翌朝になり、 血相を変えた顔をした仲野は、長局の廊下を走り、そのまま瀧山の部屋へと向かった。
瀧山は自室の部屋で、既に来ていた染嶋と梅原に朝の着替えを手伝ってもらっていた。
「大変でございますッ……」
仲野が駆け込んできたのは、そんな時だった。
「如何した?」
「村瀬様が……村瀬様が……」
仲野の報告に何かを悟った瀧山は、そのまま廊下を駆け出して行った。染嶋、仲野、梅原も後に続いた。
長局の一室では、女中たちが野次馬になっていた。そこへやってきた瀧山たちの姿を見て、一同は慌てて平伏した。 女中たちをかき分けて、中へ入ると、瀧山は唖然となった。そこには、短刀で胸を一突きにした村瀬が倒れていたのだ。
「村瀬ッ……。村瀬、何故このような……」
瀧山は、駆け寄って村瀬の死に顔を見つめていた。
「瀧山様、これはいかなる所業でございますか」
常盤の声が聞こえ、瀧山はふと振り返る。そこには常盤だけではなく、波路の姿もあった。
「お付きの中臈の命一つ救えぬとは、筆頭御年寄の名にも傷がつきまするな」
「……」
「この際、御年寄の職を辞されては如何でございましょうか? 今、幕府動乱の折、大奥もの命懸けにならねばならぬ時に、このような失態。大奥筆頭御年寄が務まる道理がございましょうか」
波路の皮肉に、瀧山は何も返す言葉が見つからなかった。
「いかにも」
常盤は皮肉を込めて頷いた。
「さ、村瀬の亡骸は早々に処分いただきますように」
波路はそれだけ言うと、嫌味な笑みを浮かべて去っていき、常盤も後へ続いた。そんな二人の様子を恨めしそうに見送る染嶋、仲野、梅原。
「皆、下がりゃ。すまぬが、一人にしてくれぬか」
明らかに気落ちしている、か細い声の瀧山に対して、一同は無言で平伏し、染嶋に促されて去っていった。
ぽつんと一人残った瀧山は、もう二度と生き返ることのない村瀬の死に顔を、ただひたすらに見つめていた。

「思いがけぬことが起こりましたな」
「こちらにとっては好都合じゃ。しかし、これでは生温いわ」
相も変わらず、波路と常盤は密談を繰り返していた。
「次は、如何様に?」
「おゆうにございます」
「入れ」
波路の部屋へ入ってきたのは、呉服の間に勤めるおゆうであった。
「この者は?」
と、常盤が尋ねると、波路は
「呉服の間のおゆうじゃ。普段は、瀧山様の懐取を仕立てておる」
「私に、頼みとは?」
まだ年端も行かない少女は、不思議そうに尋ねた。
「確か先刻、そなた瀧山様の懐取を新たに仕立てておったな」
「はい」
「瀧山様の元にお届けに行く際、襟元にこれを仕込んでほしいのじゃ」
波路は、小袖の懐から折りたたまれた懐紙を取り出すと、おゆうに渡した。
おゆうが懐紙を広げると、そこには小さな街針が一つ挟んであった。
「これを……でございますか」
おゆうは動揺している。
「ただの街針じゃ」
平然と答える波路を目の前に、おゆうは黙り込んでしまった。
「できぬと申すのか?」
と、常盤が追い打ちをかけると、波路はおゆうの目の前に来て、
「私についてこれば良い。上様不在の今じゃが、そなたを御中臈に取り立ててしんぜよう。そなた、病気の兄がいるのであろう。治療のための金子は、いくらでも弾むぞ」
「波路様……」
「どうじゃ? 兄のためであろう」
「かしこまりました」
おゆうは、ただ平伏するしかなかった。
「それで良い」
と、波路が頷くと、天井から男の声で、
弥平次(やへいじ)にございます」
「如何した?」
と、常盤は天井を見上げた。端の一角が外れ、全身黒の忍者風の衣服に身を包んだ常盤の密偵である弥平次が顔を出した。
男子禁制の大奥に、突如として現れた男の姿におゆうは驚いていた。
「案ずるな。私の密偵、弥平次じゃ」
思わず平伏するおゆう。
「急ぎ申し上げたき儀あり」
「構わず申すが良い」
と、波路が答えると、弥平次は小声で、
「瀧山様においては、奧医師の浅田宗伯(あさだそうはく)殿と、御客応答(おきゃくあしらい)鶴岡(つるおか)殿と、何やらお話のご様子で」
「宗伯殿と鶴岡様……」
「どういうことじゃ?」
常盤も波路も訝しい顔になる。
「弥平次、直ちに調べてまいれ」
「御意」
常盤の命令を受けた弥平次は、天井を戻して去っていった。

