まだ梨花が小学校に上がったばかりの頃の話だ。人魚に、会った。
 海で溺れかけた時だった。浮き輪をつけてこそいたが、海の上に漂う不思議な輝きを追っているうちに、深いところまで進みすぎてしまったのだ。水面を浮かぶ輝きを掴んだ時には近くに人の姿はなく、我に返った途端に恐ろしくなった。
 やっと掴んだ輝きを握りしめたまま、梨花は父と母を呼んだ。しかし子どもの泣き声が岸に届くはずもなく、遠目に見えた父らしき姿を目指して泳がなければならないと気が付く。
 ここまで泳いでくるのは簡単だった。ただ波に流されていただけだったからだ。しかし岸に向かって足をばたつかせども、岸は全く近づかない。それどころか遠ざかっていく。父がこちらに向かってきているらしいことは分かったが、梨花が力尽きる方が早かった。
 ぱしゃり。波が顔にかかる。溺れるかもしれない、という恐怖は幼い子どもから思考と力を奪う。もつれた身体はあっという間にひっくり返って、水の中に落とされていた。
 息ができない。身体が思うように動かない。浮き上がれない。苦しい。
 死にたくない。本能が叫ぶ。無我夢中で身体を動かしていると、突然身体がふっと浮いた。息が楽になる。
 飲み込んだ海水を吐き出していると、視界に色が戻りはじめ、自分が人に抱えられていると理解できた。
「あぶないだろ、こんな深いところに来たら」
 自分より二、三歳ほど年上の少年だった。漆黒の髪は海水で塗れていて、ぽたぽたと水滴を垂らしている。髪の色と同じように黒い瞳がじっと梨花を見つめ、怒ったように、安堵したように、その表情を変えた。
「お兄さんがたすけてくれたの?」
「当たり前だろ」
 流されつつある梨花の浮き輪を彼は捕まえて、梨花に被せた。浮き輪を押すようにして、彼は梨花を岸まで運ぼうとする。
 こんな深いところ、と彼は言った。子どもでは到底泳ぎには来られない場所なのに、と今更ながら思う。
 お兄さんは泳ぐのが上手なんだね。そう言おうとして、彼の方を振り返る。
 尾ひれが見えた。藍色にも銀色にも見える薄い尾ひれが、海の中に透けて見えた。じっと目を凝らすと彼に二本の足はなくて、尾ひれと同じような色の鱗に覆われた一本の尾だけがある。
「お兄さん」
「ん。内緒な」
 彼が梨花に笑いかけてきて、思わずコクコクと頷いていた。
「助けてくれてありがとう」
「おうよ。で、お前の親どこ?」
「あっち」
 父の元に送り届けられるまでの間、梨花はじっと彼の尾と尾ひれを見つめていた。時折尾ひれが水面に顔を出すと、水しぶきが小さく舞う。その水しぶきすら銀色に煌めいているようで、目が離せなかった。
「お兄さんは海に住んでるの」
「いんや。普段は人間」
「じゃあお父さんの前では人間になるの?」
「そういうこと。前向いてな」
「なんで」
「変身シーンは見られちゃいけないのさ」
 言われた通り梨花が前を向くと、後ろからぱしゃりと音がした。彼が泳ぐ音が次第に変わって、後ろを向いても良いと言われた時には彼の尾は二本の足に変わっていた。
「すごいだろ」
「うん」
「内緒だぞ」
「うん」
 彼の目を見ると、その黒い色がふっと優しくなる。皆と同じような黒い瞳なのに、何だか夜の海のように思えた。
 その後梨花は父に引き渡されて、やっと死にかけた恐怖を思い出して泣いた。恐怖が落ち着いたと思ったら今度は安心して泣いて、泣き止んだ頃には彼はどこにもいなくなっていた。
 それまでじっと握りしめたままだった拳を開くと、手の中には海の深いところまでたどり着いた原因だった輝きがあった。やっとそれをじっと眺めて、何なのを確かめていると、それが銀色の中に藍色を落とし込んだような色をしていることに気が付く。
 鱗だ。梨花の手のひらほどの大きさのある鱗。彼が持っていた鱗と同じ色、同じ大きさ。
 もしかしたら自分は、彼の鱗を追いかけて彼に見つけられたのかもしれなかった。溺れたのは怖かったし、当分の間は傷になりそうだが、ただ嫌な記憶として封じ込めたくはなかった。それくらい、彼はうつくしかったのだ。
 鱗を太陽にかざすと、銀色の内側から藍色が透けて斑に見えた。
「きれい」
 鱗は壊さないように大切に持ち帰って、宝箱に仕舞いこんだ。