冷たい海水に浸かった上にろくにシャワーも浴びなかったせいか、熱を出してきっかり三日間学校を休む羽目になった。高熱でぼんやりしている間も、ある程度回復して漫画読めるようになってからも、華から「心配している」という趣旨の連絡は何度も来て、その度に彼女を裏切った罪悪感に苛まれた。多分彼女はまだ梨花が何をしたのかは知らないのだろう。だから心配、寂しい、なんて文面を送ることができるのだ。絵文字がたくさん並んだスマホの画面で、梨花の指は何度も文字を打っては消してと繰り返して、何度も迷った。結局は「心配してくれてありがとう」なんてありきたりで短い返事をして、画面を真っ暗に落としてしまう。
母も梨花がろくに知らない男に遊ばれたことには気が付かなかった。制服を海水で汚したことにも気が付かずに、梨花の熱だけを少しだけ心配してから今日も仕事に行っている。気が付かれなくて良かったと思うのは事実だが、様子がおかしいことにくらい気が付いてほしかったと願うのは、梨花の我儘なのだろうか。
朝を過ぎれば熱も完全に下がり、昼時になると勝手にお腹が空いた。落ち込んだことがあっても後悔することがあっても平気で食事ができる自分の神経の図太さに辟易しながらも、コンビニに行くべく家を出る。数日ぶりの外は、眩しくて一瞬目が眩んだ。
自転車を走らせているうちに海風に吹かれていることが心地よくなって、気が付いたらコンビニで二人分の食事を買っていた。アイスまんじゅうのおまけ付きである。それを自転車カゴに入れて、慎重に自転車を走らせた。
「海斗。いるんでしょ、開けなさい」
ぽちぽちインターホンを鳴らすと、彼は慌てたようにドアを開けた。
「台詞がやべー奴等と同じなんだよな」
「お昼一緒に食べよう。もう買ってきた」
「今から作るところだったんだけど。材料買っちゃった」
「じゃあこのお弁当あげるから、お昼食べさせてよ」
「今度から梨花のことヤクザって呼ぶぞ」
「ひどくない?」
「ひどくない」
海斗は文句を言いながらも、なんやかんや家にあげてくれた。「次からは事前に言え」と連絡先を教えてくれたくらいだのだから、悪い気持ちにはならなかったのだと思う。
「お昼ご飯何?」
「炒飯」
「やった」
冷蔵庫から玉ねぎやハム、卵などが取り出されていく。彼が慣れた手つきで玉ねぎを刻んでいくのを、梨花はどこか安心したような気持ちで見つめた。
「そういえばあんた、あの後風邪ひかなかった?」
「ひいたひいた。三十八度まで出た」
「うわ、食って治せ」
彼には梨花があの日何をしたのかは、洗いざらい話してしまった。寂しかった理由は伏せたけれど、彼は気が付いているのかもしれない。ただ、梨花が友人の彼氏に肌を許してしまったことも死にたかったことも何もかも知っているくせに、それについて触れてこないのは、ほっとする。
「ほら、学校サボってるやつにご馳走だぞ」
「サボってませーん。病欠でーす。それに本物のサボりはあんたでーす」
「ぐうの音も出ない」
作ってくれた炒飯は美味しくて、よく料理しているのだとよく分かった。だけど優しい味に時折寂しいものが浮かんでいるように感じてしまう。それが彼が本当に寂しいと思っているからなのか、自分が彼も寂しいはずだと思っているからなのかは、梨花には判断ができない。
「独り暮らし何年目?」
「三年目。高校生になってからずっと」
「それまで誰と暮らしてたの?」
「他人だった人。俺のことを孫と思い込んでいた可哀そうな老人たち」
スプーンを持つ彼の手が止まる。夜の海の色の瞳が伏せられて、静かな闇に覆われた。普段の彼の瞳の色は月夜に照らされる水面のようなのに、今はその月が雲に覆われている。その光を隠しているのは、きっと、罪悪感。
「可愛がられてたみたいだね」
「うん。だから申し訳なかった」
「逃げたんだ」
「そういうこと」
彼と話していて安心するのは、ただ幼い頃一度出会ったからというだけではないのだろう。恋をしている、というのは胸を高ならせこそするけれど、片想いというものは決して安心を与えてくれるものではない。梨花と彼との間にあるのはきっと、罪から目を背けたいと願い、逃げきれずにいる共通した気持ちなのだと思う。梨花の傷は新しく生々しいけれど、彼の傷は古い痕として痛み続けている。理解し合える痛みではないけれど、分かち合える痛みであると思いたい。
「バイトしてるの?」
「一応。土日にファミレスで」
「私もバイトしよっかな」
「おー、働け働け」
海斗と同じファミレスで働きたくて、バイト先を聞き出そうと粘ったが「恥ずかしいからやめろ」とはぐらかされた。教えて。嫌だ。そう言いながらじゃれ合っていても部屋に流れる雰囲気は変わらない。数日前の必死な自分はどこに行ってしまったのか、この空気を変えたいとも思わなかった。
