無事にプレゼントを買えたので、明るい気分でマリアローズは王宮に戻ろうとしていた。
 その時の事である。

「ごきげんよう、マリアローズ皇太后陛下」

 不意に声をかけられたマリアローズは、顔を上げて、そこにサテリッテがいたものだから驚いた。もしかしたら、ハロルドを窮地に陥れた犯人なのかもしれないという思いもあって、思わず一歩後ずさる。

「ご、ごきげんよう」

 けれど表情には、淑女らしい笑みを取り繕った。サテリッテが、一歩前へと出る。再びマリアローズは、一歩後ろにさがる。するとサテリッテはまた近づいてくる。チラリと後ろを振り返れば、そこには煉瓦の壁がある。後退したのでは、逃げ場が無い。そこでマリアローズは、それとなく左斜め後方に移動した。暫く行けば、壁と壁の合間に、路地があるのが分かっていたからだ。

「どうして逃げるのです?」
「え? い、いえ、そんなつもりは……」

 悲しそうな声で問われ、焦ってマリアローズは首を振る。まだ彼女が犯人だと確定したわけではない。だが、嫌な予感がし、それは的中した。サテリッテが左手を外套のポケットへと入れ、長いナイフを取り出した時だ。銀の刃が光って見える。

「初めからこうしていればよかったのですわね」
「っ……サテリッテ……!!」

 サテリッテがさらに詰め寄ってくる。マリアローズは、青褪めた。

「どうして!? どうしてこんな事を!?」
「――マリアローズ皇太后陛下には、お分かりにならないでしょうね。ああ、お美しいこと。なんでも持っていらっしゃる、全貴族女性の憧れのお方。麗しいお顔立ち、ぱっちりとした綺麗なエメラルドの瞳に、繊細な織物よりも艶やかな美しい髪」

 つらつらと語るサテリッテの表情は、どこか恍惚としたものだった。

「分かりますわ。勿論理解出来ます。ハロルド陛下が、マリアローズ皇太后陛下をお選びになるのは当然の帰結だわ。だってマリアローズ皇太后陛下ほど完全美を持つ女性は、この王都、いいえこの国にはおりませんわ。外見も、内面も」

 一歩、二歩、三歩と、ナイフを握りしめながら、サテリッテが近づいてくる。マリアローズは何度かチラリと背後を確認しつつも、ナイフを警戒して正面から視線を離す事はほとんどしない。

「あの日、私はあの日のことを永劫忘れませんわ。エグネス侯爵家のあの夜の事を。貴女が青いドレスを……ハロルド陛下の瞳と同じ色のドレスを纏っていたあの日……私は嫉妬でおかしくなりそうでした」

 その悲鳴のような声を聞きながら、マリアローズは彼女がハロルドを好きだといつか述べていた事を思い出していた。

 ――後ろから腕を回され抱き寄せられたのはその時の事だった。

 ビクリとしてすくみ上がったマリアローズは、すぐにその腕がハロルドのものだと気づき、泣きそうなほどホッとした。

「俺は今、殺意が沸いておかしくなりそうだ。サテリッテ・ナザリア、現行犯だ。極刑を覚悟してもらう」

 低い声音を放ったハロルドを見て、思わずマリアローズはその腕を引く。あまりにもハロルドの瞳が冷酷で、視線だけでサテリッテを射殺してしまうのでは無いかと言うほど強い眼光を放っている。

「ま、待って! ハロルド」
「なんだ?」

 すると舌打ちを堪えた様子で、ハロルドがマリアローズを一瞥した。

「あ、あの……っ、サテリッテは、貴方の事が好、好きなの。そ、それで……私が憎かったみたいなの。だ、だから……あの……恋は、ほ、ほら、辛い事もあるでしょう? 想いを堪えられない事もあって……」

 必死でマリアローズは己の考えを伝えようとする。ハロルドの腕の中で、彼をしっかりと見上げながら。それでも彼の気迫に、気圧されないのは何人たりとも不可能であるから、マリアローズも僅かに震えていた。それでも頑張った。

