(この辺、結構しつこいな)
夕飯づくりが始まる前のわずかな空き時間、光乃は商家の台所の隅っこで鍋底をガシガシと磨いていた。洗っている最中にうっかり手で触れてしまったのか、頬にはなすったように鍋ズミがついている。磨き終え鏡のようになった面には、彼女の勝気な瞳が映り込んでいた。
「光乃さん」
背後から名を呼ばれ、光乃は顔を上げる。振り返れば、年かさの女中のトミが見知らぬ少女を伴い戸口に立っていた。
「こちら、明日からお台所で働いてもらう山中キヨさん」
キヨと呼ばれた少女が、ぴょこんと頭を下げる。
「や、山中キヨです! よろしくお願いします!」
光乃は立ち上がり、ほっかむりを取る。両耳の下できちっと結った三つ編みがぷるんと揺れる。光乃はニカッと白い歯を見せ、目を細めた。
「私は日吉光乃。明日から仕事仲間だね、キヨちゃん」
屈託なく笑う光乃に、少女は安堵する。立ち上がった光乃は小柄で、まだ子どもらしさを残したキヨとさして身長が変わらなかった。
同世代とおぼしき仲間がいることにキヨが喜色を浮かべた時だった。
「おーい、光乃! 準備できてっかー!」
入り口をふさぐほど見事な体躯の青年が、台所へずかずかと踏み込んできた。胸板は厚く、肩幅も広い。鍛え上げられた筋肉は、着物の上からでもわかるほどだ。短く刈られた髪は針金のように、天に向けて逆立っている。
鬼でも出たかとキヨはヒョッと身を縮め、光乃の後ろに隠れる。しかし光乃が動じる様子はない。
「正宗? もうそんな時刻?」
「そうだよ、俺待ってたんだぜ。いつまで経っても光乃が来ねぇからよ」
大柄な青年――正宗はひょいと身をかがめ、光乃の顔を見つめる。そして一呼吸の後、大口を開けてゲラゲラ笑い出した。
「なんだぁ、その顔! 化粧にしちゃあ、斬新過ぎやしねぇか?」
「へ? 顔?」
「あーっと、触るな触るな。ほらここ、黒いのついてる」
言いながら正宗は自分の着物の袖口で、ちょいちょいと光乃の頬をぬぐう。
「うし、きれいになった」
「あ、正宗! あんたの着物が汚れちゃったじゃない」
「この程度、別に気にするこっちゃねぇ」
「気にするよ! その着物洗うの、女中の仕事なんだからね」
ぎゃいぎゃいと言い合う二人の様子を、新人女中はぽかんと見守る。
「そんじゃトミ、光乃連れてくぜ」
「はい。行ってらっしゃいませ、お坊ちゃま」
トミの言葉に、光乃は吹き出した。
「お坊ちゃま」
「うるせぇ!」
青年の大きな手が、がしっと光乃の頭を掴む。あだだだ、と悲鳴混じりの笑い声を上げながら、光乃は青年と共に台所から出て行った。
「あのぅ……」
キヨはおずおずと先輩女中に問いかける。
「今の男の方は?」
「正宗様かい? ここ『おおだけ屋』のお坊ちゃんだよ。大嶽正宗様」
キヨが目を丸くする。
小間物問屋『おおだけ屋』は、この界隈でも結構な大店だ。それの若旦那が山賊のように荒々しい見目の男だとは、想像もしていなかった。
「そ、それで、光乃さんはお坊ちゃまとはどういったご関係で?」
「え?」
トミに聞き返され、キヨは慌てて胸の前でぱたぱたと手を振る。
「いえ、けっして下世話な勘繰りではなくて。その、女中の光乃さんが、大店の若旦那ととても親し気にされているので、どういうことかと……」
「あぁ、光乃さんは女中じゃないのさ」
トミの言葉に、キヨはまたしても目を丸くする。
「光乃さんはここ大嶽家の遠縁の娘さんでね。幼い頃に身寄りを亡くしたとかで、こちらに引き取られたんだよ。そこから、正宗坊ちゃまとはご兄妹のように育ちなすってね」
「じゃあ、どうして台所仕事なんか……」
「光乃さんが言い出したのさ。お世話になってばかりじゃ心苦しいから、働かせてほしいって。十を過ぎた辺りだったかねぇ」
トミが話し終えるのを見計らったかとのように、ぐらぐらと地面が揺れた。
「きゃあ!」
キヨが頭を抱えてしゃがみ込み、トミは反射的に火元を確認する。揺れが収まると、二人はそろそろと身を起こした。
「びっくりしました……」
「大丈夫かい」
トミは顔をしかめ、台所をぐるりと見回した。
「それにしても近ごろ地震が多いねぇ……」
