【あなたは、やはり水仙の花のような人だ】
ソファに横たわり、うっすらと微笑む透真さんの顔の横に手をつき、話しかける。
【清純そうなその姿の内に、ほかにどんな毒を隠し持っているのですか】
俺の胸を両手で押しのけた透真さんが立ち上がり、正面を向く。
【毒を口にしたくないのなら】
いったん言葉を途切れさせ、こちらに背を向けたまま【僕にこれ以上近寄らなければいい】と軽やかに言うその顔は自分からは見えない。
台本には「真顔で」と書いてあったが、実際にはどんな顔をしているのか。
間をおかずに後ろから抱きしめ、首筋に顔を埋める。
【いいえ。僕は、毒を持つあなたが好きなのです。水仙のようなあなたが好きなのです】
黙ったままの透真さんをさらに強く抱きしめ【だから、どうか口づけの許しを】と言ったところで「はい、そこまで!」と声がかかる。腕の力を緩めると、透真さんがすっと出ていった。
「じゃあ次のシーンいくのでソファ片付けまーす」
「うぃー」
「りょうかーい」
バタバタとみんなが動く中、次のシーンの台詞を復習しようと台本を手に取ると「ユウくーん!」と声をかけられた。
「ちょっと来てー!」
「はい」
今回の舞台の演出をする三年の田さんのもとに駆け寄る。華奢で小柄な人だが、演劇部あるあるなのか声はでかい。
「んー、台詞の間合いとかはけっこういい感じなんだけど、やっぱりこういうシーンの演技にしては重さが足りないと思うの。例えばソファで押しのけられるところとか、あっさりと離れすぎて成瀬への執着が感じられないのね」
「はい」
「すでに成瀬の魔性っぷりが目立っちゃってるから負けじと、ねっとりとずーんとやってほしい」
「ねっとりとずーんと」
「そう、ねっとり、ずーんとよろしく」
「はい」
分かるようで分からないと思いながらも一応神妙な顔で頷く。
今日は夏休み前の最終活動日であり、立ち稽古の初日でもある。
まだまだこれから作っていくという段階ではあるのだが、俺はすでに透真さん演じる成瀬に呑まれつつあった。
ソファで自分を押しのける前に、わずかに胸元を下から上へとさする指先。
抱きしめたときに、さりげなく頭を傾げて見せつけられる白い首筋。
好きなのですと告げた自分の胸に、心を許すかのようにそっと預けられる身体。
些細なそういったものの積み重ねが成瀬を魔性たらしめていて、一方の自分の演技が上辺だけのものであることを否が応でも自覚せざるを得ない。
振り返ると、透真さんは稽古場の隅でペットボトルの水を飲みながら台本を読んでいた。成瀬役をするために伸ばしている少し茶色がかった髪は、今日はハーフアップでまとめられている。
さっきまでの色気は抜け落ち、そこに立っているのはいつもの透真さんだが、役に入ればまたすぐに成瀬になるだろう。
本格的な稽古は夏合宿からだし、なんとか負けじと喰らいつかないといけない。
――でもなぁ
これまで、付き合った子は二人いるが、いわゆる身体の関係になるまでたどりつかなかった自分に、この透真さんに対抗するねっとりとずーんとした重みなんて出せるんだろうか。
そもそも重みどころか、一人の彼女には『空洞を相手にしているみたいな気分になる』とすら言われていた俺である。重みとは真逆すぎる。
逆に透真さんはプライベートでの経験がここに生かされているのかもな、と思う。さっきの演技も、彼女の仕草だとかそういうものを観察し、自分のものとしてブラッシュアップしているのかもしれない。
だとしたら、彼女さんもけっこう色気がある人ってことで、でもあの透真さんの彼女なら十分にあり得る。
顎に手を当てて考えていると、いつの間にか近づいてきていた透真さんが顔をのぞきこんだ。
「どした、ぼーっとして。さっきのシーンのこと、なんか言われた?」
「あー、ねっとりとずーんと重くするように言われました」
「田ちゃんらしい表現だな」
ふふっと笑った透真さんに「でも、今考えてたのは違うことで」と話しかける。
「透真さんの彼女なら色気があるのも納得だなって思ってました」
「は?」
透真さんが怪訝な顔をする。
「なんだそれ。誰だよ、俺の彼女って」
「え、色気のある……あれ、透真さんって彼女いないんでしたっけ」
「いないし。誰のこと言ってんの?」
透真さんのことだから当然のようにいると思ってたけど、言われてみれば彼女の話とか聞いたことなかったかもしれない。
「なんで透真さんに彼女いないんですか?」
訊ねると、透真さんが「ってか、なんで急に俺の彼女のことについて考えたわけ?」と聞き返してくる。
