スターチスを届けて

 翌日。

 浩志は彼にしては珍しく、遅刻も居眠りもすることなく平穏に一日を終えた。

 彼の学校では、放課後は優や他の生徒のように部活に参加するのが本来であり、もちろん彼も部活に入っている。

 だが、放課後に補習を言い渡されることが多い彼は、部活に参加することの方が稀でありほぼ帰宅部となっていた。

 昨日までの放課後は部活に励む生徒たちの声で校内が賑わっていたが、今日からは学年末試験期間になり、生徒たちは授業を終えると数日後に控えるテストに備えるためか、早々と帰宅していった。

 それなのに浩志は、生徒指導室で何部もあるプリントの山を前に、一人黙々とホチキス止めをしている。

 他の生徒のようにすぐに帰宅する気になれなかった彼は、渡り廊下から中庭を見下ろしていた。 浩志は昨日見かけた少女のことが気になっていたのだ。

 中庭はいつもと変わりなく殺風景なまま。

(でも、あいつは何かを見ていたんだ)

 そんなことを考えながらぼんやりと中庭を見ていると、英語教師の小石川に声を掛けられた。

「おっ、成瀬。暇そうだな? まだ帰らんのか?」
「なんだ。こいちゃんかぁ」
「なんだとはなんだ。それに小石川先生と呼べ。全くお前は……」

 そう言いながらも、小石川は腹を立てた様子もなく浩志の隣に並んだ。

 サッカー部の顧問をしている小石川は、浩志が一年生の時のクラス担任でもあった。遅刻や居眠りといった問題の多い浩志を見離さず、一年間ちゃんと向き合ってくれた、強引で少々熱血気味な教師。

 だが、そんな小石川を浩志は慕っている。 彼がほぼ帰宅部になりながらも、未だにサッカー部に籍を置いているのは、この教師が顧問だからかもしれない。

「何してるんだ? こんな所で」
「別に。何も。帰っても勉強とかしないし」
「そうか。先生としては勉強してほしいんだがな……。まぁじゃあ、先生を手伝え」
「はぁ?」
「ちょうどよかった。今日中にやらなきゃいかんのだが、急に会議の予定が入ってな。困ってたんだ」
「……」
「いや~助かるよ成瀬。いい生徒だなぁお前は」
「……俺、まだ手伝うって言ってないけど」
「先生のクラスで使うプリントなんだけどな、ホッチキスで一部ずつ纏めてくれ」
「……」

 小石川の強引さはいつものことだった。

 彼を慕っている浩志は、口では否定的な事を言っていても、実はそれ程嫌な思いはしていない。しかし、素直に手伝うと言うのは何だか嫌だった。沈黙で答える浩志に小石川は冗談めかしたように言う。
「なんだ~成瀬。先生が困ってるのに、助けてくれんのか? 寂しいなぁ」
「……わかったよ」
「いや~、助かる助かる。プリントは生徒指導室にあるから。終わったら、先生の教室に届けておいてくれ」
「はぁ? 俺がそこまでするのかよ……」
「頼んだぞ、成瀬!」

 強引に浩志に仕事を押し付けると、小石川は職員室へと向かって行った。

 こうして、彼は今日も一人居残りをすることになったのだ。

 一時間ほどで作業を終えた浩志は、小石川の言い付け通り彼の教室へ出来たばかりのプリントの山を抱えて向かう。

(確か、こいちゃんは一年二組……)

