光乃が正宗に連れられて行った先は、町の剣術道場だった。正宗が幼い頃から週に三度通っている場所で、初めはお供として同行していた光乃もいつしかここで共に鍛錬するようになっていた。小柄な少女が対戦相手の男たちを打ち破っていく様子は、兄貴分である正宗にとって大変小気味良かった。
のだが。
「……なんか今日、女多くね?」
(確かに)
室内に飛び交う、高めのトーンの掛け声。初心者丸出しの不安定な姿勢。いつもの道場のいつもと違う様子に、光乃と正宗は面食らう。
(普段なら、女は私しかいないのに)
立ちすくむ二人の元へ、師範代が歩み寄ってきた。
「これだよ」
師範代が手渡してきたチラシを受け取り、二人は覗き込む。
そこには、戒籠寺侯爵家主催の『武闘会』が数日後に行われることが告知されていた。
(武闘会? 舞踏会じゃなくて?)
『勝敗は剣術にて決する』
(間違いない、武闘会だ)
「へー、優勝せし者には賞金一万円……、いちまんえん!?」
正宗が素っ頓狂な声を上げる。大卒の男の初任給が五十円のご時世だ。一万円といえば、その二百倍になる。
「おいおいおい、本気かこれ!? 出るわ、俺!」
「落ち着いて正宗」
食いつかんばかりの正宗の顎を、光乃は下から軽く拳で叩き上げる。
「あだっ! 何すんだ、光乃」
「正宗、ほらここ。『女人に限る』って書いてる」
光乃の細い指が指し示す先を、正宗は凝視する。
「なんでだよ、剣術大会だろ? 俺にも出場させろよ!」
「それから、優勝者には戒籠寺朔哉様の妻の座が与えられるってさ」
「なんじゃそりゃあ!」
正宗が頭を掻く。
「戒籠寺朔哉って、侯爵家の次期当主様だろ? めっぽうお綺麗な顔立ちの」
「うむ、相当な美男子だ。女神様すら嫉妬すると言われている」
師範代の言葉に、正宗はうんうんと唸り始める。
「う~ん、いくら美人でも男だしなぁ。……ギリいけるか? いや、やっぱり無理だ」
「悩むな、正宗」
師範代が、光乃の手からチラシを取り上げる。
「そんなわけで、この光景だよ」
「……なるほどね」
つまり、ハンサムな次期侯爵様の妻の座に収まりたい女たちが、この武闘会のために慌てて剣術を習いに来たというわけだ。
師範代が行ってしまうと、はた、と妙案を思いついたような顔つきで正宗が呟いた。
「……女装するか」
「好きにすれば?」
「止めろよ。冗談に決まってんだろ」
光乃に冷たく突き放され、ようやく正宗は正気に戻る。
「しっかし、なんでまた自分の奥方を選ぶのに剣術大会なんざ開くかねぇ」
正宗の疑問に、光乃は小首をかしげる。
「女が血みどろで戦う姿に興奮する性質|《たち》とか?」
「いや、剣術で血みどろにはならんだろ。強い女に組み敷かれたい願望でもあるのかね」
二人は顔を合わせ大笑いする。当人がいないのをいいことに、言いたい放題だ。
「ところで光乃、お前はびっくりするくらいこの大会に興味を示さないな」
「そう?」
「一万円だぞ、一万円。しかもお前は剣術を昔からやっていて有利な立場だ。普通なら、出てやろうって気にもなるだろう」
光乃は、ははと力なく笑う。
「そりゃ、お金は欲しいよ? ずっと育ててくれた大嶽家にお礼もしたいし」
「おお、殊勝な心掛けだな」
「だけどもう一つの条件が、どうしてもね」
「侯爵様の奥方になるってやつか」
光乃がコクリと頷く。
「あれさえなければ、出場したいんだけど」
「嫌なのか? 侯爵様の奥方だぞ? 玉の輿じゃねぇか」
「私、華族様の世界のこと何もわからないから」
光乃は右の三つ編みを、くりくりと弄ぶ。
「多分、肩身の狭い思いをするだけだと思うんだ。お嬢様方のお上品な趣味や話題に、ついていく自信なんてないし」
「光乃……」
大きな手が、小柄な妹分の頭を慈しむように撫でる。
「ま、それもそうだな。あぁ……」
正宗は視線を宙に彷徨わせ、一つ咳払いをする。
「嫁入りの話なら、俺がもらってやるってことでもいいし」
「え?」
「だ、だからよぉ……」
「ごめん、聞こえなかった」
