問うてくる。

「うん、初めて行った時から桃真がいて。その、オレ、コーヒーも好きになったけど、かっこいい人だなって桃真に憧れて、推しになって……それで通うようになったところもある」
「え、推し? 俺が? あ、こないだ店で応援してるって言ってくれたのもそういうこと?」
「……うん」

 桃真の瞳がまん丸に見開かれたと思ったら、すぐに弧を描いた。はは、と照れくさそうに笑う顔は、心が強く惹きつけられるほど輝いていて。桃真に出逢ってからの感情がどんなに豊かだったか、知ってほしくなる。

「二年の教室で桃真に会った時、ほんっとビックリしたんだよ。なんでここに推しがいんの!? って。そもそも、年上だと思ってたし。翠くんのファンだって思った時は嬉しかったし、でも実は翠くんが羨ましくて、オレも推されたいなあ……って、思ってた」
「そうだったんだな。俺、ずっと希色が推しだったよ」
「うう、ありがとう……」

 落ちたままだったフォークを桃真がとって、パスタを巻き直し口元に差し出される。桃真を見上げれば「ん」と促されて、素直に口を開けた。見つめられているのが恥ずかしくてぎこちなく咀嚼していると、翠の視線も注がれていることに気づく。

「ねえ、ふたりっていつもそんな感じ?」

 そんな、とはどんなだろう。だが食べものをお互いの口に運ぶのはもはや日常で、たしかに“いつもそんな感じ”かもしれない。

「えっと……う、うん。そうだね?」
「だな」
「ふーん、なるほどね」

 桃真のほうをちらりと見て、それからすぐに翠は口角を上げて笑った。

「あーあ、なんかふたり見てたら甘いの食いたくなってきたわ。デザート頼まない? ちなみに今日は俺の奢り」
「あ、食べたい」
「俺も食う」

 翠の太っ腹な誘いに、甘いものが好きな希色と桃真に乗らない手はない。素直にご馳走になることにして、3人でひとつの端末を覗きこむ。イチゴの乗ったショートケーキも抹茶プリンも魅力的だったけれど、結局全員がチョコレートパフェを選んだ。
 翠が「あーんして」とクリームを食べさせてくれて、それを見た桃真もなぜか「俺はもっといっぱいやる」と言って競うように口に入れてくれて。同じものが自分の目の前にだってあるのに、ひとりで食べるよりも何倍も美味しいように思える。
 それじゃあオレも、と希色はお返しに、自分の器からふたりにクリームを分けた。スプーンで掬って桃真の口元に運び、次は翠。すると翠は口に含む直前、ハッと顔を上げた。

「ちょっと待ってこれ、桃真と間接キスだな?」
「うわ、みど兄キモいからやめろ。てか、じゃあ食うな」
「いや食うでしょ。希色のあーんだぞ。希色、やり直し」
「うん、どうぞ」
「あー……ん、うまい。はは、桃真の顔!」

 一秒一秒が煌めている。ふたりと過ごしてきた時間はいつだって鮮やかだったけれど、今夜は眩しいほどだ。桃真と翠を眺めながら、希色はひとり微笑む。できることならこのままずっと、と願うくらいに居心地がよかった。