⚪︎月×日
田舎から少ない貯金と共に上京してきた俺にとって、このアパートの破格の家賃は運命の出会いとも言えるもので、手記の手間など一切気にならず、即入居を決めた。
もちろん、値段相応で決して綺麗で住みやすいとは言えない。けれど立地的にちょうど良くて、男の一人暮らしなんてこんなもんだろといった感じ。
いいのだ、住まいに重きを置くつもりは無い。今はやっと雇ってもらえたカメラマンのアシスタントの仕事に全てをかけたかった。これが自分の夢への第一歩になるのだと思うと、なんだかわくわくして落ち着かない。
そうだ、引っ越しの挨拶をしないと。こんなボロいアパートでそんなものが必要なのかと思う気持ちもあるけれど、やっぱり生活音とか響くだろうし。良い人だと良いけれど。
⚪︎月◻︎日
挨拶に行くと隣の人は笑顔で迎えてくれてほっとした。職場の人も皆良い人で、都会の人だから冷たくされるだろうと身構えていた自分を恥ずかしく思う。そして噂で聞いていた通り、先生は人としてもとても素晴らしい方だった。もともと先生の写真に惚れたことがこの業界を目指すきっかけだったけれど、まさか俺がアシスタントとして先生の下で働ける日がくるなんて……感慨深さで胸がいっぱいだ。
先生は、人物を通してその背景まで感じさせる一枚を撮ることに長けている。たまたま入った先生の個展で展示された写真の数々。被写体の個性に目が向いた先、その外側に理由を探したくなる一枚一枚は、心を閉ざした俺が人に興味を持つきっかけをくれたのだ。俺は先生の下で写真の技術はもちろんのこと、人としての何かも掴めたらと思う。
▼月◻︎日
とはいえ、アシスタントを始めてから一ヶ月……雑務ばかりだ。これも噂で聞いていた通り。まぁ、現実なんてそんなものだよな。華やかにみえるものほど下積みは長く辛いことの方が多いし、努力以外の才能や時の運まで味方にする必要がある世界だ。言われるがまま働いて毎日が過ぎていくだけではこのまま雑用係として終わっていく気がする。先生のアシスタントになれた、が俺の人生のピークになるなんて絶対に嫌だ。俺は俺の人生を捨てるつもりはない。
×月⚪︎日
突然のことだった! 推薦式の新しいコンテストを開催することになったらしく、それに参加しないかと先生が声を掛けてくださった! しかもコンテスト用の俺の写真を見てくれるって! すごい! 嬉しい! どうせ雑用だと不貞腐れずに頑張ってきて良かった。これは大チャンスの到来だ。良いものを撮る為に、仕事の前後でいろんな所に足を運んでみようと思う。きっと俺ならやれるはずだ。
▶︎月×日
……なかなか良いものに出会えない。これだ!と思う機会が無い訳ではないけれど、どれもどうもピンと来ない。俺の腕の問題なのだろうか。先生にも、俺らしく、気負い過ぎずにいこうと慰めの言葉を頂いたけど……なんだろう。俺らしいとは? そもそもゴールが見えなくなってきた。俺は一体何を撮りたいんだろう。なんで撮りたいんだろう。俺には理由が無いのかもしれない。俺はなぜ、この道を進みたいんだろう。
▶︎月××日
見つけた。ついに見つけた。彼女が入るだけで俺の写真が色鮮やかに世界を写しだす。彼女がいるからこの写真に意味が生まれる。彼女は美しく気高く、近寄り難く感じる反面、笑うと幼い子供のような笑顔を見せる人だった。色々な面を持つ彼女はその時々で全然違う表情を見せてくれる。それが写真全体の空気感を変えるのだ。全く同じ一枚を撮らせない人。そんな人がこの世にいるなんて。彼女は、俺のミューズだ。俺が見つけた、俺の運命の人。
◻︎月⚪︎日
彼女を撮った一枚は、先生からもお褒めの言葉を頂くことが出来た。大喜びで彼女に伝えると、彼女も同じように喜んでくれた。彼女は俺の夢を応援してくれているから。公園のベンチに座る彼女を初めて見かけた時、つい構えてしまったカメラを手にハッとしたあの日を思い出す。それは完全なる盗撮未遂で、慌てて写真を撮らせてくれないかと頼み込み、訝しむ彼女に俺の夢の話をした。その時、初めて彼女の笑顔を見たのだ。百合のような彼女が見せる、たんぽぽのような笑顔。その日からずっと、俺は彼女の虜だ。
