その日から、ハロルド陛下はずっと不機嫌だった。マリアローズは時々首を傾げたが、何故機嫌が悪いのかさっぱり分からない。

 クラウドの案内をはじめて五日が経過してある日、マリアローズはハロルド陛下から呼び出された。本日も不機嫌そうなハロルド陛下は、マリアローズに開封済みの封筒を差し出す。

「エグネス侯爵家が夜会を催すそうだ。お忍びだから王宮ではおおっぴらには開けなくてな。代わりに奥方が帝国出身のエグネス侯爵家に身分を明かして歓迎の夜会を開いてもらうことになった。同伴してもらう」
「クラウドにですの?」
「クラウドがいいのか? 残念ながら、俺だ。悪かったな」
「いいえ? 私はハロルド陛下の同伴をするのだとばかり思っていたので、違うのかと驚いたのです」

 マリアローズがそう述べると、憮然とした様子で小さく二度ハロルド陛下が頷いた。

「それで夜会はいつですの?」

 尋ねながら、マリアローズは招待状を取り出した。そして目を剥いた。

「きょ、今日!?」

 ぎょっとしたマリアローズに対し、なんでもないことのようにハロルド陛下が頷く。

「十六時には出る」
「待っ、お、お待ち下さい! ドレスの用意も何もしておりません!」
「――ドレスはこちらで用意した。既に後宮に届いている頃だ」
「えっ」
「なんだ? 嫌なのか?」
「いいえ。貴方にそんな気遣いが出来たことに驚愕して……」

 信じられないものを見るように、小首を傾げてマリアローズが瞬きをする。長い睫毛が揺れている。彼女の緑色の瞳が零れ落ちそうになっているのを、青色の目でハロルド陛下が呆れたような顔で見ていた。

「では、準備して参ります」

 気を取り直してそう告げ、マリアローズは後宮へと戻った。
 すると、深いサファイアのような色彩の、ロングドレスが届いていた。薄らと輝く布地で、本物の宝石のような色合いだ。首の後ろに伸びた紐で留める形で、腰元が細い。思わずうっとりと魅入っていたら、時計が十五時を告げた。時間が無いとハッとする。

「みんな、お願いね!」

 侍女達に声をかけると、彼女達は皆、勢いよく頷いた。こうして懸命な努力の結果、十六時には王宮の前でハロルド陛下の差し出した手に、マリアローズは無事に指先を載せることが出来た。本日のハロルドは、緑を基調にした夜礼服だ。

 走り出した馬車の中で、ハロルド陛下がポットから紅茶を注ぐ。

「あら、ありがとう」

 今日のハロルド陛下は随分と気が利くらしく、紅茶まで淹れてくれたので、マリアローズの気分は浮上していた。それをチラリと一瞥してから、ハロルド陛下が前に向き直り、ぼそりと言った。

「似合っている」
「え?」
「なんでもない」
「しっかり聞こえました。でももう一度お願い致しますわ。え?」
「……」
「私もそう思います。本当によく似合ってると、鏡を見て思ったの!」

 なおマリアローズが自分の姿を確認した《魔法の鏡》は、彼女と二人きりでなければ喋らないので、どう思っていたかは知らない。

 その後はハロルド陛下が黙ってしまったので、もっと褒めてくれてもいいのにと思いながら、マリアローズも無言で座り、紅茶の味を楽しんでいた。

 馬車が到着したエグネス侯爵家は、パラセレネ王国の中では、比較的侯爵家になってから歴史の浅い家柄だった。代わりに、開放的な部分がある。まだまだ国内での縁組みが多い高位貴族の中にあって、海外の王侯貴族が頻繁に嫁いでくる家柄だ。今代のエグネス侯爵夫人は、元皇帝の末の叔母だとマリアローズはお茶会で聞いた事がある。やはりそういった情報を収集出来るのだから、お茶会は大切な仕事の一つだとマリアローズは考える。

「お手をどうぞ」

 外行きの笑顔に変わったハロルド陛下の掌に、もう慣れた調子で、マリアローズは手を載せた。そしてエントランスホールを抜け、会場である二階の大広間へと向かう。その道中で既に、マリアローズには羨望の眼差しが降り注ぎ、ハロルド陛下には見惚れる女性の視線が集中した。だが、それらにいちいちビクビクしてはいられないので、マリアローズは堂々と歩く。ハロルド陛下の隣にいると、本当に羨ましがられるのが常だ。

 そして会場へと入った時だった。
 荘厳な音色が響いてきたものだから、驚いてマリアローズはその方向を見る。
 そこではクラウドがピアノの前に座り、鳥が翼を羽ばたかせるかのように繊細に指を動かし、壮絶な技巧で曲を奏でている姿があった。鍵盤に触れる指が、誰もが視線を向けてしまうような深い音を響かせている。脳裏に光景が浮かんでくるような、心を鷲掴みにされるような、そんな明るくもあり、悲しくもある、聞いたことの無い曲だった。

「シュネーヴィッツェンか、さすがだな」

 演奏が終わった時、呟くように述べたハロルド陛下の言葉に、マリアローズは顔を向ける。すると彼もまた、マリアローズへと視線を向けた。

「薔薇の名前を冠した曲だ。この大陸におけるピアノの七大超絶技巧曲とされるものの一つだ」
「そうなの。凄かったわね」
「もう少しマシな感想はないのか?」
「陛下、作り笑いが崩れておりますよ」
「……」