「命だけは、許してあげて……」

 それを聞くと、腕に力を込めて、ハロルドが強くマリアローズを抱き寄せた。
 マリアローズは、額をハロルドの胸板に押しつける形になる。

「俺はお前の優しさと――……その弱さが好きだ」

 ハロルドはそう囁くようにいつも、周囲を取り囲んでいた騎士団に所属する者達に命じた。

「投獄しろ」

 すぐに、サテリッテは拘束された。本人も抵抗らしい抵抗はしなかった。端から諦めていたのかもしれない。

 サテリッテが連行されたのを見届けてから、ぼそりとハロルドが言う。

「ところでマリアローズ」
「な、なにかしら?」

 焦ったようにマリアローズが顔を上げる。

「毒林檎香の事件があった直後、お前を狙った敵が存在したすぐ後に、単独で外出するというのは、どういう了見だ?」

 淡々としているが、冷ややかすぎる声には呆れが宿っていた。萎縮しつつも、無理に笑ったマリアローズは首を振る。

「秘密! 秘密よ!」
「は?」
「秘密なの!」

 プレゼントの事は同日まで内緒にしておきたい。そう考えて、秘密だと繰り返し、マリアローズはその場を乗りきった。

 このようにして、一つの事件が解決したのだった――……




 ……――か、に見えた数日後。
 ハロルドは、いつかも訪れた王都の外れにある牢獄塔へとやってきた。

 ブーツの踵の音を響かせて歩いていき、目的の鉄格子の前で、ハロルドは立ち止まる。
そこには、サテリッテ・ナザリアが椅子に座った状態で拘束されている。

「赦されると思っていたか?」

 感情の窺えない無機質な声を投げかけたハロルドを、顔を上げたサテリッテが嘲笑するように見据えた。乱れた髪が、幾重にもほつれて垂れている。

「赦すわけがないだろう。俺のマリアローズに手を出したのだから。たとえ神々が赦そうとも、マリアローズが嘆願しようとも、俺は決してお前を赦さない」

 氷さえさらに凍てつかせるような絶対零度の声音が、静かな牢獄に響き渡る。看守達の背までゾクリと冷えた。

「早々、報告を受けてな。俺は、ナザリア伯爵の王都邸宅の離れにある隠し部屋に足を運んだぞ。半地下のあの悍ましい部屋に、な」

 冷ややかな声でハロルドが続けると、サテリッテが愉悦にまみれたような表情を浮かべた。そこに垣間見えるのは、ある種の狂気だ。

「お前が愛していたのは、俺ではないようだな」
「――ええ、そうよ。私が愛していたのは、マリアローズ皇太后陛下よ」

 断言すると、悍ましい哄笑を彼女が放った。目を剥いている彼女の瞳には、歪んだ光が宿っている。

「非常に気分が悪い。あの部屋の壁中に、マリアローズの似姿や油絵、スケッチが貼り付けられていたのを見た時は、吐き気がした」

 ハロルドは回想しながら、部屋に散乱していた便せんの山を思い出す。全て文字が掠れていた。そしてそこには、マリアローズの名と――好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、と、壊れたように綴られていた。

「俺はお前の感情を、愛とは認めない。ただただ、マリアローズを害するだけのものなど、恋情ではない」
「そもそも悪いのは全て貴方よ!! 貴方なのよ!! 最初は貴方を利用してやるつもりだったのよ? 正妃になって、誰よりもマリアローズ皇太后陛下のおそばに行こうと考えて――けれど、けれど! あの夜会の夜の忌々しい青。貴方の瞳なんて抉り出してやりたいほどよ。よりにもよってマリアローズ皇太后陛下を、貴方の色に染め上げようとしている? そんな事を許容できるはずがないじゃない!!」

 顎を持ち上げ、ハロルドは叫ぶサテリッテを蔑むように見据える。
 その前で、サテリッテが続ける。

「マリアローズ皇太后陛下が手に入らないのならば、殺して私のものにしてしまおうと思ったのですわ! 当然でしょう!? マリアローズ皇太后陛下は私のものなのだから!」

 その笑みさえ含んだ大声を静かに聞いていたハロルドは、瞼を伏せながら小さく斜め下へと顔を向ける。

「今回こそ、俺は猟師にはなれないようだ」

 そしてそう呟き双眸を開けると、檻の扉の左右に居た看守をそれぞれ見る。

「連れて行け」
「御意」

 右側の看守が答え、左側の看守が檻の扉を開ける。
 壁際に下がり、無機質な表情で、ハロルドは鎖を引かれるサテリッテを眺めていた。その視線は、二人に連行され、彼女の姿がこの階から消えるまでの間、ずっと暗さを宿したまま向けられていたのだった。