 浩志は扉の前で立ち止まると上の方を見た。一年二組と札がかかっている。教室を覗いてみると、少女が一人残っていた。 机の上に何やら広げ、真剣な表情で作業をしている。

 浩志はなるべく静かに扉を開けた。しかし、静まりかえった教室には十分に大きな音が響く。

 音に驚いて少女が顔をあげた。その顔に、浩志の瞳が見開かれる。そこに居たのは、昨日、中庭に佇んでいたあの少女だった。

「あっ……。え~っと、俺は、そのアレだ。……プリント……そう、プリントを置きに来ただけだ」

 少し前まで考えを巡らせていた相手に出会った驚きで、浩志は聞かれもしないのに言い訳めいた事を口にしながら教室へ足を踏み入れる。

 少女は浩志の言い訳など気にも止めず、視線を自分の手元へ戻し作業を再開していた。 机の上には色とりどりの折り紙が広げられている。 机の端にはその折り紙で造られたと思われる何かと、小さく輝くものが置いてあった。 浩志には、その小さな輝きがまるで自分に向かって放たれているような気がした。

 彼はその輝きに誘われるように少女の席に近づき、それをそっと手に取ってみた。 おもちゃの指輪だった。プラスチックのリングに透明の宝石に似せたものが付けられたそれは、中学女子が身につけるには些か子供っぽい感じがする。いつの間にか光を失い、ただの安っぽいおもちゃとなった手の中のそれを、浩志は不思議な気持ちでじっと見つめていた。

「……なに?」

 少女の前に立ちはだかるような形になっていた浩志は、突然の少女からの問いかけに驚き、思わず手を固く握る。

「えっ?」
「何か用?」
「いや、あの……。プリントを置きに……」
「それはさっき聞いた」
「あ~、そうか。……そうだな。悪い。邪魔した」

 彼は抱えていたプリントの山を無造作に教卓に置くと、どこかぎこちない足どりで教室を出て行った。
 さらに翌日。

 浩志の手の中には指輪があった。 昨日、少女の机に置かれていたおもちゃの指輪である。

 少女に声をかけられたあの時、不意をつかれた浩志は指輪を握りしめたまま教室を出てしまった。

 帰宅しようと自分の荷物を取りに戻ったところで、自分が指輪を持って来てしまったことに気がついた。 浩志は急いで少女のもとへと戻ったが、一年二組の教室に少女の姿はなく指輪を返しそびれてしまったのだった。

 朝一番で指輪を返そうと遅刻もせずに登校した浩志は、すぐに少女の教室へと向かったのだが、目当ての人物の姿は見当たらない。

 きっとまだ登校していないのだろうと、浩志はしばらくの間少女を待ってみた。 しかし、そこは後輩の教室の前。見慣れぬ生徒である浩志に対して向けられる周囲からの好奇な視線に程なくして耐えられなくなった彼は、少女を待つことを諦めそそくさとその場をあとにした。

 少女の担任である小石川に指輪を託そうかとも考えたが、少女のことをどう説明したらよいのかわからなかった。 それ以上に、女子生徒のことを教師に問うことが、浩志にはなんだかとても気恥ずかしく思えて行動に移せなかった。

 浩志は休み時間になる度に指輪を手の中で(もてあそ)びながら、少女を再び見つけだす方法をあれやこれやと一日中思案していた。

 そして今また、どうしたものかと教室の窓に身体を預けながら、浩志は指輪を太陽の光に(かざ)すようにして眺めていた。 指輪を眺めたところでこれといった案も浮かばず渋い顔をする彼を覗き込むようにして、河合優が声をかけてきた。

「なぁにそれ?」

 優の問い掛けに、浩志は指輪をズボンのポケットへさっと滑り込ませながらぶっきらぼうに答えた。

「別に」

 しかし、優は浩志の手の中にあったものをしっかりと確認していた。

「ねぇねぇ、それって指輪じゃない? なんでそんなもの持ってるのよ?」
「……預かってるんだよ」
「誰から?」
「……」
「ねぇ、誰から?」
「うるさいなぁ……誰だっていいだろ。お前の知らない奴だよ!」

 指輪を持っていたことの気恥ずかしさと、いつにもない優のしつこい追求に、浩志は思わず窓の外へと顔を向ける。

 窓から見える景色は、二日前と変わらない。 茶色い土が剥き出しになったままの寒々とした中庭の花壇。そして、先日と同じようにあの少女の姿がそこにはあった。

 今日も少女は、殺風景な花壇をじっと見つめている。

(見つけた!)

