日が沈んだ頃、九朗(くろう)が見回りから帰ってきた。
 なんとか夕飯を食べさせ、乃絵(のえ)が部屋でくつろいでいるとドアがノックされた。

「あの、お嬢様。九朗様を呼びにいったのですが、お返事がなくて……」

 女中の言葉に乃絵は慌てて九朗の部屋に押しかけた。
 食事を終えてから一時間ほどたっている。

(まさか、倒れているんじゃ……)

 最低限の食事はさせたものの心配で、乃絵はノックもせずにドアを開けた。
 九朗が横向きになり、畳の上で倒れている。

「九朗くん!!」
「ん……?」

 九朗がゆっくり目を開けると、眠たげに目をこする。

「なんだ?」
「体調でも悪いの?」
「いや、布団を敷くのが面倒で……」

 どうやらうたた寝していたらしい九朗が、のろのろと体を起こす。
 乃絵はこれみよがしにため息をついた。

「九朗くん! お風呂の時間なんだけど! お客様だから、九朗くんから入ってくれないと私が入れないんだけど!」
「……俺はいい」
「良くないでしょ! さあ、入って入って!」

 乃絵が()かすと、九朗が仕方なく立ち上がる。
 乃絵は着替えとタオルを手に背後からついていく。

「ほら、しゃきしゃき歩いて。お風呂は一階よ!」

 そうやってなんとか風呂場に押し込んだものの、三十分たっても出てこない。

「まさか溺れてるんじゃないでしょうね……」

 ぬぼうっとした顔で風呂場に入った頼りない姿を思い出し、乃絵は気が気ではない。
 女中たちは剣士である九朗に恐れをなしているのか、関わりたくない様子で乃絵の顔色をうかがっている。
 一応、両親にも頼まれているため、放っておくわけにもいかない。

(ああ、もう仕方ない!)

「九朗くん!? まだ入ってるの?」

 乃絵はそろそろと、お風呂場に足を踏み入れた。

(もう! 嫁入り前の娘がすることじゃないわよ!)

 脱衣所には脱いだ浴衣が置かれている。
 乃絵は曇りガラスをノックしてみた。

「九朗くん? 大丈夫?」

 返事がない。

(まさか、本当に溺れているの?)

 九朗が静かに湯の中に沈んでいる最悪の姿が脳裏に浮かんだ。

「九朗くん! 入るわよ!」

 乃絵は思い切って風呂場の扉を開けた。

「!!」

 湯船の中で、顔だけかろうじて出して湯につかっている九朗がいた。
 湯煙で見えづらいが、普通に呼吸をしている。
 目をつむり、今にも湯の中に沈んでしまいそうだ。

「九朗くん!!」
「え……ああ……寝ちゃってた」

 耳元で大声で呼ぶと、九朗がようやく目を開けた。

「顔真っ赤じゃない! のぼせちゃって! 早く出て!」

 乃絵は必死で九朗の裸体から目をそらせながら叱咤(しった)した。

「あ、ああ、ごめん」
「きゃああああああああ!!」

 いきなり九朗がざばっと湯船から立ち上がったので、乃絵は屋敷中に響く声を上げる羽目になった。

「もう! デリカシーってものがないの!?」

 風呂場から飛び出してカンカンに怒る乃絵を、両親が必死に宥める。

「すまないな、乃絵。おまえはしっかりしているから、つい頼ってしまう……」
「でも、九朗くんがちゃんと食事をとってお風呂に入るなんてすごいわ。これも乃絵のおかげね!」

 両親が必死で乃絵を褒めそやす。

「さすが乃絵だな。まあ、これも花嫁修業と思って……」
「ぐっ……」

 それを言われると弱い。

「わかりました! でも、私が十八歳になったら、いい縁談をお願いしますからね!」
「ああ。ちゃんとした相手に繋ぐから」
「私の好きな相手ですからね!」
「ああ。乃絵の好きな人なら誰でもいいから」

 言質をとった乃絵は、ようやく怒りの矛先を収めた。

(あとから、剣士はダメ!って言っても遅いんだから! 家督はお兄様が継ぐし、私は好きなところに嫁に行くんだ!)

 乃絵は改めて誓った。