霊山瑞岳(みずたけ)の奥深く、しめ縄を張り巡らされた結界の中でその儀式は行われていた。
「お鎮まりください、龍神様!」
「どうか、どうかお鎮まりを!!」
 男たちの見上げる先には、黒い靄に全身を覆われた巨大なものがそびえ立ち蠢いていた。それは苦し気に咆哮し、身を捩じらせる。黒い塊が暴れるたびに辺りの樹々はなぎ倒され、地は抉られる。ついには鞭のようにしなる尾が、紫色の袴をつけた斎服の男たちを跳ね飛ばした。
「大丈夫か!」
 純白の装束を纏った若者が、地に伏し呻く男たちを気遣い振り返る。だが彼もまた、陶磁器のようにすべやかな頬から血を流し、その清らかな衣を汚していた。
「朔哉様、我々に構わず(おり)祓いを!」
 斎服の男たちは恐怖に震えながらも立ち上げり、曼荼羅を施した木剣を構える。中には勾玉の首飾りや、銅鏡を構えている者もいた。
『朔哉』と呼ばれた若者が頷くと、艶やかな黒髪がさらりと揺れる。星を宿したかのような瞳が目の前の黒い塊をキッと睨みつけた。
荒魂(あらみたま)よ、今お祓い申し上げる! 鎮まりたまえ!」
 朔哉は剣の柄をぐっと握りしめ、鞘を付けたままのそれを黒い巨体へと叩き付ける。
 しかし。
「えっ……」
 甘く張りのある声に、焦りが滲んだ。
「澱が祓えぬ……?」
 黒い靄を纏った丸太のようなものが、ぐわっと朔哉に迫った。
「朔哉様!」
 朔哉は後方へ飛び退り、その一撃を辛うじて避ける。そしてすぐさま俊敏に攻撃をかいくぐりつつ、黒い靄へ二度三度と剣を叩きつけた。
「なぜだ」
 殺意を漲らせ襲い掛かってくる黒い塊から跳んで距離を置き、朔哉は我が手にある剣を見下ろす。
「この剣には龍神様の澱を薙ぎ払い、荒魂を和魂(にぎみたま)へと変じる力がある筈だ。なのになぜ……!」
「朔哉様!」
 黒い塊の向こう側で銅鏡を持った男が、悲痛な声を上げた。
「澱の間から尾が見えました! 銀青色の筋がございます!」
「なんだと!?」
 朔哉は青ざめた。
「撤収!!」
 朔哉はすぐさま声を張り上げ、大きく手を振って男たちをしめ縄の外へ誘導する。
「我々の手には負えん! 皆、結界の外へ!!」
 斎服を身に着けた一団は、もんどりうってしめ縄の外へと避難する。そして彼らは即座に身を反転させると、しめ縄の内側に向かって祝詞を上げ始めた。
「朔哉様、ここは我々が食い止めます。お行きください!」
 しめ縄と紙垂にちりりと綻びが生じる。
「何か手をお考え下さい! 我々の力が尽きる前に」
 朔哉は頷き、その場を後にする。
「銀青色の筋……、まさか私の代でそれが起こるとは」
 数人の男たちと山道を駆け下りながら、朔哉は整った顔を歪ませた。