結月(ゆづき)は大きく深呼吸をし、迷いや不安を拭い去る。
 巫女としての使命を果たすとき。
 目を閉じて、幼少のころ見ていた母の姿を思い出した。
「守りたいという思いを力に変えるの。恐れては駄目。巫女にしか出来ないことなんだから」
 泣いている結月の頬にそっと手を添えながら微笑む母。そこにあったのは、包み込むような優しさと、巫女としての揺るぎない覚悟だった。
 母の言葉をもう一度胸に刻む。
 ぐっと拳を握り、目を開いたとき。どこからともなく、懐かしい声がふわりと耳をかすめた。 
《……結月》
 はっと息を呑む。
 自分の名を呼んだのは、幼いころに何度も聞いた、あの声。
 ──お母さん……。
 声は聞こえたのに姿は全く見えない。でも確かに、母の温もりがここにある。
 涙があふれそうになった。
《自分を信じて。見失わないで。大丈夫、お父さんとお母さんの子だもの。大好きよ、結月》
 すっと空気に溶け込むように声が消えていく。
 ──お父さん、お母さん、ありがとう。
 結月は涙を拭い、胸元に入れていた母の(かんざし)を取り出す。
 簪がいつもより綺麗に見えた。母の声と共鳴したかのように、黄金の光輝(こうき)を放っているからだ。
 簪に触れている指先が、じんわりと温かくなる。それは単なる懐かしさや感傷ではなく、体内から広がる確かな力だった。
 ──私、もう恐れたりしない……!
 恐怖を払拭し、信念を確固たるものへと変えていくように、結月はゆっくりと頭の覆い布を解く。流れるように落ちた髪は銀の絹糸のように輝き、凛とした空気が彼女を(まと)った。
 この銀髪を人前に晒すのは、何年ぶりになるだろう。
 幼い頃から避けられ、忌まれたこの髪。それを本当の気持ちと一緒に布の下に隠していた。
 けれど、この瞬間だけは違う。
 この髪は忌むべきものではない。母と父がくれた、自分の存在証明。
 結月はいま一度母の簪を見つめ深く息を吐くと、髪をまとめ上げて簪を挿した。
 自分の髪に挿すことはないと思っていた簪は、何も抵抗もなしに髪にすっと馴染んでいく。まるで、この瞬間を待ち望んでいたかのような滑らかさだった。
 簪が完全に髪に馴染んだその瞬間、(まばゆ)いほどの光が結月の周囲にふわりと広がった。
《簪、挿してくれてありがとう。結月なら絶対できるわ。お母さんは、ずっと見守ってるからね》
 そう聞こえた母の声が現実だったのか想像だったのか、はっきりとはわからない。ただ確かに感じた愛情が、今までにない力を自分に与えてくれるような気がした。
 ──二人とも、見ていてください……!
 暁生たちのいるほうにまっすぐ焦点を合わせ、結月は力いっぱい駆け出した。

◆◆◆

 暁生は土蜘蛛の猛攻を必死に凌ぎながら、結月が結界を張りに来ることを信じて待っていた。
 ──結月は必ず来る!
 その信念が彼の心を強く支えている。
 暁生は刀を構え直し、土蜘蛛の動きを冷静に見極めた。
 完全体ではないということも功を奏し、この調子でいけば土蜘蛛は滅せられるだろう。しかし、巫女の結界と浄化がなければ完全な勝利とは言えない。
 とどめを刺せそうで刺せないもどかしさが(つの)る。
 瀕死の土蜘蛛も、やられまいと必死で抵抗していた。
 振り下ろされる手足は鉛のように重く、刀で攻撃を受け止める度に腕に負荷がかかっていく。
 そのとき、遠くから結月の声が響いた。
「暁生様……!」
 彼女の声が一筋の光のように届いた瞬間、暁生の胸に安堵が広がる。
 ──やはり来てくれたか!
 暁生は視線を巡らせる。
 力いっぱい駆けてくる結月の姿を捉えた彼の目が見開かれた。
 美しい銀髪が(あら)わになっている彼女は、月光を(まと)ったかのように煌めいていた。結月からあふれ出る力は神聖な輝きを放っているようで、周囲の空気まで変えてしまいそうなほどだ。
「結月! 俺の後ろへ! 援護する!」
 すぐに戦いに意識を戻すと、結月のそばに駆け寄り、前に立つ。
「ありがとう。来てくれると信じていた」