「あー、えっと、さっき田さんに成瀬の魔性っぷりに負けるなって言われたけど、俺、ろくに経験ないから演技に重みを出せんのかなって考えてて、で、透真さんは逆にプラべの体験を成瀬の演技に生かしてるのかもって思って」
「なんで受け側の演技をプラべから持ってくるんだよ」
「いや、だから色気のある彼女の仕草とかを自分なりに生かしてんのかなって」
「違うわ。ああいうのは、舞台とか映画とか見る中で勉強してんの」
「いつも女性側の演技も勉強してるってことですか?」
俺の質問に、透真さんが腕を組み、首を傾げた。
「老若男女全部だけど?」
「ろうにゃくなんにょ」
「うん。何回も同じ舞台を観に行ってるのも、毎回違う人の感情と動きに集中したいからだし。映画なら巻き戻して見ることもできるけどさ、舞台はそうはいかないじゃん。毎回ちょっとずつ役者さんの表現方法が違ったりもするから、勉強になるし」
「なる……。よく考えたら、暇さえあれば小劇場に行くか家で映画見てるかしかしてない透真さんに、彼女がいるわけがないですね」
納得して頷くと、透さんが苦笑する。
「今の俺の話聞いた感想がそれ?」
「はい。彼女はいらないくらい、演劇が好きだってことがよく分かりました」
「……まあ、ある意味そうとも言えるのかな」
独り言のように言った透真さんがこっちを見て「ユウも彼女がいないのは、やっぱそれだけ演劇が好きだからだもんな?」とニヤッとする。
「いや、マイペースすぎるからっす」
「さすがにそこは自覚してるんだ」
「死ぬほど言われてますからね」
「そのマイペースさがユウの魅力でもあんのにね」
「そんなこと言うの透真さんくらいだし」
「マジ? じゃあ俺が付き合ってやるしかないのか」
「そうっすねー」
軽口を交わしていると「次のシーン行きまーす!!」と田さんの大きな声がした。
*
昨日の練習風景を撮影したものを、ベッドに寝転がりながらスマホで見る。
夏合宿までにしっかり見返して、自分なりにキャラクターをアップデートしてきてねと田さんから連絡が来ていたが、どっから手をつければいいのかと思うくらい、雨衣というものがまだ自分の中にいない。
そもそも、雨衣のように誰かに執着したことなど過去にはなく、まずはその心情というものを、完全に分からずとも自分なりに理解するところから始めなければならないだろう。
スマホを置き、枕の横から取り上げた台本をぱらりと開く。
今回の脚本は現在四年生の先輩が書いたものだ。ナルキッソスの話をもとにした、一口で言うならば男同士の悲恋物語である。
――
雨衣が営む花屋に、成瀬が男と一緒に花を買いにくるところから、舞台は始まる。
今日はどんなお花を、とたずねる雨衣に、できるだけ早く枯れる花を使って小さめの花束を作ってほしいと、店の中を物珍し気に見回した成瀬が答えた。
妙な注文ではあったが、言われたとおり、そろそろ枯れそうな花を見繕い花束に仕上げたものを渡すと、成瀬は隣の男にそれを見せて綺麗に微笑んだ。
――この花は僕の心ですよ。枯れてしまう前に新しい花を持ってまた会いに来てくださらなければ、僕のあなたへの恋慕の情も萎れてしまうでしょう
その言葉に必ずと答えた男は、毎週のように花屋を訪れるようになった。一方、成瀬もときどき一人でふらりとやってきた。そして、男に早く部屋に来てもらうためにと、男が買ったものと同じ花の中から、あえて枯れそうなものを選んで買っていった。
ある日、あなたは健気な方ですねと花を包みながら雨衣が言うと、成瀬は鼻で笑った。別にあの男が好きなわけではありません、会う頻度をあげて少しでもお金を多く引き出すためですよ。そう冷めた目で話す成瀬から滲み出る毒に、雨衣はわけもなく惹かれた。
しばらくして、成瀬が枯れた花を持って店に訪れた。金は払うからこれを花束のように包んでほしいと言われ目的を聞くと、花が枯れると知りながら奥さんの誕生日を優先した男の頬をこれで打って、別れてくるのだと言う。
それを聞いた雨衣は、僕ならあなたを何よりも優先するし、花を枯らすなんてことは決してしないのにと思わず告白するが、金がない男には興味がないし、もう次の愛人候補も決まっていると成瀬は答える。
ただ、愛人と会わないときの暇つぶしとしてなら付き合ってもいいと、うっすらと笑いながら言う成瀬に、あなたのその見た目に似合わない残酷さは、僕の好きな水仙によく似ていると雨衣は笑い返した。あの花には毒があるのですよと。
――もし春まであなたと一緒にいられたなら水仙の花束を贈りましょう。きっとあなたによく似合うだろうから。
