スターチスを届けて

 月曜日。修了式が行われる中学2年の最後の登校は、常日頃、遅刻魔と化している彼でも、時間を守るようだった。

 浩志は、タラタラと学校へと続く坂道を上っている。

 1ヶ月前に比べると、随分と柔らかくなった朝の空気が、眠くて蕩けそうになっている彼を包み込む。

 暖かくなった空気を、ふわりとかき混ぜるように風が通り過ぎると、街路樹たちが一斉にささやき始めた。

 サワサワと小さく響く音に、あくびを噛み殺しながら、顔を上げると、正門に見慣れた人影がある事に、浩志は気がついた。

 坂を上りきり、正門前で佇む優の姿を、正面から視界に入れる。

 先日の公園での別れが脳裏に蘇り、彼女になんと声をかければ良いのだろうかと、しばし思案する。

 彼は、気まずさから、かける言葉が見つからず、意味もなく「あ〜」と軽く声を出す。視線を彷徨わせていると、校舎にかけられた、校内スローガンの幕が、風に揺られてバタバタと音をたてていた。

『おはようは 距離を縮める 合言葉』

 正門から見えるように掲げられているそのスローガンは、まるで、彼に主張しているかのように、大きな文字をくねらせている。

 「……あの」

 とりあえずは、挨拶をしなくてはと思い立ち、彼が口を開きかけた。しかし、一瞬早く、優が、殊更大きな声で挨拶をする。

 「成瀬! おはよう!」

 おそらくは、彼女も先日の事を気にしていたのだろう。挨拶をしたその顔は、笑顔で満たされているが、それはどこか強張っているように見えた。

 なんとか、浩志との間に出来てしまった溝を埋めようとした、彼女なりの行動だったのだろう。
 
 そんな彼女の心持ちが嬉しくもあり、また、周りの目がある中での待ち伏せに恥ずかしくもあり、浩志は、素直に挨拶をすることがなんだか照れくさくて、顔を伏せた。

「……おう……」

 挨拶とも相槌とも取れない声を出しながら、優へ小さく頷くと、彼はそのまま彼女の横をすり抜けた。

 そんな彼の素っ気無い態度であっても、彼との接触が嬉しかったのか、彼女の笑顔は、幾分和らぎ、少し先に正門を潜った彼の背中を飛び跳ねるようにして追いかける。

「ねぇ、成瀬? 私、あれから考えたんだけどね……」

 優は、浩志の隣に並びながら、声をかける。

「何を?」
「蒼井せつなさんのこと」
「せつなのこと?」

 浩志は下駄箱につくと、靴を履き替えながら、不思議そうに優の顔を見た。
「うん。もしね、もし本当に、私の考えた通り、せつなさんが、蒼井ちゃんの妹だったとして、どうして、今まで、全く誰からも、そう言った話が聞こえてこなかったんだろうって思ったの。だって、先生の妹だよ。絶対どこかしらから、噂が立つだろうに……」

 優の言葉に、浩志は、呆れたようにため息を吐くと、教室へと向かって歩を進めた。

「だから、それは、お前の勘違いだからだろ? たまたま同じ苗字ってだけのことだって」

 浩志は自身の説が正しいと言わんばかりに、優の仮説を一蹴するが、彼女は、何故だか不満顔のままだった。

「成瀬の考えも、なくは無いとは思うんだよ。だけど、どうしても、引っかかるの。苗字が同じってだけならまだしも、結婚の時期まで同じってなると、私の意見も、ただの妄想では無いような気がするのよね」