◼︎月×日
俺の家に来たいと彼女が言いだした。古くてボロいアパートなのだと何度も言ったけれど、彼女はそれでも良いのだと譲らなかった。仕方ないので呼ぶことにする。彼女は部屋に入った瞬間、驚いた顔をしていた。そして吸い込まれるように部屋に入ると、俺を見て微笑んだ。それは美しく、儚く、どこか毒々しさのある微笑みで、初めて見た彼女の表情に俺は慌ててシャッターを切った。
まだ知らない表情があったなんて。彼女はなんて深みのある人なんだろう。
◼︎月××日
彼女の為ならどこへでも連れていくというのに、彼女の提案で家で撮影することが増えていった。けれどそれで正解だった。外と中でガラリと雰囲気を変える彼女に俺は夢中になった。朝は? 昼は? 夜は? いつどこの彼女も全て写真に収めなければと思った。一瞬たりとも逃したくない。俺にしか彼女の全てを撮ることが出来ないし、俺の目にしか彼女が映らなければ良いのにと思う。だって彼女は俺のものだ。この美しい人は、俺のもの。俺だけのもの。誰にも渡さない。ずっとここにあるべきなのだ。この女はずっとずっと、ずっとずっと。
⚫︎月◼︎日
俺達は二人で暮らしている。外には出さない。だって俺のものだからと伝えると、嬉しそうに女は笑った。ここは俺達の世界だった。のに、最近人がやって来る。管理人だ。変わったことはないか?と言う。声が聞こえるのだと。けれど訊ねるだけで、注意や警告などはせず帰っていく。でもそいつが来る度に女が怯えるので、毎回慰めるのが大変だった。そいつのせいで女は最近情緒が不安定になっていた。
「私達、ずっと一緒だよね?」
それに頷く毎日だ。当たり前のことをなぜこうも確認するのか理解出来なかった。
⚫︎月⚪︎日
先生から写真を見せろと言われたので仕方なく見せた。本当は見せたくなかった。だって先生も心を奪われてしまうに決まっているから。これほどまでに美しい女を自分も撮りたいと言い出すに違いないし、俺は絶対に撮らせたくなかった。どうやって断ろうかと考えていると、先生はまるで頭のおかしい人間を見るみたいな目で俺を見て、俺の写真を否定した。途端、カッと頭に血がのぼって先生に怒鳴りつける。俺の写真のどこが悪いのだと。俺の女は完璧なのだと。すると先生は言った。この写真には俺らしさが見当たらない、俺はどこへ行ったのだと。その言葉でハッと記憶が戻ってきたような感覚がした。そうだ、俺は俺らしい写真を撮りたかったのだ。それは随分と昔の感情のように感じた。
家に帰ると、扉を開けた途端、空気の籠った嫌な匂いがあふれ出る。窓もカーテンもずっと閉じっぱなしなのだから当然だ。おかしな話、そんなことにも気づかないくらいに俺は彼女に夢中だったのだ。
「〇〇〇?」
ベッドに座る彼女の名前を呼んだ。彼女がこちらを見やる。おどろおどろしい瞳がぎょろりとこちらを向いた瞬間、こいつは誰だと焦りと共に恐怖が背筋を駆けのぼった。記憶の中にある百合のように美しく、たんぽぽのように笑う彼女はもうどこにもいなかった。混乱して立ちすくむ俺の目の前で、彼女はゆっくりと口角を上げると、腐った泥水のような濁った瞳で、湿度を帯び鬱々とした声色で、俺に言った。
「私達、ずっと一緒だよね?」
答えられない俺に、彼女は痺れを切らしたように立ち上がる。
「私、ずっとここにいるの。忘れちゃったの? ちゃんと連れていってくれないと。約束したよねぇ?」
何を言っているのか理解出来ない中で、不自然なそれに気がついた。彼女のその手は自分の背後にまわっている。まるで何かを隠しているみたいに。
「やっぱり骨はだめなんだね。でも、これなら連れていってもらえる? 綺麗な私のまま、ずっとあなたのものにしてくれるって言ったよねぇ?」
すっと背後から現れた彼女の右手には包丁が握られていた。ぎょっとして身を固めている内に、それを彼女は思いきり振り上げる。ダメだ、逃げないと!と、慌ててスイッチが入ったように玄関へと駆け出す俺の背後で、グシャっと音が鳴った。振り返ると彼女は自分の腹を刺していた。
「ほら、はやく! はやく! どこに行くの?」