――もし春になって僕が飽きていなかったら、その花束を受け取って君だけのものになりましょう。あり得ないことだけれど。
そうして二人は逢瀬を重ねるようになった。
雨衣は、この関係は成瀬にとって遊びだと分かりながらも、成瀬の新しい愛人への嫉妬に次第に苦しむようになる。それでも、成瀬の見た目の美しさに隠された毒を愛せるのは自分だけだという思いで耐えていた。成瀬にも、僕はあなたのその残酷さを愛しているのだと何度も何度も雨衣は繰り返した。やがて、水仙の花が咲く時期がやってきた。一縷の望みを持って、雨衣が水仙の花束を作っていると、店に成瀬の愛人がやってくる。
何も知らない愛人は、大事な人に贈るため、薔薇の花束を作ってほしいと雨衣に依頼した。
どんな人なのかと訊ねる雨衣に、薔薇のような人だと愛人は答える。綺麗で華やかで、でも人を傷つける棘のような鋭さも持っている一筋縄ではいかない人で、そこがまた魅力なのだと。その人の家の花瓶がずっと空のままだから、薔薇を贈ろうと思い立ったのだと。
それを聞いた雨衣は、成瀬の毒を愛したのは自分だけではないという事実に絶望し、同時に大輪の薔薇の花束の横に置かれた水仙の花束の、あまりのささやかさに打ちのめされてしまう。高価な薔薇の花束をもらった成瀬が、地味な水仙の花束を喜ぶとはとても思えなかった。
その夜、約束の時間になっても訪れない雨衣にしびれを切らした成瀬は、花屋へと向かった。
水仙の花が咲く季節になった。愛人とも今日別れた。薔薇の花だなんてありきたりなものに僕を例える男に未練などない。水仙の花束を雨衣が渡してくれたら、君のものになると伝えよう。でも、彼は毒のある僕が好きなのだから、仕方なさそうに受け入れようか。それとも素直な僕を君は愛してくれるだろうか。
期待と不安とで胸を騒めかせながら花屋に入った成瀬は、水仙が散らばる中に倒れている雨衣を見つける。その手には瓶と紙が握られていた。
――あなたの毒を愛してしまった僕に、ふさわしい結末なのです
そう書かれた紙を読んだ成瀬は、床に落ちている水仙を拾い集めて花束を作り、それを握ると雨衣の隣へとゆっくりと倒れこんだのだ。
――
「あなたの毒を愛してしまった僕に、ふさわしい結末なのです」
呟いて、台本を閉じる。
何度読んでも救いようのない話であるが、ギリシャ神話のアメイニアスは、ナルキッソスの家の前でナイフで自死し、さらに月の女神であるアルテミスに、ナルキッソスを呪うように依頼するというとんでもないことをやらかすらしいので、それに比べればマシなのかもしれない。
それにしても、この台詞ってかなり重要だよなぁと天井を見上げる。
舞台の上で死んでいる雨衣がこの台詞を言うことは当然できないので、事前に録音したものを流すことになる。つまり、その日の舞台の雰囲気に合わせて変えるということはできず、俺だけでなく透真さんも、録音した声ありきでラストの重要なシーンを演じなければいけないということでもある。
普通に考えれば悲し気に、となるところだろうが、果たして雨衣は哀しそうに死んでいくような人間だろうか。
激重感情から解放されて、むしろ穏やかな口調になっているというのもありだろうし、アメイニアスに寄せて恨みがましくいくのもあり得る。成瀬への愛情を全面に押し出してもいいし、会えなくなる切なさを感じさせてもいいし、はたまた、感情などなくなってしまったかのような淡々とした物言いにしてもいいし。
うーん、とベッドの上で左右にごろごろと寝返りをうつ。
難しいが、でも逆にこの台詞の言い方が決まれば、もっと雨衣という人物像が浮かび上がってくる気もする。
とりあえず、いろんな言い方で録音してみて、いったん自分で聞いてみるか、と再びスマホを手に取ったところで、透真さんからLIMEが入っていることに気付く。
アプリを開くと、昨日の練習風景の一部をSNSに載せようと思うけどいいか、という確認だった。
OKのスタンプを送ると『ユウは今日なに載せる?』と返ってくる。
『決まってないです。ちょうど台本読んでたんで、台本の写真とか載せようかな』
『お、熱心じゃん』
『もうちょっと雨衣の人物像を自分なりに見つけたくて』
『そっか』
『最後の遺書の読み方が決まったら、もうちょっと捉えやすくなるかなって思うんですけど』
『あー、確かにそこが決まると、最後に向けての感情の流れとか作りやすくなるかもな』
透真さんが共感してくれたことで、遠くの方にかすかに道標が見えてきたような気になる。
『ちなみにどんな感じで言おうとか決めてんの』
『何パターンか考えてるんで、とりあえず口に出して録音して聞いてみます』