 優は、どうやら、先日から、その事が頭から離れなかったようだ。

「私ね、なんだか、私の考えが間違っているような気がしなくて、私なりに、せつなさんのこと調べてみたの」
「調べてって……お前何したんだよ?」

 優の言葉に、浩志は訝しそうに眉根を寄せて、彼女の顔を見た。幾分険しい彼の顔色に、彼女は慌てて、言葉を言い直す。

「ああ、えっと……調べてって言っても、部活の後輩に、せつなさんの事を知っているかって聞いてみただけよ」

 優は自身の顔の前で、手をヒラヒラと振って、大した事はしていないと、彼の視線を散らす。

「それで?」

 彼女の動きに少しばかりの苛立ちを覚えつつも、浩志も、せつなの事については、殆ど何も知らないため、彼女の話に興味を引かれた。

 彼が、自分の話を聞く姿勢を見せた事に優は安堵するとともに、先を話す事に、小さな不安を覚える。

「それがね……」
「何だよ?」

 口籠る優に、浩志は話の先を促した。

 優は、たっぷりと間を置いたのちに、不思議そうに口を開いた。

「誰も、せつなさんの事を知らないって言うのよ」

 彼女の言葉の意味がよく分からないのか、浩志は小さく首を傾げる。

「どういう事だよ?」
「私にもよく分からないの。せつなさんは、1年2組なのよね?」
「そうだと思うぞ」
「間違いない? 他の学年の子とか?」
「いや、いつも、1年2組の教室にいるんだし、多分間違いないと思うけど……そう言われると、きちんと本人からクラスを聞いた事はないな」

 浩志は、記憶を辿るように、「う〜ん」と唸りながら、腕を組み考え込んだ。
 そんな浩志の様子に、優は、更に不思議そうにしつつ、言葉を繋げる。

「せつなさんのことを聞いた後輩の中に、1年2組の子はいなかったから、もしかしたら、本当にせつなさんのことを知らないだけなのかも知れないけど……」
「けど?」
「確認した子の誰もが知らないって言うの」
「う〜ん。まぁ、あいつ、大人しそうだからな。スポーツやってる様な、お前みたいなチャキチャキしたタイプとは関わってないんじゃないか?」

 優の言葉に、浩志は、思ったままを口にする。そんな彼の言葉に、彼女は思わず眉を上げる。

「チャキチャキって何よ?」
「ん? チャキチャキはチャキチャキだよ。よく喋るっつーか、よく動くっつーか」
「はぁ? 何? あんた、私のこと、(けな)してるわけ?」

 突然、優から立ち上った怒りのオーラに気が付いた浩志は、慌てて彼女から半歩距離を取る。

「ちげーよ! 俺は、お前らと、せつなじゃタイプが違うって……」

 浩志の瞬時の訂正に、優は、フンと鼻を鳴らし、ツンと顔を背ける。

 そんな優の態度に、浩志は、彼女には聞かれない様に、小さくため息を吐く。

 思春期女子の瞬間湯沸かし器の様な変化に、先日のことも思い出され、ついついめんどくさいと思ってしまう。

 しかし、このままでは、また話が中途半端に終わってしまうので、何とか話を先へ進めようと、浩志は優に声をかける。

「俺は、ただ、タイプが違うから、仲良くしてないんじゃないかって事が言いたかっただけ。お前を貶してるとかじゃないから、機嫌直せって」

 優は、浩志をジロリとひと睨みしてから、まるで怒りを吐き出すかの様に、フゥと大きく、浩志に聞こえるように息を吐き出した。

「まぁ、いいわ。せつなさんがどんな子なのか私は知らないから、タイプ云々はこの際、置いておいておくとして……」

 まだ怒りを内に秘めているのか、優の声のトーンは幾分低かったが、それでも、彼女が口を開いた事で、浩志はほっと胸を撫で下ろした。

「私が言いたいのは、仲良くないから、知らないって事はないんじゃないかなって事」
「ん? どう言う事だ?」

 優の言わんとしている事が、すぐには分からず浩志は聞き返した。

「確かに、仲良くなかったらその人のことはよく分からないけれど、それでも同じ学年なら、例えば、廊下で見かけるとか、体育とかの合同授業とか、友達の友達とか、誰かしら、何かしらの接点はあるもんじゃない?」
「まぁ、そうかもな……」
 浩志は優の言葉に相槌を打った。