その同じ頃、瀧山の部屋には、奥医師の浅田宗伯と御客応答の鶴岡が呼ばれていた。
「宗伯殿、それは誠でございますか?」
鶴岡は、ただ唖然顔となっていた。
「いかにも。お診立ては、一度や二度ではございませぬ故」
「しかし、上様のお渡りがないどころか、お手付きのご側室でもない村瀬殿が、いかにして懐妊など……。身ごもるということは、相手がいるということ……」
「私宛ての遺書には、このように書かれておったわ」
瀧山は、村瀬が書き遺した遺書を鶴岡に渡す。
遺書を読んでいくうちに、鶴岡の顔色はますます曇っていき、
「守田座の、市村富十郎……。歌舞伎役者と密通していたのでございますか……」
「城を出ることはあったのじゃが、まさか歌舞伎役者と会うていたとは……」
「口外せぬよう強く言われておりました故、瀧山様にもお伝えできず……申し訳ございませぬ」
浅田は、畳に額をこすりつけるように、深々と頭を下げた。
「宗伯殿が謝ることではない。全ては、この瀧山の落ち度じゃ」
「して、市村富十郎の処分は如何様に? これは大罪でございますれば」
「富十郎殿や守田座には、何のお咎めもしないつもりじゃ」
「お咎めなし……でございますか」
鶴岡が前のめりになって尋ねた。
「生きて償っていただこうと思う。村瀬と、お腹の子の分まで」
意外な瀧山の決断に、鶴岡は黙ってしまった。
「鶴岡、そなた私の名代として、守田座に出向き、村瀬のことを富十郎にお伝えしてほしいのじゃ」
「承知致しました」
瀧山の命を受けた鶴岡は、平伏した。

江戸の街の一角に、ある古い長屋があった。表の井戸の水で、住人のおくにが野菜を洗っていると、魚屋与作(よさく)が、魚の入った桶を担いで入ってきた。
「おはようございます、おくにさん」
「あら与作さん、おはよう」
「今日は活きの良い鯛が揃ってるよ」
と、与作は桶に入った鯛を一匹掴んで見せると、
「さあ、どうかね」
「まあ、これは活きが良い。けど、特にめでたいことなんてないんだよ。この間、瓦版見たけど、何だか江戸の街も物騒になりそうって言うじゃないか」
「薩長のお侍さんの話だろ。江戸を火の海にするなんて、田舎侍のすることは分かんねえや」
「ほんとだね。うちの人もね、瓦版に踊らされるなって言うんだけど、やっぱり武力で来られたら、誰だって怖いだろう」
「なるようにしか、ならねえか」
そんな他愛もない話を終えたおくには、自身の住まいに戻っていった。そこでは、おくにの夫の清六(せいろく)が、傘貼りをしていた。
おくにが戻ってきて早々、清六は小言を言うように、
「野菜洗うのに、どれだけかかってるんだよ」
「魚屋の与平さんとちょっと話してたんだよ。活きの良い鯛があったけど、やめた。うちには、とてもそんな余裕ないから」
「当たりめえよ。鯛一匹買うのに、傘何本売らなきゃいけねえと思ってるんだよ」
仏頂面をした清六はそう言いながら、傘張りの手を動かし続けている。
「いつまでこんな生活が続くんだろうねぇ。薩長の侍だって、いつ江戸を襲ってくるか分かんないのにさ」
「またその話かよ、いい加減にしろよな」
「街中、その話で持ち切りだよ。公方様のいらっしゃるお城あって、どうなるか。隣のおゆうちゃんだって、お城勤めしてるじゃないか。私は、それも心配してるんだよ」
いつもの口喧嘩のようなやり取りを二人がしていると、隣の長屋の部屋から、激しく咳き込む声が聞こえてくる。
「あら、源太(げんた)さん。また具合悪いのかね」
「ちょっと見てきてやれや」
「あいよ」
清六おくに夫婦の住む長屋の隣は、呉服の間に勤めるおゆうの実家で、今は病弱な兄の源太が一人で暮らしている。血色の悪い青白い顔をした源太は、煎餅布団で休みながらも激しく咳き込み、苦しそうにしている。
そこへ、おくにが入ってくると、駆け寄って、
「源太さん、大丈夫かい」
と、背中を優しくさする。
「すいません、おくにさん。いつも心配かけて」
「良いんだよ、同じ長屋に住む隣同士じゃないか。困ったときは、お互い様ってもんだよ」
「しばらくどうも、身体が思うように動かなくて。それに、おゆうのことも心配で」
「確かおゆうちゃん、呉服の間に勤めてるんだろ。一度、私から文でも出そうか。家族の病は、お宿下がりができるんじゃないのかい?」
「良いんです。かえって、あいつに心配かけますから」
「けど、おゆうちゃんだって、源太さんのこと心配ないんじゃないのかね。やっぱり、一度おゆうちゃんに帰ってきてもらったほうが」
おくには、不安そうに源太を見つめていた。

