『……ねぇ、覚えてる? …………よ』
『ごめん。よく聞き取れないよ。なんて言ってるんだ?』
『……もうすぐ……よ』
そんな微かな会話の余韻の中、浩志は目覚めた。
カーテンの隙間から刺す朝の光は、空中を漂う極小のホコリたちに反射して、まるで光の粒が落ちているかのようにキラキラと輝いている。そんな光の粒を、浩志は目覚めたばかりの瞳にボンヤリと映していた。
春の柔らかな陽射しが心地好い休日。
結婚式を二ヶ月後に控えた成瀬浩志は、式の打ち合わせのため、午後から婚約者である河合優と会う予定になっている。
いつもの休日なら、昼近くになるまでベッドから出ることはない彼だったが、今日は予定よりも早く目が覚めてしまった。
不思議な夢を見たせいだろうか。
満足そうな笑顔で満開の花の中に佇む少女。少女が浩志に向かって何かを言っていた。しかし、彼がその言葉をはっきりと聞き取れず慌てているうちに、少女は澄んだ空の色に溶けるかのように消えてしまった。
浩志は頭上にある時計を手に取る。時計の針は八時を少しすぎた辺り。起きるにはまだ早い。もう一眠りしようと目を閉じた彼だったが、気持ちが落ち着かないのか幾度となく寝返りを打った。しばらくすると、彼は寝ることを諦めたのかベッドを抜け出した。
今日は優との約束のほかには何も予定はなかったが、彼は早々に支度を済ませると、まだ活動を始めたばかりの休日の街へと出かけて行った。
行く宛などはなかった。だが、彼の足は自然と桜並木の街道へと向いている。
(あの子は何と言っていたのだろう……?)
さきほど見た夢を思い出しながら、浩志はぼんやりと歩いていた。街道に並ぶ木々は、どれも枝いっぱいに淡いピンク色の小さな花を付け、春の訪れを喜ぶかのように華やかだった。
(夢の中の花も満開だったな。あの花は、なんと言う名前だっただろうか)
満開の桜たちを眺めながら、浩志はそんな事をぼんやりと考える。彼は今日と同じような夢を、随分前にも見たことがあるような気がしていた。
(あれはいつ頃のことだっただろう)
彼が物思いに耽りながら歩いている桜並木は、大きな坂道の街道になっている。坂の中腹あたりには中学校があり、そこは彼と彼の婚約者である優の母校でもあった。
浩志と優はしばしばこの街道を散歩する。思い出の詰まった街道を歩いていると、まだ幼さが残る学生たちの空気に触れるのか、二人の話題は決まってまだあどけなかったその当時のことになる。
今は一人、街道を歩く浩志だったが、懐かしくまた通い慣れた道の空気が彼の意識をさきほどの夢から引き離し、徐々に彼を思い出の中へと誘い込んでいった。
中学二年の成瀬浩志は、教室に一人残されていた。
部活動に励む生徒たちの声が校内に響くなか、浩志は窓際の一番後ろの席に座り、先ほど担任より手渡された数学の課題に取り組んでいる。
彼は朝早く起きることが苦手で、始業のチャイムに間に合わない事がしばしばあった。 そのため、中学二年になった頃には、遅刻の常習犯として校内での地位を不動のものとしていた。
今日は、ここ数日の度重なる遅刻の罰として、担任より補習を言い渡され居残りと相成ったのである。
根が真面目な浩志は素直に課題に取り組んでみたものの、相手は苦手な数学。自力で解けるはずもなかった。 浩志は早々に考えることをやめ、窓の外に目を向ける。 彼の座って居る場所からは、中庭を見下ろすことができた。
中庭には花壇がある。春には色とりどりの花が咲き中庭を賑わせていたが、そんな花壇も、二月の今は茶色い土が剥き出しになったまま寒々としていた。
今は何もない中庭を何気なく見下ろしていた浩志の視線が、ある一点に向けられる。
視線の先には、一人の少女。
