頬の腫れはある程度引いた。触ってもほとんど痛くなくなったし、鏡越しにじっと見つめて、やっと腫れていると気が付くくらいには赤みも落ち着いた。

 セシルは案の定、あの後母のところに乗り込んでいって大喧嘩をしたようで、家の中はすっかり重たい空気になっている。使用人がどうにかならないのかとフィオナの元に相談しに来たが、セシルが引くか時間が経過しないと終わらない冷戦だ。フィオナに出来ることといえばセシルにもう傷は癒えたのだとアピールすることくらいで、使用人の助けになるようなことはしてやれそうになかった。

 廊下や庭で母に出会うと、またろくな目に遭わないのは明白だ。セシルが近くにいる間か、母が出掛けている間にしか部屋から出られなくなってしまった。薬草の様子を見に行きたいのに都合よく外に出られないことばかりだが、気を遣った使用人たちが薬草の様子を見に行ってくれているから、初夏の気候で薬草が枯れたり萎れたりすることは防げそうだった。

 父も母もフィオナのことを愛していないのに、使用人たちがこちらに悪意を向けてこないのは不思議だとは思う。セシルがフィオナに冷たくしないから、使用人もその影響を受けているのかもしれないが、使用人とは親しいわけではない。仮にセシルがフィオナに冷たければ、彼等もまた同じように冷たく接してくるのだと思う。
 ただ、幸いセシルとフィオナを囲む使用人の人柄は良いようだ。フィオナのことを仕事以上の関係に思っていないにしろ、今のところは冷たくされることはなかった。

「フィオナ様、フィオナ様」

 そんな使用人たちが顔を青くしているときは、大抵何かある。大方母の機嫌が悪いか、セシルに何か悪いことが起きたかのどちらかだ。
 今母は出掛けているし、セシルも課外授業のために学園にいるはずだ。嫌な予感に身を強張らせると、使用人がそうではないのだと首を振る。

「来客なのです。フィオナ様に会いたいと」

 来客。そんなの初めてだ。そもそもフィオナの存在を知る者など、屋敷の外にいるはずがないのに。
 使用人が青くもなるはずだ。こんなこと、あってはならないはずだから。

「ねえ、その人は、何て人なの」
「メアリ・ルベライトと名乗っております。セシル様のご学友だそうで」
「その名前、セシルに付きまとっている子と同じだわ」

 付きまとっている、という響きに使用人はわずかに顔をしかめた。

「フィオナ様のことを、なぜ彼女は知っているのでしょうか」

 セシルが話したか、彼女が他の方法で探りを入れたのか。今は判断がつかないけれど、セシルにしつこく付きまとっている相手だということが気になる。彼女がここに来た理由は分からないが、セシルが無関係ではないことは確かだろう。

「会ったら、お母様に怒られるわ」

 使用人は困った顔をして頷いた。それから母には黙っておいて、セシルにだけ伝えればいいのではないかと提案してくれた。

「何かあってもセシル様が何とかしてくれますよ」

 いい加減なこと言わないで。そう言いたい気持ちはあったが、頼みの綱がセシルだけなのは事実だった。それに、断って事が大きくなる方が困る。

 ストーカーは下手にあしらうと悪化することがあると聞く。それに彼女がフィオナを知っているということは、我が家が抱えている秘密を知っているかもしれないのだ。ここで拒絶して、セシルにより付きまとうようになったり、秘密をばらされてしまったりすれば、この家が保っている体裁が崩れ去りかねない。
 見栄や体裁を非常に気にする両親にとって、たった一人の息子が不完全な存在であると周囲に知られることは耐え難いはずだ。フィオナが打たれるだけならともかく、セシルにも火の粉が降りかるのは避けたい。

 逃げ出したいのは山々だが、ここは腹を括るしかないのだろう。話したことがある人間なんて家族と使用人くらいだけれど、セシルの生活は守らなくてはならない。上っ面だけでもなんとか繕わなければ。

 セシルが早く帰ってきてくれたらいいのに、と思いつつも急いで身支度をする。フィオナが自分で選んだ服も装飾品も一つもなかったことに今更気が付くが、セシルが何かと理由をつけてプレゼントしてくれていたおかげで、綺麗に着飾ることはできた。

「お待たせいたしました」
「いえ。こちらこそ急に申し訳ありませんでした」

 客間で待っていた女性は、セシルに聞かされていたよりもずっと美人だった。顔立ちが整っているだけでなく、華があって、どこか儚くて。なんだか守ってあげたくなるような、そんな雰囲気のある人だった。
 メアリが立ち上がり、優雅な動作でお辞儀をする。ふわりと広がったピンク色のスカートが可愛らしい。

