「その人が言うには、心の一部がこの世界に取り残された時、媒体となるものが有れば、ココロノカケラは、この世に留まることが出来るんだって。せつなの場合は、コレ」
せつなは、制服の胸ポケットから何かを取り出した。小さな握り拳を開くと、オモチャの指輪が、コロリと掌に乗っていた。指輪は、まるで自己主張をするかのように、キラリと光を放つ。
指輪は、いつもせつなが持っていた物なので、浩志には既に見慣れた物になっていた。
「俺、それが何故だか、気になってたんだ。それ、やっぱり大事な物だったんだな」
「うん。せつなも、その人が教えてくれるまで、コレが媒体だなんて知らなかった。コレは、元々お姉ちゃんの物だったの。でも、あの日、少し早いけど退院祝いにって、お姉ちゃんがくれたんだ。お姉ちゃんは、コレを大切にしていたんだけど、せつなが気に入っちゃって、ずっと、お姉ちゃんにおねだりしてた物だったの。だから、もらった時は、すごく嬉しかった。絶対大切にしようって思ったの。だからかな、コレが媒体になったのは」
せつなは、懐かしそうに、そして、大切そうに、指輪に視線を注ぐ。
「ところでさ、ココロノカケラだっけ? その事にやけに詳しい奴がいるんだな? 俺らもその人からもっと話を聞くことは出来ないかな? 俺、せつなのことちゃんと知りたい」
せつなの目を見て浩志がキッパリと言うと、優も首を縦に振り、同意を示す。
「その人から、直接話を聞くことは、できない……かな」
「なんでだ? ソイツも幽体的な感じか?」
せつなの答えに、浩志が眉を寄せると、せつなは、少し可笑しそうに口元を緩めて、首を横に振る。
「そうじゃないけど、まぁ、それに近いのかな」
「どう言うことだよ?」
「本人が言うには、その人は天使なんだって。だから、幽体のことに詳しいみたい。でも、天使であることは、内緒なんだって。だから、その人から話を聞くことは無理かな」
「俺たちには、見えないってことか?」
残念そうに肩を落とす浩志に、せつなは、また首を振る。
「違うよ。天使って事を、みんなに明かせないだけ。だから、会えないだけで、実は、成瀬くんは、会ったことがあるんだよ」
「マジか!?」
「ウソ!?」
せつなの答えに、浩志と優は、驚きのあまり、お互いに目と口を丸くした顔を見合わせた。
「朝早くにすみません」
「いいのよ〜。でも、ごめんね。あの子まだ寝てるのよ。今、叩き起こして来るから、ちょっと待っててもらえる?」
階下から聞こえるそんな会話が、まだ微睡む浩志の耳に薄っすらと届く。ぼんやりと目を開けたが、まだはっきりとは覚醒に至らない。彼を包む布団に心地良く包まりながら、再度目を閉じれば、また、夢心地へと引き込まれて行く。
そんなふわふわとした瞬間は、勢いよく部屋の扉を開け放し、宣言通りに、布団をバシリと叩く母によって阻害された。
「浩志、起きなさい」
「なんだよ?」
寝返りをうち、母に背を向けつつ、掠れる声で、必死の抵抗を試みる。
しかし、そんな些細な抵抗は、母の言葉で無意味なものとなった。
「河合さんが来てるわよ」
「はっ?」
母の言葉に、しっかりと目を開く事になった浩志は、飛び起きると、勢いよく母の顔を見る。
「待ってもらってるんだから、早くしなさい」
心なしかニヤついた笑みを見せる母の視線を避けるように、浩志は、ベッドを飛び降りると、バタバタと階段を駆け降りた。
騒がしく登場した彼に目を丸くしながらも、優は、軽く片手を上げる。
「おはよう、成瀬」
「おまっ……何してんだよ。こんなとこで」
好き放題に跳ねる寝癖を直すこともせず、浩志は、目の前の彼女を唖然と見つめた。
「今から、部活行くんだけどさ、今日、午前中で練習終わるから、その後、せつなさんとまた話したいなと思って」
「は? そんなの勝手にしろよ」
「いや、でも、私、いろいろ考えたんだけど、もし、私の考えが正しかったら、急ぎだし、成瀬にも協力してもらいたいんだよ」
「なんだよ、協力って?」
「まぁ、詳しい話は、後で、学校で」
「なんだよそれ。だったら、こんな朝っぱらから家に来ることないだろう? 連絡くれれば済むじゃん」
「そうだけど、春休み初日だからね。ダラダラとして、誰かさんは、なかなか起きないかもしれないと思ってさ」
