数日後。
光乃は布包みを抱え、八条家の門の前に立っていた。風呂敷の中には、おしろいや紅などが詰まっている。
(うはぁ……)
あの清一郎の家だと思うと、つい気が重くなる。しかし長年世話になっている大嶽家のお使いを断るわけにもいかない。『おおだけ屋』は品揃えが良いと評判で、華族から注文を受けて光乃が届けに行くこともしばしばだった。
「ごめんくださーい」
『おおだけ屋』の使いだと名乗ると、門衛はあっさりと邸内へ招き入れてくれた。これまでの信頼の積み重ねあってのことだ。
(どこに持ってけばいいんだろう?)
中へどうぞ、と言われても受け取り手が見つからない。
(誰か出て来てくれないかな)
「ごめんくださーい」
人影を求め、声を上げつつ裏手へ回る。そこの縁側を見て、光乃はぎょっとなった。
(え? 危なくない?)
どうやら陶磁器の虫干しをしているようだ。だが並べ方がどうにも雑で、特に端に置いてある大皿など少し力が加われば、縁側から落ちてしまうだろう。
(新人の使用人がやったのかな)
大皿の縁の一部は敷居にかかっている。引き戸を開ければ縁側から大皿が押し出されるのは間違いなかった。
(誰かがここを開けてしまう前に、教えてあげた方がいいよね?)
人が出てこないかと、光乃は辺りをきょろきょろと見回す。
だがその時、低い地響きが聞こえた。
(え?)
続けて足元へ、ずん!と突きあげるような衝撃が加わる。
(地震!)
よたついた光乃の手から、包みが飛び出した。それは地に落ちる前に、大皿の端を掠める。
(あっ!)
縁側から大皿が滑り落ちる。光乃は懸命に手を伸ばしたが、虚しくも大皿は地に落ち、派手な音を立てて割れてしまった。
(お皿!)
「何の音だ!」
間もなく、清一郎が引き戸から顔を出す。
「せ、清一郎……」
「日吉光乃、貴様なぜそんなところに……」
清一郎の言葉がそこで止まった。
そして光乃の足元で割れている皿を見て、目を見開いた。
「家宝の皿!」
慌てた様子で陶磁器の並ぶ縁側をまたぎ越し、清一郎は裸足のまま庭へ飛び出してくる。破片を拾い上げわなわなと震えていたが、やがて清一郎はキッと光乃を睨みつけた。
「どうしてくれる!」
清一郎の顔は、尋常でなく青ざめていた。
「これは我が八条家のご先祖が功績を上げ、その証に帝より賜った家宝の皿だぞ。それを、それをこんな……!」
「ご、ごめん。でも話を聞いてよ、清一郎……」
「なんということを、なんということを……!」
「そ、それは元々落ちそうな場所に置いてあったんだよ? 私の荷物が当たったのは確かだけど……」
清一郎のただならぬ様子に、光乃の全身からも血の気が引く。
「それにもし地震が起きてなくても、今みたいに清一郎が引き戸を開けたら同じ結果になっていたはず。だってお皿は……」
「うるさい! うるさい、黙れ!」
清一郎が金切り声を上げる。やがてぽとりと破片を取り落とすと、清一郎はその場に崩れ落ちた。
「あ、あの……」
不可抗力だったとはいえ、とんでもないものを壊してしまったことを理解した光乃は、せめてもの歩み寄りを試みる。
「い、いくらくらいになるのかな。その、弁償するとなると……」
「……」
清一郎はうなだれたまま、黙っている。当然だ。先祖が帝から賜った年代物の家宝が、金銭で解決できるはずもない。
「あの、ごめん。私、一生かかっても払うから、その……」
「……んえんだ」
「え?」
清一郎が、前髪の間から険しい眼差しを光乃へ向けた。
「一万円だ。さぁ、払えよ」