もう一度振り上げ、また自分の腹に突き刺す。彼女はヒステリックに、まるで悲鳴のような笑い声をあげて何度も何度も自分の腹にそれを突き刺した。堪らず外へ飛び出す俺に、彼女は怒りを露わに怒鳴りつける。
「おまえの顔、覚えたからな!」
そして今、俺は拘置所からこのアパートに帰ってきて、この手記を書いている。包丁に彼女の指紋しか残っていなかったことと、荒れ狂った彼女の様子の目撃者が多くいたことで、俺が殺害したのではないと判断され、帰ってくることが出来たのだ。良かった。これ以上離れるわけにはいかなかったから。だってずっとあの女がいる。あの女が、俺を見ている。あの約束はと、置いていくのかと、次は無いぞと——あと一日でも遅かったら、俺はどうなっていたかわからない。アパートに戻ると管理人が隣の部屋に移してくれた。どうやら隣の住人はこの騒ぎで引っ越していったらしく、部屋に入ると女の視線や声により押しつぶされそうなほど感じるプレッシャーや、頭痛に吐き気、悪寒や幻覚症状といった身体を蝕む不調も全て和らいだ。
俺はきっと彼女では無く違う何かと約束してしまったのだと思う。だってあの美しい彼女は死んでしまってもうここにはいないのに、ずっと気配を感じるのだ。ずっとずっと、女はここにいる。ここで、アパートに戻ってきた俺に満足している。もう俺はここを離れることは出来ないのだろう。だってあの女は、俺の顔を覚えているのだから。
以上がこの事件の当事者である住民の手記である。彼にも取材を試みたが、手記に書いたから十分だろうと、怯える様子で扉を閉められてしまい、詳しく話を聞くことはできなかった。その際、彼は言っていた。「早く行ってくれ。あいつが怒りだす」と。
あいつとは一体? 手記から見るに、あの女と彼が呼んでいるもののことだろうか。事件現場である部屋を確認させてもらったが、室内は洗浄と張り替えが済み、特に事件の名残は感じられなかった。しかしここまで記したことからみて、ただの事故物件とは言い切れない何らかの曰くがこのアパートにあるような気がしてならない。
田舎から少ない貯金と共に上京してきた俺にとって、このアパートの破格の家賃は運命の出会いとも言えるもので、手記の手間など一切気にならず、即入居を決めた。
もちろん、値段相応で決して綺麗で住みやすいとは言えない。けれど立地的にちょうど良くて、男の一人暮らしなんてこんなもんだろといった感じ。
いいのだ、住まいに重きを置くつもりは無い。今はやっと雇ってもらえたカメラマンのアシスタントの仕事に全てをかけたかった。これが自分の夢への第一歩になるのだと思うと、なんだかわくわくして落ち着かない。
そうだ、引っ越しの挨拶をしないと。こんなボロいアパートでそんなものが必要なのかと思う気持ちもあるけれど、やっぱり生活音とか響くだろうし。良い人だと良いけれど。
⚪︎月◻︎日
挨拶に行くと隣の人は笑顔で迎えてくれてほっとした。職場の人も皆良い人で、都会の人だから冷たくされるだろうと身構えていた自分を恥ずかしく思う。そして噂で聞いていた通り、先生は人としてもとても素晴らしい方だった。もともと先生の写真に惚れたことがこの業界を目指すきっかけだったけれど、まさか俺がアシスタントとして先生の下で働ける日がくるなんて……感慨深さで胸がいっぱいだ。
先生は、人物を通してその背景まで感じさせる一枚を撮ることに長けている。たまたま入った先生の個展で展示された写真の数々。被写体の個性に目が向いた先、その外側に理由を探したくなる一枚一枚は、心を閉ざした俺が人に興味を持つきっかけをくれたのだ。俺は先生の下で写真の技術はもちろんのこと、人としての何かも掴めたらと思う。
▼月◻︎日
とはいえ、アシスタントを始めてから一ヶ月……雑務ばかりだ。これも噂で聞いていた通り。まぁ、現実なんてそんなものだよな。華やかにみえるものほど下積みは長く辛いことの方が多いし、努力以外の才能や時の運まで味方にする必要がある世界だ。言われるがまま働いて毎日が過ぎていくだけではこのまま雑用係として終わっていく気がする。先生のアシスタントになれた、が俺の人生のピークになるなんて絶対に嫌だ。俺は俺の人生を捨てるつもりはない。