 その一言が、結月の胸に強く届いた。
 暁生の頼もしい背中を見つめていると、不思議と力が湧いてくる。不安と恐怖ですくんでいた足の震えも止まっていた。 
 ──私を信じてくれる人がいる。
 そう思うだけで、こんなにも心が強くなるなんて。
 結月は深呼吸をし、決意を新たにした。
「暁生様、私、結界を張ってみます」
 蒼い瞳は巫女としての使命感が宿っていて、そこにもう迷いは微塵もなかった。
 結月は祈るよう胸の前で手を合わせ、目を閉じる。
 手のひらに意識を集中させると光が集まりだし、それは輝きに変わっていく。ゆっくりと手を開くと、手のひらの上に三枚の結界札が出現し、宙へと浮いた。
「あのときと同じ手は食わぬ!」
 当然土蜘蛛も黙って見ていられるはずがなく、凄まじい勢いで結月たちの方へ手足を振り下ろす。
 暁生が刀で攻撃を防ぐも、二人もろとも切り裂くような鋭く重い一撃は足元の地面を(えぐ)るほどの衝撃だった。
「……結月! 今だ!」
 暁生が声を張り上げ、必死に土蜘蛛の攻撃を凌ぎながら叫んだ。
「はい!」
 力強く答えた結月は土蜘蛛の方へと手を伸ばす。結界札が三角形を描くように土蜘蛛の周囲に配置され、光の壁が完全に敵を包み込んだ。
「おのれ、巫女め……!」
 土蜘蛛は結界を破ろうと、最後の力を振り絞り闇雲に暴れ散らす。
 結界が張れたことに安堵したのも束の間、鈍い音とともに光の壁にひびが入り出した。
 破壊されないよう、必死に力を込める。
 顔には冷や汗がにじみ、全身が震えていた。だが決して手は緩めない。ひびが広がる中、結界はギリギリで耐えていた。
「もう少しだ、結界を保っていてくれ!」
 暁生の言葉を受けた結月は深く(うなず)き、さらに集中を強めた。 
 暁生は刀を握り直し息を整えると、力強く地面を蹴り出し土蜘蛛の懐へと飛び込む。人間離れをした素早い動きと、渾身の力を込めた(あか)い一閃が土蜘蛛を貫いた。
 (うめ)き声を上げながら、巨体が崩れ落ちていく。
 徐々に四つ目の光が薄らいでいき、やがて、完全に沈黙した。
 戦いが終わったはずなのに、どこか空気は張り詰めている。静寂が訪れても緊張の糸はまだ切れていなかった。
 ──これで終わりじゃない。
 結月は土蜘蛛の亡骸へと踏み出す。
 穢れを浄化しなければ、また同じ(わざわい)が繰り返されてしまう。
 ──もう二度と、悲しみを繰り返させたりしない。 
 結月は膝をついて手を組み、浄化を始めた。
「光の御加護よ、穢れし魂を導き、安寧(あんねい)のときへ……!」
 結月が発した詠唱に結界が反応し、光が清らかなものへと変わった。暖かみのある光は、土蜘蛛が(まと)っていた闇を浄化していく。
 残された体は淡い光の粒子となり、空へと向かい消え去っていった。
 闇の気配が消えた屋敷には、青空が広がっている。
 辺りは清々しい空気で包まれていた。 
「……結月!」
 すべてが終わり暁生は疲労の色を見せながらも、明るい表情で結月の方へと歩み寄った。
「ありがとう、結月」
「とんでもないです、暁生様たちがいてくださったから。こちらこそ、ありがとうございます」
「いや、俺たち滅妖師(めつようし)だけでは駄目だった。結月がいてくれたから……」
 そこで、ふと暁生の言葉が途切れたのがわかった。
 ──あ……れ。
 足に力が入らず、勝手に体が前に傾いていく。
 このままだと倒れてしまうという瞬間、咄嗟(とっさ)に差し伸べた暁生の腕が結月を抱きとめた。
「……申し訳ございません、少し、めまいが……。こんなに神力を使ったことがなくて……」
 自分でもわかるほど体から血の気が引いていく。
 目に映る景色は、ゆらりと揺れていた。
「少し休んでいるといい」
 そう言って、暁生はそっと結月を抱き上げる。
「そんな、ご迷惑じゃ……!」
「迷惑なんかじゃない」
 優しく微笑んでくれるその顔に、じんと胸が打たれた。
 驚きはしたものの、彼の腕から伝わる温もりと安心感から、自然と体の力が抜けていく。
「……すみません」
「よく頑張ってくれた、ありがとう」
 彼の言葉が体と心に染み渡る。
 気づけば、目頭が熱くなっていた。
 ──お母さん、お父さん……。私、やったよ。
 意識がふっと遠のいていく。
 もう、力を入れる必要もない。
 眠りに落ちるように、結月は静かに目を閉じた。
 
「……藤仁(ふじひと)たちも、よく耐えてくれたな。礼を言う」
「いえ、暁生様の援護が我々の使命ですから」
 左手を胸にかざしながら藤仁と護衛たちは敬礼をする。
 緊張から解放された四人にも疲労感がどことなく漂っていた。
「藤仁。最初に言った通りだ、俺はこの銀髪の巫女と結婚する」
 誇らしげに言った暁生に、藤仁はただ(うなず)き再度敬礼をする。
 藤仁からしても結月の力は申し分ないほどであったので、それを歓迎するかのように微笑みを浮かべた。 
「暁生様! お待ちください!」
 平和を取り戻した庭園の静寂を破ったのは、紗和(さわ)の母が出した金切り声だった。
 その声に一瞬、空気が張り詰める。
 這いつくばるように頭を下げた彼女の姿が、暁生たちの目に飛び込んだ。