教室に戻ると朝のホームルームが終わった後で、担任の教師には軽く注意されてしまった。
 クラスメイトたちの視線が、余すことなく全員分、希色に注がれる。怯みそうになり制服の裾をぎゅっと握りこんだ時、桃真が一歩前へと出た。

「さっきの件だけどさ。マジで違うから。俺、希色の顔見たことあるし。希色はKEYじゃない」

 桃真の言う“いい考え”とは、こういうことか。嘘をつかせて申し訳なく思うが、なあ、と目配せしてくれる視線が心強くて、希色はこくりと頷く。
 なんだ違うんじゃん、という声が上がり始めるが、昨日KEYを見かけたのだという女子は納得がいかないようだ。

「でも、本当に似てたし。見せてもらわなきゃ分かんないよ」
「…………」

 彼女は彼女で引き下がれないものがあるのだろう。このままでは、クラス中を巻きこんだ人騒がせになってしまうから。
 それは希色だって本意ではない。むしろ自分の不注意でこんなことになり申し訳ないし、彼女の今後の友人関係が心配だ。
 だがそれでも、KEYだと明かすわけにはいかない。できることは、嘘をつくことは避けられずとも、せめてもの誠意で向き合うことだ。

「えっと……顔にトラウマがあって、どうしても見られたくないんだ。ごめんなさい」

 高校では誰とも関わらず過ごしてきた希色だ。このクラスになって桃真や川合、佐々木たちと話すようになったが、今もその3人としか関わったことがない。声が震える。トラウマを公言することもできることなら避けたかったが、致し方ない。
 ひそひそと話す声たちは、次第にKEYを見たという彼女へと向けられていく。スカートを握りしめる手は見ているだけで胸が痛む。どうしたら救えるのだろう。

「あ、あの!」

 解決法なんて見つかっていないのに、どうにかしたくて大きな声を張り上げた。静まり返った視線が、再び希色に集中する。

「えっと、なんていうか、本当にオレじゃないんだけど、でも、そうじゃないかって聞かれて、嫌な気持ちになったわけじゃないから。むしろ、オレの存在知られてたんだなって意外だな、ってビックリしたと言うか……」

 なにを言っているのだろう。自分でだって分からないのに伝わるはずもなく、クラス中の視線が刺さって痛い。尻すぼみになった言葉と共に体を縮こませると、誰かに肩を引き寄せられた。見なくたって分かる、桃真だ。

「嫌じゃなかったから誰も悪くなくて、いつものクラスに戻ったらいいな、ってことだよな。な、希色」
「っ、そう! そう、です」

 桃真の救いの手に、ぶんぶんと首を縦に振る。すると、クラスの空気がほどけるように変わったのが分かった。桃真の元へはいつだって、ひっきりなしに人が訪れる。人望のある桃真がそう言うのだからと、納得してもらえるものがあるのかもしれない。
 件の彼女の元にも、いつも一緒にいる女子たちが駆け寄った。逆に本当にKEYだったら勉強どころじゃなかったよ、とおどけてみせる友人たちが、支えになるのだろう。
 ひそかに安堵していると、希色の元へと彼女が近づいてきた。

「望月くん、ごめん。騒いじゃって」
「ううん、オレこそごめん」
「望月くんはなんも謝ることないから」

 いい人だなあと思う。思うからこそ、実際は嘘をついている罪悪感が膨らむ。だが、やわらかく笑ってくれたのがせめてもの救いだ。
 もしよかったら仲直りしよ、と差し出された手とおずおずと握手をして、1限目の予鈴にそれぞれが自分の席に向かい始める。

「あ、望月くん」

 だが再び彼女に名前を呼ばれ、希色は振り返る。

「はい」
「存在、知ってるに決まってるじゃん」
「え……」
「だってクラスメイトだし。それに望月くん、あの土屋とめっちゃ仲良い奴がいるって、実は有名だよ」
「え……え!?」