「それなのに、みんながみんな、せつなさんのことを知らないって言うなんて、ちょっと変じゃない? 名前くらい知っていても良さそうなものなのに」
「う〜ん。……もしかして……」

 浩志の濁した物言いに、優は、視線で先を促した。

「……あいつ、いじめられてたりとか? ……だから、誰も知らないとか言うのか?」
「何? せつなさんって、そんな感じの子なの?」

 浩志の言葉に、優は怒っていたことも忘れて、彼に近づくと、声を潜めた。

「まぁ、でも、呪いの花って言われちゃうくらいだしねぇ……あ、違うか。呪いの花は、誰が作ってるのか、みんなは知らないのよね……」
「まぁな〜。でも、せつなは、物静かだけど、結構ガツンと言う感じだしなぁ。影が薄いとかじゃないと思うし。いじめの対象になるかなぁ……やっぱ違うか」

 1人でいじめ説を一蹴する浩志に、優は、解決しない疑問を投げかける。

「でも、じゃあ、なんで誰もせつなさんのこと知らないんだろう? やっぱりなんか変じゃない?」

 2人は顔を見合わせ、互いに眉を寄せる。しばらくの間、小さく唸り声を上げながら、尤もらしい答えを導き出そうとしていたが、結局何も出てこなかった。

 そして、浩志が先に根を上げた。

「あ〜! もう、無理。考えたって、わかるわけない。もう、今からせつなのところに行こうぜ」
「え? 今から?」

 せつなについての考えをアレコレと巡らせている間に、2人は、教室へと辿り着いていた。自分の机に鞄を掛けようとしていた優は、浩志の突然の提案に驚き、鞄を取り落とす。

 慌てて鞄を拾い上げ、机の上に置くと、優は、ツカツカと浩志の席へと歩み寄った。

「もうすぐ先生が来るのに、どうするのよ?」
「朝の連絡なんて聞かなくたって別に大したことねぇーよ」

 どうってことないという顔をする浩志に、優は、目に見えて呆れた。

「あんたは、いいかもしれないけど、呼び出されたせつなさんは、いい迷惑よ。あんたって、どうしてそうも短絡的なの!?」
「なっ……!! 元はと言えば、お前がせつなの事が気になるって言い出したんだろ。だから、俺は……」

 優と浩志が言い合いを始めても、周りのクラスメイトは、どこ吹く風。また、今日も痴話喧嘩を始めたよくらいの、生暖かい視線を向けられるだけだった。

 そうこうするうちに、朝の予鈴が2人の声をかき消すように鳴り響いた。
 各クラスで朝のST(ショートタイム)を終えると、全校生徒は、校庭へと集められ、今年度最後の全校集会という名の修了式が行われた。

 校長先生や生徒指導の先生が、春休みの過ごし方について、長くてつまらない話を長々としている間、浩志は、背伸びをしたり、頭をふらふらと左右に振りながら、生徒たちの中に、せつなの姿を探した。

 中学と高校の合同で行われる全校集会は、中3生と高3生が既に登校していない事もあり、いつもの集会よりも人が少なく、各クラスがいつもよりも幾分余裕を持って整列している。