優の悪戯っぽい指摘に、思わず浩志は、グッと喉を鳴らす。どうやら図星のようだ。
「じゃあ、私は部活があるからもう行くわ。成瀬は、ゆっくりでいいから、後で必ず学校に来てよ」
「……おう」
浩志は、髪をクシャリとしながら、なんともバツが悪そうに答えた。
「朝早くから、お邪魔しました〜」
優は、室内に向かって元気にそう告げると、トレードマークのポニーテールを揺らしながら、成瀬宅を後にした。
優の来訪により、せっかくの休みだというのに、ダラダラするわけにもいかなくなった浩志は、そのまま、朝食を取り、頑固な寝癖と格闘し、それから、しばらくマンガでも読もうと自室へ戻ってきた。
春休みは、課題なんて苦行は課されない、唯一、のんびりダラダラ過ごせる時なのに、今日はそんな過ごし方は許されないらしい。
チラリと部屋の隅へ目をやると、まるで浩志の抜け殻のごとく、抜け出した時の形を保ったままのベッドが、主を誘っているような気がした。
いつもなら、そんな誘惑になんなく屈する彼だったが、今日は、そういう訳にはいかない。浩志は、ベッドから視線を外すと、制服の上着と、ほとんど何も入っていないリュックを掴み、部屋を出た。
優はゆっくりでいいと言っていたが、手持ち無沙汰で家にいるよりは、さっさと学校へ行ってしまおうと考えた浩志は、日に日に暖かさが増してくる空気の中、ゆっくりと学校へ向かった。
それでも、優の部活が終わるよりも早く学校へと到着してしまった浩志の足は、迷うことなく、中庭を目指す。
校舎に挟まれながらも、しっかりと太陽の日を浴びて明るく照り返す中庭の、いつもの花壇の前には、そこが定位置であるかのように、少女の姿があった。
「居ないかと思った」
不意打ちのような浩志の声に、せつなは、驚きもせず、振り返る。
「いつも見かけるのは、夕方近くだったから、そのくらいの時間じゃないと会えないかと思ってた」
「せつなは、いつだってここにいるよ」
淡々と答えるせつなに、浩志は、数日前の事を思い出し、意地悪く少女の顔を覗き込みながら言う。
「そうなのか? あれ? でも、待ってても会えなかった日があったぞ?」
「ああ。あの時は、新月だったからね。いつもそうなの。月のない新月の日は、何故だか、実体化できないんだ。何かの力が働いてるのかな? なんかさ、月って、神秘的だと思わない?」
そんな事を言いながら、せつなは、空を見上げて、今は、太陽の光を隠れ蓑のようにして隠れている月を見上げ、クスリと笑う。昨日の友情宣言以降、せつなは、それまでと違い、饒舌だった。
軽口を言ったつもりだったのに、それを楽しげにかわすせつなに、思わず浩志にも笑みが溢れる。
「せつなってさ、ホントは、そんなにしゃべる奴だったのな」
浩志の言葉に、少女はハッとしたように、空に投げていた視線を彼へと向ける。
「ごめん。せつな、しゃべりすぎだった?」
「いや、そういう事じゃない。ただ、今までよりも、良くしゃべるなと思っただけだから。悪い。気にするな」
浩志の遠慮のない物言いに、少女は、少し顔を曇らせる。
「これまで、ともだちがいなかったから。ともだちと話せるのが嬉しくて、つい……。うるさかったよね。ごめん」
シュンとしてしまった少女に、浩志は、失敗したという様に、頭をガシガシと掻きながら、懸命にその場の立て直しを試みる。
「うるさくなんかないから。大丈夫だ。好きなだけ喋ってくれ。聞いた事に答えてくれないより、よっぽど良い」
「……ごめん」
浩志の言葉に、せつなは、さらに肩を落とした。
「成瀬くんが、これまでいっぱい話しかけてくれてたのに、あんまり話さなくてごめんね。正直、怪しんでたの。なんでこの人は、せつなに構うんだろうって。ホントは、成瀬くんと仲良くするのが怖かったんだ。仲良くなった後に、本当のせつなのことを知って、離れていくかもしれないと思うと……」
俯き加減で話すせつなは、グズリと鼻を啜った。その音で、墓穴を掘った事に気がついた浩志はさらに焦る。
「な、泣くなよ。そんなん、俺、全然気にしてないし。今はもう友達だろ? それでいいんだよ」
少女は、グズグズと鼻を鳴らしながらも、浩志の言葉に、ウンウンと頷きを繰り返す。
