私は目を見開き、震える指でその異形を差す。

「で、ででで、でっかい蜘蛛……?!」
「あれが悪霊化した『結』の言霊です。筆の気配に気付いて、先手を打ちに来たのでしょう……!」

 あの巨大な蜘蛛が、悪霊?!
 現実離れした光景に後退りをすると、カラスのシロが「おっと」と羽を広げる。

「逃げようったって無駄だぜ。ここは『結』が張った結界の中。現実とは似て非なる場所だ。逃げ場なんてない」
「じゃあどうしろっていうの!? あんな化物と……!」
「戦います!」

 私のセリフを継ぐように、空哉くんが言う。

「筆が元に戻った今なら、アイツを封じることができる。シロ!」
「おうよ!」

 空哉くんの掛け声に、シロがバサッと飛び立つ。
 そして――


「――顕現せよ、『倭玉神名字鏡(わぎょくしんめいじきょう)』! これより封印の儀を始める!」


 叫んだ。
 すると、シロの翼から長い巻き物のようなものが現れ、空哉くんの身体にぐるりと巻き付いた。
 直後、彼の全身がパァッと光り、巻き物がシュルシュルと巻き取られ……

 光の中から、袴のような装束に変わった空哉くんが現れた。

 袴と言っても、かなり現代風にアレンジされたデザインだ。襷掛けのように縛られた袖は半袖だし、裾も膝下までしか丈がない。
 首や手足には数珠のような宝飾が施され、よく見ると髪も少し伸びている。文字通り、"変身"だった。

 その変わり様に、私は幼い頃にアニメで見た魔法少女を思い出す。彼の場合は少年……いや、青年なのだけれど。
 そんな感想を抱きながら唖然としていると、空哉くんが筆を構え、

「ここで、ケリをつける!」

 と、やはり魔法少女さながらの使命感に満ちた表情で、巨大蜘蛛目がけ駆け出した。

 空哉くんが筆を振るうと、その先端から墨色のビームが刃状を成して放たれた。
 ビームは素早く飛んで行き、蜘蛛の脚に命中する……と、綱がブツッと千切れたような跡を残し、脚が斬れた。蜘蛛の身体は、無数の糸が絡み合って出来ているようだ。

 その不気味さに息を飲んでいると、蜘蛛が反撃と言わんばかりに腹部から糸を吐いた。
 突き刺すような勢いで放たれるその糸の束を、空哉くんはひらりと跳躍し、躱す。

 空哉くんが筆で攻撃し、蜘蛛が糸で反撃する――

 そんな激しい攻防を、私はオロオロと見ていることしかできなかった。
 決定打になる攻撃がなかなか当たらず、空哉くんの顔に疲労が滲み始める。

(どうしよう……私に何かできることは……)

 拳を握り、彼の力になりたいと願った、その時。

 ――ぱぁあ……っ!

 私の身体から、淡い光が放たれた。
 何が起きているのかわからず、鍋つかみと軍手を脱ぎ、手のひらを見つめる。と……

 ――シャッ!

 巨大蜘蛛が、私に向けて鋭利な糸を吐き出した!

 眼前に迫る、針金のような糸の束。
 避けなきゃ。そう思うのに、身体が動かない。

「……っ」

 痛みを覚悟し、反射的に目を瞑った……直後。

「くっ……」

 苦しげな声が上がる。
 が、それは私のものではない。

 恐る恐る瞼を開けると、目の前には……
 私を庇うように手を広げ、脇腹から血を流す空哉くんがいた。

「……空哉くん!!」

 顔を歪ませる彼に駆け寄ろうとするが、私の手が届く前に、蜘蛛の糸が彼の身体を絡め取った。

 ぐるぐる巻きにされた空哉くんは、そのまま糸に引き寄せられ……
 鋭い牙を向く蜘蛛の口元へと運ばれた。

「まさか……食べるつもり?!」

 先ほどの負傷が響いているのか、空哉くんは苦悶の表情を浮かべたまま動かない。
 どうしよう……このままじゃ彼が……!