遙か頭上で発せられた正宗の言葉は、小柄な光乃の頭の上を通り過ぎていた。
その時だった。
「そうだそうだ! 貴様のような平民が、華族の世界でやっていけるものか!」
背後から飛んで来た声に、光乃は顔をしかめる。
(来たよ……)
振り返った先には光乃の予想した人物が立っていた。
「八条清一郎……」
「様を付けろ、日吉光乃!」
清一郎は顎をしゃくり、ふんと鼻を鳴らす。
光乃と同い年で子爵家の嫡男である彼は、ことあるごとに光乃に突っかかってくる。学問所でも道場でも光乃に勝てなかったことに、いたくプライドを傷つけられている様子だった。やや冷たい印象を与える顔立ちだが、口さえ開かなければ子爵家令息らしい気品が漂っている。口さえ開かなければ。
「うざ。正宗、あっちの空いたところで素振りしよ」
「そうだな」
「僕を無視するな! あと、今『うざ』って言ったか?」
背を向け立ち去ろうとした光乃の前に、清一郎が回り込んでくる。
「なに?」
「言っておくがな、華族の世界はお前がのほほんと入って来れるような場所じゃないぞ」
勝ち誇ったような顔つきの清一郎に、光乃は重いため息をつく。
「だから、私はそもそも華族なんかになりたくないんだってば」
「はぁ? 我が八条家を『なんか』と侮辱したか?」
「してない」
「華族の一員に選ばれる栄誉を見下しているではないか。何がそんなに気に食わんのだ」
こいつ面倒くさい、と再び光乃の口からため息が漏れる。
「私も『侯爵様の妻になりた~い』って言えばいいの?」
「フン、自惚れるな! 貴様ごときが、華族を名乗るなどとおこがましい」
支離滅裂なことを喚く清一郎を前に、光乃の瞳からどんどんと生気が失われてゆく。見るに見かねて正宗が間に入って来た。
「そ、そう言えば清一郎殿、弟君が誕生したそうだな」
清一郎が小さく息を飲んだ。
「……あぁ」
彼の返事はやけに小さい。違和感を覚えながらも、正宗は言葉を続ける。
「これで八条家もますます栄える。いやぁ、おめでたい」
浮かない顔つきで清一郎は黙り込んだ。
(どうしたんだろう?)
光乃は訝しく思いつつ、彼の横顔を見つめた。
のだが。
「……なんか今日、女多くね?」
(確かに)
室内に飛び交う、高めのトーンの掛け声。初心者丸出しの不安定な姿勢。いつもの道場のいつもと違う様子に、光乃と正宗は面食らう。
(普段なら、女は私しかいないのに)
立ちすくむ二人の元へ、師範代が歩み寄ってきた。
「これだよ」
師範代が手渡してきたチラシを受け取り、二人は覗き込む。
そこには、戒籠寺侯爵家主催の『武闘会』が数日後に行われることが告知されていた。
(武闘会? 舞踏会じゃなくて?)
『勝敗は剣術にて決する』
(間違いない、武闘会だ)
「へー、優勝せし者には賞金一万円……、いちまんえん!?」
正宗が素っ頓狂な声を上げる。大卒の男の初任給が五十円のご時世だ。一万円といえば、その二百倍になる。
「おいおいおい、本気かこれ!? 出るわ、俺!」
「落ち着いて正宗」
食いつかんばかりの正宗の顎を、光乃は下から軽く拳で叩き上げる。
「あだっ! 何すんだ、光乃」
「正宗、ほらここ。『女人に限る』って書いてる」
光乃の細い指が指し示す先を、正宗は凝視する。
「なんでだよ、剣術大会だろ? 俺にも出場させろよ!」
「それから、優勝者には戒籠寺朔哉様の妻の座が与えられるってさ」
「なんじゃそりゃあ!」
正宗が頭を掻く。
「戒籠寺朔哉って、侯爵家の次期当主様だろ? めっぽうお綺麗な顔立ちの」
「うむ、相当な美男子だ。女神様すら嫉妬すると言われている」
師範代の言葉に、正宗はうんうんと唸り始める。
「う~ん、いくら美人でも男だしなぁ。……ギリいけるか? いや、やっぱり無理だ」
「悩むな、正宗」
師範代が、光乃の手からチラシを取り上げる。
「そんなわけで、この光景だよ」
「……なるほどね」
つまり、ハンサムな次期侯爵様の妻の座に収まりたい女たちが、この武闘会のために慌てて剣術を習いに来たというわけだ。
