――翌日、ゆっくりと起きたマリアローズは、《魔法の鏡》を一瞥した。

「《魔法の鏡》! あのね! これからも私達は一緒のお部屋のようよ」
『知っているよ、よかったね』
「どうして知っているの?」
『僕はこれでも、《魔法の鏡》だからね』

 自慢げな声音が響いてきたので、そういうものかと頷き、マリアローズは朝湯を堪能した。疲れが溶け出していく気がする。手足を伸ばして、顎までお湯に浸り、マリアローズは芯から温まった。

 さて本日は、後宮制度廃止後の、マリアローズの部屋の確認の日だ。

 ドレスに着替えてから、マリアローズは王宮へと続く回廊をゆったりと歩いて行く。そして、突き当たりで待ち合わせをしていたハロルドの姿を認めた。

「お待たせ致しました」
「ああ、待った」
「ま、まだ待ち合わせ時刻の三十分も前ですけど?」
「お前に早く会いたかったんだよ」
「っ」

 不意に微笑を向けられて、マリアローズは真っ赤になった。俯いて誤魔化すと、背中に触れられた。ゆっくりとハロルドに顔を向けると、こちらも照れくさそうな顔をしていて、若干頬が朱い。

「行こう」

 こうしてハロルドに促されて、マリアローズは階段を上がった。
 ハロルドの部屋は六階にある。そこへ向かうと、ハロルドが、三つの鍵がついた銀の輪っかをマリアローズに差し出した。

「これがお前の鍵だ」
「中にお部屋がたくさんあるのかしら?」
「まぁ……そうだな」

 何故なのか、ハロルドが言い淀む。それからコホンと一度咳をして、ハロルドが扉を押し開いた。

「わぁ……」

 室内はとても洗練された作りだった。正妃の間と同じように、壁には百合と月の意匠がある。マリアローズは真っ先に、《魔法の鏡》を置けそうな場所を探し、クローゼットの横の壁際が丁度良いと判断した。

 床には毛足の長い紺色の絨毯が敷かれている。その上には豪奢な飴色のテーブルと、刺繍が美しい長椅子が二つあった。奥の窓際には、執務机がある。だが、何処を見ても、寝台が無い。寝ずに働けという意味だろうかと、マリアローズは困惑した。

「ハロルド、ベッドが無いわ」
「寝室は隣だ」

 ハロルドがそう言って扉から向かって右手の壁を指さしたので、そちらを見れば扉があった。

「確か改装していたお部屋ね」
「ああ、そうだ」
「私の寝室を作って下さったの?」
「まぁな」

 自分を気遣ってくれたのだろうと思えば嬉しくなって、マリアローズはそちらの部屋へと向かった。鍵はかかっていなかったので、ドアノブを握り、扉を開ける。その部屋は、小さな丸いテーブルと一人掛けのソファが二つ、壁際に書架がある以外は、ドーンと巨大なベッドに占領されていた。マリアローズは首を傾げる。

「ちょっと大きすぎませんこと?」

 マリアローズが、五人くらい眠れそうだ。するとハロルドが、さらに右奥の扉を示した。

「あちらが俺の部屋だ。お前には特別に、俺の私室の鍵も渡しておいた」
「そう。見てもいい?」
「ああ」

 ハロルドが頷いたので、マリアローズは見に行った。こちらはシンプルな部屋で、主に焦げ茶色と白が基調で、カーテンだけが緑に白を透かしたような色合いをしていた。

「ハロルド」
「なんだ?」
「貴方のお部屋にもベッドがないのだけれど」
「――俺達は、夫婦になるのだから、寝室は一つでいいだろ」
「!」

 マリアローズは思わず目を見開いた。瞳が零れ落ちそうなほど、大きく瞼を開けている。

「そ、その……嫌か?」

 幾ばくか不安そうに、ハロルドが言った。慌ててマリアローズは首を振る。

「そ、そ、そういう、その、そういうわけじゃないの!」

 それを聞くとホッとしたようにハロルドが柔らかな笑みを浮かべた。そして動揺しているマリアローズを両腕で抱きすくめた。

「落ち着け」

 逆に緊張感が高まったマリアローズは、泣きたくなった。ハロルドの体温が嫌いではないことしか分からない。抱きしめられていると、胸がぽかぽかしたりドキドキしたりと忙しなくなることだけが困る。

 あやすように背中を軽く叩かれて、マリアローズは気恥ずかしくなり、ギュッと目を閉じて、朱い顔を見せないように、ハロルドの厚い胸板に額を押しつけた。そうしながら、おずおずと、ハロルドの背中に、マリアローズは腕を回してみた。

 二人はそうして、暫く抱きあっていたのだった。