 ちょっと待った、有名とはなんだ。しかも、桃真と仲良いから、だなんて。
 あんぐりと開いた口を閉じられない希色を残して、じゃあね、と手を振り彼女は自分の席へと戻っていく。それを呆然と見送っていると、目の前に桃真の顔が現れた。思わず飛び上がると、桃真がにやりと笑う。

()()土屋、ってなんだろうな。酷くね?」
「土屋が望月以外にはドライだからだろー」
「うっせ」

 佐々木の声がどこからか飛んでくる。それを楽しそうにあしらって、桃真はささやく。

「それにさ、さっきの、ちょっと違うよな」
「え?」
「めっちゃどころじゃなくて、いちばんの仲良し、だよな」

 今、顔からポンと音が鳴ったのではないだろうか。そう思えるくらいに、急激に顔が熱くなった自覚がある。それをまた桃真が笑って、なにか言いたいのに数学の教師が入ってきて渋々席につく。教師が黒板に向かった瞬間、隣を見れば目が合って。ふたりだけでこっそり笑い合うのが、くすぐったくて心地がよかった。


 放課後になった。桃真はまだ座ったまま、スマートフォンを操作している。誰かと連絡を取っているのだろうか。
 今日も一緒に帰る予定だ。自分もスマートフォンでも見ていようかと思ったところで、ふと気づく。桃真のスマートフォンに、昨日コーヒーショップで渡したペンギンくんがぶら下がっている。

「えっ……と、桃真?」
「んー? どした?」
「これ! なんで!?」
「あーペンギンくん? なんでって? 昨日希色に貰ったヤツだけど」
「それは分かってるけど! キーホルダーなのに、ストラップになってる!」

 今回のカプセルトイの景品は、全てキーホルダーの形態をとっている。それなのに桃真のペンギンくんにはストラップの紐がついていて、ゆらゆらとスマートフォンの下で揺れているのだ。すごく羨ましい。

「ああ、パーツ取り換えたんだよ。いつも持っときたかったから、スマホにつけようかなって」
「っ、それって難しい? オレにもできるかな」
「できるできる。てかパーツ余ってるから俺がやるよ。ペンギンくん今持ってる?」
「……家にある」
「そっか。じゃあさ……」

 スマートフォンをポケットに仕舞い腰を上げた桃真が、希色の手を取った。促されるままに立ち上がると、こてんと首を傾げて尋ねてくる。

「今日の夜、会えたりする?」
「夜? 仕事、もないから大丈夫だけど……」
「じゃあさ、ファミレスでも行かねえ? 俺これからバイトだから、その後になるけど」
「桃真とファミレス? っ、うん、行く。行きたい!」
「よし、決まりな。ペンギンくんも持ってきて。簡単だからそん時やろ」
「桃真……ありがとう!」

 興奮気味に返事をする希色に、机に置いてあったリュックを桃真が背負わせてくる。なんだか子守をされているようだが、そうしてもらわなければリュックなんか忘れて帰ったかもしれない。

 連れ立って教室を出て、階段を下りて。靴に履き替えたところで、桃真のスマートフォンがメッセージを受信した。それを確認した桃真が、こちらを振り返る。

「希色」
「んー?」
「隠してることがある、ってさ、今朝言ったじゃん?」
「……うん」
「それ、今日の夜ちゃんと言う」
「桃真……」

 部活へ向かう者や、放課後どこへ遊びに行くか浮足立っている者たち。昇降口はそんな生徒たちで騒がしいのに、喧騒が一気に遠のいた。今この瞬間、桃真ひとりだけにしか希色の意識は向かわない。
 今夜の誘いのメインは、これなのだろう。桃真が真剣な表情をしているから、察するのには充分だった。

「……ん、分かった」
「うん。じゃあ帰るか」

 外へと出て、駅までの道を共に帰る。秘密を明かす、と宣言されるのはなんだかこちらまで緊張するが、桃真だから大丈夫だ、怖くなんかない。そう思える関係を築いてきたのだと、一歩一歩進みながら希色は噛みしめる。