やってしまった、やってしまった、完全にやらかした! 私、北森(きたもり)うた は表情こそ変わらないものの、内心ひどく焦っていた。それもそのはず。
 新入生代表挨拶を任されたのはいいものの、無事に話し終えた私は気が抜けて、後段する時にまるで漫画のようにずるっと足を滑らせてしまったのだ。
 そしてそのまま、倒れ込んだ先はあまりに綺麗な生け花で。
 ガシャン、と大きな音を立てて舞台の上に散らばった、割れた花瓶と水に濡れた花びらたち。薄紫の藤の花が散ったのを見て、わなわなと青ざめる私。同じように青ざめた先生たちが慌てて舞台へ上がってきて、そのまま入学式は中止となった────。
 というのが、数分前までの話。
 生け花と一緒に舞台上ですっ転んだ私は案の定水浸しになってしまった。見かねた保健の先生に連れられて保健室へとやってきたのはいいものの。
 目の前には何故か、保健の先生に加えて、私がぶちまけた生け花を生けた張本人─────藤沢睦(ふじさわむむつみ)先輩がいる。

「藤沢くん、許してあげてね、新入生だから緊張しちゃったのよ」
「はは、こんなことで怒らないですよ」
「さすが華道(かどう)の一流名家(めいけ)、藤沢の長男ね」
「心を乱さないのも藤沢流華道の教えですから」
「もう素敵! じゃあ先生ちょっと席を外すから、その子のことよろしくね、藤沢くん」
「はい、新入生のケアは任せてください」

 えーっと。一体何が起こっているんだろう。
 私は額にダラダラと汗をかきながら保健室を出ていく先生に視線で助けを求めるけれど、気づかれもせずピシャッと扉が閉まってしまう。
 先生が手渡してくれたバスタオルに身を包みながら、おそるおそる藤沢睦先輩を見やると、私のことなど気にも止めず、窓際のパイプ椅子に座ってやれやれと文庫本を取り出した。
 一体全体、どんな状況?
 うん、そうだ、一旦整理しよう。
 ここは日本トップクラスの大金持ちが集まると噂の名門、私立聖柳学園(せいりゅうがくえん)高校。(とは言いつつ、それはひと学年ひとクラスのみ配置される特待クラスの人間だけで、一般クラスには私のような庶民も勿論いる)
 第一志望の都内最難関偏差値を誇る私立高校に落ちた私は、泣く泣く第二志望であったこの聖柳学園にトップの成績で入学し、今日がその入学式だったというわけで。(そう、入試1位の生徒が毎年入学式で新入生代表挨拶をするというわけだ)
 そんな大事な入学式を、舞台上ですっ転んで台無しにしてしまった。しかも、あろうことか、あの藤沢睦先輩の作品をぶち撒けるという大失態。 

 そう────藤沢 睦 先輩。

 今日ここへ入学した私でも知っている。恐らくこの学園内で1番の有名人。
 そっと藤沢先輩を見る。肩まで伸びる長髪はサラサラで、カーキがかったグリーンの髪色が特徴的だ。切れ長で二重の綺麗な瞳と高い鼻、高い身長の割に小さな顔は骨格からして勝ち組で、さながら芸能人のよう。左目下の泣き黒子が色っぽさも兼ね備えさせていて。……もしかしたら私より顔が小さいかも。
 そんな容姿端麗な藤沢先輩が有名な理由は、見た目だけじゃない。
 ────藤沢家。それは日本人なら誰もが知っている華道の一流名家。そして藤沢睦先輩は、そんな藤沢家の長男、即ち跡取り息子の御曹司なのである。
 しかも。
 華道茶道の作法が一流なのは勿論のこと。国内模試上位常連、陸上インターハイ出場経験有、全国ピアノコンクール優秀賞受賞、話せる言語は5カ国以上、その他習字に絵画に読者モデルまで、何をやらせても人より秀でてしまう、所謂”天才”なのである。
 容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、芸術さえもお手のもの。
 そんな漫画から出てきたような藤沢先輩のことを知らない人なんて、きっとこの学校(もっといえば、国内の同年代)にはいないだろう。しかも、名家の跡取り息子が生ける生花(いけばな)は、買おうと思えばうん十万の値段がつくとかつかないとか。
 そんな藤沢先輩がこの日のために生けた大事な大事な生花を、一瞬にして粉々にした。それがどれだけ重大な失態か、そろそろお分かりいただけただろうか!

「あ、あの、ふ、ふじ、藤沢先輩」

 震える声で、文庫本を読んでいる先輩へと話しかける。すると先輩は、表情ひとつ変えずに私の方へと視線を向けた。まつげ、長いなあ。ってそんなこと考えてる場合じゃなくて!

「あの、お花、ほんっとうにすみませんでした!!!」

 ガバッと、カタカナの効果音が着くくらい勢いよく頭を下げる。そもそも、私みたいな庶民が気軽に話せる相手でもないのに、こんな風に保健室で2人きりになっていることさえあり得ないのだ。(というか、何故藤沢先輩がここにいるのかも不明すぎる!)

「ああ、それより、怪我はなかった?」

 え、と。おそるおそる顔を上げると、やんわりと優しく微笑む藤沢先輩の姿がある。

「えっと、私は全然、水に濡れたぐらいで……」
「そう、ならよかった。怪我でもしてないかと思って、様子を見にきただけだから」

 そんな先輩の言葉とやさしい声に、一気に力が抜けていく。どうしよう。先輩、やさしい。そしてかっこいい。私は人生ではじめて自分の胸がときめく音を聞いた。
 さっきの保健の先生との会話もそうだけれど。自分の作品をぐちゃぐちゃにされたのに、顔色ひとつ変えず、むしろ私の心配をしてくれるなんて、もしかしてこの人は聖人君主か何かだろうか?!?!

「すみません、心配おかけしちゃって……」
「いや、いいよ、それより君が怪我でもした方が大変だし」
「そんな、先輩、優しすぎます……」
「─────なんて言うとでも思った? クソガキ」

 ………え?
 突然低くなった先輩の声にフリーズする。今なんて言った? ……クソガキ?
 先輩の顔は変わらず穏やかに笑っていて、さすがに私の聞き間違いか何かと思ったけれど、よく見れば目の奥が全然笑ってない。そう、ぜんっぜん。
 えっと、あれ、これはもしかして、わたしは本格的にやばいことをしてしまったのではなかろうか?
 一瞬恋にでも落ちるかと思った藤沢先輩へのイメージがガラガラと音をたてて崩れていく。

「怪我でもしてたら大変だと思ったけど、元気そうなら話は別」
「え、えっと、あの、」
「キミさ、俺がどれだけ多忙の中あの作品仕上げたかわかってる?」
「え、えっと、せんぱ……」
「言っておくけど、値段にしたら100万円。一体キミみたいな凡人が、どうやって償ってくれるの?」

 にこやかな顔色は一切変えず────いや目の奥は1ミリたりとも笑っていないのかもしれないが────藤沢先輩は180センチはあるであろう長身をパイプ椅子から離し、震える私に詰め寄ったのだった。