『俺も参加していい? そこ、俺的にもけっこう大事なとこだし』
『もちろんっす。俺、透真さんの家行きましょうか』
『いや、俺が行くわ。新しいレコードも見たいし』
馬が両手で丸をしているスタンプを送り、透真さんが来るならなんか飲み物でも買ってくるかと俺は立ち上がった。
*
朝、歯を磨きながらSNSを開く。いつもより「いいね」の数や拡散される数がやけに多いが、透真さんがらみの投稿をしたときはいつもこうなので、もう驚くことはない。
昨日載せたのは、ベッドの上にあぐらをかいた透真さんが最近増えたレコードを見ている写真と、買ったばかりのお気に入りのレコードを頭の上に掲げている俺の写真の二枚だ。
ちなみにお気に入りのレコードは、真っ青な地に、薄いグレーで描かれた楽器たちが曲線を描きながら並んでいるものである。一筆書きでバイオリンからティンパニーまですべてが繋がっていて一見シンプルなデザインだけど、よく見ると各楽器のバランスや配置などに緻密なこだわりを感じられるところがいい。
一方、透真さんが気に入っていたのは、農場のような風景を黄色と緑と茶色の三色だけを使って描いた、レトロ感のあるジャケットだった。あの人が選ぶものは、だいたいいつもどこか可愛げがある。
SNSへのコメントは普段あまり読まないが、もしかしたらレコードに興味がある人が見てくれているかもしれないと流し読みをしてみる。しかし「おしゃれ」とか「レコードかっこいい」といったことは書かれていても、レコードのデザインに惹かれて見てくれた奇特な人はいないようだった。
実生活でもレコードのジャケ話を興味を持って聞いてくれるのは透真さんくらいだしな、と適当にスクロールしていると、「ゆーとま」という言葉がやけに書かれていることに、ふと気づく。
なんだ?と思っていると、「とまゆー派です」というコメントもあり、疑問符が浮かぶ。
ゆーとま。もしくは、とまゆー。何かと何かを合わせたものだというのは察せられるが、まず「とま」から始まるものなんてトマトくらいしか思いつかない。急なトマトの流行りが起こっているとも思えない。
なんなんだろと考えつつ、うがいをして、練習風景の動画を載せているはずの透真さんのSNSをのぞきにいくと、それこそコメント欄は「ゆーとま」という言葉だらけであった。その中に、田さんの『ゆーとまもいいけど、あまなるもよろしく!』という謎なコメントを見つけ、ちょうどいいやと『ゆーとまって何ですか?』とそこに返信してみる。
途端に、自分のコメントにハートがどんどん押されていって少しビビる。
さらに『友くんの純粋さが眩しい』『まさかの本人降臨』『かわいい』というコメントがつき始めるが、なかなか正解を教えてくれる人は現れない。
しまいには『誰も余計なことは言わないように!』とか『ユウくんは知らなくていいことだよ!』とか、全員で隠ぺい工作をしているかのような様相に不安になってきたところで、ようやく田さんからの返信が来る。
『ユウくんと透真くんのペアで、ゆーとまって呼ばれてるみたいよ』
そうか、トマトではなく「とうま」だったのか、と腑に落ちる。つまり「あまなる」は雨衣と成瀬ということだ。コンビ名みたいなものだろう。しかしなぜ俺に隠す必要があったのか。
と、そこに今度は『左に名前が来る方が攻めで、右に名前が来る方が受けなんだって』と透真さんからのコメントが追加される。
脚本を書いた先輩に台本を渡されるとき、BL用語で言えば攻めと受けというのがあって、という前置きがあったうえで、雨衣が攻めで成瀬が受けだと説明されたのを思い出す。
今回、透真さんがあげた動画は、雨衣が成瀬にキスの許しを請うシーンだった。音声は入れていなかったけど、あれを見れば俺が攻めだということは、確かに丸わかりだ。
『だから俺の名前が左で、透真さんが右なんですね』
そう何気なくまた返信をすると、コメント欄がすさまじい勢いで動き出す。
『待って。二人とも爆弾発言すぎる』
『左右の意味を知ったうえでそれを言っちゃう……?』
『あくまでも役柄的にってことだろうけど、だとしてもこれは萌え案件』
『ゆーとま民勝利』
「攻めの自覚がある攻め様……』
『墓に入りました』
なぜ墓に!?となっているところに、一通のLIMEが入ってくる。ミスターコンの実行委員の女の子だ。
『これから、二人の投稿には#ゆーとま、とハッシュタグをつけましょう。よろしくお願いします』
よろしくお願いされた俺は、とりあえずいったんスマホを閉じることにした。
この世の中は、自分が知らない言葉の使い方がまだまだあるようである。
