――蜘蛛に貫かれたはずの空哉くんの傷は、跡形もなく消えていた。
私が放った『解』の力により、癒やされたのだという。
それでも体力の消耗が激しかったため、病院へ連れて行こうとしたけれど、経緯を医師に説明するのが厄介だからと拒絶されてしまった。
かと言ってフラフラな空哉くんを放っておくわけにもいかず、とりあえず私は、自分の家に匿うことにした。
そうして、あっという間に二週間が過ぎ――
「――はぁー美味しかった。ご馳走様でした!」
夕飯を食べ終えた空哉くんが、元気に手を合わせる。
彼は、すっかり居候と化していた。
体調は回復したものの、半年も放置していた彼の家と神社は劣化が激しく、水道も電気も止まっていた。
彼は「野宿よりはマシ」と言ってインフラの止まった家に戻ろうとしたが、こうなったのも私の元カレに原因があるわけだし、生活が安定するまではうちに住むようにと引き留めたのだ。
ちなみに、シロは悪霊の見張りも兼ねてベランダにいる。口の悪いカラスだと思っていたが、このシロこそが空哉くんの神社で祀られている天辞代命という神様なのだそうだ。私の前に彼らが現れたのも、元に戻った筆の気配をシロが察知したかららしい。
「やっぱ海花さんの作る料理は最高です……お腹の中が幸せでいっぱいだぁ」
可愛い顔を綻ばせ、お腹を摩る空哉くん。
すっかり気を許している彼に、私は微笑みながら首を振る。
「空哉くんの料理も美味しいよ? 私が仕事の日はいつも作ってくれて、本当に助かってる」
「そんな、海花さんに受けた恩を考えたら全然足りないです。あんな危険な目に遭わせたのに、ここまでしてもらって……本当に、何とお礼を言えばいいか」
と、申し訳なさそうに俯く。
それに私は、やはり首を振る。
「ううん、お礼を言いたいのは私の方。あの時、自分の本心を解放していなかったら……私は今も、元カレのことを引きずっていたはずだから」
……そう。
『解』の力を発動し、元カレへの想いを解き放つことができた私は、清々しい気持ちで日々を過ごしていた。
元々私は、自分の気持ちを表に出すのが苦手だった。
不満や悩みがあっても、ぐっと飲み込んで我慢するような性格で……だからこそ、元カレとは上手くいかなかった。
あのような強制本音解放イベントがなければ、悲しみも虚しさも、腐るまで心の奥底にしまい込んでいたことだろう。
あれ以来、嘘みたいに心が軽い。
これからは本音を上手く伝えられる人間になりたいな、なんて、少し前までの私には考えられないことを思うようになった。
だから、そのきっかけをくれた空哉くんには本当に感謝していた。『解』の言霊を持つ者として、悪霊化した言霊を封印する彼の仕事を今後も手伝っていくつもりだ。
「それに……空哉くんみたいに可愛くて明るい子が家に居てくれると、仕事で疲れた心がすごーく癒されるしね。あ、変な意味じゃなくてね?」
と、私は慌てて付け加える。
聞けば、空哉くんは二十三歳。いくら失恋したてでも、四つも年下の子とどうこうなる気はさらさらない。あくまで私は『保護者』として接していくつもりだ。
すると、空哉くんは照れたように笑い、
「俺も正直なところ、海花さんの側にいるのが心地良くて……自分の家に帰るのが惜しいなぁ、なんて思っていたりします」
「あはは、でしょ? 元カレにも言われたもん。お前はオカンみたいだからドキドキしない、って。落ち着くならずっと居てくれてもいいんだよ? 第二の実家だと思ってさ」
なんて、それこそオカンみたいに手をパタパタさせて言うと……空哉くんは、いつになく真剣な目をして、
「……それ、間に受けてもいいですか?」
低い声で、そんなことを言った。
軽口で返されると思っていた私は、「へっ?」と間抜けな声を上げる。
「そんなこと言われたら、俺……本当に帰らないですけど」
いつもと違う声。いつもと違う表情。
突然変わった雰囲気に戸惑っていると、空哉くんは私の手を取り……それを、彼の胸へと当てた。
「……わかりますか? 俺、海花さんといると落ち着くけど……ドキドキもしています」
囁くように言う彼の目は、『年下の男の子』ではなく……
完全に、『一人の男性』の目で。
「元カレさんが何て言ったかは知りませんが……俺にとって海花さんは、誠実で可愛らしい、素敵な女性です。ずっと一緒にいたいと思えるくらいに」
それって、つまり……
こんな私を、恋愛対象として見てくれているってこと……?
「海花さん……俺…………」
心臓が、彼の鼓動につられるように加速する。
恥ずかしいような、信じられないような気持ちで、私は顔が赤らむのを自覚しながら、唇を噛み締めた。
すると……
突然、空哉くんは我に返ったように顔を赤らめ、私の手をバッと離し、
「す、すみません……皿洗いしてきます!!」
食器をひったくるように回収し、キッチンへ駆けて行った。
その後ろ姿を眺め、暫し呆然としていると、
「やれやれ、空哉は初心だなー。お前、年上なんだから、しっかりリードしてやれよ」
と、カラスのシロが、ベランダから面白がるように言ってきた。
「え……リードって、何を?」
「夫婦にまつわるアレコレに決まってんだろ? 俺としては、神社の存続のためにもちゃっちゃと跡継ぎをこさえて欲しいところだぜ」
「めおと……跡継ぎ?!」
「いやぁー、空哉もついに結婚かぁー。神前式の御用命は当御玉神社まで。ま、縁結びは専門外だけどな。ぐわははは!」
なんて、面白くない神ジョークをかますシロ。
私はすっかりのぼせてしまい、ツッコむことも窘めることもできず……
「え…………えぇぇっ!?」
何かが始まりそうな予感に、熱くなった頬を、ぺちっと押さえるのだった。