着替えから戻ってきた先輩はくやしいことに本日も美しかった。
 春だからか、椿の花模様が施された着物を上品に着こなしている。袖口からのぞくしなやかな指先、凛とした横顔、無駄も迷いもない動作。ひとつひとつが目を引いた。
 どの花もそこに置かれているだけですでに美しいのに、先輩の手で生けられる瞬間はとくに輝く気がする。命が再び宿る瞬間を見ているみたいで、ずっと目が離せなかった。

 淡いピンクに色づいた春の花々に見惚れている時間は本当にあっという間。
「もう帰っていいよ」と言われて初めて、足が痺れきっていることに気づいた。
 手を膝に当ててよいこらせと立ち上がったつもりが、次の瞬間、足元がぐらりと大きくふらついて。

「おわ……っ」

 立て直すこともできず、そのまま畳の上に無様に倒れこむ。

「はあ、なにやってるのドジだね。正座慣れてないだろうから足崩してていいよって言ったのに」
「だって……先輩が生ける花が綺麗で、足のことなんて考える余裕なくて」
「……昨日も思ったけど、キミって結構恥ずかしいことを恥ずかしげもなく口にするよね」
「ええっ!? 私なにか恥ずかしいこと言いましたか……」
「……いいや。まっすぐで嘘がないから好きだよ」

 先輩が近づいてきて、私のそばにそっと屈み込んだ。

「でもそういうのは俺だけにしてね」
「っ、え? はい」

 綺麗な顔がすぐ近くにあることに動揺して、ろくに意味も理解しないまま返事をしてしまう。
 なんか今……好きとかなんとか聞こえたような。

「俺以外にイイ顔してたら……そうだな、借金2倍」
「借金2倍!?!?」
「そうなったらさすがに荷物持ちの兼秘書だけこなしてても割に合わないよね。そのときはきちんと、身体で払ってもらうよ」
「う………、う………がんばり、ます」

 くすっと笑われた。同時に、おもむろに伸びてきた手が私の頬に触れる。
 さっきまで花を挿していた手。しなやかな動きを思い出してどきどきする。

「ちょっと触れるだけでこんなになるんだから、そうとう頑張んなきゃいけないな。先が思いやられる」
「だ、大丈夫です。借金を増やさなければいいハナシなのでっ」
「ふーん? そうはさせないけど」

 なんだか会話が噛み合ってない気がするのだけど。それとも緊張しすぎて私の頭のほうが回ってないのだろうか?!?!
 おそらくその両方だ。
 彼の才能に改めて魅了させられてしまったせいでおかしくなってしまった。先輩のことをもっと知りたいと思ってしまった。

 ────「キミが見ていてくれたら、ちゃんと大丈夫な気がしたから」

 ふと、あの言葉が脳裏をよぎる。

「そういえば、先輩」
「うん?」
「ちゃんと大丈夫、でしたか」

 きっと「なんのこと?」と、とぼけられるんだろうなと思ったけれど、先輩は意外にも真面目な顔で私を見つめ返した。

「……うん。ちゃんと大丈夫だったよ」
「ほんとうに?」
「うん。本当の本当に。……キミのおかげだね、ありがとう」
「そっか……よかった、私なんかでも役に立てたなら。……まあ、ただ見てただけなんですけどね」
「足痺れたのにも気づかないくらい真剣に向き合ってくれる子なんてこの世でキミくらいだから、もっと誇っていいよ」
「うう、それって褒めてますか……?」
「当然。褒めてるよ」

 ストレートに言われると照れてどうしていいかわからなくなる。
 だって今まで、勉強以外で褒められたことないんだもん。
 その勉強も、私にとってはあの家にいるための手段でしかないから……。
 先輩の言葉に、少しだけ救われた気がした。

「ありがとう……ございます」
「顔赤くして素直に喜んじゃうのかわい……」
「……へ? なんか言いましたか? ていうか藤沢先輩、近いのでは……」
「うん言ったよ。そんな可愛い顔もできんだね。いっそ閉じ込めておきたいくらい」
「?!?!?!」

 もちろんからかわれているだけなのはわかるけど、恋愛初心者には酷なほど刺激が強い。
 先輩こわい。

「うん。じゃあそういうことで、北森さん」

 どきどきを必死に抑え込んでいると、先輩が、明るくにこっと笑った。
 目の奥が笑ってない、なんてこともなく。だけど明るすぎて逆にこわい。何か企んでいるのでは。
 どうやらこの嫌な予感……

「この勢いで明後日の結婚式の付き添いもよろしくね」

 ────当たってしまったようです。