江戸幕府が開府されて二百六十年余りの歳月が流れた慶応三年。時の十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は、政権を朝廷に返上。世に言う大政奉還を行った。が、倒幕派は武力討幕を主張。これが翌、慶応四年正月三日に始まった『鳥羽・伏見の戦い』である。幕府軍は敗れ、慶喜は僅かな家来を引き連れて大坂城を脱出。海路で江戸に帰還した慶喜であったが、薩摩・長州を中心とした軍勢は慶喜に対して追討令を発し、慶喜は朝廷から敵とみなされ朝敵となってしまった。薩長軍が、江戸に向けての進軍態勢を整えていたこの状況下は、江戸が合戦の場となり、江戸の街が火の海となることは目に見えており、江戸の人々は騒然。
また、江戸城内で将軍に仕える者たちも同様であった。江戸城本丸御殿は、“表”“中奥”“大奥”の三つに区分され、儀式や執務を行う“表”、将軍が政を司るほか日常生活を送る“中奥”と違い、“大奥”は将軍以外は絶対の男子禁制、女の園であった。慶喜の正室・美賀子は、一度も大奥に入ることがなかったため、大奥においては、今や主不在となっていた。表の動きによって江戸城が危機となっていることで、大奥における混乱も避けられなかった。大奥に仕える女たちは千人とも言われ、その女たちを束ねているのが、御年寄(おとしより)の役についている者である。
当時、御年寄の職を預かっていた者は数名いたが、その中でも筆頭御年寄が一番位の高い立場であり、表の老中に匹敵するほどの発言力と影響力を持っていた。当然、権力争いは日常茶飯事であり、幕府動乱のこのご時世においても、それは変わらぬ光景であった。また、大奥は将軍の生母や正室、お手付きとなった側室の生活の場でもあったため、権力争いとは別に、嫁姑争いも顕著に表れていた。妬みや嫉み、企みといった、様々な感情が大奥では渦を巻き、それは大小問わず様々であった。が、その大奥が、まもなく終焉を迎えようなど、この時は誰も知る由がなかった。大奥を束ねる一人の女を除いては……。

衣擦れの音を立たせて、苛立つように小走りで大奥の廊下を歩いているのは、十三代将軍生母の本寿院(ほんじゅいん)。その後を、上臈(じょうろう)御年寄の法好院(ほうこういん)が慌てて後を追っていく。
「本寿院様ッ……お待ちくださいませ。本寿院様……」
本寿院が向かっているのは、大奥筆頭御年寄の瀧山(たきやま)の部屋。そこには、中臈(ちゅうろう)染嶋(そめじま)村瀬(むらせ)、部屋子の仲野(なかの)梅原(うめはら)が控えている。荒々しい足音と法好院の声が聞こえ、一同は何事かと様子を伺うように互いの顔を見合った。
「瀧山は何処じゃッ」
「瀧山様は、ただいま表へ出向いておりまする」
勢いよく入ってきた本寿院に、染嶋は冷静に答えた。
「本寿院様、瀧山様がお戻りになられてからでよろしいではありませぬか」
法好院は本寿院をなだめて自身の部屋へ連れ戻そうしたが、本寿院はその腕を振りほどき、憤然と、
「おめおめと待っておられるかッ。慶喜が逃げ帰り朝敵となった今、この大奥はおろか江戸城はどうなる? 我らとて、覚悟を決めねばならぬではないか」
「本寿院様。全ては瀧山様にお任せくださいませ。瀧山様は、この大奥を束ねる筆頭御年寄。お考えもおありでしょう。どうかここは、一度お気持ちを静めあそばして……」
「本寿院様……」
村瀬も法好院も何とか、この場を乗り切るのに必死であった。
「瀧山に伝えよ。一刻の猶予もならぬとな」
本寿院はそれだけ言うと、いそいそと出ていった。またしても、法好院が慌てるように後を追っていった。
「瀧山様の心中もお察しいただければ良いのに。相変わらず本寿院様と来たら……」
「仲野殿……」
本寿院の言動に呆れている仲野を、梅原がたしなめた。
「私や悔しいのです。瀧山様が、今どのようなお気持ちでおられるか……」
「一理あるやもしれぬが……」
「ほんに、おいたわしいことじゃ……」
仲野は膨れっ面で瀧山に同情したが、それは村瀬や染嶋も同じことであった。