 浩志は弾かれたように窓辺を離れ、廊下へと飛び出した。
「ねぇちょっと! どうしたのよ!?」

 背中越しに追いかけてくる優の質問に答えようともせず、彼は少女のもとへ急いだ。

 冷たい風が吹き抜ける中庭に浩志が飛び出すと、少女の姿はまだそこにあった。 まるで何かを探しているかのように真剣な眼差しを花壇に向ける少女の背中に向かって、彼は息を切らしながら声をかける。

「……何か……探し物か?」

 突然声をかけられ驚きを隠せない様子で振り向いた少女の視線を捕らえると、浩志は息を整えてから再び少女に問い直した。

「何か探しているのか?」

 少女は、質問には答えずに、頭だけを横に振った。

「そうなのか。もしかしたらこれを探してるのかと思って……」

 そう言いながら、浩志はズボンのポケットから今日一日彼を悩ませ続けたものを取り出した。

 指輪を少女に返しながら、浩志は言葉を続ける。

「昨日慌てて帰った時に、どうも持って帰っちまったみたいで……。悪かったな。別に悪気があったわけじゃないんだ。ホントだぞ」

 無言で指輪を見つめる少女に向かって、浩志はさらに言葉を続けた。

「朝一で返そうと思って、教室まで行ったんだ。……でも、違う学年だろ? 他の奴らにジロジロ見られてさ……長く待てなかったんだ。ホントは、もっと早く返すつもりだったんだぞ。……その、悪かった」

 浩志の言葉に少女は、再び頭を横に振った。

「お前、こいちゃんのクラスだろ? あいつから返して貰おうかとも思ったんだけどさ、もしかしたらソレ、バレたらまずいかもと思ったんだ。だから、こいちゃんにも渡せなくて……」

 自身のもとに戻った指輪を黙って見つめる少女に向かって、浩志は鼻の頭をかきながら言い訳がましく言葉を繋げた。

「それにほら。お前の名前知らないしさ。こいちゃんにも頼むに頼めなかったんだよ」

 浩志の多くの言い訳など耳に入らないような無表情のままで、少女は指輪を見つめ続けている。

 これ以上の言い訳を思いつかない浩志と少女の間に沈黙が訪れた。

 浩志は少女の反応をしばらくの間伺っていたが、微動だにしない少女の様子に居た堪れなくなり俯いて自分の足元を見つめる。

 しばらくすると、冷たい風に乗って、微かな声がした。

「……指輪、返してくれてありがとう」

 少女の言葉に顔を上げた浩志は、少女の微かな微笑みを目にした。

「いや。元はと言えば、持って帰った俺が悪いし。それ、大事な物なのか?」
「……お姉ちゃんに貰った」
「そうか……でも、それはもう持ってこない方がいいぞ」
 浩志の言葉に、少女は小さく首を傾げる。