ソファに横たわり、うっすらと微笑む透真さんの顔の横に手をつき、話しかける。
【清純そうなその姿の内に、ほかにどんな毒を隠し持っているのですか】
俺の胸を両手で押しのけた透真さんが立ち上がり、正面を向く。
【毒を口にしたくないのなら】
いったん言葉を途切れさせ、こちらに背を向けたまま【僕にこれ以上近寄らなければいい】と軽やかに言うその顔は自分からは見えない。
台本には「真顔で」と書いてあったが、実際にはどんな顔をしているのか。
間をおかずに後ろから抱きしめ、首筋に顔を埋める。
【いいえ。僕は、毒を持つあなたが好きなのです。水仙のようなあなたが好きなのです】
黙ったままの透真さんをさらに強く抱きしめ【だから、どうか口づけの許しを】と言ったところで「はい、そこまで!」と声がかかる。腕の力を緩めると、透真さんがすっと出ていった。
「じゃあ次のシーンいくのでソファ片付けまーす」
「うぃー」
「りょうかーい」
バタバタとみんなが動く中、次のシーンの台詞を復習しようと台本を手に取ると「ユウくーん!」と声をかけられた。
「ちょっと来てー!」
「はい」
今回の舞台の演出をする三年の田さんのもとに駆け寄る。華奢で小柄な人だが、演劇部あるあるなのか声はでかい。
「んー、台詞の間合いとかはけっこういい感じなんだけど、やっぱりこういうシーンの演技にしては重さが足りないと思うの。例えばソファで押しのけられるところとか、あっさりと離れすぎて成瀬への執着が感じられないのね」
「はい」
「すでに成瀬の魔性っぷりが目立っちゃってるから負けじと、ねっとりとずーんとやってほしい」
「ねっとりとずーんと」
「そう、ねっとり、ずーんとよろしく」
「はい」
分かるようで分からないと思いながらも一応神妙な顔で頷く。
今日は夏休み前の最終活動日であり、立ち稽古の初日でもある。
まだまだこれから作っていくという段階ではあるのだが、俺はすでに透真さん演じる成瀬に呑まれつつあった。
ソファで自分を押しのける前に、わずかに胸元を下から上へとさする指先。
抱きしめたときに、さりげなく頭を傾げて見せつけられる白い首筋。
好きなのですと告げた自分の胸に、心を許すかのようにそっと預けられる身体。
些細なそういったものの積み重ねが成瀬を魔性たらしめていて、一方の自分の演技が上辺だけのものであることを否が応でも自覚せざるを得ない。
振り返ると、透真さんは稽古場の隅でペットボトルの水を飲みながら台本を読んでいた。成瀬役をするために伸ばしている少し茶色がかった髪は、今日はハーフアップでまとめられている。
さっきまでの色気は抜け落ち、そこに立っているのはいつもの透真さんだが、役に入ればまたすぐに成瀬になるだろう。
本格的な稽古は夏合宿からだし、なんとか負けじと喰らいつかないといけない。
――でもなぁ
これまで、付き合った子は二人いるが、いわゆる身体の関係になるまでたどりつかなかった自分に、この透真さんに対抗するねっとりとずーんとした重みなんて出せるんだろうか。
そもそも重みどころか、一人の彼女には『空洞を相手にしているみたいな気分になる』とすら言われていた俺である。重みとは真逆すぎる。
逆に透真さんはプライベートでの経験がここに生かされているのかもな、と思う。さっきの演技も、彼女の仕草だとかそういうものを観察し、自分のものとしてブラッシュアップしているのかもしれない。
だとしたら、彼女さんもけっこう色気がある人ってことで、でもあの透真さんの彼女なら十分にあり得る。
顎に手を当てて考えていると、いつの間にか近づいてきていた透真さんが顔をのぞきこんだ。
「どした、ぼーっとして。さっきのシーンのこと、なんか言われた?」
「あー、ねっとりとずーんと重くするように言われました」
「田ちゃんらしい表現だな」
ふふっと笑った透真さんに「でも、今考えてたのは違うことで」と話しかける。
「透真さんの彼女なら色気があるのも納得だなって思ってました」
「は?」
透真さんが怪訝な顔をする。
「なんだそれ。誰だよ、俺の彼女って」
「え、色気のある……あれ、透真さんって彼女いないんでしたっけ」
「いないし。誰のこと言ってんの?」
透真さんのことだから当然のようにいると思ってたけど、言われてみれば彼女の話とか聞いたことなかったかもしれない。
「なんで透真さんに彼女いないんですか?」
訊ねると、透真さんが「ってか、なんで急に俺の彼女のことについて考えたわけ?」と聞き返してくる。