「視察?」

 この日執務室へと行くと、宰相閣下が来ていて、ハロルドと話をしていた。そしてマリアローズに気づくと、宰相閣下が珍しく口元を綻ばせて、封筒をマリアローズに手渡しながら『視察へ行ってきて下さい』と伝えたのである。

「まぁ……氷の彫像展……?」

 上手くイメージ出来なくて、マリアローズは封筒の中に入っていた招待状の文面を読んでみる。聖ヴェリタ教の神々の彫像が氷で作られているとある。

「我輩も家内と個人的に出かけたことがあるが、非常に緻密で見応えがあった」

 宰相閣下の声に、マリアローズは大きく頷いた。
 何故なのかハロルドは、宰相閣下に対し、首を傾げて頬杖をつき、複雑そうな眼差しを向けている。

「ハロルド、どうかしたの?」
「いや……別に……」

 ハロルドの声が響き終わった時、宰相閣下が扉に振り返った。

「既に馬車は手配してある」
「早いな」

 乾いた笑いを載せて、ハロルドが声を放った。しかし宰相閣下はどこ吹く風だ。
 ハロルドはいつものように一番上の抽斗を開けて、視線を落としてから、ポケットに何かをしまっている。あの抽斗からなにかを取り出すのを、マリアローズは初めて見た。ハロルドはいつも眺めているだけだったからだ。

 こうしてマリアローズとハロルドは、執務室を出た。並んでゆったりと、王宮の回廊を歩いていく。チラリとマリアローズは、ハロルドの手を見た。

 手を繋いでみたい――と、一瞬思ったが、大勢の人々が歩いている王宮でそれを求める勇気は無い。こうして進み、正門を抜けると、雪道でも走る事が可能な魔導馬車が停まっていた。

「お手をどうぞ」
「ありがとうございます」

 ハロルドにエスコートされて、マリアローズは馬車に乗り込んだ。
 そしてゆっくりと走り出した馬車の窓から、雪に彩られた王都の街並みを見る。雪かきをしている人々が目立つ。他には聖夜に向けて、ところどころにリースがかかった家や店が見えた。聖夜は、この国ではリースを扉に飾るという風習がある。

 到着した氷の彫像展の会場は、まばらに人がいた。本日は招待客のみに開放されているらしい。受付で招待状を見せると、王族の二人の姿に深々と頭を垂れられた。王族らしい笑顔を心がけて、マリアローズはハロルドの隣にいる。ハロルドもまた、上辺の完璧な笑みだ。

「本日はお招き下さり誠にありがとうございます」
「え? いえ? 宰相閣下が二枚欲しいと仰って……?」

 受付の女性の声に、ハロルドが派手に咽せた。マリアローズは、よく分からなかったので、首を傾げる。

「もしかして宰相閣下は、激務の私達に休むようにと、暗に促して下さったのかしら? 厳しいけれど、優しいところもあるものね」
「……そ、そうだな。きっとそうだろう。そういう事にしておこう」

 ハロルドはそう言うと歩き出した。慌ててマリアローズが追いつく。するとチラリと見おろすようにマリアローズを見たハロルドが、長めに瞬きをしてから、そっとマリアローズの手を握った。

「!」

 願いが叶ったものだから、マリアローズは驚いた。

「随分と熱心に俺の手を見ていたから、こういう事かと思ったんだが?」
「えっ……別に?」
「そうか。まぁはぐれても困るからな。仕方がないから手を引いてやる」
「あ、あら? 迷子になるのは、ハロルド陛下ではなくて? 私こそ仕方がないから手を繋いで差し上げますわ」