 しかし、そうは言っても、視界の先は、ほとんど他の生徒の姿に遮られ、浩志は、せつなの姿を捉えられないでいた。

 集会が終わり、生徒がバラバラと教室へと戻り始めると、浩志は、慌てて1年生の列へと駆けて行った。

 そんな浩志の後ろ姿に、優は、友人たちの輪を離れると、ゆっくりと彼の後を追う。

 優が浩志の隣に辿り着いた時には、ほとんどの生徒は、校庭から移動し、昇降口へと吸い込まれていた。

「せつなさん、居た?」

 優の問いかけに、浩志は、無言のまま、首を傾げながら、肩を竦める。

 そんな折、彼らを急かすように声が掛けられた。

「成瀬〜。河合〜。お前ら、早く教室へ戻れよ」
「こいちゃん!! ちょうど良かった。ちょっと聞きたいことが……」
「なんだぁ成瀬。手伝ってくれるのか?」

 マイクスタンドを畳みながら、小石川は冗談めかしたように笑う。それを浩志は、軽くあしらいながら、早口に質問をした。

「ちげーよ。あのさ、こいちゃんのクラスの、蒼井。今日来てた?」

 浩志の問いに、小石川は片付けの手を止め、少しだけ眉根を寄せる。それから、不思議そうに言った。

「アオイ? うちのクラスにそんな名前の奴いないぞ。他のクラスと間違えてないか?」

 小石川の言葉に、浩志と優は、思わず無言で顔を見合わせる。

 その隙に、片付けの終わった小石川は、機材を纏めると、彼らを急かし、自身も校舎へと向かって歩き出した。

「こいちゃん。本当に、こいちゃんのクラスにいない? 蒼井せつなって奴」

 浩志の問いに、小石川は心外だと言わんばかりに声を上げる。

「あのな〜。自分のクラスの生徒の名前くらい……ん、待てよ? 名前なんだって?」
「蒼井せつな」

 浩志の言葉に、小石川は、驚きを隠せない様子で目を見開いた。

「お前、なんでその名前……。あ〜、今は時間がないか! 後で、俺のところへ来い。いいか! 必ず来いよ」
 今年度最後の成績表を手に、生徒たちは、楽しそうに、成績を見せ合ったり、これからの休みの計画を口にしながら、それぞれ教室を飛び出していく。

 そんな中、最後まで教室に残った浩志と優は、成績表を見せ合うことも、休みの計画を口にすることもなく、ただ、窓辺にもたれ掛かりながら、2人して中庭を見下ろしていた。

 少し前までは、茶色一色の殺風景だった中庭には、緑の絨毯が広がり始めている。

 せつなが執着していたあの花壇にも、柔らかそうな緑がそこかしこに見えた。

(もうあんなに、緑が広がってる。……植物の成長って早いんだな。全然気にしたことがなかった。でも、まだ花は咲いてないか)

 浩志がぼんやりとそんなことを考えていると、隣にいる優が、控えめに声を出した。

「ねぇ、成瀬」
「ん?」
「小石川先生、なんか変だったよね?」
「ああ。そうだな」
「せつなさんの名前聞いて、驚いてたよ?」
「ああ。そうだな」
「生徒の名前聞いて、あんな風に驚くかな?」
「……さぁな」
「せつなさんってさ、一体何者なんだろう?」
「……さぁな」

 優の問いに、浩志は、花壇に視線を向けたまま、短く答える。

 小石川の反応を見てから、彼の心の中にも同じ疑問がずっと渦巻いていた。逸る気持ちを抑えて、担任の話を聞き流し、解散になるのを今か今かと待っていたのだが、いざ、その時が来ると、何故だか尻込みをしてしまい、小石川の元へ行くのを躊躇ってしまっていた。

「行こう! 成瀬。小石川先生、待ってるよ」

 少し力を込めた優の言葉は、まるで浩志の背中を押そうとしているようだった。彼女には、彼の緊張とも、躊躇いとも言えない、モヤモヤとした気持ちが見えているかのようだった。