正吉とおさとが、いつものように朝食を食べていると、
「なあ、長兵衛にあの事、話したほうが良さそうだな」
と、正吉が突然口を開いた。
「後添えのこと、やっぱり進めたほうが良いのかね」
だが、おさとはあまり乗り気ではなかった。
「いつまでも一人ってわけにゃいかねえだろ。これからおはるちゃんだって大きくなって、父一人子一人じゃ不安だろ。おはるちゃんだって母親と呼べる人がいねえと可哀想じゃねえか」
「まあ、後は長兵衛さん次第だよね。あの人だって、今じゃあんたの見習いで大工やってるけど、元は立派な旗本のお侍さんだったんだ。それが、藩のお取り潰しにあって浪々の身となってたところをお前さんに拾われて。おはるちゃんも、まだあの頃は乳飲み子だったのに母親とも別れちまって……。あの二人見てると、不憫なんだよね……」
しみじみと語る女房を横に、正吉はつい力強く、
「だから、せめて俺たちの手で幸せにしてやりてえじゃねえか」
「そうだね」
正吉は無言で茶碗を差し出した。
「朝からよく食べるんだから、この人は全く」
おさとは、ブツブツ言いながらご飯を山盛りに盛り付けた。

鶴岡が守田座を訪れたのは、瀧山からの命を受けてから数日後のことだった。
富十郎の楽屋に案内された鶴岡は、ただ黙然と座っているが、隣の守田は土下座したまま頭を上げない。
「守田座歌舞伎役者、市村富十郎でございます」
と、そこへ、演目を終えて戻ってきた富十郎が入ってきた。
「大奥御客応答、鶴岡でございます。本日は、大奥御中臈の村瀬殿のことで……」
村瀬の名前を耳にし、富十郎は一瞬うつむいた。すると、ずっと黙ったまま土下座をしていた守田が勢いよく頭を上げると、いきなり富十郎を殴りつけた。
「馬鹿野郎ッ。おめえ、何てことしてくれたんだ。おめえって奴は……」
「……」
「村瀬殿は、先立って自害いたしました」
鶴岡からの訃報を聞かされ、富十郎は呆然となり、
「村瀬様が……」
「それだけじゃねえ。村瀬様のお腹には、おめえとの子までいたそうだ」
守田は悔しさと怒りがこみあげるように、目に涙を潤ませていた。
「俺との子……」
「幕府が混乱している最中、筆頭御年寄の瀧山様にお仕えする村瀬殿は、そなたとのことを誰にも告げられず、一人思い悩んで、自害する道を選んだのじゃ」
守田は再び、鶴岡に深々と土下座をして、
「申し訳ございませぬ。こいつには、死をもって罪を償わせます故」
「これは瀧山様のご意向なのですが、富十郎殿には生きて償っていただく」
富十郎は黙って鶴岡の話にひたすら耳を傾けた。
「村瀬殿と、お腹の子の分まで生きてほしいというのが、瀧山様の願いなのです。富十郎殿、どうか命を大切に……。生きて、生きて償ってくだされ。そして、そなたを心から愛した村瀬殿のことを忘れないほしいのです」
「鶴岡様……」
富十郎は、まじまじと鶴岡を見つめた。
「本来であれば、遠島を申し付けられることが道理なれど、村瀬殿亡き今、瀧山様の特別の思し召しで、そなたにはお咎めなしとなった。これからも、歌舞伎役者として舞台に立ってくだされ。それが何より、村瀬殿への供養にもなろう」
富十郎も守田も返す言葉が見つからず、ゆっくりと頭を上げた。
「守田殿。この者のこと、何卒よしなに頼みますぞ」
「ははッ」
富十郎と守田は、再度土下座をした。
瀧山の意向を二人に伝えた鶴岡の目にも、涙が浮かんでいた。