 二人はそんなやりとりをしつつ、恋人繋ぎをして、ゆっくりと歩く。
 ギュッとハロルドが手に力を込めて握るから、マリアローズは内心では心拍数が上がってドキドキしっぱなしだった。

 しばらく神々を象った氷の彫像を見てまわってから、二人は、奥に小さなベンチがある事に気がついた。

「少し休むか?」
「ええ」

 頷いたマリアローズは、ハロルドの手を握り返しながらそちらへと進む。
 そこには二人掛けのベンチがあって、周囲には青い氷で出来た薔薇が咲き誇っていた。蔦まで精巧に作られた氷の薔薇園は、幻想的で美しい。マリアローズは思わず見惚れた。

 そうしていたら、ハロルドが咳払いをしたので、マリアローズが視線を向ける。
 するとハロルドはちらっとマリアローズを見ては正面に向き直り、それからまたちらっとマリアローズを見て正面を向くという仕草を繰り返した。非常に何か言いたそうなのが伝わってくる。首を捻って、マリアローズは尋ねた。

「なにか?」
「ッ……――マリアローズ」
「なにかしら?」
「そ、の……そ、そろそろ、俺の告白への返事をくれないか? いい加減待ちくたびれたぞ」

 僅かに頬を染めたハロルドの切実さが滲むような声音に、マリアローズはハッとした。そうだ、言おうと思っていたではないか、己の気持ちを――と、思い出した。いろいろな事件が重なりすぎて、若干忘れていた彼女は、唇を引き結ぶ。そして自身の頬も朱くなってきたのを自覚した。

「あ、の……そ、その……」
「ああ」
「……す」
「うん」
「好き……私も好き……です……」

 あれほど愛情を伝えようと意気込んでいたはずなのに、いざ口にするとなったら、非常に小さな声になってしまい、マリアローズは悔しくなった。だからまだ繋いだままの手を引いて、その腕を引き寄せて、両腕で抱きしめる。するとビクリとしたハロルドは、マリアローズの方へと向き直り、空いている方の手で、マリアローズの頬に触れる。

「腕を放してくれ」
「嫌よ!」
「――角度的に、キスが出来ない」

 ハロルドの声に、思いっきり動揺しながら、意図に気づいてマリアローズは手を離した。
 そして震えながら目を丸くし、そうして瞬きをした。ド緊張状態で、マリアローズはじっと麗しい白雪王の顔を凝視する。ハロルドは、そんなマリアローズの頬に両手で触れた。そして顔を近づけると……パンと軽くマリアローズの頬を叩いた。そして呆れたように顔を離す。

「お前な、緊張しすぎだろ」
「だっ、だって」
「もういい。別に今唇を奪う必要も無いしな」

 そう口にしたハロルドの耳と頬は、真っ赤だった。色が白いから、朱くなるとよく分かる。ハロルドはそれからまたちらっとマリアローズを見ると、片手で顔を覆った。嬉しさと驚きが綯い交ぜのような瞳が、指の合間から僅かに見える。

「マリアローズ」
「な、なにかしら?」
「言質は取ったからな。俺を好、好きだと、確かに聞いた」
「え、ええ」
「撤回はさせない」
「撤回なんかしないわ!」

 マリアローズが元気で明るい声で告げると、驚いた顔をした後、再びハロルドが真っ赤になった。僅かに肩が震えている。寒いのだろうかと、マリアローズは考えた。ハロルドは手をポケットに入れている。

 ハロルドがマリアローズの左手を持ち上げたのは、その時だった。

「俺と結婚して欲しい」

 そう言うと、ハロルドは、なんと銀色の指輪を、マリアローズの左手の薬指にそっと嵌めた。左手の薬指は、婚約者あるいは夫婦が指輪をつける場所だ。恋人同士でも嵌めてはならないと聖ヴェリタ教で説かれている。破っている者も多いが。

