「ねぇ、待って」

 優の声を背中に受けながら、浩志は、のんびりと廊下を歩く。後から追いかけて来ていた優は、彼の隣に並ぶと、ふと思い出したかのように、声を(ひそ)めて、浩志に耳打ちをした。

「花壇といえば……知ってる?」

 彼女の吐息が、彼の耳に(おもむろ)にかかり、瞬間的に心拍が跳ね上がった浩志は、彼女の吐息がかかった耳を押さえて、思わず半歩後ずさる。薄暗い廊下に陽の光は差していない。それなのに、彼の耳は、先まで赤く染まっていた。

「っんだよ。急に。ビビるだろ」

 彼の剣幕に、彼女は軽く唇を尖らせる。

「なによ〜。大袈裟ね。別に、大きい声出してないでしょ」
「そういうことじゃねぇんだよ」

 浩志は、彼女の耳にまで届いてしまいそうな程、大きな音を立てて、バクバクと激しく脈打つ心音を、何とか誤魔化そうと、わざと大きな声を出す。

「なによ。も〜。成瀬の方がよっぽど五月蝿いじゃん」

 優は、自身の両耳を掌で押さえると、プイッと顔を背け、先を歩いて行ってしまう。

 浩志は、大きく一つため息を吐いてから、ギュッと両手を握り込み、気持ちを落ち着かせると、優の後を追いかける。

「ちょ、待てよ〜」
「はぁ? なによ。その、どっかのイケメン俳優が言いそうなセリフは!」

 意図したわけではなかったのに、浩志の呼びかけは、思いの外、優のツボにハマったらしい。

 下駄箱に着き、外履き用の靴に履き替えながらも、彼女は、まだケタケタと笑っていた。

 しばらくは、彼女の機嫌を伺って、好きなように笑われていた彼だったが、いい加減痺れを切らして、彼女の笑いを制する。

「ったく。いつまで笑ってるんだよ」
「だ、だって……あまりにも似合わないから……」

 そう言いながら、優は、目尻に溜まった涙を、細くて白い人差し指でスッと拭う。しかし、その顔には、まだ、含み笑いが残っていた。

「うっせーな。ほっとけ。……で、花壇が何だって?」
「え?」

 無理やり、話題を変えた浩志に、優はキョトンとした顔を見せる。

「さっき、耳打ちしてきたじゃねぇか?」
「ああ、あれね」

 彼女は、思い出したと言わんばかりに、胸の前でパンと掌を打ち合わせる。

 それから、まるで秘密を打ち明けるかのように、やはり、少しだけ声を潜めて口を開いた。

「あるクラスの話なんだけどね。最近、朝になると、机の上に花が置いてあるんだって」