夕飯づくりが始まる前のわずかな空き時間、光乃は商家の台所の隅っこで鍋底をガシガシと磨いていた。洗っている最中にうっかり手で触れてしまったのか、頬にはなすったように鍋ズミがついている。磨き終え鏡のようになった面には、彼女の勝気な瞳が映り込んでいた。
「光乃さん」
背後から名を呼ばれ、光乃は顔を上げる。振り返れば、年かさの女中のトミが見知らぬ少女を伴い戸口に立っていた。
「こちら、明日からお台所で働いてもらう山中キヨさん」
キヨと呼ばれた少女が、ぴょこんと頭を下げる。
「や、山中キヨです! よろしくお願いします!」
光乃は立ち上がり、ほっかむりを取る。両耳の下できちっと結った三つ編みがぷるんと揺れる。光乃はニカッと白い歯を見せ、目を細めた。
「私は日吉光乃。明日から仕事仲間だね、キヨちゃん」
屈託なく笑う光乃に、少女は安堵する。立ち上がった光乃は小柄で、まだ子どもらしさを残したキヨとさして身長が変わらなかった。
同世代とおぼしき仲間がいることにキヨが喜色を浮かべた時だった。
「おーい、光乃! 準備できてっかー!」
入り口をふさぐほど見事な体躯の青年が、台所へずかずかと踏み込んできた。胸板は厚く、肩幅も広い。鍛え上げられた筋肉は、着物の上からでもわかるほどだ。短く刈られた髪は針金のように、天に向けて逆立っている。
鬼でも出たかとキヨはヒョッと身を縮め、光乃の後ろに隠れる。しかし光乃が動じる様子はない。
「正宗? もうそんな時刻?」
「そうだよ、俺待ってたんだぜ。いつまで経っても光乃が来ねぇからよ」
大柄な青年――正宗はひょいと身をかがめ、光乃の顔を見つめる。そして一呼吸の後、大口を開けてゲラゲラ笑い出した。
「なんだぁ、その顔! 化粧にしちゃあ、斬新過ぎやしねぇか?」
「へ? 顔?」
「あーっと、触るな触るな。ほらここ、黒いのついてる」
言いながら正宗は自分の着物の袖口で、ちょいちょいと光乃の頬をぬぐう。
「うし、きれいになった」
「あ、正宗! あんたの着物が汚れちゃったじゃない」
「この程度、別に気にするこっちゃねぇ」
「気にするよ! その着物洗うの、女中の仕事なんだからね」
ぎゃいぎゃいと言い合う二人の様子を、新人女中はぽかんと見守る。
「そんじゃトミ、光乃連れてくぜ」
「はい。行ってらっしゃいませ、お坊ちゃま」
トミの言葉に、光乃は吹き出した。
「お坊ちゃま」
「うるせぇ!」
青年の大きな手が、がしっと光乃の頭を掴む。あだだだ、と悲鳴混じりの笑い声を上げながら、光乃は青年と共に台所から出て行った。
「あのぅ……」
キヨはおずおずと先輩女中に問いかける。
「今の男の方は?」
「正宗様かい? ここ『おおだけ屋』のお坊ちゃんだよ。大嶽正宗様」
キヨが目を丸くする。
小間物問屋『おおだけ屋』は、この界隈でも結構な大店だ。それの若旦那が山賊のように荒々しい見目の男だとは、想像もしていなかった。
「そ、それで、光乃さんはお坊ちゃまとはどういったご関係で?」
「え?」
トミに聞き返され、キヨは慌てて胸の前でぱたぱたと手を振る。
「いえ、けっして下世話な勘繰りではなくて。その、女中の光乃さんが、大店の若旦那ととても親し気にされているので、どういうことかと……」
「あぁ、光乃さんは女中じゃないのさ」
トミの言葉に、キヨはまたしても目を丸くする。
「光乃さんはここ大嶽家の遠縁の娘さんでね。幼い頃に身寄りを亡くしたとかで、こちらに引き取られたんだよ。そこから、正宗坊ちゃまとはご兄妹のように育ちなすってね」
「じゃあ、どうして台所仕事なんか……」
「光乃さんが言い出したのさ。お世話になってばかりじゃ心苦しいから、働かせてほしいって。十を過ぎた辺りだったかねぇ」
トミが話し終えるのを見計らったかとのように、ぐらぐらと地面が揺れた。
「きゃあ!」
キヨが頭を抱えてしゃがみ込み、トミは反射的に火元を確認する。揺れが収まると、二人はそろそろと身を起こした。
「びっくりしました……」
「大丈夫かい」
トミは顔をしかめ、台所をぐるりと見回した。
「それにしても近ごろ地震が多いねぇ……」