空気をびりっとひりつかせる咆哮だった。土蜘蛛は怒声を上げ続ける。
「あの巫女と滅妖師だ! 今すぐ連れてこい!」
怒りに満ちた様子で手足の一本を瓦屋根に振り下ろす。その一撃で砕けた瓦が四方へと飛び散った。
土蜘蛛から否応なしに感じる、巫女と滅妖師への執念。憎悪に満ちた妖気は周囲を圧倒し、より一層空気を重くする。
その二人に復讐するために土蜘蛛はやってきたのだと、暁生は即座に察した。
「暁生様! 早く滅しましょう!」
「待て。迂闊に手を出すな。手負いとは言え、土蜘蛛は厄介だ」
痺れを切らしたように言った護衛の一人を、なだめるように制止する。
土蜘蛛が厄介なのは、単純に妖力の強さだけではない。
奴は死ぬ時に小さな蜘蛛を撒き散らす。その蜘蛛たちが時を経て再び集まり、やがて土蜘蛛へと姿を変える。滅するには結界を張り巡らせた中で倒し、それを浄化させなけらばならない。
巫女と滅妖師が共同しないと消滅しないあやかしなのだ。
──この娘、紗和にそれができるか?
不安がよぎる。
ちらりと目をやると、紗和は震えながらも結界札を手にしていた。
「……暁生様! 私が結界を貼りますわ!」
自信と、わずかに恐怖が混ざった声。
気が高ぶっているのがわかる。動揺と高揚が入り混じり、完全に冷静さを欠いていた。
「いや、少し待て。下手に刺激すると……」
だが、紗和は聞かなかった。
「私なら……できる!」
「……っ、紗和!」
そのまま勢いに乗じて結界札を土蜘蛛へと飛ばす。
すぐに結界は発動した。
だが土蜘蛛が手足を一振りしただけで結界は破れ、札は紙屑のように燃え尽きた。
「……そんな!」
言葉を失った紗和が後ずさる。
「お前には無理だ、ここは引け」
庇うでもなく、淡々と突き放すような声。
暁生の不安は的中した。
──やはり、この娘にはできなかった。
そんな暁生の思考を断ち切るように、土蜘蛛の笑ったような声が響く。
「そこの女、お前が代わりに死ぬか?」
土蜘蛛がいやらしく紗和の方へと視線を巡らせたとき。背後から悲痛な叫びが上がった。
「申し訳ございません! あの二人はあなた様の傷にやられ、五年前に亡くなりました! どうか、お許しを!」
切羽詰まった声で情願するのは、紗和の両親だった。地面に体を伏せ、必死に頭を下げている。
両親の言葉を聞いた瞬間、暁生はすべてを悟った。
──土蜘蛛の復讐相手は、もうこの世にはいない。
だが、そんな嘆願で土蜘蛛が許すはずもないことも暁生にはわかっていた。
「ならば、その女を寄越せ! さもなくば皆殺しだ! 我の怒りや苦しみ、お前たちにわかるまい!」
再度手足を振り下げた土蜘蛛は、次々と瓦屋根を崩壊させていく。
暁生はどうしたら土蜘蛛を消滅させられるか、思慮を巡らせていた。
「どうしてここに入ってこれた? この屋敷には結界札が張ってある。巫女の結界を破るなんて、そうできる芸当ではないはずだが?」
わずかな疑問を口にしつつ、思考を整理するため暁生は冷静に土蜘蛛に問う。
すると何を思ったのか、土蜘蛛はガハハと大声を上げ、空気を振動させるような笑い声を響かせた。
「まさに今日よ! 結界札があの忌々しい巫女のものから張り替えられていた! だから入ってこれた! この数年、虎視眈々と待っていた甲斐があったわ!」
暁生は見合い前に見た、正門の真新しい結界札のことを思い出した。
何か知っているのではないかと、紗和の方を一瞥する。彼女は顔を蒼白とさせ、体を抱きながら大きく震えていた。
「紗和……もしかして、あなた!?」
その異変にいち早く気づいたのが、紗和の母親だった。そして彼女の肩を力強く掴む。
震えるばかりで何も言わない紗和のそれは、もう答えのようなもの。
「あなたがやったのね!? どうして遥香の結界札を取ったの!? 彼女の力がどれだけ偉大だったか、知ってるでしょう!?」
「……違うの。もう忌み子もいなくなる……。だから、遥香伯母様の結界札だって、もう必要ないかと思って……。忌み子の血なんて……」
呟くように言う紗和の頬を母が強く叩いた。頬を抑えて放心状態になった紗和だったが、ほどなくして大粒の涙を流し始める。
札を貼り換えたせいだとわかったところで、紗和には戦える力がない。
絶望が場を支配する中、暁生の脳裏に一人の女の顔がよぎった。
──あの銀髪の巫女なら、どうだ?