「それは……」
「払うと言っただろ。さぁ、今すぐ出せよ!」
「すぐには無理だって。でも、一生かけて償いはするから……」
清一郎が勢いよく立ち上がった。つかつかと近づき光乃の肩を乱暴に掴むと、そのまま壁へぐいと押し付けた。
「痛っ……」
「払えないか。払えないんだな?」
「だって」
「なら、貴様は今日から僕のものだ!」
野獣のような目をした清一郎の気迫に、光乃は息を飲む。
「……え」
「貴様は今日から、僕の使用人だ。一生タダ働きで朝から晩までこき使ってやるからな! 僕の命令には必ず従ってもらう!」
清一郎の瞳の奥に、昏い感情が揺らめく。
「……どんな屈辱的な命令にもだ」
光乃の肌が粟立つ。酷く良からぬものが、その言葉の奥に潜んでいるのを感じ取った。清一郎を怖いと思ったのは、これが初めてだった。
(一生、清一郎に縛り付けられる? しかも清一郎の命令は絶対? そんなの嫌だ)
かといって、大嶽家に泣きつくわけにもいかない。正宗に相談すれば、恐らく手を貸してくれるだろう。けれど身寄りのない自分を引き取ってくれた上、大切に育ててくれた大嶽家へ、これ以上の迷惑はかけたくなかった。
(だけど、一万円なんて……)
その時、光乃の脳裏をあのチラシが掠めた。
『優勝せし者には賞金一万円』
「……少しだけ、待って」
「は?」
光乃は肩にめり込む清一郎の指を、強引に引き剥がす。
「一万円、払う。あの剣術大会で優勝して」
「ふざけるな! 貴様ごときにそんなことが……」
清一郎の怒鳴り声がそこで止まる。光乃の勝気な双眸は凛とした光をたたえ、清一郎を睨み返していた。
気圧された清一郎は、よろよろと後じさり光乃から離れる。光乃は足元に落ちていたお届け物の包みを拾い上げると清一郎へ押し付け、深々と一礼した後に八条家を後にした。
光乃は布包みを抱え、八条家の門の前に立っていた。風呂敷の中には、おしろいや紅などが詰まっている。
(うはぁ……)
あの清一郎の家だと思うと、つい気が重くなる。しかし長年世話になっている大嶽家のお使いを断るわけにもいかない。『おおだけ屋』は品揃えが良いと評判で、華族から注文を受けて光乃が届けに行くこともしばしばだった。
「ごめんくださーい」
『おおだけ屋』の使いだと名乗ると、門衛はあっさりと邸内へ招き入れてくれた。これまでの信頼の積み重ねあってのことだ。
(どこに持ってけばいいんだろう?)
中へどうぞ、と言われても受け取り手が見つからない。
(誰か出て来てくれないかな)
「ごめんくださーい」
人影を求め、声を上げつつ裏手へ回る。そこの縁側を見て、光乃はぎょっとなった。
(え? 危なくない?)
どうやら陶磁器の虫干しをしているようだ。だが並べ方がどうにも雑で、特に端に置いてある大皿など少し力が加われば、縁側から落ちてしまうだろう。
(新人の使用人がやったのかな)
大皿の縁の一部は敷居にかかっている。引き戸を開ければ縁側から大皿が押し出されるのは間違いなかった。
(誰かがここを開けてしまう前に、教えてあげた方がいいよね?)
人が出てこないかと、光乃は辺りをきょろきょろと見回す。
だがその時、低い地響きが聞こえた。
(え?)
続けて足元へ、ずん!と突きあげるような衝撃が加わる。
(地震!)
よたついた光乃の手から、包みが飛び出した。それは地に落ちる前に、大皿の端を掠める。
(あっ!)
縁側から大皿が滑り落ちる。光乃は懸命に手を伸ばしたが、虚しくも大皿は地に落ち、派手な音を立てて割れてしまった。
(お皿!)