「俺も河合も、もう、せつなの友達だからな。なんでも言ってくれ。どれだけでも話してくれ。せつなは、……その……、ちょっと人とは違うのかも知れないけど、正直、俺には、今、目の前にいるせつなが、人間にしか見えないんだ。俺と違うところなんて、全然ない。だから、気味が悪いとか、怖いとかも思わない。そんなんで友達を辞めたりなんてしない。河合だってそうだ。あいつも、そんな事する奴じゃない。だから、安心しろ」
機関銃のように言葉を投げてくる浩志を、いつしか、涙の溜まった目で見つめ、鼻を鳴らす事をやめていた少女は、一瞬の破顔の後に、またもや顔を曇らせた。
「ありがとう。ホントに何でも言っていいのかな?」
ささやくように遠慮がちにそう言うせつなに向かって、彼は自身の胸を軽くトンと叩いて見せる。
「おう! なんでも聞いてやるぞ」
「あの、それじゃあ、……手伝って欲しいことがあるの!」
少女は、浩志の目を見つめたまま、両手を胸の前で合わせ、お願いのポーズを可愛く決めている。その様子は、打算的だったが、年頃の男子には、100%の効果を発揮した。
「お、おう! 俺にできることなら」
浩志は、可愛らしいせつなから明後日の方へと視線を逸らし、気まずそうに頬を掻く。しかし、話を聞く意思はあるのか、先を促すように、チラチラと横目で視線を少女へ送る。そんな彼の態度を見極めるように、しばらく見つめた後、せつなは、口を開いた。
「あのね。成瀬くん。せつな、お姉ちゃんの結婚式に出たいの」
「……えっ?」
「何かいい案、ないかな?」
少女の懇願するような顔と、彼の困惑した視線が交わると、2人は、互いにググッと眉間を寄せた。
「そ、そうだよな。プレゼントする為に、花を用意しているんだし。う〜ん。何かあるかな? ……シンプルに、蒼井に頼んでみるとか?」
浩志の提案に、せつなは、悲しそうに首を振る。
「お姉ちゃんには、何度か声をかけたけど、聞こえないみたい」
「そう……なのか」
浩志も、せつなの答えに肩を落とす。それから、パチリと指を鳴らすと、閃いたというように、自信満々に人差し指を立てた。
「なぁ! こいちゃんは?」
「俊ちゃん?」
「そう。もしかしたら、こいちゃんなら、せつなの声が聞こえるんじゃないか?」
「そうかな?」
彼自身には名案に思えたが、腑に落ちないという風に、首を傾げるせつなの態度に、彼の勢いは急落する。
「……わかんないけどさ、でも、条件は河合と一緒だろ。せつなの存在を認識していたから、河合は、せつなが見えた。だったら、俺らと話した事で、こいちゃんだって、せつなの存在に気がついているって事にならないか?」
「う〜ん。どうだろう? そういう事なのかな?」
彼の力説にも、少女は、曖昧に首を傾げたままだ。
「その説で言うなら、お姉ちゃんに、せつなの存在を認識して貰えればいいって事になるよね?」
「あっ、そうか! じゃあ、蒼井に会いに行くか! 俺らがせつなの事、蒼井に伝えてやるよ」
「……う〜ん」
なかなか笑顔を見せないせつなに、浩志は、少女の真意が掴めず、ため息を吐いた。
「せつなはさ、何が、引っかかるんだ? 姉ちゃんに会いたいんだろ?」
浩志の問いに、少女は、悲しそうに、眉尻を下げ、項垂れた。
「会いたい。会いたいよ……けど……。お姉ちゃんね、やっと笑うようになったんだ。正人くんのおかげ。お姉ちゃん、たまに、正人くんと、この花壇を見に来てたの。でも、時々、せつなの話をして、泣いちゃって……成瀬くんたちがせつなの話をして、もしも、やっぱり見えなかったってなったら……」
「姉ちゃんを、悲しませることになる?」
辛そうに言葉を切ったせつなの後を、心配そうに浩志は繋いだ。少女は、口を噤んだまま、コクリと頷く。
「ん〜、じゃあ、やっぱり、まずは、こいちゃんか……」
浩志が腕を組み、思案顔をしていると、笑いを含んだ声が少し離れたところから聞こえてきた。
「な〜に、似合わない顔してんのよ?」
声のした方へ視線を向けると、優が可笑そうに笑いながらやって来る。そして、浩志の姿を、上から下までじっくりと観察する。朝とは違って、きちんとした身なりになっていることに、ニヤリと含み笑いを見せた。
「朝、起こしに行って正解だったわね!」
「……早過ぎだっつーの」
満足そうな彼女に、浩志は顔を顰めて見せたが、彼女は、そんな事はお構いなしに、せつなへと声をかける。
「あのね。私、今日は、せつなさんに確認したい事があるの」