同じ頃、その瀧山は表の御広座敷(おひろざしき)に出向き、老中の尾田若狭守克敏(おだわかさのかみかつとし)、大奥御留守居(おるすい)役の青山松之丞(あおやままつのじょう)、軍艦奉行の勝安房守麟太郎(かつあわのかみりんたろう)と、深刻そうに密談をしていた。
「では、薩長軍が江戸に……」
勝から告げられた事実に、瀧山はまだ心の整理がつかなかった。
「そのようなこと……何としても避けねばならぬ」
「しかし、どのように……」
尾田も青山も、このような事態に遭遇したことは当然初めてで、策という策が思い浮かばない。
「勝殿、何か名案はないのですか?」
瀧山は藁にも縋る思いで、勝に尋ねた。
「薩長軍と話す場を設けねばなりませぬ。このまま事が進んでしまえば、江戸城や江戸の街が、火の海と化すことは必定」
淡々と答える勝も、少なからず動揺していることは瀧山にも分かった。
「火の海だけでは済まぬ。大奥には千人のおなごがいる。軍勢が責めてきたとき、どのようなことが起こるか、口で申すも憚られる……」
「既に、大奥からは逃げ出した者が幾人もいると聞き及びまする」
「もはや混乱は避けられぬ……」
青山や尾田の困り顔を見ると、瀧山の怒りの矛先は慶喜へと向けられた。
「上様も何をお考えか……。僅かな家臣と大坂から逃げ帰るなど、あまりに身勝手」
しかし、勝は即座に否定し、
「それは違いますぞ。上様は薩長軍や朝廷に対して、恭順の意を表しているのです」
「その恭順が、吉と出るか、凶と出るか……」
瀧山の眉間には、深い皺が寄っていた。
「おそらく江戸市中においても、この話で騒然となっていることでございましょう」
その青山の予想は的中し、江戸の街の一角では、 瓦版売りの龍三(りゅうぞう)が、瓦版の内容を読み上げていた。興味本位で、町人の群れが龍三の周りにできあがっている。
「一体将軍様は何をお考えか。朝敵となった今、薩長の侍衆が責めてくるのは明々白々。これから江戸の街がどうなるか、これを読まなきゃ分からんよ。さあ、買った買ったッ」
商売上手な龍三は、講釈師のごとく声を張り上げる。町人たちは、次々に瓦版を買っていく。

大工正吉(せいきち)の家は、龍三が瓦版を売っていた場所からさほど遠くないところに居を構えていた。正吉の女房・おさとは、購入した瓦版を読んでいるがその顔は随分と険しい顔をしていた。
奥から咳き込む音が聞こえ、おさとはそれに気づくと、声のする厨へと向かった。そこには、まだ十歳に満たない少女のおはるが、薪入れをしていた。
「おはるちゃん。良いんだよ、それは私がやるから」
「私、おばちゃんを手伝いたくて」
「良い子だね、おはるちゃんは。そろそろお父さんたち帰ってくる頃だ。一緒に支度しようかね」
「うん」
共に並ぶと孫に見えるおはるの頭を、おさとは優しく撫でた。
「けえったぞッ」
と、奥まで届くような正吉の声が聞こえたのは、ちょうどその時だった。
「ほら帰ってきた」
おさととおはるが玄関まで迎えに行くと、仕事帰りの正吉と見習いの長兵衛(ちょうべえ)が帰っていた。
「お帰んなさい」
「おはるがいつもすいません」
「何だい、毎日同じことばかり言って。私たちには子どもがいないだろ。だから、おはるちゃんが娘みたいに可愛いんだよ」
「何が娘だい、孫だろうよ」
と、正吉は鼻で笑った。おさとは、ムッとして、
「あら、私は本当に娘だと思ってるんだから」
「だったら長兵衛はどうなるんだよ。長兵衛が息子だったら、おはるは孫じゃねえか」
「それもそうね」
「女将さん。今、江戸市中が何やら騒がしいみたいですけど」
不安そうな顔で長兵衛は、おさとに尋ねた。
「瓦版だろ。私も見たよ」
「馬鹿野郎、何が火の海だい」
正吉は気にもかけない様子だった。
「お前さん」
「侍ってえのは、俺たち大工が拵えた屋敷がないと雨露も凌げねえんだよ。それなのに、偉そうに踏ん反り返りやがって。侍がそんなに偉えのかよ。刀や銃なんかで怯えてたら、江戸っ子大工の名が廃るんだよ」
「そんなの言ったところで、お前さん一人でどうなるものでもないだろ。いい加減におしよ、もう……」
不機嫌そうな夫の言動に、おさとはただ呆れていた。
大人たちの難しい顔を見て、ただ一人おはるだけは不思議そうな顔をしていた。