 その銀の感触が、奇妙なほど重く感じると同時に、どうしようもなく嬉しく愛おしいものに思えて、思わずマリアローズは右手で拳を握り、いい笑顔を浮かべた。

「喜んで!」

 勢いのいい返事に、目に見えてハロルドが脱力したのが分かる。安堵した様子で首を左右に動かし、ハロルドは空を見上げている。

「いつでも渡せるように、一番上の抽斗に入れていたかいがあった」

 その言葉を耳にしたマリアローズは嬉しさが極まっていて、そんなハロルドの肩に頭を預け、終始頬を緩ませていた。しばらくの間にこにこしていたマリアローズだったが、それからふと、思い出したように呟いた。

「だけど、どうしたらいいのかしら。私は貴方の継母なのよ? 母子婚は禁止されているわ? 勿論歴代の皇太后が、後宮に生まれた実の息子や義理の息子の正妃になった例はないし……」

 根は真面目なマリアローズの声が、どんどん沈んでいく。
 すると首を起こしたハロルドが、マリアローズの肩を抱き寄せた。

「血の繋がらない場合にかぎり、婚姻可能とするように王国法を変える。宰相閣下に相談する事とする」
「宰相閣下はなんて仰るかしら……厳格なお方だから、絶対反対なさると思うの。まさか私達がこういう仲だなんて想像もしておられないわ、きっと」
「……そうか? そ、そうだな、お前がそう言うなら、その可能性もゼロではないな」

 このようにして、二人きりの氷の薔薇園でのひと時は流れていった。




 確認し合った翌日――二人はいつもの通り、ハロルドの執務室にいた。
 揃って各々の執務机に向き合い、万年筆を走らせている。

 年末は来年の予算の決定と、今年の収支報告があるため、なにかと多忙だ。現在マリアローズは、午後行われる財務大臣との会議の資料を作っている。ハロルドはその後に行われる文部大臣という新しい役職の侯爵との会談のための資料作りだ。文部大臣は、来秋から開講する王立学院の包括的な管理をする存在だ。

 昼食時は二人とも、侍従に頼んで運んできてもらったスモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチを口に運びながら、書類の最終確認をして過ごした。そして、まずは財務大臣との会議に臨むため、執務室を出る。

 急いで五階の会議室に行くと、恰幅の良い財務大臣が笑顔で出迎えた。彼もまた宰相閣下の派閥の人間だ。その中でも重鎮である。

「今回の議題は、後宮の閉鎖における総経費の削減と、王立学院への支援費とのこと」

 こうして会議が始まった。マリアローズの用意した資料をじっくりと財務大臣が読み込んでいく。マリアローズほど後宮の財政に詳しい者はいないので、その資料の信頼性は非常に高い。熟読した財務大臣は頷いて、頬の肉をたるませて笑う。美食家としても有名だ。

「承知致しました。財務府の総力を挙げて、この通りに致しましょう――しかし、後宮を閉鎖とは。思いきられましたな」
「ああ。俺には不要だからな」
「わしも妻を愛しおりますゆえ、よく分かりますぞ」

 財務大臣はそう述べてから、思い出したように手を叩いた。

「時にマリアローズ様の新しいお部屋は既に選定済みなのですか? 王宮に住まわれるのだと、小耳に挟んでおりますが」
「ええ。ハロルド陛下の隣の隣のお部屋がたまたま空いていたので、そちらへ移動させて頂きます。間のお部屋は、本日改装が終わるのだとか」
「た、たまたま……へ、へぇ。なるほど。そ、そういうこともあるかもしれませんね」

 うんうんと財務大臣が頷くと、ハロルドが頬に朱を差して顔を背けた。マリアローズのはその様子に首を傾げたが、今は会議中なので追求しなかった。

「侍女達はどうするのでございますか?」
「一部の侍女には、そのまま私の部屋付きになってもらって、残りの皆は、配置換えで王宮に務めてもらうことになりました」
「そうですか、それはようございますね」

 そのようにして、財務大臣との会議は和やかに進んでいった。
 それから会議の終了時刻が訪れたので、マリアローズとハロルドは、ほぼ同時に席を立つ。財務大臣に挨拶をしてから、二人は続いての会議へと向かった。六階の奥の会議室へと向かうと、既に文部大臣となったワーク侯爵の姿があった。白い顎髭が印象的な禿頭の老人だ。国内で最も歴史あるワーク侯爵家は、昔から慈善事業に熱心で、特に孤児達に勉学を教えてきた歴史もある。それを見込んでの抜擢だった。