「小さいから失くしやすいじゃん。それに、誰かに見つかって取られるかもしれないし。……まぁ、俺が言えたことじゃないけれど」

 浩志は苦笑いをしつつ少女の顔を見る。少し大きめの真新しい制服に包まれた少女は、浩志の言葉にどこか悲しげな顔を見せた。

「……でも、コレはお姉ちゃんがくれたものだから……」

 手の中の指輪を固く握りしめた少女の言葉はどこか要領を得ない。

「だから、お前の大切なものなんだろ? 失くしたくないなら、持ってくるなよ。家で大事に保管しておけ」

 浩志の言葉に少女はイヤイヤというように頭を横に振る。そのどこか子供じみた仕草に浩志は小さな苛立ちを覚えた。

「そうかよ。まぁ、どうでもいいや。俺には関係ないことだし。また、失くして困るのはお前だしな。それじゃあ」

 浩志は苛立つ思いを抑え込みそれだけ言うと、(きびす)を返した。後味の悪い別れ方に軽く舌打ちをして数歩進んだとき、冷たい風に乗ってまた微かに声がした。

「……じゃ、ない……」
「えっ? 何?」

 浩志は思わず振り返り、少女に聞き返す。少女は、両手を固く握り体の内から絞り出すように声を張った。

「お前じゃないもん!」
「はっ?」
「せつなは、お前じゃないもん!!」
「せつな?」
「せつなは、せつなだもん。お前じゃないもん!」

 少女は両眼に涙を溜めて浩志に挑むような視線を向ける。その視線を無防備に受けつつ、しばらくの間浩志の頭の中では少女の言葉がリフレインされていた。

 そして、浩志はようやく少女の言葉の意味を理解した。

「ああ、お前、せつなって名前なのか!」
「お前じゃないもん!」

 浩志の言葉に、せつなは眉間に皺を寄せて噛み付いてくる。

「ああ。ごめんごめん。それじゃあ、せつな。大切な指輪失くすなよ」

 浩志はせつなに向かって軽く手を上げると、再び踵を返し校舎内へと戻っていった。
 一週間続いた学年末試験も最後の教科の解答用紙が回収され、生徒たちは、勉強から解放されたことを喜び合うように教室を出て行った。

 浩志はいつものように窓際の一番後ろの席に座り、一人で何をするでもなく椅子をゆらゆらと揺らしている。テストの出来は(かんば)しくなかったが、まぁ、それはいつものこと。進級できる程度には点数が取れているはずだ。

 今日はテストのみで、午後からの授業はない。浩志は、これからの予定をぼんやりと考えていた。籍を置いているサッカー部にはもう随分と顔を出していないので、練習に参加するのは気まずい。しかし、帰ったところで何もする事がないため、すぐに家に帰るのもなんだかつまらなく感じた。

 何か暇つぶし出来ることはないだろうかと考えあぐね、何気なく天を仰ぐ。窓から入る冬の木漏れ日が、思いのほか綺麗だった。光につられて窓辺に立つと、窓の下に広がる中庭が視界に入る。相変わらず、茶色い土が剥き出しになったままの花壇。そして、相変わらずそこにはせつなの姿があった。

 しかし、今日のせつなは殺風景な花壇の前にしゃがみ込んでいる。じっと一点を見つめているその姿は、やはり何かを探しているようだ。

 浩志は、窓から離れると教室を後にした。

 中庭まで来ると、せつなは先程見かけた姿勢のまま、まだそこに居た。

「やっぱり、何か探しているのか?」

 (おもむろ)に浩志はせつなに声をかけた。

 せつなはチラリと浩志に視線を向けたが、その視線は、またすぐに花壇へと戻された。

「なんだぁ? 無視かよ? 傷付くなぁ」

 浩志はしゃがみ込むせつなの隣に立ち、花壇を眺める。しかし、そこには剝き出しの土があるばかりで、特に何があるということもなかった。

「なぁ。おまえ……じゃなかった、せつなは、いつもこんなところで何しているんだよ? 寒くないのか?」

 浩志は両手をズボンのポケットに突っ込み、ブルっと身震いを一つする。

「……お花が咲くの、待ってるの」

 まるで、そのまま土に吸い込まれてしまいそうなほど、細く小さな声が足元から聞こえた。

「花? こんな時期に?」

 首を傾げつつ、浩志もせつなの隣にしゃがむ。地面に近くなったことで、湿った土の臭いが鼻を掠める。昨日雨が降ったからだろう。緩くなった土は、所々でこぼことしていた。しかし、何かの芽が出ている様子はない。

「勘違いじゃないのか?」

 浩志の問いに、せつなは、頭をプルプルと振る。

「……お姉ちゃんが、もうすぐ咲くって言ってたもん」
「もうすぐって言ってもなぁ。もう少し暖かくなってからってことだろ。どう考えたって」

 せつなの言葉に浩志はため息を吐く。どうも、言動の子供っぽいせつなと接していると小さな苛つきを覚えるのだが、だからといって、一人放っておくこともできないような気がして、つい気にかけてしまう。