 浩志は、もう一度花壇を見つめる。幾分か大きめの真新しい制服を着た少女は、やはり、今日も花壇には姿を現さない。

 彼は、まるで、なにかを覚悟するかのように小さく息を吐き出すと、少しばかり頷いた。

「……行くか」

 机の上に無造作に置かれた鞄を手に取り、彼は、扉へと歩き出した。いつもなら、その後ろ姿を騒がしく追いかける優も、今日は、言葉少なについて行く。

 蒼井せつなという少女について、小石川はどんなことを口にするのだろうか。

 今から語られるであろう事実を前に、2人の周りには、重苦しい緊張が漂っていた。
 職員室の扉を軽くノックし、優は、ハキハキと入室の挨拶をする。

「失礼しまーす!」

 優に続き、浩志も無言で室内へと入る。職員室は、彼にとっては、苦手意識のある場所で、できれば足を踏み入れたくないと、常々避けて通る程だ。彼は、居心地が悪そうに肩を窄めて、優の後に続く。

 コーヒーの香りが微かに香る大人たちの領域も、1年の最後の予定である修了式を終え、どこか、いつもよりものんびりとした空気が漂っている。

 わっと談笑の声が上がり、浩志が、思わずそちらの方へ目を向けると、社会科の蒼井教諭が、向かいの席の教諭らと楽しそうに話をしていた。

(蒼井が、せつなの姉ちゃん……?)

 不意に、優の立てた仮説が浩志の頭を()ぎる。せつなが、稀にみせる、はにかんだ様な控えめな笑顔が、蒼井教諭の顔に重なり、彼女が何歳なのかは知らないが、大人の女性のはずの蒼井教諭が、彼には少し幼く見えた。

(……まさかな……)

 浩志は、蒼井教諭から視線を外すと、先を行く優の背中を黙って追いかける。

 小石川教諭は、蒼井教諭のいた場所よりも奥の席で、1人、マグカップを傾けながら、何かを読んでいた。近づくと、それはスクラップされた新聞記事のようだった。

「小石川先生……」

 優が声をかけると、小石川は、ハッとしたように、記事から目を上げた。

「……河合か」
「あの、さっき話の続きを……」

 優の言葉を聞き、小石川は、彼女の後ろに隠れるようにして立つ浩志へと視線を向ける。それから、職員室の中を見廻すと、ガタリと席を立った。

「場所を変えようか」

 小石川は、机の上に広げたままになっていたスクラップブックを手にすると、職員室の扉へと向かう。浩志と優は、静かにその後に続いた。

 職員室を出た3人は、すぐ隣の生徒指導室へと入る。

 小石川の対面に、浩志と優が座ると、小石川は、静かに話し出した。

「成瀬。確認するが、蒼井せつなという名前の生徒を探していると言う事で、間違いないか?」

 小石川は、浩志の顔をしっかりと見て問いかける。

「うん。そう」

 浩志は、職員室よりも幾分慣れている生徒指導室の雰囲気に、先ほどまでの萎縮した態度から一変、リラックスした様子で答えた。

「そうか。だがな、さっき、校庭で聞かれた時にも言ったが、俺のクラス、1年2組には、そういう名前の生徒はいないんだよ。お前の探している生徒は、本当に俺のクラスの奴か?」
 小石川の問いに、浩志は肩を竦めた。

「そうだと思ったんだ。いつも1年2組の教室に居たから。でも、思い返してみると、本人がそうだと言ったことはなかった。だから、今は、自信がない……」
「そうか。それじゃあ、河合は? 一緒に話を聞きに来たってことは、お前も、蒼井せつなという生徒を探しているのか?」

 小石川は、今度は、優へと視線を向けた。優は、小石川の視線を受け止めると、背筋をピンと伸ばし、優等生然とした受け答えをする。

「私は……、実は、蒼井せつなさんのことは、全く知りません。少し前に成瀬から話を聞いて、一度会ってみようと思い、今日、せつなさんを探していました」
「そうか……」

 小石川は、2人の答えを聞いて、少し困惑したような難しい顔になって、小さく唸る。

 しばらく唸った後、小石川は、小さく息を吐き出すと、2人を見つめて、信じられない事を口にした。

「さっきも言ったが、蒼井せつなという生徒は、俺のクラスにはいないんだ。それで、もしかしたら成瀬の勘違いなんじゃないかと思って、お前らが来るまでに、俺は全クラスの生徒名簿を確認してみた」