 ハロルド陛下は無理矢理笑みを浮かべると、呆れたような瞳はそのままに頷いた。
 そこへ二人の来訪に気づいたクラウドが歩みよってくる。

「やぁ。来てくれたんだね」
「勿論だ。クラウドの歓迎の夜会だからな」

 笑顔でハロルド陛下が答えたのに頷いてから、クラウドがまじまじとマリアローズのドレスを見て、楽しそうに唇の両端を持ち上げる。

「それは、ハロルド陛下の贈り物か?」
「え? どうしてご存じなんですの?」

 クラウドは笑みを噛み殺したような顔をしてから、続いてハロルド陛下を見る。

「同伴者の目の色のドレスを着てくるなんて大胆だな」
「……」
「それに贈るというのは、もっと情熱的だ。僕は知らなかったぞ。ハロルドがそのように感情的な面があり独占欲が強いことを。いつもの笑顔を見ているより快いな」

 ハロルド陛下が瞬きにしては長い間目を伏せてから、しっかりと目を開けて悠然と微笑んだ。マリアローズには、二人のやりとりの意味がさっぱり分からなかった。

 その時、ヒールの音がした。
 マリアローズがそちらを見ると、歩みよってくるナザリア伯爵令嬢サテリッテの姿があった。

「マリアローズ皇太后陛下」

 儚げな声は本日も健在だ。サテリッテは左手に小さな鞄を持っている。同伴者はいない様子だ。マリアローズは笑顔を浮かべて言葉を返す。

「サテリッテ。ごきげんよう」
「本日もお美しいですね」
「まぁ、ありがとうサテリッテ。貴方のドレスもよく似合っているわ。本当にサテリッテは花のように愛らしくて」

 社交辞令を言われたと判断したので、マリアローズもまた社交辞令を返した。
 夜会というのは、こういったやりとりが文化のような側面があり、本当に気疲れする。

 それを皮切りに、マリアローズとハロルド陛下は、大勢の招待客に囲まれた。主賓はクラウドのはずだがお忍びなので、皆国王陛下と皇太后陛下に挨拶をする。地道なコネクション作りでもあれば、本当に再会を喜んでくれる者もいる。一人一人に丁寧に、作り笑いでハロルド陛下とマリアローズは応対した。数度は、心から笑った。

 本日はダンスはなく、立食式だ。
 幾度かシャンパングラスをチェンジしつつ、二人は場所も移動する。
 会場中をきちんと周り、挨拶客の相手をしていく。
 クラウドがいるピアノの横のテーブルを右手に捉える位置に立った頃、マリアローズは熱気に酔ったような心地になり、大きく吐息した。

 ――その瞬間だった。

「きゃっ」

 誰かの短い悲鳴が聞こえた。ほぼ同時に、会場の照明が落ちたことにマリアローズは気がついた。

 パリンパリンパリン、と。
 続いてグラスの割れる音が響き、驚愕から息を呑んだ時、マリアローズは強く抱き寄せられた。暗がりで目を凝らせば、険しい顔をしたハロルド陛下が己の腰を右手で抱き寄せたのだと分かった。直後左手で後頭部を、彼の胸板に押しつけられる。

 何が起こったのか分からず恐怖もあって、思わずマリアローズもハロルド陛下の胸元の服を小さく握った。ドクンドクンと動悸がする。

 またグラスの割れた音がした。
 パリン、と、高く硝子が啼く音が響く。
 震えながらマリアローズは、ギュッと目を閉じる。想像以上に硬く厚い胸板がそこにあることで、少しだけ怖さが和らいでいるのだが、それでも恐ろしい。

「なんなの!?」
「きゃぁ!!」

 一拍の静寂の後に、会場中で悲鳴が上がる。
 その直後だった。

 ダン、と。
 それまでとは違う、明らかに異質な音がした。再びその場が静まりかえった。
 ダン、ダン。
 今度は二発。
 一歩遅れてそれが銃声だとマリアローズは認識した。

「いやぁあああ!」

 誰かが叫んだ。マリアローズはさらに強く抱き寄せられたので、より強くギュッと目を閉じ、その腕の中で震えていた。過去に、これほどまでにハロルド陛下を心強く思ったことは、一度も無い。

 シャンデリアの灯りが戻ったのは、その時だった。

 ハッとして目を開けたマリアローズは、まだ怯えながら、銃声が聞こえた方角を見る。

 そして思わず息を詰めた。そこには、肩とこめかみから血を流しているクラウドの姿があったからだ。その上、正面には黒衣の男が立っていて、猟銃をクラウドに突きつけている。このままでは、死んでしまう――そう考えて硬直した時、ハロルド陛下の腕が離れた。そしてマリアローズが顔を向けようとした瞬間には既に、険しい表情のまま、ハロルド陛下が床を蹴っていた。そして不審者が顔を向けようとした時には、その者が猟銃を持つ腕を回し蹴りし、その勢いでよろめいた相手の腕を一瞬で捻じり上げ、床に男を叩きつけていた。誰よりも早かった。

「マリアローズ!! クラウドを!!」
「はい!」

 慌てて頷き、マリアローズはクラウドに駆け寄る。そして出血して床に尻餅をついているクラウドの背に、抱き起こすように触れる。

「クラウド……」
「平気だ。かすり傷だよ。頭の傷は、割れた硝子が飛んできて切れただけだ。肩は掠ったけどな」

 そう言って汗を浮かべているクラウドは、マリアローズに笑って見せてから、正面のハロルド陛下が取り押さえている男を睨めつけた。

 それからすぐに、その場にいた騎士達が駆け寄り、ハロルド陛下が拘束するように指示を出す。夜会はお開きとなり、別室でクラウドが手当を受けるのを、ハロルド陛下とマリアローズは見守っていた。心配でたまらず、マリアローズはじっとクラウドを見て、気遣うような顔をしていた。ただまだ恐怖が抜けず、左手では、ずっとハロルドの腕の服を掴んでいた。