式神の蝶に導かれたどり着いた場所の光景に、結月は思わず息を呑んだ。
 紗和と叔母様がうずくまり泣いていた。叔父様も呆然としながら天を仰いでいる。そのそばで軍服を着た男の人が五人。滅妖師(めつようし)だろう。刀に手を添えて、緊迫した空気がこちらまで伝わってくるような気迫だ。
 そして彼らの視線の先、屋根の上に妖がいた。
 
 ──やっぱり! あの土蜘蛛!
 
 胴体にある深い傷口は滅妖師の父がつけたものに間違いなかった。三本しかない手足が怨念のように(うご)めいていて、それがまた恐怖を(あお)るようだった。
 
 ──お父さん、お母さん……!
 
 土蜘蛛は復活し、またこの御屋敷へと襲来した。けれど、両親はもう帰ってはこない。悔しさと居た堪れなさで、結月はまた巫女服の上から(かんざし)を握りしめた。
 
 それと同時に、暁生(あきお)は戻ってきた式神の気配に気がつく。そして、屋敷の物陰からこちらを見ている一人の巫女装束の女が視界に入った。
 
 ──銀髪の巫女!
 
 頭に黒い布を(まと)っていたが、あの繊細な蒼玉色(せいぎょくいろ)の瞳と儚げな顔立ちは彼女に間違いなかった。
 恐々とした表情を浮かべていながらも、土蜘蛛を見据える瞳は激昂(げきこう)し青い炎が揺らめいているかのようにも思える。

 暁生が結月の存在に気がついたのと同じくして、土蜘蛛もまた彼女の存在を感知した。
 四つ目をぐるりと結月のいる物陰に移し、雄叫びを上げる。
 
「女……! あの女の気配がするわ!」

 ぐぐっと力を込め折り込んだ三本の手足をバネのように勢いよく伸ばし、屋根の上から飛び跳ね結月へと向かっていく。一本の手足をなんの躊躇(ためら)いもなく、数年の恨みがこもった憎悪に満ちている一突きを結月へ振り下ろした。

 結月はどうすることも出来ずに立ちすむ。身体が硬直してしまっていた。
 土蜘蛛の四つ目と目が合い、どす黒く光っているその目に殺気を感じものの、突如として襲いかかってくる鋭利な手足に瞬時に反応できなかったのだ。
 
 ──死……。
 
 両親と同じ結末を想像し、何も考えられなくなった刹那。

「伏せろ!」

 男性の叫び声と、金属と硬い表皮がぶつかり合った鈍い音で結月は正気を取り戻した。
 滅妖師の一人の男性が土蜘蛛の手足を弾き返し、こちらを守るかのように立ちはだかっている。受け止めた激しい衝撃でマントがひるがり、一房にまとめている青みがかった黒髪がなびいていた。
 結月は簪を握りしめたままその男性の背中を見つめる。気迫がありながらも頼もしい後ろ姿に、震えていた足が止まり安堵感すら覚えた。

「怪我は!?」
 
 暁生は土蜘蛛を見据えたまま振り向かず、声だけをかけた。

「……ありません。助けてくださり、ありがとうございます」
「ならよかった」
 
 背後から聞こえた彼女の声はとても清らかだった。
 そして、恐怖心こそ多少あるものの落ち着きのある物言いだったことから暁生は眉を開いた。

「暁生様! ご無事ですか!?」

 すぐに藤仁(ふじひと)と護衛三人が駆けつけ、彼らの守備をするよう前に立つ。
 四人は抜いた刀に指先を滑らせる。撫でるように触れたところから呪文が浮かび上がり、刀身が(あか)く染まる。刀は燃え上がった炎のように光っていた。

「おのれ滅妖師! 此度も我の邪魔をするか!」

 土蜘蛛はさらに咆哮(ほうこう)する。
 これ以上、土蜘蛛を暴れさせるわけにはいかなかった。不完全体とはいえ、ここで食い止め消滅させなければ被害は拡大し街にまで及んでしまう。
 
「藤仁、少し時間を稼いでくれ」
「承知しました」

 暁生の命に従って四人は臨戦体勢を取り、いつまた襲撃がきてもいいようにと土蜘蛛と睨み合い、間合いを取った。
 その間にと暁生は巫女の方へと振り返り「手短に話す」と伝え、問う。

「名はなんという?」
「……結月と申します」
「結月、土蜘蛛に結界を張ってくれるか? いや、張ってほしい。結月にしかできない」

 結月は驚いた。
 振り返ったその男性が美しいほど端正な顔立ちだったからとか、いきなり名を尋ねられたからとかではない。自分の名が敬意を払われながら呼ばれたのが初めてだったからだ。
 しかし、自分が結界を張ってもすぐ破られてしまうだろう。ましてや相手が土蜘蛛ならば尚更だということは結月が一番よくわかっていた。
 
「私……、巫女としての力は全くなくて。お力になりたい気持ちはもちろんありますが、私では駄目なんです」

 結月は目の前にいる男性から目を逸らし、うつむいてしまう。

「そんなことはない。結月にならきっとできる。俺の式神を見破り、打ち消したほどの巫女だ」
「式神……。もしかして、あの蝶は貴方様のものだったのですか?」
「そう、神力の強い巫女へと飛ばした式神だ。それに反応した巫女が結月だった」

 男性はにこりと微笑みながら説く。優しくて、信頼してくれている瞳。こんな暖かな瞳で自分を見つめてくれた人は両親以外にいなかった。
 
「……貴方様のお名前は?」

 結月は自然とそう尋ねていた。
 初対面だったのに、巫女として認めてくれたこの男性のことを信じてみたいと思った。
 
「暁生」

 ゆっくりと、穏やかな表情をしながらも真剣な眼差しで名乗った暁生に結月は釘付けになった。その名が結月の胸に深く響く。どんな暗闇の中だろうと誰よりも輝いて、自分まで照らしてくれそうな、そんな名前だ。

「暁生様!! まだですか!?」

 切羽詰まった藤仁の声が向けられる。襲いかかってきた土蜘蛛に皆が応戦していた。
 暁生は視線をその声の方へ向け、静かに刀を握り直す。緋く染まっている刀は、彼の闘志を反映させているかのように(きら)めいている。

「結月、準備ができたら結界を張ってくれ。……頼んだ」

 そう言ってふっと微笑んだ暁生はすぐに顔つきを鋭いものへと変え、地を強く蹴り出し土蜘蛛へと駆け出す。赤い刀が閃光のような光を残していった。
 滅妖師五人は土蜘蛛を包囲するような陣形を取り、被害を最小限にするよう食い止めている。土蜘蛛は巫女を殺り損ねた(いきどお)りから大きな唸り声を出し、怒り狂うように手足を振り下ろしていた。

 その光景を見ている結月は立ち尽くしていながらも、胸の中で今までにない感情が目覚めようとしているのがわかった。
 このまま土蜘蛛の好き勝手にさせてしまっていいのか。両親の仇を打ちたくはないのか。自分を巫女として認めてくれ、信頼を託してくれた人の気持ちを裏切っていいのか。
 
 ──私だって……巫女よ!
 
 必ず結界を張ってみせる。
 そう決意した青い瞳は(にご)りのない澄み切ったものだった。