「あー、えっと、さっき田さんに成瀬の魔性っぷりに負けるなって言われたけど、俺、ろくに経験ないから演技に重みを出せんのかなって考えてて、で、透真さんは逆にプラべの体験を成瀬の演技に生かしてるのかもって思って」
「なんで受け側の演技をプラべから持ってくるんだよ」
「いや、だから色気のある彼女の仕草とかを自分なりに生かしてんのかなって」
「違うわ。ああいうのは、舞台とか映画とか見る中で勉強してんの」
「いつも女性側の演技も勉強してるってことですか?」
俺の質問に、透真さんが腕を組み、首を傾げた。
「老若男女全部だけど?」
「ろうにゃくなんにょ」
「うん。何回も同じ舞台を観に行ってるのも、毎回違う人の感情と動きに集中したいからだし。映画なら巻き戻して見ることもできるけどさ、舞台はそうはいかないじゃん。毎回ちょっとずつ役者さんの表現方法が違ったりもするから、勉強になるし」
「なる……。よく考えたら、暇さえあれば小劇場に行くか家で映画見てるかしかしてない透真さんに、彼女がいるわけがないですね」
納得して頷くと、透さんが苦笑する。
「今の俺の話聞いた感想がそれ?」
「はい。彼女はいらないくらい、演劇が好きだってことがよく分かりました」
「……まあ、ある意味そうとも言えるのかな」
独り言のように言った透真さんがこっちを見て「ユウも彼女がいないのは、やっぱそれだけ演劇が好きだからだもんな?」とニヤッとする。
「いや、マイペースすぎるからっす」
「さすがにそこは自覚してるんだ」
「死ぬほど言われてますからね」
「そのマイペースさがユウの魅力でもあんのにね」
「そんなこと言うの透真さんくらいだし」
「マジ? じゃあ俺が付き合ってやるしかないのか」
「そうっすねー」
軽口を交わしていると「次のシーン行きまーす!!」と田さんの大きな声がした。
*
昨日の練習風景を撮影したものを、ベッドに寝転がりながらスマホで見る。
夏合宿までにしっかり見返して、自分なりにキャラクターをアップデートしてきてねと田さんから連絡が来ていたが、どっから手をつければいいのかと思うくらい、雨衣というものがまだ自分の中にいない。
そもそも、雨衣のように誰かに執着したことなど過去にはなく、まずはその心情というものを、完全に分からずとも自分なりに理解するところから始めなければならないだろう。
スマホを置き、枕の横から取り上げた台本をぱらりと開く。
今回の脚本は現在四年生の先輩が書いたものだ。ナルキッソスの話をもとにした、一口で言うならば男同士の悲恋物語である。
――
雨衣が営む花屋に、成瀬が男と一緒に花を買いにくるところから、舞台は始まる。
今日はどんなお花を、とたずねる雨衣に、できるだけ早く枯れる花を使って小さめの花束を作ってほしいと、店の中を物珍し気に見回した成瀬が答えた。
妙な注文ではあったが、言われたとおり、そろそろ枯れそうな花を見繕い花束に仕上げたものを渡すと、成瀬は隣の男にそれを見せて綺麗に微笑んだ。
――この花は僕の心ですよ。枯れてしまう前に新しい花を持ってまた会いに来てくださらなければ、僕のあなたへの恋慕の情も萎れてしまうでしょう
その言葉に必ずと答えた男は、毎週のように花屋を訪れるようになった。一方、成瀬もときどき一人でふらりとやってきた。そして、男に早く部屋に来てもらうためにと、男が買ったものと同じ花の中から、あえて枯れそうなものを選んで買っていった。
ある日、あなたは健気な方ですねと花を包みながら雨衣が言うと、成瀬は鼻で笑った。別にあの男が好きなわけではありません、会う頻度をあげて少しでもお金を多く引き出すためですよ。そう冷めた目で話す成瀬から滲み出る毒に、雨衣はわけもなく惹かれた。
しばらくして、成瀬が枯れた花を持って店に訪れた。金は払うからこれを花束のように包んでほしいと言われ目的を聞くと、花が枯れると知りながら奥さんの誕生日を優先した男の頬をこれで打って、別れてくるのだと言う。
それを聞いた雨衣は、僕ならあなたを何よりも優先するし、花を枯らすなんてことは決してしないのにと思わず告白するが、金がない男には興味がないし、もう次の愛人候補も決まっていると成瀬は答える。
ただ、愛人と会わないときの暇つぶしとしてなら付き合ってもいいと、うっすらと笑いながら言う成瀬に、あなたのその見た目に似合わない残酷さは、僕の好きな水仙によく似ていると雨衣は笑い返した。あの花には毒があるのですよと。
――もし春まであなたと一緒にいられたなら水仙の花束を贈りましょう。きっとあなたによく似合うだろうから。
――もし春になって僕が飽きていなかったら、その花束を受け取って君だけのものになりましょう。あり得ないことだけれど。