肩ほどまである髪を二つに分けて縛り、幾分か大きめの真新しい制服を着たその少女は、殺風景な花壇をじっと見つめている。
少女の真剣な眼差しが気になったのか、浩志は席を立ち窓へと近づいた。
浩志が少女の視線の先を確認しようと窓から身を乗り出したちょうどその時、教室の扉を勢いよく開け一人の女子生徒が入って来た。
「ああ! やっぱりサボってる!」
浩志のクラスメイトである河合優は、そう言いながら彼のそばへとやってきた。
「ねぇ、何してるの?」
浩志は窓から外に出かけていた頭を引っ込め、優の方へと向き直った。
「別に。ただあいつは何を見てるんだろうと思ってさ」
「あいつって?」
「ほら。あいつ……って、アレ?」
二人は並んで窓から中庭を見下ろしたが、少女の姿はもうそこにはなかった。
「誰もいないじゃない? 何もないし」
「おかしいなぁ……。あいつ、この寒い中、コートも着ないで外にいたんだぞ。何かをじっと見てたんだって!」
「夢でもみたんじゃないの?」
そう言うと優は窓から体を離し、机の方へと向き直る。机の上には先ほどまで浩志が取り組んでいた数学の課題が、ほとんど手付かずのまま残されていた。 優は課題を取り上げると、内容を確認し始める。
しばらく窓の外を気にしていた浩志だったが、やがて席に戻ると優から課題を取り上げた。
「ところで、お前は、何をしに来たんだよ?」
進んでいない課題を見られバツの悪そうな浩志の質問に、優は当然のように軽く答えた。
「補習で残されてるって聞いたから、帰る前に様子を見に来てあげたのよ。進んでないんじゃないかと思って」
「……よくお分かりで」
浩志はそう答えると、再び課題に向き合う格好をした。 しかし、彼一人では解決できるはずもなく、結局彼女の力を借りるしかなかった。
二月の空はすぐに陽が落ちてしまい、浩志が課題を終える頃には外は夜を迎えようとしていた。 職員室で待っていた担任に課題を提出し、二人はようやく帰路につく。
「そういえばさぁ、さっき部活中に聞いたんだけど、蒼井ちゃんって、彼氏いるらしいよ」
「そりゃいるだろ。大人なんだし」
「しかも、その人と結婚するんだって」
「ふ~ん」
「何よそれ。興味なさそうな返事」
浩志の返答に優は不満のようだったが、話題は中学男子の興味をそそるものではない。実際、浩志には興味のない話だった。 しかし、優はそんな彼を相手に、その後も恋愛やら結婚やらについて楽しげに話し続けるのであった。
翌日。
浩志は彼にしては珍しく、遅刻も居眠りもすることなく平穏に一日を終えた。
彼の学校では、放課後は優や他の生徒のように部活に参加するのが本来であり、もちろん彼も部活に入っている。
だが、放課後に補習を言い渡されることが多い彼は、部活に参加することの方が稀でありほぼ帰宅部となっていた。
昨日までの放課後は部活に励む生徒たちの声で校内が賑わっていたが、今日からは学年末試験期間になり、生徒たちは授業を終えると数日後に控えるテストに備えるためか、早々と帰宅していった。
それなのに浩志は、生徒指導室で何部もあるプリントの山を前に、一人黙々とホチキス止めをしている。
他の生徒のようにすぐに帰宅する気になれなかった彼は、渡り廊下から中庭を見下ろしていた。 浩志は昨日見かけた少女のことが気になっていたのだ。
中庭はいつもと変わりなく殺風景なまま。
(でも、あいつは何かを見ていたんだ)
そんなことを考えながらぼんやりと中庭を見ていると、英語教師の小石川に声を掛けられた。
「おっ、成瀬。暇そうだな? まだ帰らんのか?」
「なんだ。こいちゃんかぁ」
「なんだとはなんだ。それに小石川先生と呼べ。全くお前は……」
