「花壇といえば……知ってる?」

 彼女の吐息が彼の耳に(おもむろ)にかかり、瞬間的に浩志の心拍数を跳ね上げる。浩志は優の吐息がかかった耳を押さえて、思わず半歩後退った。薄暗い廊下に陽の光は差していない。それなのに彼の耳は先端まで赤く染まっていた。

「っんだよ。急に。ビビるだろ」

 彼の剣幕に彼女は軽く唇を尖らせる。

「なによ〜。大袈裟ね。そんなに大きな声出してないでしょ」
「そういうことじゃねぇんだよ」

 浩志は彼女の耳にまで届いてしまいそうな程大きな音を立てて激しく脈打つ心音を何とか誤魔化そうと、わざと大きな声を出す。

「なによ、も〜。成瀬の方がよっぽどうるさいじゃん」

 優は自身の両耳を掌で押さえると、プイッと顔を背け先を歩いて行ってしまう。浩志は大きく一つため息を吐いてから、ギュッと両手を握り込む。懸命に気持ちを落ち着かせ、優の後を追いかける。

「ちょ、待てよ〜」
「はぁ? なによ。その、どっかのイケメン俳優が言いそうなセリフは!」

 意図したわけではなかったのに、浩志の呼びかけは思いの外優のツボにハマったらしい。下駄箱に着き、外履き用の靴に履き替えながらも、彼女はまだケタケタと笑っていた。

 しばらくは彼女の機嫌を伺って好きなように笑われていた彼だったが、いい加減痺れを切らして彼女の笑いを制する。

「ったく。いつまで笑ってるんだよ」
「だ、だって……あまりにも似合わないから」

 そう言いながら、優は目尻に溜まった涙を細くて白い人差し指でスッと拭う。しかし、その顔にはまだ含み笑いが残っていた。

「うっせーな。ほっとけ。……で、花壇が何だって?」
「え?」

 無理やり話題を変えた浩志に、優はキョトンとした顔を見せる。

「さっき、耳打ちしてきたじゃねぇか?」
「ああ、あれね」

 彼女は思い出したと言わんばかりに胸の前でパンと掌を打ち合わせる。

 それから、まるで秘密を打ち明けるかのように、やはり少しだけ声を潜めて口を開いた。

「あるクラスの話なんだけどね。最近、朝になると机の上に花が置いてあるんだって」

 優の話に浩志は首を傾げる。

「何だよ。花壇の話じゃないのかよ? ってか、それって、いじめか? テレビとか漫画で見るようなやつ? 結構陰湿だな」

 優の話に浩志が顔を曇らせると、彼女は首を横に振った。それに合わせて頭の高い位置で結ばれたポニーテールがゆらゆらと揺れる。ふわりと甘い香りが漂い浩志の鼻腔を擽った。彼の視線は、思わずそちらへ引き寄せられてしまう。