式神を見破った巫女。
彼女がどうしてここにいないのか不思議だったが、巫女としての力は申し分ないはず。もはや残された手は、それ一つのみ。
誰にも気づかれないように暁生は片手で白札を握り、蝶の式神を彼女へと向け放った。
◆◆◆
食器の洗い物をしている最中、屋根の方から大きな揺れが伝ってくるのがわかった。
台所にいる人たちは「なんだ?」と不審そうに天井を見上げる。
結月も同じように見上げたが、埃が落ちてきただけだった。その埃に「こほん」と咳き込む。
それ以降の異変がなかったので皆作業に戻ったが、すぐにまた屋根の方から大きな揺れと音がしたのがわかった。只事ではないと、侍従たちの顔がいよいよ険しくなる。
それと同時に、侍女の叫ぶような声が聞こえた。
「大変よ! あやかしが! あやかしが屋敷に!」
断片的に発する言葉がいかに緊迫しているのかを表していた。
──どうしてあやかしが? お母さんの結界札は?
結月はここにいる誰よりも焦燥に駆られた。
勢いで外に飛び出し、やっと異変に気がつく。
つられるようにして出てきた侍従たちも、外の様子を見て唖然とする。
屋敷は夜の帳が下ろされたかのように暗かった。
結月はただならない不気味な気配の断片を感じ取っていた。思わず身震いしてしまうほどの、禍々しい雰囲気が漂っている。
「なあに、今日は見合いの日! 滅妖師様がいらっしゃるんだ! すぐに退治してくれるさ!」
声を張り上げた調理人の言葉に、皆胸を撫で下ろす。
しかし、結月は母の結界札がどうなっているのか気になってしょうがなかった。
もし母の結界を破ってきているのなら、それは恐ろしいほどの妖力を持ったあやかし。
──まさか……。
結月は、そのあやかしに心当たりがあった。
──土蜘蛛。
あの日のことは、忘れもしない。
十一歳のとき、巫女の血肉を狙って突如として屋敷に現れた。
母が結界を張り、父が深手を負わせた、けれど。あと一歩のことろ。
母が浄化を始めたそのとき、恨みのこもった土蜘蛛の最後の一振りが両親を貫いた。
結界は硝子が割れたように弾け、空気に溶け込んでいく。土蜘蛛のぎらついていた目から光が消え、体は黒い粒子となりながら霧散をし始める。
結界が破れ、倒れてもなお、母は懸命に浄化を続けた。だけど、深手を負った状態での浄化は、完璧とは言えなかった。
隣にいたはずの紗和は「危険だから」と屋敷のどこかへ避難させられていたが、その場に残された結月は、ただ立ち尽くしていた。
母と父が命をかけて戦っていたのに、動こうとしても恐怖で足がすくんで、声すら出ない。現実味のない光景に、涙ばかりが頬を伝っていた。
それから数日。
奇跡が起きてほしいと願い続けた結月だったが、その願いが届くことはなかった。治療の甲斐もなく、二人は静かに息を引き取った。
正門に貼られていた結界札は、最後の力を振り絞った母が残したものだったのだ。
──お母さん……お父さん……。
昔の記憶がよみがえり、胸が張り裂けそうになる。
苦しい、悔しい、悲しい。
結月はたまらず、巫女服の上から形見の簪をぎゅっと握り締めた。
すると目の前に、またあの綺麗な式神が現れた。
でも物置小屋で感じた、見られているという視線は感じられない。
──私を、呼んでいるの?