江戸城大奥の中にある『呉服の間』は、大奥で暮らす女たちの衣類全般を拵える所であり、御針子(おはりこ)とも呼ばれる女中たちが、針仕事として打掛や小袖を一から縫い仕立てたり、修繕をしている。いくつも立てられた衣桁には、きらびやかな打掛が掛けられており、棚には何十種類ともいえる反物が整理されている。
おゆうをはじめ、女中たちはひたすら針を片手に衣類の仕立てに精進している。奥の一室では、呉服問屋『富橋屋』の女将のおあつが来ており、反物を広げていた。そこには、おあつの娘でもある梅原が同席していた。
「なあ、おうめ。御台様もおられぬ今、新しい反物なんぞ使い物になるのかね」
「御台様はおられなくとも、着る楽しみを生きがいに勤めているお方もいるの。おっかさんの取り越し苦労にはうんざりよ」
「心配なんだよ、私は。あんたは、呉服問屋『富橋屋』の跡取り娘。まさか、生涯大奥に勤めるなんて言わないだろうね。今なんか、江戸市中じゃ倒幕派のお侍さんが責めてくるんじゃないかって噂が流れてるんだよ。私しゃもう気が気じゃないんだよ。このお城だって、戦となったらどんなことになるか……。命懸けてまで、お城勤めすることはないんじゃないのかね。そこまでして、このお城に残ることはないと思うけど」
母のお節介とも言える言葉に、梅原は飽き飽きして、はっきりと、
「私は、瀧山様にお仕えして、ずっと大奥にいるつもりよ」
「おうめ……」
おあつが呆然としたその時、衣装の入った乱れ箱を持った染嶋が不機嫌そうに入ってきた。
「おゆう、瀧山様のお懐取を仕立てたのは、そなたじゃな」
「はい」
「襟元に街針が刺さったままであったぞ。瀧山様が袖を通された折、首に針が刺さり、たいそう驚かれておった。針を抜き忘れるなど、言語道断じゃッ」
染嶋がおゆうを叱責すると、まるで待ち構えていたように常盤がゆっくりと入ってきて、
「何事ですか?」
「この者が、瀧山様のお懐取から針を抜き忘れたのでございます」
「針に気づかずに、袖を通した瀧山様がお悪いのでは?」
染嶋は、我が主人に非があるような言い方をした常盤をじろっと睨み、
「何を言われます」
「呉服の間の者たちは、何枚もの呉服を仕立てているのです。針を抜き忘れることもありましょう。それをいちいち咎めていては、日が暮れてしまいましょう」
理にかなっている常盤の返答に、染嶋は返す言葉が見つからず、
「今後は気をつけるように」
と、ムッとしてそそくさと出ていった。
修羅場のような空気となったこの一部始終を、梅原とおあつ母娘は唖然と見ていた。

正月以降、部屋にほぼ籠もりっぱなしの状態だった静寛院は、何とか嘆願書を書き終えることができた。嘆願書を袱紗に包む静寛院を、藤子は見守るように見ていた。
慶応四年正月二十日、静寛院は東海道先鋒総督(せんぽうそうとく)鎮撫使(ちんぶし)橋本実梁(はしもとさねやな)に宛てて書状を出した。徳川の家名存続嘆願と、官軍を差し向けた暁には死を覚悟しているという内容であった。そして、二月一日には将軍慶喜が朝廷に対して謝罪恭順の意を示し、同月十二日に上野寛永寺(かんえいじ)にて謹慎したのであった。

寛永寺の本堂では、将軍慶喜が御本尊に合掌をしていた。住職の光庵(こうあん)が入ってくると、
「こちらにおいででしたか」
「光庵殿」
「何でございましょう?」
「世は、間違った人生であったのだろうか。この江戸幕府を開府された東照神君様に会わせる顔がない……」
謹慎してからというもの、すっかりやつれてしまった将軍を見て、光庵は寄り添うにして、
「神にも仏にも、分からぬことが、ただ一つございます」
「何じゃ」
「人の人生でございます。人が、どんな人生を生き、どのように歩んでいくのか、それは神も仏も分かりませぬ。ただ、運命(さだめ)に従うのみでございます」
運命(さだめ)か……」
「逃げることは、決して悪いことではございませぬ。現に、朝廷への恭順の意を示し、こうして上様は謹慎しておられる。それで良いではございませぬか」
憔悴しきっている慶喜の顔からは、もはや天下の将軍としての風格など皆無であった。
「偉そうなことを申しました。住職の説法に過ぎませぬ。ご容赦ください」
「いや、良き話を聞いた」
「ご無理なされぬよう、ごゆっくりされるがよろしゅうございましょう」
光庵はそのまま平伏し、慶喜は再び御本尊に対して合掌した。