大きなあくびをこぼしながら、希色はいつもよりひとつ遅い電車で登校した。昨夜はなかなか寝つくことができなかったからだ。遅刻にはならないが眠気は一向に引かず、まずいなあとぼんやりした頭で思う。
 人だかりから逃げ出し前髪で顔を隠した後、誰からも声をかけられることはなく無事に帰宅できた。それからはM's modeを写真に収めて、感謝の文と共にインスタへ投稿した。“いいね”もフォロワーもコメントも確認する度に増えていて、ひとつひとつ読まずにはいられなかった。
 それから、夕飯を食べながらも風呂に入っている時も、桃真が言ってくれた『応援してます』のひと言を思い返さずにはいられなかった。顔がにやけてるぞ、と兄に頬をつつかれた時は心底恥ずかしかった。そんな顔をしている自覚は全くなかったから。
 今日もアイスにすればよかったと悔いながら、捨てられずにデスクに置いたままの紙製のカップを眺めるのだってやめられなかった。


 そうして迎えた朝だから、学校についてもぼんやりとしたまま教室に入った。だがそんな希色の耳にも、やけに騒がしい声は届いた。その大勢の声たちは、希色が教室に足を踏み入れた途端にぴたりと収まった。それだけではない、クラスメイト全員の視線が一斉に希色へと向けられた。

「え……なに?」

 潜められた声が、あちこちで騒めきだす。なにも状況は掴めないが、良くないことが起きていることだけは分かる。
 こんな時、彷徨う目が自ずと探すのは桃真だった。すぐに見つけられたその姿は、教室の真ん中で女子たちに囲まれていた。なぜだろう、顔色が悪く見えるほどに焦っているようだ。

「希色!」

 桃真が大声で希色を呼ぶ。床を蹴るようにして、こちらに駆け寄ってきた。

「桃真? あの、一体なに……」
「望月くん!」
「うわっ。え、なんっ!」

 だが桃真より早く、近くにいた女子たちが取り囲むようにして、希色の前を塞いでしまった。なにが起きているのか、察することすらできない。だがすぐに、希色を絶句させる言葉が続いた。

「望月くんってさ、もしかしてモデルのKEYじゃない?」
「……っ、え?」
「おいお前らやめろ!」

 女子たちの向こうから、桃真が叫んでいる。だが誰ひとりとして、それに物怖じしない。

「私、昨日渋谷にいたんだよね。走ってる子がいてKEYじゃんって見てたら、前髪下ろしてさ。望月くんにすごく似てた」
「…………」

 冷や水でも浴びたみたいに、血の気が引いていく。すぐに否定しなきゃと思うのに声が出ない。
 昨日、顔を隠す前にちゃんと確認したはずだ。追ってくる人はいないか、と。だがそうか、クラスメイトがいるかどうかなんて、考えもしなかった。完全に迂闊だった。

「マジだったらやばくない!? KEYと同じクラスとか!」
「え、私めっちゃファンなんだけど……ねえほんと?」
「てかさ、望月くんの顔見せてもらったら一発じゃない?」
「それだ!」

 一人の女子が、急速に距離をつめてきた。驚く間もなく、希色の前髪に手が伸びてくる。

「っ、やめ……」

 ああ、まずい。咄嗟に後ずさろうとしたが、いつの間にか背後も囲まれていたことに気づく。KEYだと知られたくないのはもちろん、学校という場で顔を見られることに酷く抵抗があるのに。
 絶対にいやだ。希色は両手で頭を抱えた。今か今かと身構え、だが手は触れてこない。その代わりに希色に届いたのは、桃真の声だった。

「お前ら、マジでいい加減にしろよ」

 恐る恐る顔を上げると、希色の前髪に触れようとした女子の手を、桃真が掴んでいた。鋭く尖った目が、女子を見下ろしている。だが彼女も怯まない。

「なんで? ちょっと顔見るだけじゃん」
「希色の気持ちは無視か? 嫌がってんの、見れば分かんだろ」
「っ、それは……」

 桃真のそのひと言で、女子は諦めてくれたようだ。言葉が続かない様子に、桃真が手を離した。その手はそのまま、希色の手を取る。何事か、と思う暇もなく、希色を連れて教室の外へと歩き出す。
 だが出口の前で桃真は振り返った。教室中を見渡して、低い声を響かせる。

