彼は展望エリアに設置されたベンチの1つに座り、先ほどWestエリアのカフェで買ったチャイを一口啜った。途端に口の中を甘ったるさが埋め尽くす。

 普段の彼はブラックコーヒーを好んでいる。そのため、初めてこのチャイという飲み物を口にしたときは、あまりの甘さに思わず吹き出しそうになった。しかし疲れた身体に染み渡るこの甘さがクセになり、最近では夜勤明けは必ずこの公園に立ち寄ってチャイを飲んでいる。

 一晩中仕事で張り詰めていた緊張の糸はチャイの甘さに溶かされて、ほっと吐き出した溜息と共に空気に溶けていった。

 仕事モードの緊張から解放されると、彼はベンチに横たわり頭の下で手を組んだ。天を仰ぐ。空には薄い綿菓子のような雲が風に乗ってゆっくりと流れている。今日はきっとこのまま心地の良い天気が続くだろう。

(こんな心地のいい日に、早々に家に篭ってしまっては勿体ない。せっかくだから、もう少しこのままのんびりとしよう)

 そう決めた彼は、心地よい風に身を任せて軽く目を閉じる。

 今日のようなゆったりとした時の流れの中にいると、時々ある光景が思い浮かぶ。それはいつも同じ光景だった。

 彼はある少女と手を繋いで空を見上げている。その光景が夢なのか、それとも現実にあったことなのかは、今となってはもう定かではない。ただ、その光景は彼の心の片隅にいつも居続け、今日のような日はふっと彼の目の前に現れるのだった。

 恋とか愛とかをまだまともに意識していなかった頃、彼の隣にはいつも同じ女の子がいた。今にして思えば、その頃に彼は初めての恋を経験していたのだろう。だが、自覚のなかったその恋は日常に埋もれてしまい、彼女とどんな会話をし、どんな風に日々を過ごしていたのかはほとんど記憶にない。それなのに、彼女と一緒に空を見ている光景だけは何年経とうとも色褪せることなく鮮明に心に残っている。以前は、この光景を思い出すことに何か意味があるのではないだろうかと真剣に考えたりもした。しかし、考えたところで明確な答えにたどり着けるはずもなく、彼はいつしか、初恋とはそうやって心に残るものなのだろうと思うようになった。

 考えたところで意味はないと思いながらも、その光景を思い出し長い時間夢想に囚われることもある。だが、今日は答えの出ない思考の回廊に陥る前に気分を変えようと、ベンチから起き上がる。彼はチャイを片手に展望デッキへと移動した。