「弟がいつもお世話になっております。フィオナと申します」

 先ほど使用人たちに挨拶の作法を確認してもらってはきたが、こうして丁寧にお辞儀をするのだって久しい。手が震えていると気が付かれないように祈るばかりだ。

 セシルが帰ってきた後に食べようと思っていたお菓子を出し、紅茶を用意させ、急ごしらえのお茶会を始める。
 使用人には近くにいてはもらっているが、出来るだけ口を出さないように頼んでおいた。これからはフィオナとメアリの時間だ。

「急にいらしたのには訳があるのでしょう。如何なさいましたか」

 こういったお茶会は世間話から始めるのが普通なのだろうが、残念ながら他愛ない話が思いつかなかった。本題を切り出せば、メアリはほんのわずかに表情を変えた。一瞬口元がつり上がったのには、気が付かなかったふりをした。

「直球ですのね」
「ええ」
「それでは私も率直に申し上げますわ。貴女、セシル様から離れていただけません?」

 彼女の言葉がどこかに通り抜けた。セシルと離れるなんて。どうして、どうやって。
 呆然としているフィオナを、メアリは笑ってみている。楽しんでいるのだと分かる表情だった。

「実は私、『聖女』なのです」
「聖女って、あの」
「その通りですわ。セシル様に魔力を与えることができるのは、貴女だけではないということですの」

 ああ、そういうことか。メアリは全部知っているのだ。セシルがフィオナから命を与えられていることも、そのためにフィオナが生きていることも。それが分かっているから、わざわざ両親もセシルもいない時を狙って、フィオナを引き出すような真似をしたのだ。

「あの子が私に生かされているって、どうやって知ったの」
「セシル様から教えて頂いた、以外にあり得るとお思いですの?」

 メアリは優雅に笑みを浮かべているが、目元に浮かぶのは違うものだ。優越感、蔑み。そういった類のものだろうか。母から向けられるものよりも、ずっと性質が悪い。

「セシルはそんなことしないわ」

 紅茶のカップに指先を伸ばして、やめた。手が震えているのが知られてしまう。

「セシル様と私、恋仲ですの。秘密を話していてもおかしくはないでしょう」
「恋仲なんて、そんな」
「あら、セシル様をとられたとでも思っていますの? 双子の姉なのに?」
「違うわ、違う」

 フィオナが首を振ると、彼女は一層口の端を吊り上げた。

「ならあなたの立場、私に下さいな」

 セシルに魔力を与えるのは一人で十分。彼女は確かにそう言った。

「あなた、もう要らないのよ」

 どくりと心臓が音を立てる。ふっと身体中の血が湧き立っていって、目の前が暗くなった。咄嗟に机に手をつくと、食器ががちゃりと音を立てた。

「でも、セシルは」

 彼なら、フィオナを要らないなんて言わないはず。必要としてくれるはず。だって、セシルは、そういう子だから。

「セシル様もいずれ気が付くわ。いくら生きるためとはいえ、実の姉にべたべたくっつくなんて気持ち悪いでしょう」

 気持ち悪い。おかしいとは思っていた関係だが、いざはっきり言われてしまうと、胸を刺すような痛みがあった。指先が急速に冷えていって、身体中の血が凍ってしまったようなのに、心臓だけは妙に煩く音を立てる。

「可哀そうなセシル様。いつもあなたのご機嫌取りさせられて」
「そんなつもりじゃ」
「あなたがセシル様から離れてくれさえすればいいのよ。セシル様は私が支えるわ」

 それがセシル様のためなの。彼女にきっぱりと言われて、心の奥に仕舞いこんでいた何かが、ぱきりと大きな音を立てた。その何かが粉々に砕けて、散らばっていく。
 真っ暗だ。何も、見えない。

「やめて」

 セシルからも必要とされなくなったら、私は本当に要らない子になってしまう。
 父にも母にも疎まれている。生まなければ良かったとすら思われている。セシルしか、愛してくれないのに。

「もう、嫌。帰ってちょうだい」

 俯き、唇を噛む。久々に流した涙が口に入って気持ち悪い。
 ああ、気持ち悪いのか。自分とセシルの関係は、気持ち悪いのか。

「早く帰って」

 半ば怒鳴るように言うと、彼女はやれやれと肩をすくめた。そうして優雅に立ち上がり、フィオナに向けた悪意などなかったかのように去っていった。
 使用人が青い顔をして寄ってきたが、「一人にさせてほしい」としか返せなかった。