結月は大きく深呼吸をし、迷いや不安を拭い去る。巫女としての使命を果たす時。
目を閉じて、幼少の頃見ていた母の姿を思い出した。
「守りたいという思いを力に変えるの。恐れては駄目。巫女にしか出来ないことなんだから」
いつもそう言っていた母の言葉を今一度胸に刻む。
ぐっと拳を握り目を開いた時、彼女は懐かしい声を耳にした。
「……結月」
はっとした。自分の名を呼んだのは、遠い昔に聞いていた優しくて暖かな声の人。
──お母さん……。
声は聞こえたのに姿は全く見えない。でも確かに、母の温もりがここにある。涙が溢れそうになった。
「自分を信じて。見失わないで。大丈夫、お父さんとお母さんの子だもの。大好きよ、結月」
すっと空気に溶け込むようその声が消えていく中で、結月は静かに指先で涙を拭っていた。
──お父さん、お母さん、ありがとう。私、もう恐れたりしない。
結月は胸元に入れていた母の簪を取り出す。簪がいつもより綺麗に見えた。まるで母の声と共鳴していたかのように、黄金の光輝を放っている。
恐怖を払拭し信念を確固たるものへと変えていくように、ゆっくりと頭の覆い布を解いた。
流れるように落ちた髪の一筋一筋が銀の絹糸のように輝き、凛とした空気が結月を纏う。
この銀髪を人前に晒すのは何年ぶりだろうか。
結月は今一度母の簪を見つめ深く息を吐くと、髪をまとめ上げてそこに簪を挿した。
自分の髪に挿すことはないと思っていた簪は、何も抵抗もなく髪の中へと入っていく。まるでこの瞬間を待ち望んでいたかのような滑らかさだった。
──二人とも、見ていてください……!
暁生たちのいる方に真っ直ぐ焦点を合わせ、結月は力いっぱい駆け出した。
──✩₊⁺⋆☾⋆⁺₊✧──
暁生たちは土蜘蛛の猛攻を必死に凌ぎながら、結月が結界を張りに来ることを信じて待っていた。
──結月は必ず来る!
暁生は刀を構え直し、土蜘蛛の動きを冷静に見極める。完全体ではないということも功を奏し、この調子でいけば土蜘蛛は滅せられそうだ。しかし、巫女の結界と浄化がなければ完全な勝利とは言えない。とどめを刺せそうで刺せないもどかしさが募る。
瀕死の土蜘蛛もやられまいと必死である。振り下ろされる手足は鉛のように重く、刀で攻撃を受け止める度に腕に負荷がかかっていく。
その時、遠くから結月の声が響いた。
「暁生様……!」
暁生は視線を巡らせ、結月がこちらに向かって力いっぱい駆けてくる姿を捉えた。
やはり来てくれたと安堵すると共に、はっと息を呑む。美しい銀髪が露わになり、一つに束ねられていたのだ。戦いの最中にも関わらず、一瞬だがその綺麗な姿に意識が向いてしまった。
「結月! 俺の後ろへ! 援護する!」
すぐに戦いへと意識を戻した暁生は結月の方へと向かい彼女の前に立つ。
「ありがとう。来てくれると信じていた」
そう言ってくれた暁生の背中が頼もしく見えた。そして、『信じてくれる人がいる』ということがまた結月の力となる。
「暁生様、私、結界を張ってみます」
蒼い瞳は巫女としての使命感が宿っていて、そこにはもう迷いは微塵もなかった。
結月は祈るよう胸の前で静かに手を合わせ、目を閉じる。手のひらに意識を集中させると光が集まりだし、それは輝きに変わっていく。
ゆっくりと手を開くと手のひらの上に三枚の結界札が出現し、宙へと浮いた。
「あの時と同じ手は食わぬ! おのれ、巫女め!」
当然土蜘蛛も黙って見ていられるはずがなく、凄まじい勢いで結月たちの方へ手足を振り下ろす。
暁生が刀で攻撃を防ぐも、二人もろとも切り裂くような鋭く重い一撃は足元の地面を抉るほどの衝撃だった。
「……結月! 今だ!」
「はい!」
結月が土蜘蛛の方へ手を伸ばすと結界札が三角形を描くように土蜘蛛の周囲に配置され、光の壁が完全に敵を包み込んだ。
「貴様……!」
土蜘蛛は結界を破ろうと最後の力を振り絞り闇雲に暴れ散らす。
結月の結界が効いたことに皆が安堵するも、すぐに結界に罅が入り出し、一刻を争う状況には変わりない。
「もう少しだ、結界を保っていてくれ」
暁生は刀を握り直し息を整えると、力強く地面を蹴り出し土蜘蛛の懐へと飛び込む。人間離れをした素早い動きと渾身の力を込めた緋い一閃が土蜘蛛を貫いた。
呻き声を上げながら巨体が徐々に崩れ落ちていく。四つ目の光が薄らいでいき、ついに土蜘蛛は滅っせられた。
しかし、それで終わりではない。穢れを浄化しなければまた同じことの繰り返しになってしまう。
結月はその役割まで担っていることを理解していた。すぐに土蜘蛛のそばに近寄り、膝をついて浄化を始める。
「光の御加護よ、穢れし魂を導き、安寧の時へ……!」
結月が発した詠唱に結界が反応し清らかな光へと変わり、暖かみのある光は土蜘蛛が纏っていた闇を浄化していく。
巨体は徐々に淡い光の粒子となり、そして静かに散っていった。
暗かった空も晴れ渡り、清々しい空気に戻る。
「結月!」
全てが終わり暁生は疲労の色を見せながらも、明るい表情で結月の方へと歩み寄った。
「ありがとう、結月」
「とんでもないです、暁生様たちがいてくださったから。こちらこそ、ありがとうございます」
「いや、俺たち滅妖師だけでは駄目だった。結月がいてくれたから……」
ふと暁生の言葉が途切れた。結月の身体が前のめりに揺れたのだ。
咄嗟に差し伸べた暁生の腕が倒れそうになる結月を抱きとめた。
「……申し訳ございません、少し、めまいが……。こんなに神力を使ったことがなくて……」
結月の顔は蒼白としており、どれほどの神力を使ったのかがうかがえた。
「少し休んでいるといい」
暁生は優しく結月を抱きかかえ微笑む。
結月は彼の行動に驚いたものの、その腕から伝わってくる温もりと安心感から身体の力を抜くと、すっと目を閉じ浅い眠りについた。
「……藤仁たちもよく耐えてくれた。ありがとう」
「いえ、暁生様の援護が我々の使命ですから」
左手を胸にかざしながら藤仁と護衛三人は敬礼をする。緊張から解放された四人にも疲労感がどことなく漂っていた。
「藤仁。最初に言った通りだ、俺はこの銀髪の巫女と結婚する」
誇らしげに言った暁生に、藤仁はただ頷き再度敬礼をする。
藤仁からしても結月の力は申し分ないほどであったので、それを歓迎するかのように静かに微笑みを浮かべた。
「暁生様! お待ちください!」
穏やかな庭園の静寂を破ったのは、紗和の母が出した金切り声だった。
這いつくばるように頭を下げた彼女の姿が暁生たちの目に飛び込んだ。