まるでどこかに案内するかのように、蝶はひらりと飛んでいく。
困惑を隠せない結月だったが、その蝶が導く方へと駆け出した。
「あの巫女と滅妖師だ! 今すぐ連れてこい!」
怒りに満ちた様子で手足の一本を瓦屋根に振り下ろす。その一撃で砕けた瓦が四方へと飛び散った。
土蜘蛛から否応なしに感じる、巫女と滅妖師への執念。憎悪に満ちた妖気は周囲を圧倒し、より一層空気を重くする。
その二人に復讐するために土蜘蛛はやってきたのだと、暁生は即座に察した。
「暁生様! 早く滅しましょう!」
「待て。迂闊に手を出すな。手負いとは言え、土蜘蛛は厄介だ」
痺れを切らしたように言った護衛の一人を、なだめるように制止する。
土蜘蛛が厄介なのは、単純に妖力の強さだけではない。
奴は死ぬ時に小さな蜘蛛を撒き散らす。その蜘蛛たちが時を経て再び集まり、やがて土蜘蛛へと姿を変える。滅するには結界を張り巡らせた中で倒し、それを浄化させなけらばならない。
巫女と滅妖師が共同しないと消滅しないあやかしなのだ。
──この娘、紗和にそれができるか?
不安がよぎる。
ちらりと目をやると、紗和は震えながらも結界札を手にしていた。
「……暁生様! 私が結界を貼りますわ!」
自信と、わずかに恐怖が混ざった声。
気が高ぶっているのがわかる。動揺と高揚が入り混じり、完全に冷静さを欠いていた。
「いや、少し待て。下手に刺激すると……」
だが、紗和は聞かなかった。
「私なら……できる!」
「……っ、紗和!」
そのまま勢いに乗じて結界札を土蜘蛛へと飛ばす。
すぐに結界は発動した。
だが土蜘蛛が手足を一振りしただけで結界は破れ、札は紙屑のように燃え尽きた。
「……そんな!」
言葉を失った紗和が後ずさる。
「お前には無理だ、ここは引け」
庇うでもなく、淡々と突き放すような声。
暁生の不安は的中した。
──やはり、この娘にはできなかった。
そんな暁生の思考を断ち切るように、土蜘蛛の笑ったような声が響く。
「そこの女、お前が代わりに死ぬか?」
土蜘蛛がいやらしく紗和の方へと視線を巡らせたとき。背後から悲痛な叫びが上がった。
「申し訳ございません! あの二人はあなた様の傷にやられ、五年前に亡くなりました! どうか、お許しを!」
切羽詰まった声で情願するのは、紗和の両親だった。地面に体を伏せ、必死に頭を下げている。
両親の言葉を聞いた瞬間、暁生はすべてを悟った。
──土蜘蛛の復讐相手は、もうこの世にはいない。
だが、そんな嘆願で土蜘蛛が許すはずもないことも暁生にはわかっていた。
「ならば、その女を寄越せ! さもなくば皆殺しだ! 我の怒りや苦しみ、お前たちにわかるまい!」
再度手足を振り下げた土蜘蛛は、次々と瓦屋根を崩壊させていく。
暁生はどうしたら土蜘蛛を消滅させられるか、思慮を巡らせていた。
「どうしてここに入ってこれた? この屋敷には結界札が張ってある。巫女の結界を破るなんて、そうできる芸当ではないはずだが?」
わずかな疑問を口にしつつ、思考を整理するため暁生は冷静に土蜘蛛に問う。
すると何を思ったのか、土蜘蛛はガハハと大声を上げ、空気を振動させるような笑い声を響かせた。
「まさに今日よ! 結界札があの忌々しい巫女のものから張り替えられていた! だから入ってこれた! この数年、虎視眈々と待っていた甲斐があったわ!」
暁生は見合い前に見た、正門の真新しい結界札のことを思い出した。
何か知っているのではないかと、紗和の方を一瞥する。彼女は顔を蒼白とさせ、体を抱きながら大きく震えていた。
「紗和……もしかして、あなた!?」
その異変にいち早く気づいたのが、紗和の母親だった。そして彼女の肩を力強く掴む。
震えるばかりで何も言わない紗和のそれは、もう答えのようなもの。
「あなたがやったのね!? どうして遥香の結界札を取ったの!? 彼女の力がどれだけ偉大だったか、知ってるでしょう!?」
「……違うの。もう忌み子もいなくなる……。だから、遥香伯母様の結界札だって、もう必要ないかと思って……。忌み子の血なんて……」
呟くように言う紗和の頬を母が強く叩いた。頬を抑えて放心状態になった紗和だったが、ほどなくして大粒の涙を流し始める。
札を貼り換えたせいだとわかったところで、紗和には戦える力がない。
絶望が場を支配する中、暁生の脳裏に一人の女の顔がよぎった。
──あの銀髪の巫女なら、どうだ?