「何? 優ちゃん」
せつなは、優に向かって軽く小首を傾げて見せた。そんな少女の目をしっかりと見つめて、優は、言葉を慎重に選びながら、確認するように口を開いた。
「もしかしてなんだけど……、せつなさん、蒼井先生の結婚式に出席したいな、なんて思ってたりする?」
優の言葉に、浩志とせつなは、驚きのあまり、思わず顔を見合わせた。それから、浩志は感心したような声を漏らす。
「すごいな、お前。よく分かったな。今、ちょうど、せつなと、その事を話してたんだよ」
浩志の言葉に、せつなも、コクコクと首を縦に振る。
「やっぱりね! 昨日、いろいろ考えたのよ。せつなさんのこと。折り紙のお花のことも聞いてたからね。その事は、案外簡単に考えついたの。で、ここからが本題なんだけど……」
優は、言葉を切り、一息つくと、少し顔色を曇らせる。
「せつなさんは、ここから離れる事は出来るのかな? 例えば、お家へ戻るとか……」
優の言葉に、せつなは、ハッとしたように目を見開いたあと、空気が抜けるかのように、シュンとなってしまった。
「……やっぱり……無理なのね」
せつなの態度で全てを悟った優も、少しばかり項垂れる。女の子たちの間で、1人、状況が分からない浩志は、焦ったように声をかける。
「な、なぁ? どう言う事だよ?」
すっかり項垂れて、しょぼくれているせつなを気遣いつつ、優が説明をする。
「あのね。昨日の話を聞いてから、ずっと考えてたの。せつなさんは、どうして学校にいるんだろうって」
「どうしてって……それはせつなが願ったからだろ?」
「そう。『新しい制服を着て、学校に行きたいって。お姉ちゃんとお花を見たい』って、せつなさんが強く願ったから。だから、せつなさんは《《ここ》》にいるんだと思うの」
「そうだろ? だから、さっき俺たちは、蒼井か、こいちゃんにせつなのことを話して、結婚式に出れるようにしてもらおうって話してたんだよ」
浩志はまるで、名案だろとでも言いたげに胸を張っている。そんな彼に向って優は、力なく首を振る。
「多分だけど、それは、できないと思う」
優の言葉に、浩志は驚いたように優の顔を見つめる。それから、せつなへと視線を移すと、少女は、優の言葉に反発も反応もせず、ただ俯いていた。
「おい! お前。なんで、そんなこと言うんだよ! やってみなきゃわからないだろ!」
浩志の声は、少し怒気を含んで、いつもよりもワントーン低く響く。しかし、そんな彼の威圧など何とも思わないという様子で、優は、淡々と彼の言葉をはじき返した。
「やるとかやらないとか、そうゆうことじゃないのよ」
「じゃあ、どういうことだよ?」
「せつなさんは……たぶん……」
優が切った言葉は、そのまませつな自身が引き取った。
「成瀬くん。たぶん、せつなは、ここから離れられないんだと思う」
浩志の目を見て、きっぱりと言う少女の瞳は、その立ち振る舞いに似合わず、激しく揺れていた。それでも、少女は、気丈に振舞いながら、言葉を切ることなく、願いがかなわない理由を口にする。
「少し考えれば、分りそうなのに……どうして、せつなは、今までそのことに気がつかなかったのかな……」
「なぁ、どういうことだよ?」
「あのね。せつなは、《《学校にしかいられない》》んだと思う」
「学校にしか……?」
「うん。そう。さっき、優ちゃんに言われるまで思いもしなかったんだけど……」
「なんだ?」
「せつなは、気が付いたらいつも学校にいて、おうちに帰らなきゃとか、帰りたいとか思ったことなかった。ここから……学校から外に出るということを考えたことがなかったの。それってたぶん、せつながココロノカケラだから。学校と、お花と、制服。この3つの思いでできてる存在だから」
「よくわかんねぇよ……」
「分かりやすく言えば……、せつなは……、ここに縛られてるってこと」
寂しそうに微笑むせつなに、浩志は眉を歪ませる。それでも、彼は往生際悪く、言葉を絞り出した。
「でも……、せつなは、家に帰ったことがないんだろ? 帰ろうとしたことがないだけで、本当は……、本当は、帰れるかもしれないじゃないか。行こう! 今から! 帰ったら、母ちゃんたちにも会えるかもしれない」
「ちょっと、成瀬!」
「うるせぇ! お前は黙ってろ」