そうして二人は逢瀬を重ねるようになった。
雨衣は、この関係は成瀬にとって遊びだと分かりながらも、成瀬の新しい愛人への嫉妬に次第に苦しむようになる。それでも、成瀬の見た目の美しさに隠された毒を愛せるのは自分だけだという思いで耐えていた。成瀬にも、僕はあなたのその残酷さを愛しているのだと何度も何度も雨衣は繰り返した。やがて、水仙の花が咲く時期がやってきた。一縷の望みを持って、雨衣が水仙の花束を作っていると、店に成瀬の愛人がやってくる。
何も知らない愛人は、大事な人に贈るため、薔薇の花束を作ってほしいと雨衣に依頼した。
どんな人なのかと訊ねる雨衣に、薔薇のような人だと愛人は答える。綺麗で華やかで、でも人を傷つける棘のような鋭さも持っている一筋縄ではいかない人で、そこがまた魅力なのだと。その人の家の花瓶がずっと空のままだから、薔薇を贈ろうと思い立ったのだと。
それを聞いた雨衣は、成瀬の毒を愛したのは自分だけではないという事実に絶望し、同時に大輪の薔薇の花束の横に置かれた水仙の花束の、あまりのささやかさに打ちのめされてしまう。高価な薔薇の花束をもらった成瀬が、地味な水仙の花束を喜ぶとはとても思えなかった。
その夜、約束の時間になっても訪れない雨衣にしびれを切らした成瀬は、花屋へと向かった。
水仙の花が咲く季節になった。愛人とも今日別れた。薔薇の花だなんてありきたりなものに僕を例える男に未練などない。水仙の花束を雨衣が渡してくれたら、君のものになると伝えよう。でも、彼は毒のある僕が好きなのだから、仕方なさそうに受け入れようか。それとも素直な僕を君は愛してくれるだろうか。
期待と不安とで胸を騒めかせながら花屋に入った成瀬は、水仙が散らばる中に倒れている雨衣を見つける。その手には瓶と紙が握られていた。
――あなたの毒を愛してしまった僕に、ふさわしい結末なのです
そう書かれた紙を読んだ成瀬は、床に落ちている水仙を拾い集めて花束を作り、それを握ると雨衣の隣へとゆっくりと倒れこんだのだ。
――
「あなたの毒を愛してしまった僕に、ふさわしい結末なのです」
呟いて、台本を閉じる。
何度読んでも救いようのない話であるが、ギリシャ神話のアメイニアスは、ナルキッソスの家の前でナイフで自死し、さらに月の女神であるアルテミスに、ナルキッソスを呪うように依頼するというとんでもないことをやらかすらしいので、それに比べればマシなのかもしれない。
それにしても、この台詞ってかなり重要だよなぁと天井を見上げる。
舞台の上で死んでいる雨衣がこの台詞を言うことは当然できないので、事前に録音したものを流すことになる。つまり、その日の舞台の雰囲気に合わせて変えるということはできず、俺だけでなく透真さんも、録音した声ありきでラストの重要なシーンを演じなければいけないということでもある。
普通に考えれば悲し気に、となるところだろうが、果たして雨衣は哀しそうに死んでいくような人間だろうか。
激重感情から解放されて、むしろ穏やかな口調になっているというのもありだろうし、アメイニアスに寄せて恨みがましくいくのもあり得る。成瀬への愛情を全面に押し出してもいいし、会えなくなる切なさを感じさせてもいいし、はたまた、感情などなくなってしまったかのような淡々とした物言いにしてもいいし。
うーん、とベッドの上で左右にごろごろと寝返りをうつ。
難しいが、でも逆にこの台詞の言い方が決まれば、もっと雨衣という人物像が浮かび上がってくる気もする。
とりあえず、いろんな言い方で録音してみて、いったん自分で聞いてみるか、と再びスマホを手に取ったところで、透真さんからLIMEが入っていることに気付く。
アプリを開くと、昨日の練習風景の一部をSNSに載せようと思うけどいいか、という確認だった。
OKのスタンプを送ると『ユウは今日なに載せる?』と返ってくる。
『決まってないです。ちょうど台本読んでたんで、台本の写真とか載せようかな』
『お、熱心じゃん』
『もうちょっと雨衣の人物像を自分なりに見つけたくて』
『そっか』
『最後の遺書の読み方が決まったら、もうちょっと捉えやすくなるかなって思うんですけど』
『あー、確かにそこが決まると、最後に向けての感情の流れとか作りやすくなるかもな』
透真さんが共感してくれたことで、遠くの方にかすかに道標が見えてきたような気になる。
『ちなみにどんな感じで言おうとか決めてんの』
『何パターンか考えてるんで、とりあえず口に出して録音して聞いてみます』
