『知ってるかい、隣村の長男、あの娘をふって金目当てで別の女と夫婦(めおと)になったってよ』
『ああ、聞いた。ひでえもんだよな』

 夜中、娘はひっそりとイチョウの木のたもとで泣いた。
 彼女は家族や友人を心配させたくなくて、日中は気丈に振舞い、毎夜、イチョウの元に来ては泣いたのだ。

 そのころの彼はまだ若くて姿を現す力もなく、彼女を慰められなかった。
 一言なりと声をかけようと試みるが彼女には届かず、ただ見ていることしかできない。
 彼女はふらふらになっても夜になるとイチョウの木の下に来ては泣いた。

 そうしてある日、朝を迎えたときには冷たくなっていた。

 彼は慟哭した。
 ただ一言、たった一言でもいい、声をかけることができていたなら。
 木である自分の、なんと無力なことだろう。
 ただ生きているだけだ。

 普通の木であればこんなことを考えずに済んだと言うのに、どうして自分は意識を持ってしまったのだろう。どんな神仏のいたずらがこのような事態を引き起こしたと言うのだろう。

 亡くなって初めて、彼は彼女を愛していたことに気が付いた。
 心に大きな穴が開いたかのようだった。
 この喪失感を埋めるものが存在するとは思えない。
 ずっと痛みの空洞を抱えて生きて行かなくてはならないのか。

 彼女はそれを埋めることができずに衰弱して亡くなったのだろうと彼は思った。
 娘の家族は死を悼み悲しんだが、お互いに慰めあい、村人に励まされて立ち直っていった。

 人ならば人と触れ合い、埋めていくこともできるのだろう。多くの者がそうして生きているのだから。
 だが、彼にはその相手は存在しない。虚ろを抱えてただ生きていくだけだ。