乃絵(のえ)が飛びだそうとした瞬間だった。
 九朗(くろう)の髪がいきなり伸びた。
 さらりとした黒髪が一気に腰に届く長さになる。
 伸びたのは髪の毛だけではない。
 体が大きくなっていく。

「う、うそ……」

 おそらく身長は二十センチくらいは伸びただろう。
 顔立ちも一気に大人び、二十代の青年に見える。
 乃絵はその姿に見覚えがあった。

月哉(つきや)様!!)

 大人の姿になった九朗が、再び刀を構えた。
 その瞬間、刀身が青い炎のようなもので包まれた。

(妖刀!!)

 先程までは普通の日本刀に見えていた刀は、まるで別物へと変貌していた。
 九朗――いや、月哉が刀を上段に構えて地面を蹴る。

「!!」

 勝負は一瞬でついた。
 黒装束の妖魔の剣士の体が袈裟懸(けさが)けに切り裂かれ、そして消えた。

 乃絵はおそるおそる木陰から出た。
 納刀すると同時に、月哉の姿は元の九朗へと戻る。
 一部始終を見ていなければ信じられない状況だった。

「く、九朗くんが……月哉様なの……?」

 ハッとしたように、九朗が振り返った。

「乃絵さん……逃げなかったのか」
「ご、ごめんなさい。気になって……」

 九朗がばつが悪そうに顔をそむける。

「月哉様って九朗くんなんだよね?」

 隠し通せないと悟ったのか、九朗が静かにうなずいた。

「妖刀を振るうには、まだ俺の体は貧弱すぎる。それで刀に見合うよう、大人の姿に変わるんだ。それゆえ、あまり長い時間妖刀を振るえない」
「ああ、それで……」

 月哉の剣は別名『神速』と言われている。一気に妖魔を倒す姿から付いた名前だが、短時間しか使えないためだったらしい。

(月哉様が九朗くんが大人になった時の姿……)

 いつもの小柄で華奢な姿からは想像もつかなかった。
 九朗がじっと乃絵を見つめる。

「できれば、このことは秘密にしておいてほしい。皇国守護職として活躍する青嵐(せいらん)組だが、反対派もいる。十六歳の子どもを最前線に立たせていると知られたら――」
「わ、わかってる! 誰にも言わない!」

 乃絵がきっぱり言うと、九朗がホッとしたように頬を緩めた。

「あ、ありがとう、助けてくれて」
「いや……」

 ふたりは無言で歩き出した。
 いつの()にか雲から晴れ間が覗き、曇天から晴天へと変わりつつあった。

 乃絵はちらちらと九朗を見つめた。
 妖魔を倒したという高揚がまるで感じられない。
 それどころか、気落ちしているようにすら見える。

(私が……彼の変身を見ちゃったからだよね……)

 申し訳なさに乃絵はうつむいた。

「悪かったな……」
「えっ」

 いきなり謝られ、乃絵は驚いて顔を上げた。

「がっかりしただろ。憧れの月哉の本性を見て」
「そんな……!」

 乃絵は驚いて九朗の顔を覗き込んだ。

「貴方は……今回も妖魔から私を助けてくれたわ。覚えてる? 去年も助けてもらったっていう話……」
「覚えてるよ。手を怪我(けが)した俺にハンカチを巻いてくれただろう」
「!!」

 乃絵は目を見開いた。
 まさか、そんなことまで覚えてくれていたとは思わなかった。

「わ、私、そんなことしかできなくて……」
「いや、嬉しかったよ」

 あまりに優しい目で見つめられ、乃絵は慌てて目をそらせた。
 心臓が大きく(はず)んで今にも口から飛び出しそうだ。

「今なら……包帯を巻けるのよ。巻き方を勉強したの! 簡単な応急手当ができるように、って! 家に帰ったら肩の傷の手当てをしてあげる」
「きみは努力家だな……」

 九朗がぽつりとつぶやいた。

「俺とは大違いだ……。俺は刀を振るうことしか能が無い」
「すごいことだよ! 妖魔を倒せるなんて!」

 皇国で最強ともてはやされているというのに、なぜ九朗がそんな悲しげな目をしているのか乃絵には理解できなかった。

(なんで、そんなに自分を卑下するの?)
(人がいなければ、食事もしないのはなぜ?)
(もっと……彼のことが知りたい!)

「なるべく早く屋敷を出ていくよ」
「えっ?」

 九朗の言葉に乃絵は目をむいた。

「ど、どうして?」
「女学生を付け狙う妖魔は退治した。きみの護衛も必要ない。俺が公爵家にお世話になる意味がなくなった」
「……!」
「嫁入り前の娘がいる家に若い男が住み込んでいるのは世間体的にも好ましくない。きみは俺の世話でてんてこ舞いになるし、迷惑をかけたな」
「そんなっ……!」

 確かに、九朗の言っていることは正しい。

(でも私……嫌じゃなかった)

 九朗の面倒を見るのが大変だと言いながらも、悪い気分ではなかった。
 世話を焼くのが楽しかったのだ。
 次は彼に何を作ってあげよう、と考えていたのに。

「私はっ……いてくれても全然構わない!!」

 ぎゅっと袴を握り、乃絵は声を振り絞った。

「それに……家に用心棒がいるって安心だし!」

 顔がどんどん火照(ほて)ってくる。

(どうしちゃったの私! なんでこんなにドキドキしているの!!)

 うつむく乃絵を九朗がじっと見つめた。

「そうか、そうだな……。きみは(あや)うい」
「えっ……」
「きみはどうもある種の人間の関心集めてしまうようだな。去年も男を(そで)にしたのでは?」
「去年は……女性だったの」

 なぜか乃絵を気に入って、つきまとってきた女性がいた。

「そういえば、あの妖魔は女性の姿をしていたな……」

 九朗がくすっと笑った。

智之(ともゆき)様が心配するのもわかる。きみは放っておけない人だな」
「な、何よ、放っておけないのは貴方でしょ! 私がいないとご飯も食べないのに!」

 九朗がフッと笑う。

「俺は大丈夫だ」
「全然ダメよ。朝は起きられないし、お風呂では溺れかけるし! ご飯も食べないし!」

 乃絵は勇気を振り絞った。
 なるべく平然と動揺していない振りをする。

「だから、これからもウチにいたらいいと思う!」

 九朗が目を丸くする。

「嫌じゃないのか。俺はきみが憧れているようなヒーローじゃない」
「わかってるわよ!」

 そう言いながら、乃絵は心の中で叫んでいた。

(ううん、貴方は私のヒーローだよ)

 たった数日だけど、それがわかった。乃絵を(おびや)かすものから彼は守ってくれた。

「でも、貴方と一緒に住むのは悪くない、って言ってるの!」
「そうか……」

 九朗が立ち止まり、じっと考え込む。
 乃絵はそんな九朗を息を呑んで見つめた。
 しばらくして、九朗の澄んだ目が向けられた。

「きみは……俺にそばにいて欲しいのか?」
「……っ!」

 乃絵はぐっと拳を握りしめた。

「そ、そうよ! 悪い!?」
「そうか……なら――このまま住まわせてもらうかな」

 乃絵は天にも昇る気持ちを見透かされないよう顔を引き締め、重々しくうなずいた。

「それがいいと思うわ!」

 乃絵は軽やかな足取りで道を進んだ。
 今や空から雲は消え去り、明るい晴天が広がっていた。