この日瀧山が表に出向いたことは、瀧山と同じ御年寄の職に就いている波路(なみじ)にも、表使(おもてづかい)常盤(ときわ)を通して知ることとなった。
「瀧山様が表に?」
煙管を吸いながら、波路は怪訝な顔で常盤を見た。
「はい。御老中の尾田様、大奥御留守居役の青山様、軍艦奉行の勝様と、何やらお話のご様子にて」
「勝殿もご一緒であったか……何やら不安な動きと見た」
「私も、そう察しておりまする」
「瀧山様が筆頭におられるのも、時間の問題であろう
波路は、じっと常盤を見つめた。
「では……」
常盤は前のめりになった。
「皆まで言うな。常盤、瀧山様から目を離すでないぞ」
「はい」
「そなたは今や表使じゃが、私の力があれば御年寄に取り立てることもできる」
「私が御年寄……」
常盤も思わず目を輝かせる。
「そなたも御年寄になれば、この大奥は私とそなたのものじゃ」
「波路様……」
「慌てるでないぞ。抜かりなく、瀧山様の弱みを握るのじゃ」
「かしこまりましてございます」
三つ指をついて平伏する常盤を見て、波路は満足気な笑みを浮かべていた。

数日後、表の御広座敷で瀧山と勝が待機していると、襖が開き、十三代将軍正室・天璋院(てんしょういん)と十四代将軍正室・静寛院(せいかんいん)が入ってきた。瀧山と勝は平伏して迎える。
「天璋院様、静寛院様におかれましては、ご機嫌麗しく……」
「挨拶はよい」
勝の形式的な挨拶を天璋院は遮った。
「勝。私共を呼んだのは、慶喜公のことで、何か動きがあったのではないか?」
静寛院も黙ったままではあったが、天璋院と同じ心境であった。
「薩長軍が、江戸総攻撃の支度を始めた由にございます」
「江戸……総攻撃……」
勝の返答に、天璋院は呆然とした。
「戦になるということですか?」
静寛院も尋ねる。
「それだけは避けねばならぬと、先刻より瀧山殿と話し合っておるのですが、こればかりは天璋院様と静寛院様のお力添えを賜りたく存じます」
「私たちの……」
天璋院と静寛院は、思わず顔を見合った。
「薩長の陣頭を指揮するのは、薩摩の西郷吉之助(さいごうきちのすけ)。天璋院様も、よく存じ上げている者かと」
「西郷が、そのようなことを……」
「また朝廷側には、東征大総督(とうせいだいそうとく)として有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁親王(たるひとしんのう)がおられます」
「熾仁さんが……」
静寛院の愕然とする様子を見て、天璋院は何かを察した。
「まさか……」
「静寛院様の、かつての許婚(いいなずけ)のお方です」
「そのような……」
勝の返答に天璋院は激しく落胆し、瀧山も返す言葉が見つからない。
「我らで止めることができるのなら、どのようなことでも致す」
「私も……」
「何卒……何卒ッ……」
先代正室、先々代正室の覚悟に、勝は恐縮すると共に深々と頭を下げる。
「瀧山」
「はい」
「大奥のおなごたちは、如何するつもりじゃ?」
天璋院からの質問に、瀧山は冷静な顔に戻り、
「薩長の軍勢は、どのようなことをしてくるか分かりませぬ。命に代えても、私が大奥を守りまする」
「相手が薩摩であろうが長州であろうが、私も徳川の人間となった御身なれば、断じて戦を避け、何とか我らの手で留めねばならぬ……」
「勝殿。薩長の動向が分かり次第、天璋院様や静寛院様に、お伝えのほどを」
「承知いたしました」
天璋院の胸中は複雑であり、その様子は顔にも出ていた。