×月⚪︎日
突然のことだった! 推薦式の新しいコンテストを開催することになったらしく、それに参加しないかと先生が声を掛けてくださった! しかもコンテスト用の俺の写真を見てくれるって! すごい! 嬉しい! どうせ雑用だと不貞腐れずに頑張ってきて良かった。これは大チャンスの到来だ。良いものを撮る為に、仕事の前後でいろんな所に足を運んでみようと思う。きっと俺ならやれるはずだ。
▶︎月×日
……なかなか良いものに出会えない。これだ!と思う機会が無い訳ではないけれど、どれもどうもピンと来ない。俺の腕の問題なのだろうか。先生にも、俺らしく、気負い過ぎずにいこうと慰めの言葉を頂いたけど……なんだろう。俺らしいとは? そもそもゴールが見えなくなってきた。俺は一体何を撮りたいんだろう。なんで撮りたいんだろう。俺には理由が無いのかもしれない。俺はなぜ、この道を進みたいんだろう。
▶︎月××日
見つけた。ついに見つけた。彼女が入るだけで俺の写真が色鮮やかに世界を写しだす。彼女がいるからこの写真に意味が生まれる。彼女は美しく気高く、近寄り難く感じる反面、笑うと幼い子供のような笑顔を見せる人だった。色々な面を持つ彼女はその時々で全然違う表情を見せてくれる。それが写真全体の空気感を変えるのだ。全く同じ一枚を撮らせない人。そんな人がこの世にいるなんて。彼女は、俺のミューズだ。俺が見つけた、俺の運命の人。
◻︎月⚪︎日
彼女を撮った一枚は、先生からもお褒めの言葉を頂くことが出来た。大喜びで彼女に伝えると、彼女も同じように喜んでくれた。彼女は俺の夢を応援してくれているから。公園のベンチに座る彼女を初めて見かけた時、つい構えてしまったカメラを手にハッとしたあの日を思い出す。それは完全なる盗撮未遂で、慌てて写真を撮らせてくれないかと頼み込み、訝しむ彼女に俺の夢の話をした。その時、初めて彼女の笑顔を見たのだ。百合のような彼女が見せる、たんぽぽのような笑顔。その日からずっと、俺は彼女の虜だ。
◼︎月×日
俺の家に来たいと彼女が言いだした。古くてボロいアパートなのだと何度も言ったけれど、彼女はそれでも良いのだと譲らなかった。仕方ないので呼ぶことにする。彼女は部屋に入った瞬間、驚いた顔をしていた。そして吸い込まれるように部屋に入ると、俺を見て微笑んだ。それは美しく、儚く、どこか毒々しさのある微笑みで、初めて見た彼女の表情に俺は慌ててシャッターを切った。
まだ知らない表情があったなんて。彼女はなんて深みのある人なんだろう。
◼︎月××日
彼女の為ならどこへでも連れていくというのに、彼女の提案で家で撮影することが増えていった。けれどそれで正解だった。外と中でガラリと雰囲気を変える彼女に俺は夢中になった。朝は? 昼は? 夜は? いつどこの彼女も全て写真に収めなければと思った。一瞬たりとも逃したくない。俺にしか彼女の全てを撮ることが出来ないし、俺の目にしか彼女が映らなければ良いのにと思う。だって彼女は俺のものだ。この美しい人は、俺のもの。俺だけのもの。誰にも渡さない。ずっとここにあるべきなのだ。この女はずっとずっと、ずっとずっと。
⚫︎月◼︎日
俺達は二人で暮らしている。外には出さない。だって俺のものだからと伝えると、嬉しそうに女は笑った。ここは俺達の世界だった。のに、最近人がやって来る。管理人だ。変わったことはないか?と言う。声が聞こえるのだと。けれど訊ねるだけで、注意や警告などはせず帰っていく。でもそいつが来る度に女が怯えるので、毎回慰めるのが大変だった。そいつのせいで女は最近情緒が不安定になっていた。
「私達、ずっと一緒だよね?」
それに頷く毎日だ。当たり前のことをなぜこうも確認するのか理解出来なかった。
⚫︎月⚪︎日