式神を見破った巫女。
彼女がどうしてここにいないのか不思議だったが、巫女としての力は申し分ないはず。もはや残された手は、それ一つのみ。
誰にも気づかれないように暁生は片手で白札を握り、蝶の式神を彼女へと向け放った。
◆◆◆
食器の洗い物をしている最中、屋根の方から大きな揺れが伝ってくるのがわかった。
台所にいる人たちは「なんだ?」と不審そうに天井を見上げる。
結月も同じように見上げたが、埃が落ちてきただけだった。その埃に「こほん」と咳き込む。
それ以降の異変がなかったので皆作業に戻ったが、すぐにまた屋根の方から大きな揺れと音がしたのがわかった。只事ではないと、侍従たちの顔がいよいよ険しくなる。
それと同時に、侍女の叫ぶような声が聞こえた。
「大変よ! あやかしが! あやかしが屋敷に!」
断片的に発する言葉がいかに緊迫しているのかを表していた。
──どうしてあやかしが? お母さんの結界札は?
結月はここにいる誰よりも焦燥に駆られた。
勢いで外に飛び出し、やっと異変に気がつく。
つられるようにして出てきた侍従たちも、外の様子を見て唖然とする。
屋敷は夜の帳が下ろされたかのように暗かった。
結月はただならない不気味な気配の断片を感じ取っていた。思わず身震いしてしまうほどの、禍々しい雰囲気が漂っている。
「なあに、今日は見合いの日! 滅妖師様がいらっしゃるんだ! すぐに退治してくれるさ!」
声を張り上げた調理人の言葉に、皆胸を撫で下ろす。
しかし、結月は母の結界札がどうなっているのか気になってしょうがなかった。
もし母の結界を破ってきているのなら、それは恐ろしいほどの妖力を持ったあやかし。
──まさか……。
結月は、そのあやかしに心当たりがあった。
──土蜘蛛。
あの日のことは、忘れもしない。
十一歳のとき、巫女の血肉を狙って突如として屋敷に現れた。
母が結界を張り、父が深手を負わせた、けれど。あと一歩のことろ。
母が浄化を始めたそのとき、恨みのこもった土蜘蛛の最後の一振りが両親を貫いた。
結界は硝子が割れたように弾け、空気に溶け込んでいく。土蜘蛛のぎらついていた目から光が消え、体は黒い粒子となりながら霧散をし始める。
結界が破れ、倒れてもなお、母は懸命に浄化を続けた。だけど、深手を負った状態での浄化は、完璧とは言えなかった。
隣にいたはずの紗和は「危険だから」と屋敷のどこかへ避難させられていたが、その場に残された結月は、ただ立ち尽くしていた。
母と父が命をかけて戦っていたのに、動こうとしても恐怖で足がすくんで、声すら出ない。現実味のない光景に、涙ばかりが頬を伝っていた。
それから数日。
奇跡が起きてほしいと願い続けた結月だったが、その願いが届くことはなかった。治療の甲斐もなく、二人は静かに息を引き取った。
正門に貼られていた結界札は、最後の力を振り絞った母が残したものだったのだ。
──お母さん……お父さん……。
昔の記憶がよみがえり、胸が張り裂けそうになる。
苦しい、悔しい、悲しい。
結月はたまらず、巫女服の上から形見の簪をぎゅっと握り締めた。
すると目の前に、またあの綺麗な式神が現れた。
でも物置小屋で感じた、見られているという視線は感じられない。
──私を、呼んでいるの?
まるでどこかに案内するかのように、蝶はひらりと飛んでいく。
困惑を隠せない結月だったが、その蝶が導く方へと駆け出した。