「変に噂とか広めんなよ」

 そう釘を刺して、桃真は希色を連れ立って教室を出る。

「桃真……」

 希色が名前を呼ぶと、一心不乱にどこかへと進む桃真がこちらを振り返った。手首から手のひらへと手が移動してきて、大丈夫だとでも言うようにぎゅっと力が込められる。それから少し微笑んで、再び歩き出した。


 廊下をぐんぐん歩いて、階段を二階分上がって。ようやく桃真が足を止めたのは、屋上へ続く扉前の踊り場だった。振り返った桃真は、希色の頭をぽんと撫でる。

「平気か?」
「…………」

 正直なところ、今も酷く動揺している。高校在学中にKEYだと気づかれる想定を、全くしていなかった。桃真のおかげでさっきは助かったが、これからどうなるのだろうか。

「希色はどうしたい?」

 なにも答えることができず頭を悩ませていると、桃真がそう尋ねてきた。
 本当に、どうしたらいいのだろう。この状況を、どう収束させるべきか。できることなら隠し通したいが――そう考えてふと気づく。桃真の言葉には違和感がある。

「え、っと、桃真……どうしたい? って、どういう意味?」

 今、クラスメイトの一部から、望月希色はKEYなのではないかと疑いをかけられている。この状況をどうしたいか。そう問うてくる桃真はまるで、女子たちが抱く疑念の答えを知っているかのようだ。知っている上で、真実を伝えるか隠し通すかの選択を問われているように感じる。なにも知らないなら、実際はどうなのかと確認したり、そんなわけないのになと励ましたりするのが自然ではないか。
 まさか、まさか――ロボットになってしまったかのように、希色はギギギとぎこちなく首をもたげる。そこには眉尻を下げ、そっとくちびるを噛む桃真の顔があった。

「俺は……最初から気づいてた。その……希色がKEYだって。声が、店で聞くKEYのと同じだったから」
「っ、うそ……」
「そんなつもりじゃなかったけど、結果的に騙してたのと同じだよな。ごめん」
「…………」

 ますます頭が混乱する。教室ではあんなことがあったばかりで、桃真には思ってもみなかった真実を聞かされて。なにを最優先に考えるべきなのか分からない。
 だがなによりも混乱してしまうのは、ずっと桃真が気づいていたという点だ。教室でただただ友だちとして会話していた時も、素知らぬ顔でコーヒーショップで会話をしている時も、それから――
 様々なシーンが蘇るが、桃真の中ではいつだって、モデルのKEYと希色がイコールで繋がっていたということだ。居た堪れなさに耐えられるはずもない。

「う、うわー……」

 希色は両手で顔を覆い、へなへなとしゃがむ。すっかり力が抜けてしまって、床に尻をつけて座りこんだ。

「ちょ、希色? 大丈夫か?」

 慌てた声で桃真も希色を追い、目の前に腰を下ろした。数秒の後、そっと頭を撫でられる。ああ、桃真はまだそうしてくれるのか――瞳がじわりと熱を持つ、泣いてしまいそうだ。

「……桃真、怒ってないの?」
「え? 怒る? 俺が?」
「うん。だって、騙してたのはどう見たってオレのほうだよ」

 桃真はさっきごめんと言ったが、謝ってもらうことなんかなにもない。それはずっと秘密を作ってきた、希色の台詞だった。

「騙されてんなって思ったことなんて、1回もないけど」
「……でも、実際はそうじゃん」
「マジでそんなことない。すぐに気づいたけど、隠してるんだろうなってのがなんとなく分かったから、合わせてただけ」
「……桃真は優しすぎる」
「はは、そんなことないって」
「あるよ」
「そうか? 俺には言ってくれてもいいのにって、勝手に寂しく思ったこともあったんだけど、それでも?」
「桃真……」

 桃真は足を大きく開き寄ってきて、膝を抱く希色をその間に収めた。背中を抱かれ、もう片手は髪を撫で続けてくれる。堪らず肩にすり寄ると、更にぎゅっと抱きしめてくれた。
 落ち着かせようとしてくれているのだろう。心地いいリズムで背中をトントンと撫でてくれる。教室という狭い世界でも、ひとり暗闇に放り投げだされたように心が冷えたから、桃真の体温が奥底まで染み渡る。