歌舞伎小屋の『守田座(もりたざ)』が、江戸の街の中でも常に賑わいを見せているのは一目瞭然であった。表には、のぼり旗が立てられ、そこには人気役者の市村富十郎(いちむらとみじゅうろう)の名前もあった。
舞台では、遠目で見てもその聡明な美男であることが伝わる富十郎が演目を披露している。男ながら持つ色気に観客たちも釘付けになっており、一階席からは「成田屋!」「日本一!」といった大向こうが聞こえる。
観客席の二階から、その富十郎をひそかに眺めている人影があった。それは、紫色の御高祖頭巾を被った村瀬であった。
演目が終わり、楽屋で富十郎が化粧を落としているところに、座長の守田勘彌(かんや)が入ってきた。
「おい、ちょっと良いか」
守田の顔は明らかに不機嫌そうだった。
「何ですか、座元」
守田に見向きもせず、富十郎は鏡を見ながら化粧落としに集中している。
「今日も、大奥の村瀬様がお見えだ」
「……」
「おめえのために言うんだ。危ねえ橋渡るのは、やめるんだ」
黙秘のままの富十郎に、守田は念を押すように、
「縁は早いうちに切ったほうが良い。もし何かあったときは、俺やお前だけじゃねえ。村瀬様も、ただでは済まねえんだぞ」
それでも富十郎の意志は変わらず、
「村瀬様は、俺の客です。何をしようが俺の勝手です」 と、だけ言うと出ていってしまい、守田は呆れるように富十郎を見送った。
富十郎はその足で、茶屋の一室に足を運び、村瀬との逢瀬を重ねていた。
「富十郎……」
「村瀬様……」
身体を離さず、二人は激しく抱き立っている。
「一緒に、逃げてはくれまいか」
突然の村瀬の告白に驚いた富十郎は、思わず身体を離し、
「何を仰せられまする。村瀬様は大奥御中臈。歌舞伎役者の私と逃げるような真似をしたら、どのようなことになるか……」
「だから逃げたいの。誰も知らない、どこか遠くへ……ね、お願い富十郎」
「村瀬様……」
村瀬の必死の懇願に、富十郎はただ動揺していた。

かつての許婚が倒幕側にいることを聞かされた静寛院の胸中は穏やかではなく、自室の部屋で早速朝廷に差し出す書状をしたためていた。共に都から大奥へ入輿した女官の土御門藤子(つちみかどふじこ)や、お付きの女中たちはひたすら黙って、その静寛院の様子を眺めていた。
静かな雰囲気の中、突然どこからか、けたたましく明るい琴や鼓の音色が聞こえ始めた。静寛院はふと手を止め、訝しそうな顔になる。
「何の音や?」
「また実成院(じつじょういん)様でございましょう。昼日中から、また宴をされておいでや」
藤子は呆れるように答えた。
静寛院は筆を置くと立ち上がり、十四代将軍生母、つまり自身の姑にあたる実成院の部屋へ向かった。
女中たちが琴や鼓の音色に合わせて舞っているさまを見ながら、顔をほんのり赤くした実成院が酒を飲みながら騒いでいる。酒を飲み干すと、側に控える御年寄の藤野(ふじの)に器を差し出した。藤野は、ためらないながらも黙って酒を注ぎ足す。藤子を従えた静寛院がやってきたのはちょうどその時で、突然の静寛院の来訪に驚いた女中たちは、琴と鼓の演奏を止めてしまった。
「続けよ!」
駄々をこねる子どものように、実成院が怒鳴る。
「母君。昼間からのお酒は慎まれませ。お身体に悪うございます」 「そなたに言われる筋合いはない」
「母君……」
「酒は、言わば薬じゃ。薬を飲んで何が悪い」
姑の言動に呆れながら、静寛院は側にいた藤野を咎め、
「そなたがついていながら、何としたことか」
「申し訳ございませぬ」
「謝ることなどないわ」
と、実成院は酒を止めようとする静寛院にあてつけるように、酒を飲み干した。
「家茂さんが亡くなられて寂しい思いをしているのは私も同じ。しかしそれを酒で逃げていては、家茂さんが見たら、さぞお嘆きにならしゃいますやろ」
「そなた、嫁の分際でこの私に文句を言うとは……偉くなったものよ。やはり、天皇皇女は言葉が違いますな」
「何を言わしゃりますッ」
「藤子……」
藤子が思わず前のめりになったのを、静寛院は慌てて止めに入った。
「しかし……」
「今は、徳川家とこのお城を守らないかんときです。母君も、お覚悟をお持ちくださいませ」
面白くない顔をする姑に対し、静寛院はただ頭を下げるより他なかった。