 浩志と優の視線が、小石川へと注がれる。それを正面から受け止めつつ、小石川は、酷く言いにくそうに、話を続けた。

「……どこのクラスにも、蒼井せつなという生徒の名前はなかった」
「そんなっ!」

 浩志は思わず声を上げた。優も、驚きに目を見開きつつも、浩志ほどに取り乱すことはなく、静かに小石川へと、質問を投げた。

「先生、それは本当ですか? それこそ、見落としということは?」

 優の質問に、小石川は首を振った。

「まず、ないだろう。これは、あまり生徒に言う事ではないが、うちの学校で管理している生徒名簿には、いくつかの並び順による生徒名簿がある。例えば、クラス順とかな。その名簿をざっと見ただけなら、もしかしたら、見落としということもあるかもしれないが……」

 小石川は、そこまで言うと、言葉を切り、持ってきたスクラップブックから2枚の紙を取り出した。

「これは、全校生徒を学年関係なく、名前順にしてあるものだ。念のため、高等部の名簿も持ってきた。本来なら、生徒には見せないものだから、他の誰かには言うなよ」

 そう言いながら、小石川が示した紙には、それぞれ、中等部と高等部の「あ」から始まる生徒の名前が記されていた。
 その紙を、浩志と優は食い入るように見つめた。しかし、小石川が言ったように、どこにも「蒼井せつな」という名前を見つけることができたなかった。

 優は、名簿から視線を外すと、浩志の顔を見る。彼は、困惑したように眉根を寄せていた。

「どういうことだ? 名前が違うのか? でも、だって、せつなが自分で……」

 浩志は、ぶつぶつと口の中で疑問を呟き、視線を彷徨わせる。しかし、それで疑問が解決するはずもなく、彼の隣に座る優は、小石川へと助けを求めた。

「あの、先生。どういうことでしょう? 確かに、先生の言う通り、蒼井せつなさんの名前は、名簿に無いようですけど……」

 彼女は言葉を切ると、チラリと浩志の方へと視線を投げる。彼はまだ信じられないのか、名簿を隅々まで確認していた。そんな浩志から視線を外し、小石川へと視線を戻すと、優は、はっきりと言う。

「成瀬が言っているように、偽名を名乗られたということも考えられますが、でも、先生は、せつなさんの名前に心当たりがあるようでした。そうでしょ?」

 小石川をしっかりと見つめて問う優の視線から逃れるように、小石川は、腕を組み、天井を仰ぎ見る。目を瞑り、眉を顰めて何かを考えるかのように沈黙を続けたが、やがて、大きく息を吐き出すと、目を開けた。

「成瀬。これを見てくれ」

 小石川は、スクラップブックを開き、あるページを示した。どうやら、新聞記事だと思っていたそれは、A4用紙1枚に書かれた校内新聞のようだった。開かれたページは、先ほど職員室で小石川が見ていた箇所のようだ。

 浩志は、目の前に開かれたページへと目をやり、すぐに、その目を大きく見開いた。

 その記事の中央辺りに掲載されている写真には、花壇を背景にした、男女4人の生徒の姿があった。モノクロ印刷のため、顔がはっきりとは分からないが、それでも、他の3人よりもかなり背丈が低く、肩ほどまである髪を二つに分けて縛っている少女の姿に、彼は見覚えがあった。

「こいちゃん! コレ! こいつだよ。せつなは!」

 浩志は、興奮気味に写真を指さす。隣から記事を覗き見ていた優も、浩志の声に、思わず小石川を見た。

 浩志の反応に、小石川は、机に片肘をつき、さらに難しい顔になりながら、人差し指で、自身のこめかみ辺りをトントンと叩いた。

「やっぱり、そうか……。でも、なんでだ?」

 独り言のように小石川は小さく呟く。