『俺も参加していい? そこ、俺的にもけっこう大事なとこだし』
『もちろんっす。俺、透真さんの家行きましょうか』
『いや、俺が行くわ。新しいレコードも見たいし』
馬が両手で丸をしているスタンプを送り、透真さんが来るならなんか飲み物でも買ってくるかと俺は立ち上がった。
*
朝、歯を磨きながらSNSを開く。いつもより「いいね」の数や拡散される数がやけに多いが、透真さんがらみの投稿をしたときはいつもこうなので、もう驚くことはない。
昨日載せたのは、ベッドの上にあぐらをかいた透真さんが最近増えたレコードを見ている写真と、買ったばかりのお気に入りのレコードを頭の上に掲げている俺の写真の二枚だ。
ちなみにお気に入りのレコードは、真っ青な地に、薄いグレーで描かれた楽器たちが曲線を描きながら並んでいるものである。一筆書きでバイオリンからティンパニーまですべてが繋がっていて一見シンプルなデザインだけど、よく見ると各楽器のバランスや配置などに緻密なこだわりを感じられるところがいい。
一方、透真さんが気に入っていたのは、農場のような風景を黄色と緑と茶色の三色だけを使って描いた、レトロ感のあるジャケットだった。あの人が選ぶものは、だいたいいつもどこか可愛げがある。
SNSへのコメントは普段あまり読まないが、もしかしたらレコードに興味がある人が見てくれているかもしれないと流し読みをしてみる。しかし「おしゃれ」とか「レコードかっこいい」といったことは書かれていても、レコードのデザインに惹かれて見てくれた奇特な人はいないようだった。
実生活でもレコードのジャケ話を興味を持って聞いてくれるのは透真さんくらいだしな、と適当にスクロールしていると、「ゆーとま」という言葉がやけに書かれていることに、ふと気づく。
なんだ?と思っていると、「とまゆー派です」というコメントもあり、疑問符が浮かぶ。
ゆーとま。もしくは、とまゆー。何かと何かを合わせたものだというのは察せられるが、まず「とま」から始まるものなんてトマトくらいしか思いつかない。急なトマトの流行りが起こっているとも思えない。
なんなんだろと考えつつ、うがいをして、練習風景の動画を載せているはずの透真さんのSNSをのぞきにいくと、それこそコメント欄は「ゆーとま」という言葉だらけであった。その中に、田さんの『ゆーとまもいいけど、あまなるもよろしく!』という謎なコメントを見つけ、ちょうどいいやと『ゆーとまって何ですか?』とそこに返信してみる。
途端に、自分のコメントにハートがどんどん押されていって少しビビる。
さらに『友くんの純粋さが眩しい』『まさかの本人降臨』『かわいい』というコメントがつき始めるが、なかなか正解を教えてくれる人は現れない。
しまいには『誰も余計なことは言わないように!』とか『ユウくんは知らなくていいことだよ!』とか、全員で隠ぺい工作をしているかのような様相に不安になってきたところで、ようやく田さんからの返信が来る。
『ユウくんと透真くんのペアで、ゆーとまって呼ばれてるみたいよ』
そうか、トマトではなく「とうま」だったのか、と腑に落ちる。つまり「あまなる」は雨衣と成瀬ということだ。コンビ名みたいなものだろう。しかしなぜ俺に隠す必要があったのか。
と、そこに今度は『左に名前が来る方が攻めで、右に名前が来る方が受けなんだって』と透真さんからのコメントが追加される。
脚本を書いた先輩に台本を渡されるとき、BL用語で言えば攻めと受けというのがあって、という前置きがあったうえで、雨衣が攻めで成瀬が受けだと説明されたのを思い出す。
今回、透真さんがあげた動画は、雨衣が成瀬にキスの許しを請うシーンだった。音声は入れていなかったけど、あれを見れば俺が攻めだということは、確かに丸わかりだ。
『だから俺の名前が左で、透真さんが右なんですね』
そう何気なくまた返信をすると、コメント欄がすさまじい勢いで動き出す。
『待って。二人とも爆弾発言すぎる』
『左右の意味を知ったうえでそれを言っちゃう……?』
『あくまでも役柄的にってことだろうけど、だとしてもこれは萌え案件』
『ゆーとま民勝利』
「攻めの自覚がある攻め様……』
『墓に入りました』
なぜ墓に!?となっているところに、一通のLIMEが入ってくる。ミスターコンの実行委員の女の子だ。
『これから、二人の投稿には#ゆーとま、とハッシュタグをつけましょう。よろしくお願いします』
よろしくお願いされた俺は、とりあえずいったんスマホを閉じることにした。
この世の中は、自分が知らない言葉の使い方がまだまだあるようである。