「ようこそおいで下さいましたワーク侯爵」
「お初にお目にかかります、マリアローズ・エルバ・パラセレネと申します」

 頭を下げた二人に、好々爺は喉で笑った。

「これはこれは誠に恐れ多い、陛下達に頭を下げさせてしまうなど、忠実な僕たる侯爵家の恥となる、どうぞ頭をお上げ下され」

 ワーク侯爵の声に、二人は姿勢を正す。
 こうして話し合いが始まった。今度はハロルドが作成した計画書を元に話を進めていく。
ゆっくりと頷きながら聞いていたワーク侯爵は、時折ひげを撫でながら、鋭い質問を挟んだ。それに臆することなく、ハロルドは答えていく。その内に、真剣な二人の討論が始まると、マリアローズは口を挟む事が出来なくなった。難解すぎて、理解するので精一杯だったのである。彼らは初等教育の重要性から、高等教育の必要性まで、理路整然と語り合っていた。

 この日、会議が終わったのは、夜の八時の事だった。

「ああ、疲れましたわね!」

 一度ハロルドの執務室へと戻ったマリアローズは、己の席で両腕を上に上げ、背伸びをした。ハロルドは資料を抽斗にしまいながら、大きく頷き同意を示す。

「明日は午後からだ。午前中はゆっくり休め」
「ええ。明日は遅く起きると決めているのよ」
「俺はいつも通りに起きて、鍛錬をするが」
「鍛錬?」
「剣の腕は、使わないと鈍るからな」

 当然のことのように言うハロルドを漠然と見て、マリアローズは格好いいと思い――それから自分の思考にハッとして赤面し、俯いて誤魔化した。幸い、窓辺のシクラメンを見ていたハロルドに気づかれた様子は無かった。





 ――翌日、ゆっくりと起きたマリアローズは、《魔法の鏡》を一瞥した。

「《魔法の鏡》! あのね! これからも私達は一緒のお部屋のようよ」
『知っているよ、よかったね』
「どうして知っているの?」
『僕はこれでも、《魔法の鏡》だからね』

 自慢げな声音が響いてきたので、そういうものかと頷き、マリアローズは朝湯を堪能した。疲れが溶け出していく気がする。手足を伸ばして、顎までお湯に浸り、マリアローズは芯から温まった。

 さて本日は、後宮制度廃止後の、マリアローズの部屋の確認の日だ。

 ドレスに着替えてから、マリアローズは王宮へと続く回廊をゆったりと歩いて行く。そして、突き当たりで待ち合わせをしていたハロルドの姿を認めた。

「お待たせ致しました」
「ああ、待った」
「ま、まだ待ち合わせ時刻の三十分も前ですけど?」
「お前に早く会いたかったんだよ」
「っ」

 不意に微笑を向けられて、マリアローズは真っ赤になった。俯いて誤魔化すと、背中に触れられた。ゆっくりとハロルドに顔を向けると、こちらも照れくさそうな顔をしていて、若干頬が朱い。

「行こう」

 こうしてハロルドに促されて、マリアローズは階段を上がった。
 ハロルドの部屋は六階にある。そこへ向かうと、ハロルドが、三つの鍵がついた銀の輪っかをマリアローズに差し出した。

「これがお前の鍵だ」
「中にお部屋がたくさんあるのかしら?」
「まぁ……そうだな」

 何故なのか、ハロルドが言い淀む。それからコホンと一度咳をして、ハロルドが扉を押し開いた。

「わぁ……」

 室内はとても洗練された作りだった。正妃の間と同じように、壁には百合と月の意匠がある。マリアローズは真っ先に、《魔法の鏡》を置けそうな場所を探し、クローゼットの横の壁際が丁度良いと判断した。

 床には毛足の長い紺色の絨毯が敷かれている。その上には豪奢な飴色のテーブルと、刺繍が美しい長椅子が二つあった。奥の窓際には、執務机がある。だが、何処を見ても、寝台が無い。寝ずに働けという意味だろうかと、マリアローズは困惑した。