同じ頃、天璋院は自身のお付き御年寄の幾島(いくしま)や中臈のませ、他の女中たちと、今後についての話し合いを深刻そうにしていた。
「しかし、よりにもよって西郷殿が……」
「薩摩と言えば天璋院様の故郷。同郷同士で敵となるなど、このようなお辛いことがありましょうや」
幾島は激しく気落ちし、ませの顔も険しくなっている。
「勝の話では、江戸総攻撃に向けて動いているとか」
「では、この大奥に薩長の侍どもが……」
ませのその言葉に、女中たちは不安そうにざわつき始めた。
「静まらぬかッ……」
と、幾島は怒鳴ると、
「そうならぬように、天璋院様は総攻撃中止の嘆願をされるのじゃ」
「今はとにかく、西郷を止めねば……」
そこへ足音が聞こえ、天璋院が訝しそうに廊下のほうを窺うと、明らかに不機嫌な顔をした本寿院が、法好院を従えて入ってきた。
「母上様、如何されました?」
「如何も何もないものじゃ。薩長の侍共が武力をもって江戸を責める支度をしているというではないか。しかも指揮を執るのは、薩摩の者とか。天璋院殿、同じ薩摩の者として、よもや薩長に加勢するわけではあるまいな?」
一方的に本寿院は、天璋院を責め立てた。
「本寿院様、何をおっしゃられます……」
「私は天璋院殿に聞いておるッ」
幾島は咄嗟に反論するが、本寿院の剣幕に気圧されてしまった。
「確かに私は、元は薩摩島津(しまづ)家の出。養父・島津斉彬(なりあきら)公より、亡き家定公に将軍継嗣において一橋慶喜公を推挙するよう密命を受け、この徳川に嫁いでまいりました。島津家、いえ薩摩の間者と思われても致し方のないこと。されど、家定(いえさだ)公の御台所となって、私は徳川の人間として生きることを選びました。今になって、薩摩の肩を持つなど、考えにも及びませぬ」
しかし本寿院は鼻で笑って、
「口では何とでも言える。いかなる立場であれ、薩摩から嫁いで来た身に変わりはない。徳川に嫁いだと言うのであれば、姿で見せていただかなくては。天璋院殿に、薩摩への想いが無いと申されるのであれば」
天璋院は、返す言葉もなくじっと本寿院を見つめた。天璋院を見下すように睨むと、本寿院はそそくさと去っていき、
「本寿院様……」
と、法好院は一同に平伏すると、慌てて本寿院の後を追っていった。幾島は立ち上がって本寿院たちの姿を確認すると、忌々しい怒りの顔を露わにし、天璋院の前に改めて着座すると、
「天璋院様、本寿院様の言われよう、あまりと言えばあまりではございませぬか。幾島、口惜しゅうございます……」
しかし天璋院は冷静に、
「言わせたい時に言わせておくのが良い。母上様も、気が立っておられるのじゃ。当たりたくても当たり散らす先が無い故、その矛先が私に向いただけのこと」
「薩摩へは、どのように……」
ませが尋ねると、 天璋院は覚悟の眼差しをして、
「嘆願書じゃ。まずは、薩長軍に我らの気持ちを分かってもらわねばならぬ」

その夜、長局(ながつぼね)の自身の部屋で、村瀬は筆を取り、夜な夜な何かを書き記していた。