そう言いながらも、小石川は腹を立てた様子もなく浩志の隣に並んだ。
サッカー部の顧問をしている小石川は、浩志が一年生の時のクラス担任でもあった。遅刻や居眠りといった問題の多い浩志を見離さず、一年間ちゃんと向き合ってくれた、強引で少々熱血気味な教師。
だが、そんな小石川を浩志は慕っている。 彼がほぼ帰宅部になりながらも、未だにサッカー部に籍を置いているのは、この教師が顧問だからかもしれない。
「何してるんだ? こんな所で」
「別に。何も。帰っても勉強とかしないし」
「そうか。先生としては勉強してほしいんだがな……。まぁじゃあ、先生を手伝え」
「はぁ?」
「ちょうどよかった。今日中にやらなきゃいかんのだが、急に会議の予定が入ってな。困ってたんだ」
「……」
「いや~助かるよ成瀬。いい生徒だなぁお前は」
「……俺、まだ手伝うって言ってないけど」
「先生のクラスで使うプリントなんだけどな、ホッチキスで一部ずつ纏めてくれ」
「……」
小石川の強引さはいつものことだった。
彼を慕っている浩志は、口では否定的な事を言っていても、実はそれ程嫌な思いはしていない。しかし、素直に手伝うと言うのは何だか嫌だった。沈黙で答える浩志に小石川は冗談めかしたように言う。
「なんだ~成瀬。先生が困ってるのに、助けてくれんのか? 寂しいなぁ」
「……わかったよ」
「いや~、助かる助かる。プリントは生徒指導室にあるから。終わったら、先生の教室に届けておいてくれ」
「はぁ? 俺がそこまでするのかよ……」
「頼んだぞ、成瀬!」
強引に浩志に仕事を押し付けると、小石川は職員室へと向かって行った。
こうして、彼は今日も一人居残りをすることになったのだ。
一時間ほどで作業を終えた浩志は、小石川の言い付け通り彼の教室へ出来たばかりのプリントの山を抱えて向かう。
(確か、こいちゃんは一年二組……)
浩志は扉の前で立ち止まると上の方を見た。一年二組と札がかかっている。教室を覗いてみると、少女が一人残っていた。 机の上に何やら広げ、真剣な表情で作業をしている。
浩志はなるべく静かに扉を開けた。しかし、静まりかえった教室には十分に大きな音が響く。
音に驚いて少女が顔をあげた。その顔に、浩志の瞳が見開かれる。そこに居たのは、昨日、中庭に佇んでいたあの少女だった。
「あっ……。え~っと、俺は、そのアレだ。……プリント……そう、プリントを置きに来ただけだ」
少し前まで考えを巡らせていた相手に出会った驚きで、浩志は聞かれもしないのに言い訳めいた事を口にしながら教室へ足を踏み入れる。
少女は浩志の言い訳など気にも止めず、視線を自分の手元へ戻し作業を再開していた。 机の上には色とりどりの折り紙が広げられている。 机の端にはその折り紙で造られたと思われる何かと、小さく輝くものが置いてあった。 浩志には、その小さな輝きがまるで自分に向かって放たれているような気がした。
彼はその輝きに誘われるように少女の席に近づき、それをそっと手に取ってみた。 おもちゃの指輪だった。プラスチックのリングに透明の宝石に似せたものが付けられたそれは、中学女子が身につけるには些か子供っぽい感じがする。いつの間にか光を失い、ただの安っぽいおもちゃとなった手の中のそれを、浩志は不思議な気持ちでじっと見つめていた。
「……なに?」
少女の前に立ちはだかるような形になっていた浩志は、突然の少女からの問いかけに驚き、思わず手を固く握る。
「えっ?」
「何か用?」
「いや、あの……。プリントを置きに……」
「それはさっき聞いた」
「あ~、そうか。……そうだな。悪い。邪魔した」
彼は抱えていたプリントの山を無造作に教卓に置くと、どこかぎこちない足どりで教室を出て行った。