「なぁ。その花は、本当にここに咲くのか? 別の場所なんじゃないのか?」
「絶対、ここだもん。お姉ちゃんと一緒に、ここにタネ撒きしたもん」
「で、もうすぐ咲くのか?」
「うん」

 せつなは絶対と言い切るが、どう見てもまだ何もない。殺風景な花壇を見て、浩志は頭を掻く。探し物をしているのであれば手伝おうと思って声を掛けたのだが、花の芽吹きを待っていると言われては、浩志にはどうすることも出来ない。なす術の無い浩志は、せつなを残して帰ろうと立ち上がる。

 その時、背後から声を掛けられた。振り返ると、学校指定のジャージに軍手とジョウロを手にした女子生徒が、不思議そうにこちらの様子を伺っていた。着用しているジャージの色から、高等部の生徒だとわかる。

 彼らの学校は中高一貫校である。高等部の校舎が二棟、中等部の校舎が一棟。そして、それぞれを区切るようにして、浩志達が今いる中庭が作られていた。

「その花壇がどうかした?」
「あ……っと……いえ」

 突然の上級生の出現に浩志が慌てふためいていると、上級生は浩志の足元にいるせつなに目を留めた。

「あら、あなた……」

 上級生はせつなに対して何か言いたげに口を開いたが、結局、何も言わずに口を閉じる。そして、浩志へ視線を向けると優しげな笑みを浮かべ再び尋ねてきた。

「そこの花壇が気になるの?」

 浩志はせつなをチラリと見た。せつなは、上級生の存在など全く意に介さないかのように花壇を見続けている。せつなと話していても埒が明かないので、何か花についての手掛かりが掴めればと思い、浩志は口を開く。

「えっと……、先輩? は、ここの手入れをする人ですか?」

 上級生の格好からそうだろうという確信はあったが、念のために確認をしてみる。

「ええ。私、園芸部なの。ここの管理は私がしているけど?」
「あの、えっと……この花壇って、何か育ててます?」

 浩志はせつなが執着している花壇を指し上級生の答えを待つ。そんな浩志に上級生は楽しそうに眉尻を下げた。

「なになに? もしかして、園芸に興味あったりする? 何か育てたい感じ?」
「ああ、いえ、そうじゃなくて……」
「え? 違うの? 新入部員ゲットかと思ったのになぁ。あ、でも、きみたち中等部? 中等部でも入部ってできたかなぁ」

 浩志の制服についている学年カラー別の校章にチラリと視線を送りながら、上級生は一人違う方向へ話の水を向ける。入部希望ではないと知りつつも話を進めるあたり、強引に園芸部へ勧誘するつもりだろうか。

 浩志にはそんなつもりは毛頭ないので、早々に話の方向を修正する。

「ここに何かの種が撒いてあるって聞いたんですけど」
「そこ? そこはねぇ」

 上級生は話の転換にきちんとついてきたが、浩志の求める答えは直ぐには出てこないようだ。上目遣いでしばし逡巡の素振りを見せる。その後、ようやく破顔した。

「確かスターチスって花が咲くはずよ。紫の小さい花。以前、園芸部の先輩が育ててたみたい。ここは誰も手入れをしていないのに、毎年きちんと花が咲くんですって。まぁ、私も今年が初めてだから、まだ見たことはないんだけどね」
「はぁ……」

 聞いてみたもののあまり興味のない浩志には、紫の小さな花が咲くかもしれないということしか耳に残らなかった。しかし、彼にはそれで十分だった。

「ちょっと不思議よね」
「不思議?」
「だって、誰も手入れしていないのに花が咲くのよ!」
「はあ……」
「きみには、草花の神秘さは分からないかぁ」

 心底どうでもいいという顔をする浩志を、上級生は残念な子供を見るような目付きで見て軽く頭を振った。その後、浩志との会話に見切りをつけたのか、上級生はこれまで何も言葉を発していないせつなへと歩み寄る。そして、まるで何か意味を含んでいるかのような問いをせつなに投げた。