「おい、女!」

 その時、シロがこちらに飛んで来た。

「早く『解』の力を解放しろ! 空哉を縛る糸を解くんだ!」
「でも、そんなのどうやって……!」
「心を解き放て! 心の底にある感情を解放するんだ!!」

 感情を、解き放つ……
 そう言われても、どうすれば良いのかわからない。
 そうこうしている間にも、空哉くんはジリジリと蜘蛛の口に近付いてゆく。

「何やってんだ、早くしろ!」

 響き渡るシロの怒号。
 私の頭が、焦りと混乱にから回る。


 嗚呼、どうしてこんなことに?
 今日は散々だ。付き合って半年の記念日だったのに。

 楽しみにしていた有休は、彼の私物の片付けに消え。
 思い出の傘を、自らの手で解体することになって。
 そしたら、それがいきなり筆になって。
 しかもあの傘は、彼が盗んだもので。
 あれよあれよという間に、こんなことに巻き込まれた。

「……なんなのよ、もう」

 悲しみが、虚しさが、胸の奥でぐらぐらと湧き上がる。

「ただ真面目に、誠実に生きているだけなのに……どうして上手くいかないの?」

 そして……
 ずっと秘めていた元カレへの想いが、一気に溢れ出した。

「ドキドキしないって何よ……オカンみたいって何? 全部私のせいみたいな言い方して……あんただってねぇ、いい歳して自分の服も洗濯できないし、ご飯粒は残すし、『急な飲み会が入った』とか言って連絡つかないことが何度もあったし!」

 まるで、水風船を割ったかのように噴き出す感情。
 目の前では、シロがあんぐりと嘴を開けている。

「あれ、絶対に浮気してたよね!? どうせ私の時みたいにコンパで女の子に声かけて、そのままお持ち帰りしてたんだ! 私をフッたのもそっちが本命になったからでしょ?! ていうか、傘盗むなんて信じらんない! せっかく思い出の傘だったのに……っ」

 ぽろっ……と。
 溢れる感情が、涙へと変わる。

「本当に最低っ……だけど…………好きだった……楽しいことも、いっぱいあった……っ」

 身体が、再び光を放ち始める。
 私は涙を拭うのも忘れ、色を失った空に向かって、


「本当は、別れたくなかったっ……まだ一緒にいたかったよぉっ……うわぁああんっ……!」


 ……と、心のままに叫んだ。
 刹那。


 ――カッ!!


 私の全身が、強く発光した。
 
 光は瞬く間に周囲を照らし――空哉くんを縛る糸を、はらりと(ほど)いた。
 それどころか、蜘蛛の身体までもが、毛糸玉を(ほぐ)すように脚先から形を失ってゆく。

 これが、『解』の言霊の力……?

 光る両手を見つめ唖然としていると、拘束を解かれた空哉くんの元にシロが飛んで行く。

「空哉、今だ!」

 空哉くんは痛みを堪えるように立ち上がり、筆を構える。そして、


「――我、天辞代命(あめのことしろのみこと)の名の下に、『結』を司りし言霊をここに封じる!」


 叫んだ。
 すると、変身した時に現れた巻き物が再び出現した。

 浮遊するその巻き物に、空哉くんが筆を振るい、『結』の字を記す。
 筆により描かれた『結』の字は、白い光を放ち……
 
 解けた蜘蛛の巨体を、しゅるりと吸い込んだ。


 ――直後、周囲の景色に色が戻った。
 ゴミ収集車が発進する、ブロロという音が響く。

 私は、急に夢から覚めたように呆然とするが……

「おい、空哉! しっかりしろ!」

 響き渡るシロの声に、ハッとなる。
 そこには、元のパーカー姿に戻った空哉くんが、力なく倒れていた。