案外こんなのが一番幸せなのかもしれないな。単純な自分は、初恋の人と再び出会えたことと、その人と同じ痛みを抱えていることに満たされてしまう。欲望というのは際限がないから、一つ叶ったら次を求めてしまうはずなのに、幸せの受け皿にもう空きがないのだ。それに痛みを伴う関係の方が縁が切れない。だからこれでいいのだと思う。
明日から学校行けよ。そう言って誤魔化す彼に、梨花も笑って答えた。
母も梨花がろくに知らない男に遊ばれたことには気が付かなかった。制服を海水で汚したことにも気が付かずに、梨花の熱だけを少しだけ心配してから今日も仕事に行っている。気が付かれなくて良かったと思うのは事実だが、様子がおかしいことにくらい気が付いてほしかったと願うのは、梨花の我儘なのだろうか。
朝を過ぎれば熱も完全に下がり、昼時になると勝手にお腹が空いた。落ち込んだことがあっても後悔することがあっても平気で食事ができる自分の神経の図太さに辟易しながらも、コンビニに行くべく家を出る。数日ぶりの外は、眩しくて一瞬目が眩んだ。
自転車を走らせているうちに海風に吹かれていることが心地よくなって、気が付いたらコンビニで二人分の食事を買っていた。アイスまんじゅうのおまけ付きである。それを自転車カゴに入れて、慎重に自転車を走らせた。
「海斗。いるんでしょ、開けなさい」
ぽちぽちインターホンを鳴らすと、彼は慌てたようにドアを開けた。
「台詞がやべー奴等と同じなんだよな」
「お昼一緒に食べよう。もう買ってきた」
「今から作るところだったんだけど。材料買っちゃった」
「じゃあこのお弁当あげるから、お昼食べさせてよ」
「今度から梨花のことヤクザって呼ぶぞ」
「ひどくない?」
「ひどくない」
海斗は文句を言いながらも、なんやかんや家にあげてくれた。「次からは事前に言え」と連絡先を教えてくれたくらいだのだから、悪い気持ちにはならなかったのだと思う。
「お昼ご飯何?」
「炒飯」
「やった」
冷蔵庫から玉ねぎやハム、卵などが取り出されていく。彼が慣れた手つきで玉ねぎを刻んでいくのを、梨花はどこか安心したような気持ちで見つめた。
「そういえばあんた、あの後風邪ひかなかった?」
「ひいたひいた。三十八度まで出た」
「うわ、食って治せ」
彼には梨花があの日何をしたのかは、洗いざらい話してしまった。寂しかった理由は伏せたけれど、彼は気が付いているのかもしれない。ただ、梨花が友人の彼氏に肌を許してしまったことも死にたかったことも何もかも知っているくせに、それについて触れてこないのは、ほっとする。
「ほら、学校サボってるやつにご馳走だぞ」
「サボってませーん。病欠でーす。それに本物のサボりはあんたでーす」
「ぐうの音も出ない」
作ってくれた炒飯は美味しくて、よく料理しているのだとよく分かった。だけど優しい味に時折寂しいものが浮かんでいるように感じてしまう。それが彼が本当に寂しいと思っているからなのか、自分が彼も寂しいはずだと思っているからなのかは、梨花には判断ができない。
「独り暮らし何年目?」
「三年目。高校生になってからずっと」
「それまで誰と暮らしてたの?」
「他人だった人。俺のことを孫と思い込んでいた可哀そうな老人たち」
スプーンを持つ彼の手が止まる。夜の海の色の瞳が伏せられて、静かな闇に覆われた。普段の彼の瞳の色は月夜に照らされる水面のようなのに、今はその月が雲に覆われている。その光を隠しているのは、きっと、罪悪感。
「可愛がられてたみたいだね」
「うん。だから申し訳なかった」
「逃げたんだ」
「そういうこと」
彼と話していて安心するのは、ただ幼い頃一度出会ったからというだけではないのだろう。恋をしている、というのは胸を高ならせこそするけれど、片想いというものは決して安心を与えてくれるものではない。梨花と彼との間にあるのはきっと、罪から目を背けたいと願い、逃げきれずにいる共通した気持ちなのだと思う。梨花の傷は新しく生々しいけれど、彼の傷は古い痕として痛み続けている。理解し合える痛みではないけれど、分かち合える痛みであると思いたい。
「バイトしてるの?」
「一応。土日にファミレスで」
「私もバイトしよっかな」
「おー、働け働け」
海斗と同じファミレスで働きたくて、バイト先を聞き出そうと粘ったが「恥ずかしいからやめろ」とはぐらかされた。教えて。嫌だ。そう言いながらじゃれ合っていても部屋に流れる雰囲気は変わらない。数日前の必死な自分はどこに行ってしまったのか、この空気を変えたいとも思わなかった。
案外こんなのが一番幸せなのかもしれないな。単純な自分は、初恋の人と再び出会えたことと、その人と同じ痛みを抱えていることに満たされてしまう。欲望というのは際限がないから、一つ叶ったら次を求めてしまうはずなのに、幸せの受け皿にもう空きがないのだ。それに痛みを伴う関係の方が縁が切れない。だからこれでいいのだと思う。
明日から学校行けよ。そう言って誤魔化す彼に、梨花も笑って答えた。