「何の音だ!」
間もなく、清一郎が引き戸から顔を出す。
「せ、清一郎……」
「日吉光乃、貴様なぜそんなところに……」
清一郎の言葉がそこで止まった。
そして光乃の足元で割れている皿を見て、目を見開いた。
「家宝の皿!」
慌てた様子で陶磁器の並ぶ縁側をまたぎ越し、清一郎は裸足のまま庭へ飛び出してくる。破片を拾い上げわなわなと震えていたが、やがて清一郎はキッと光乃を睨みつけた。
「どうしてくれる!」
清一郎の顔は、尋常でなく青ざめていた。
「これは我が八条家のご先祖が功績を上げ、その証に帝より賜った家宝の皿だぞ。それを、それをこんな……!」
「ご、ごめん。でも話を聞いてよ、清一郎……」
「なんということを、なんということを……!」
「そ、それは元々落ちそうな場所に置いてあったんだよ? 私の荷物が当たったのは確かだけど……」
清一郎のただならぬ様子に、光乃の全身からも血の気が引く。
「それにもし地震が起きてなくても、今みたいに清一郎が引き戸を開けたら同じ結果になっていたはず。だってお皿は……」
「うるさい! うるさい、黙れ!」
清一郎が金切り声を上げる。やがてぽとりと破片を取り落とすと、清一郎はその場に崩れ落ちた。
「あ、あの……」
不可抗力だったとはいえ、とんでもないものを壊してしまったことを理解した光乃は、せめてもの歩み寄りを試みる。
「い、いくらくらいになるのかな。その、弁償するとなると……」
「……」
清一郎はうなだれたまま、黙っている。当然だ。先祖が帝から賜った年代物の家宝が、金銭で解決できるはずもない。
「あの、ごめん。私、一生かかっても払うから、その……」
「……んえんだ」
「え?」
清一郎が、前髪の間から険しい眼差しを光乃へ向けた。
「一万円だ。さぁ、払えよ」
「それは……」
「払うと言っただろ。さぁ、今すぐ出せよ!」
「すぐには無理だって。でも、一生かけて償いはするから……」
清一郎が勢いよく立ち上がった。つかつかと近づき光乃の肩を乱暴に掴むと、そのまま壁へぐいと押し付けた。
「痛っ……」
「払えないか。払えないんだな?」
「だって」
「なら、貴様は今日から僕のものだ!」
野獣のような目をした清一郎の気迫に、光乃は息を飲む。
「……え」
「貴様は今日から、僕の使用人だ。一生タダ働きで朝から晩までこき使ってやるからな! 僕の命令には必ず従ってもらう!」
清一郎の瞳の奥に、昏い感情が揺らめく。
「……どんな屈辱的な命令にもだ」
光乃の肌が粟立つ。酷く良からぬものが、その言葉の奥に潜んでいるのを感じ取った。清一郎を怖いと思ったのは、これが初めてだった。
(一生、清一郎に縛り付けられる? しかも清一郎の命令は絶対? そんなの嫌だ)
かといって、大嶽家に泣きつくわけにもいかない。正宗に相談すれば、恐らく手を貸してくれるだろう。けれど身寄りのない自分を引き取ってくれた上、大切に育ててくれた大嶽家へ、これ以上の迷惑はかけたくなかった。
(だけど、一万円なんて……)
その時、光乃の脳裏をあのチラシが掠めた。
『優勝せし者には賞金一万円』
「……少しだけ、待って」
「は?」
光乃は肩にめり込む清一郎の指を、強引に引き剥がす。
「一万円、払う。あの剣術大会で優勝して」
「ふざけるな! 貴様ごときにそんなことが……」
清一郎の怒鳴り声がそこで止まる。光乃の勝気な双眸は凛とした光をたたえ、清一郎を睨み返していた。
気圧された清一郎は、よろよろと後じさり光乃から離れる。光乃は足元に落ちていたお届け物の包みを拾い上げると清一郎へ押し付け、深々と一礼した後に八条家を後にした。