先生から写真を見せろと言われたので仕方なく見せた。本当は見せたくなかった。だって先生も心を奪われてしまうに決まっているから。これほどまでに美しい女を自分も撮りたいと言い出すに違いないし、俺は絶対に撮らせたくなかった。どうやって断ろうかと考えていると、先生はまるで頭のおかしい人間を見るみたいな目で俺を見て、俺の写真を否定した。途端、カッと頭に血がのぼって先生に怒鳴りつける。俺の写真のどこが悪いのだと。俺の女は完璧なのだと。すると先生は言った。この写真には俺らしさが見当たらない、俺はどこへ行ったのだと。その言葉でハッと記憶が戻ってきたような感覚がした。そうだ、俺は俺らしい写真を撮りたかったのだ。それは随分と昔の感情のように感じた。
家に帰ると、扉を開けた途端、空気の籠った嫌な匂いがあふれ出る。窓もカーテンもずっと閉じっぱなしなのだから当然だ。おかしな話、そんなことにも気づかないくらいに俺は彼女に夢中だったのだ。
「〇〇〇?」
ベッドに座る彼女の名前を呼んだ。彼女がこちらを見やる。おどろおどろしい瞳がぎょろりとこちらを向いた瞬間、こいつは誰だと焦りと共に恐怖が背筋を駆けのぼった。記憶の中にある百合のように美しく、たんぽぽのように笑う彼女はもうどこにもいなかった。混乱して立ちすくむ俺の目の前で、彼女はゆっくりと口角を上げると、腐った泥水のような濁った瞳で、湿度を帯び鬱々とした声色で、俺に言った。
「私達、ずっと一緒だよね?」
答えられない俺に、彼女は痺れを切らしたように立ち上がる。
「私、ずっとここにいるの。忘れちゃったの? ちゃんと連れていってくれないと。約束したよねぇ?」
何を言っているのか理解出来ない中で、不自然なそれに気がついた。彼女のその手は自分の背後にまわっている。まるで何かを隠しているみたいに。
「やっぱり骨はだめなんだね。でも、これなら連れていってもらえる? 綺麗な私のまま、ずっとあなたのものにしてくれるって言ったよねぇ?」
すっと背後から現れた彼女の右手には包丁が握られていた。ぎょっとして身を固めている内に、それを彼女は思いきり振り上げる。ダメだ、逃げないと!と、慌ててスイッチが入ったように玄関へと駆け出す俺の背後で、グシャっと音が鳴った。振り返ると彼女は自分の腹を刺していた。
「ほら、はやく! はやく! どこに行くの?」
もう一度振り上げ、また自分の腹に突き刺す。彼女はヒステリックに、まるで悲鳴のような笑い声をあげて何度も何度も自分の腹にそれを突き刺した。堪らず外へ飛び出す俺に、彼女は怒りを露わに怒鳴りつける。
「おまえの顔、覚えたからな!」
そして今、俺は拘置所からこのアパートに帰ってきて、この手記を書いている。包丁に彼女の指紋しか残っていなかったことと、荒れ狂った彼女の様子の目撃者が多くいたことで、俺が殺害したのではないと判断され、帰ってくることが出来たのだ。良かった。これ以上離れるわけにはいかなかったから。だってずっとあの女がいる。あの女が、俺を見ている。あの約束はと、置いていくのかと、次は無いぞと——あと一日でも遅かったら、俺はどうなっていたかわからない。アパートに戻ると管理人が隣の部屋に移してくれた。どうやら隣の住人はこの騒ぎで引っ越していったらしく、部屋に入ると女の視線や声により押しつぶされそうなほど感じるプレッシャーや、頭痛に吐き気、悪寒や幻覚症状といった身体を蝕む不調も全て和らいだ。
俺はきっと彼女では無く違う何かと約束してしまったのだと思う。だってあの美しい彼女は死んでしまってもうここにはいないのに、ずっと気配を感じるのだ。ずっとずっと、女はここにいる。ここで、アパートに戻ってきた俺に満足している。もう俺はここを離れることは出来ないのだろう。だってあの女は、俺の顔を覚えているのだから。
以上がこの事件の当事者である住民の手記である。彼にも取材を試みたが、手記に書いたから十分だろうと、怯える様子で扉を閉められてしまい、詳しく話を聞くことはできなかった。その際、彼は言っていた。「早く行ってくれ。あいつが怒りだす」と。
あいつとは一体? 手記から見るに、あの女と彼が呼んでいるもののことだろうか。事件現場である部屋を確認させてもらったが、室内は洗浄と張り替えが済み、特に事件の名残は感じられなかった。しかしここまで記したことからみて、ただの事故物件とは言い切れない何らかの曰くがこのアパートにあるような気がしてならない。