「……なんかさ」
「んー?」

 ぼそっと小さく呟いた声を、桃真は丁寧に拾ってくれた。それに甘えるように、小声のままで希色は零す。

「クラスでバレかけてることとか、考えなきゃいけない大事なことあるのにさ」
「うん」
「桃真に知られてた、ってのがすごい、恥ずかしくて……」
「恥ずかしい?」
「うん、だって……コーヒー買いに行ってる時、希色が来たなーって思ってたってことでしょ」
「まあそうだな」
「でもオレはバレてるなんて知らなくて、ただの顔見知りなだけの客の振りしてたじゃん……」
「まあな。俺は友だちになってから初めて希色が店に来た時、うっかり希色として接しないようにって緊張してたな。思い出した」
「そうなの? あ……そう言えば桃真の様子がなんか違う気がして、オレなんかしたかなってちょっと悩んだの覚えてる。本当にオレのせいだったんじゃん……うう、ほんと消えたい……」

 それだけじゃない。コーヒーは特定の店でしか飲まないと昼休みの雑談で話したのを覚えているし、桃真がKEYのインスタ投稿を楽しみにしていると言ってくれてから、滅多にしないのに一週間ほどで更新したのだって――桃真からすれば全てお見通しだったということだ。そうと知ったら、自ら穴を掘って全力で隠れてしまいたい。

「んー、希色がそうなんの、分からんでもないけど。俺はさ、嬉しかったよ」
「……え?」

 意外な桃真の言葉に、希色はそろそろと顔を上げた。どこに喜んでもらえる要素があったと言うのか。理解が及ばない希色の頬を両手で包んで、桃真は続ける。

「だって俺、KEYのファンだし」
「……え?」
「そうじゃなくたって、希色のこと好きだし」
「ひえっ」

 今日は一体、何回驚かされるのだろうか。ぐるぐると混乱する頭に手を突っこんで、さらに引っ掻き回されているみたいだ。
 希色だって桃真のことが大好きだし仲のいい友人だと思っているが、好きだと言葉にされてしまうと胸が甘く痛んでしまう。
 分かっている、桃真はそんな意味で言っているわけじゃない。だが、この気持ちは恋じゃないと何度も確認してきたのに、また分からなくなってしまう。
 それに、だ。KEYのファンだなんて、そんなのまさかだろう。

「いや、だって桃真は翠くんのファンじゃん!」
「あ、引っかかるのそっち?」
「レアなペンだって持ってるし、オレと翠くんの表紙見て、妬ける……って、言ってたじゃん。それ聞いてオレ、居た堪れなかった」

 桃真に推されたいと思ってきたから、ファンだと言ってもらえるのは念願だ。だが翠のファンだと重々分かっているのだ。そんなお世辞みたいなこと、言わなくたっていいのに。
 ジトリとした目をつい向けると、桃真は何故かきょとんとした顔をしていた。

「そっか、妬けるって言ったのそう取るか。まあそりゃそうだよな」
「……なにが?」
「え? ああ、いや。あー……なあ希色、俺もお前に隠してることがある」
「……え?」
「そっから話さないと、伝わるもんも伝わらなさそうだな」
「な、なに、どういう意味?」

 先ほどまでの表情を仕舞って、真剣な面持ちで桃真はそう言った。なんのことだろう。見当もつかず、希色はごくりと息を飲む。

「まあでも、それはまた改めて言うわ」
「え、なんで!? 無理だよ、すごい気になる」
「だよな。でもさ、さすがにそろそろ教室に戻らなきゃマズくね?」
「あ……」
「だからさ、そっちどうするか決めるのが先かなって。俺の話はちょっと長くなるし」

 そうだった。クラスメイトたちに今朝の騒動を説明する必要があった。重たい現実が帰ってきて、希色は呻きながら再び桃真に凭れかかる。

「希色はどうしたい?」
「……できれば言いたくない。でも、顔見せないで納得してもらえるかな」

 あんな事態になったのだ、顔を見せなければ事は収まらないように思える。だがそうすると、KEYであると明かすことになる。できることならばそれは避けたいが――

「……言うしかない、よね。黙ってただけの今までと違って、KEYじゃないって否定したら嘘つくことになるし」

 上手く切り抜けられる術が見つからない。ため息と共に諦めるように呟く。だがぎゅっと抱きしめられ顔を上げると、桃真がにやりと笑んでいた。

「いい考えがある」
「え?」
「俺、希色の共犯者になるよ」