「この花壇って、何か特別なんだと思うの。ねぇ、あなたもそう思わない?」

 上級生の言葉にせつなの体がピクリと揺れた。その反応から、この後の展開が気になった浩志はぼんやりと話の続きを待った。

 しかし、待てど暮らせどその後どちらも口を開くことはなく、ただ二月の冷たい風にさらされるだけの状況に、浩志はたまらず声をあげた。

「それじゃあ、俺はこれで……」
「えっ? そうなの? この子は?」
「さぁ。俺も、たまたま見かけて声を掛けただけなので、どうするかは本人に聞いて下さい」
「そっか。分かった。気が向いたら、きみもまたここへおいで~。中等部でも入部できるか、先生に確認しておくよ」

 やはり入部をごり押ししてくる上級生に苦笑いを向けてから、浩志は寒そうに両肩を縮めて校舎内へ戻っていった。
 園芸部員からスターチスという花の名前を聞いてから一週間ほどがたった。

 あれから浩志は、例の花壇の前にいるせつなの姿を毎日のように目にしていた。どうやらせつなは飽きもせず、毎日、スターチスという花が咲くのを花壇の前で待っているようだった。

 いくら待ったところで、相手は植物。花壇を見つめ続けても、時期が来なければ芽は出ないし、花も咲かない。そもそも、園芸部員の話によれば誰も手入れしていない花壇だと言うし、花が咲くかも怪しい。そんなことは、勉強の苦手な浩志でさえ分かることだった。それなのに、せつなはそんな事も分からないのかと思ってしまうほどに、毎日、食い入るように花壇を見つめていた。

 今日も授業が終わり、ほとんどの生徒が帰宅したり部活に励んだりしている夕刻に、せつなは花壇の前にいた。

 寒空の中、相変わらず中庭にいる。コートも羽織らず、真新しい大きめの制服のスカートが木枯らしにバサリと旗めくのも気にも留めず、ただ一点のみを見続けている。

 そんなせつなの姿を浩志は教室の窓からただ黙って見下ろしていた。切羽詰まったように花壇を見つめるせつなの事が何故だか気になる。しかし、話しかけたところで以前のようになかなか要領の得ない会話になりそうで、彼は、再び少女に声を掛ける事を躊躇(ためら)っていた。

 少女に掛ける言葉を持たずただ黙って中庭を見下ろしていると、その静寂を破るように勢いよく教室の扉が開けられた。

「あっ! いた!」

 浩志が扉の方へ視線を向けると、鞄を肩に掛けた優が、ヒラヒラと手を振りながらやって来た。

「なんだよ?」
「ん〜。帰ろうかなぁと思ったら、成瀬の靴が下駄箱にあったから、まだ教室に居るのかなぁと思って来てみた。そしたらやっぱり居た」

 そう言い、優は二カっと笑いVサインをする。片側だけに出る八重歯と笑窪がその笑顔をさらにチャーミングに見せる。

 優の笑顔にドキリとした浩志は一瞬眉をピクリとさせつつ、それを隠すために慌ててコートを手に取り帰り支度をする。

「帰るって、お前部活じゃねーの?」
「あ〜、なんか今日の練習なしになったみたい」
「ふ〜ん」

 チラリと窓の外へ視線をやってから、優は、ふらりと浩志の隣へやってきた。

「成瀬は何してたの?」
「別に何も」
「……ふ〜ん」

 浩志の答えに優は目を細め、不満そうに相槌を打つ。

「何だよ?」
「べっつに〜」

 隠そうともしない彼女の不満は、もちろん彼に伝わり、浩志は面倒くさそうに口を開く。