師範代が行ってしまうと、はた、と妙案を思いついたような顔つきで正宗が呟いた。
「……女装するか」
「好きにすれば?」
「止めろよ。冗談に決まってんだろ」
光乃に冷たく突き放され、ようやく正宗は正気に戻る。
「しっかし、なんでまた自分の奥方を選ぶのに剣術大会なんざ開くかねぇ」
正宗の疑問に、光乃は小首をかしげる。
「女が血みどろで戦う姿に興奮する性質|《たち》とか?」
「いや、剣術で血みどろにはならんだろ。強い女に組み敷かれたい願望でもあるのかね」
二人は顔を合わせ大笑いする。当人がいないのをいいことに、言いたい放題だ。
「ところで光乃、お前はびっくりするくらいこの大会に興味を示さないな」
「そう?」
「一万円だぞ、一万円。しかもお前は剣術を昔からやっていて有利な立場だ。普通なら、出てやろうって気にもなるだろう」
光乃は、ははと力なく笑う。
「そりゃ、お金は欲しいよ? ずっと育ててくれた大嶽家にお礼もしたいし」
「おお、殊勝な心掛けだな」
「だけどもう一つの条件が、どうしてもね」
「侯爵様の奥方になるってやつか」
光乃がコクリと頷く。
「あれさえなければ、出場したいんだけど」
「嫌なのか? 侯爵様の奥方だぞ? 玉の輿じゃねぇか」
「私、華族様の世界のこと何もわからないから」
光乃は右の三つ編みを、くりくりと弄ぶ。
「多分、肩身の狭い思いをするだけだと思うんだ。お嬢様方のお上品な趣味や話題に、ついていく自信なんてないし」
「光乃……」
大きな手が、小柄な妹分の頭を慈しむように撫でる。
「ま、それもそうだな。あぁ……」
正宗は視線を宙に彷徨わせ、一つ咳払いをする。
「嫁入りの話なら、俺がもらってやるってことでもいいし」
「え?」
「だ、だからよぉ……」
「ごめん、聞こえなかった」
遙か頭上で発せられた正宗の言葉は、小柄な光乃の頭の上を通り過ぎていた。
その時だった。
「そうだそうだ! 貴様のような平民が、華族の世界でやっていけるものか!」
背後から飛んで来た声に、光乃は顔をしかめる。
(来たよ……)
振り返った先には光乃の予想した人物が立っていた。
「八条清一郎……」
「様を付けろ、日吉光乃!」
清一郎は顎をしゃくり、ふんと鼻を鳴らす。
光乃と同い年で子爵家の嫡男である彼は、ことあるごとに光乃に突っかかってくる。学問所でも道場でも光乃に勝てなかったことに、いたくプライドを傷つけられている様子だった。やや冷たい印象を与える顔立ちだが、口さえ開かなければ子爵家令息らしい気品が漂っている。口さえ開かなければ。
「うざ。正宗、あっちの空いたところで素振りしよ」
「そうだな」
「僕を無視するな! あと、今『うざ』って言ったか?」
背を向け立ち去ろうとした光乃の前に、清一郎が回り込んでくる。
「なに?」
「言っておくがな、華族の世界はお前がのほほんと入って来れるような場所じゃないぞ」
勝ち誇ったような顔つきの清一郎に、光乃は重いため息をつく。
「だから、私はそもそも華族なんかになりたくないんだってば」
「はぁ? 我が八条家を『なんか』と侮辱したか?」
「してない」
「華族の一員に選ばれる栄誉を見下しているではないか。何がそんなに気に食わんのだ」
こいつ面倒くさい、と再び光乃の口からため息が漏れる。
「私も『侯爵様の妻になりた~い』って言えばいいの?」
「フン、自惚れるな! 貴様ごときが、華族を名乗るなどとおこがましい」
支離滅裂なことを喚く清一郎を前に、光乃の瞳からどんどんと生気が失われてゆく。見るに見かねて正宗が間に入って来た。
「そ、そう言えば清一郎殿、弟君が誕生したそうだな」
清一郎が小さく息を飲んだ。
「……あぁ」
彼の返事はやけに小さい。違和感を覚えながらも、正宗は言葉を続ける。
「これで八条家もますます栄える。いやぁ、おめでたい」
浮かない顔つきで清一郎は黙り込んだ。
(どうしたんだろう?)
光乃は訝しく思いつつ、彼の横顔を見つめた。