せつなの手首を掴み、今にも駆けだそうとする浩志を、優は押しとどめる。そんな彼女を、彼は、怒鳴り飛ばした。しかし、彼女は、彼の怒声に怯むことなく、怒鳴り返す。
「せつなさんの手を離して!」
「なんでだよ!」
「せつなさんのこと、よく見て!」
優に怒鳴られ、浩志はせつなの顔を見る。少女は、呆然としたまま、瞳には涙をいっぱいに揺らしていた。
「な、なんで……? ごめん、手痛かったか?」
浩志は、慌てて掴んでいたせつなの手を離した。慌てる浩志に、せつなはフルフルと頭を振って応えた。
「なぁ。どうしたんだよ、せつな?」
「……お母さん……」
消え入りそうなほど小さな声で呟かれたその単語を、浩志は聞き漏らすことなく受け取ると、その先を促した。
「母ちゃんがどうしたんだ?」
「せつな……お母さんのこと……お母さんのこと……今まで、忘れてた……」
そう言いながら、大粒の涙をこぼし、本格的に泣き崩れてしまった少女を、浩志と優は、何とも言えない表情で見つめることしかできなかった。
3人のいる中庭には、せつなのしゃくりあげる声だけが、寂しげに響いていた。その声を聞き咎め、その場へやって来る者は、誰もいない。
どれだけの時間そうしていただろうか。せつなのしゃくり声が小さくなった頃を見計らって、優は、せつなの背中に優しく手を置いた。そして、トントンと一定のリズムを刻みながら、せつなの背中を軽く叩く。せつなは、優に甘えるように、彼女の胸に顔をうずめた。その様子は、まるで、小さな子をあやすようで、姉と妹、もしくは母と娘のように浩志には見えた。
「大丈夫?」
優しく問いかける優の声に、せつなは、彼女の腕の中で、コクリと頷く。始終その様子を困り顔で見つめていた浩志は、1人安堵のため息を漏らした。自分だけでは、おそらく、手に余したであろうこの状況を、優が、慌てることなく対応してくれたことに、浩志は心底感心していた。
「せつな……その……ごめんな」
浩志が、控えめにせつなに声を掛けると、せつなは、優の腕の中で、フルフルと頭を振った。
「成瀬くんは、何も悪くない。ただ、突然、お母さんのことを思い出しちゃって……それで……」
「どういうことだ?」
せつなの言っていることが分からず、浩志は首を傾げる。そんな彼に、優は少女の背中をさすりながら、自分の見解を述べる。
「たぶんだけど、今のせつなさんは、自身を形作っている物、つまり学校と、花と、制服。これに紐づけされている意識のみを表層意識として捉えているんじゃないかな」
「紐づけ? 表層?」
「そう。せつなさんは、病床で強く願った心の一部。あの写真の日のことを強く思ったからここにいるんだよね?」
確認するように優に視線を合わせられた浩志は、小さく肯く。せつなも優の腕の中で、肯いていた。2人の反応を確認して、優は再び口を開く。
「その思いの中には、家のことや、残念だけどお母さんのことは含まれていなかったんじゃないかな。もしかしたら、お母さんや、お父さんを思って、他にもせつなさんのココロノカケラがどこかに散らばっているのかもしれない」
「そうなのか?」
優の言葉に、浩志は、驚いたように目を見開く。そんな彼に対して、彼女は残念そうに一度首を振る。
「分からないわ。たとえばの話よ。でも、もしかしたら、おうちに帰ってお母さんの作ったグラタンが食べたかったと、思い続けているせつなさんがいたとしたら、せつなさんのココロノカケラは、どこにどういう状態で現れると思う?」
「そりゃあ、家だろ。しかも、キッチンだな。きっと、料理している母さんにべったりだ」
浩志は、冗談めかして答える。その答えに、せつなは、思わず優の腕の中で顔をあげて、プウッとかわいらしくむくれて見せた。そんなせつなに、優は安心したように笑顔を向けてから話を続ける。
「きっと、そうね。そのときは、きっと、学校に行きたいだとか、花の咲くところが見たいなんて思いはどこにもないんじゃないかな。ただ、ひたすらにお母さんのグラタンのことを思ってると思うの。強く思うってそういうことじゃない?」
優の言葉に、浩志は感心したように大きく頷いた。
「確かにそうだな。ここにいるせつなは、学校と花と制服、これを強く思っているせつなだもんな。せつなの口から、グラタンなんて単語、聞いたことないし」
「まぁ、それは、あくまでも例えだけどね」