「ハロルド、ベッドが無いわ」
「寝室は隣だ」

 ハロルドがそう言って扉から向かって右手の壁を指さしたので、そちらを見れば扉があった。

「確か改装していたお部屋ね」
「ああ、そうだ」
「私の寝室を作って下さったの?」
「まぁな」

 自分を気遣ってくれたのだろうと思えば嬉しくなって、マリアローズはそちらの部屋へと向かった。鍵はかかっていなかったので、ドアノブを握り、扉を開ける。その部屋は、小さな丸いテーブルと一人掛けのソファが二つ、壁際に書架がある以外は、ドーンと巨大なベッドに占領されていた。マリアローズは首を傾げる。

「ちょっと大きすぎませんこと?」

 マリアローズが、五人くらい眠れそうだ。するとハロルドが、さらに右奥の扉を示した。

「あちらが俺の部屋だ。お前には特別に、俺の私室の鍵も渡しておいた」
「そう。見てもいい?」
「ああ」

 ハロルドが頷いたので、マリアローズは見に行った。こちらはシンプルな部屋で、主に焦げ茶色と白が基調で、カーテンだけが緑に白を透かしたような色合いをしていた。

「ハロルド」
「なんだ?」
「貴方のお部屋にもベッドがないのだけれど」
「――俺達は、夫婦になるのだから、寝室は一つでいいだろ」
「!」

 マリアローズは思わず目を見開いた。瞳が零れ落ちそうなほど、大きく瞼を開けている。

「そ、その……嫌か?」

 幾ばくか不安そうに、ハロルドが言った。慌ててマリアローズは首を振る。

「そ、そ、そういう、その、そういうわけじゃないの!」

 それを聞くとホッとしたようにハロルドが柔らかな笑みを浮かべた。そして動揺しているマリアローズを両腕で抱きすくめた。

「落ち着け」

 逆に緊張感が高まったマリアローズは、泣きたくなった。ハロルドの体温が嫌いではないことしか分からない。抱きしめられていると、胸がぽかぽかしたりドキドキしたりと忙しなくなることだけが困る。

 あやすように背中を軽く叩かれて、マリアローズは気恥ずかしくなり、ギュッと目を閉じて、朱い顔を見せないように、ハロルドの厚い胸板に額を押しつけた。そうしながら、おずおずと、ハロルドの背中に、マリアローズは腕を回してみた。

 二人はそうして、暫く抱きあっていたのだった。



 さて、翌々日。
 マリアローズは、ハロルドの掌に指をのせ、馬車から降りた。目の前には、建設中の王立学院の建造物がある。敷地や広さを、実際に目で見て確認した方がよいというワーク侯爵の勧めで、二人は時間を作って足を運んだのである。非常に高く、時計台がついている。

「あの時計台の鐘が、講義の開始と終了を告げるのね」

 計画案を思い出しながらマリアローズが述べると、静かにハロルドが頷いた。
 丁度その時、鐘の音がした。
 するとハロルドはふと思い出したように口を開く。

「マリアローズは、王都中央時計台には行ったことがあるか?」
「無いわ。名前も今初めて聞いたわ」
「ここの視察が終わったら、行ってみないか?」
「ええ」

 そんなやりとりをしてから、二人は建設を担当しているダークエルフ達に挨拶をした。この学園では、異種族も受け入れる事になっている。丁寧に説明してくれる彼らの話に、二人はじっくりと耳を傾けた。

 こうして説明を全て聞き終えてから、二人は馬車に戻り、王宮に戻る予定を変更すると御者に告げた。ハロルドが、『王都中央時計台に頼む』と述べた時、何故か御者がにやけたが、マリアローズはその意味が分からなかった。ハロルドは斜め上を向いていた。

 王都中央時計台に到着したのは、夕暮れ時の事だった。
 馬車を降り、二人は時計台の中へと入る。そしてマリアローズは感嘆の息を吐いた。魚の形をした時計が泳いでいたからだ。時計台の一階全体が、まるで海の中のようで、海藻なども壁際で揺れているように見える。幻想的な光景に、マリアローズは満面の笑みを浮かべた。

「すごい! すごいわ! 見て、ハロルド! 時計が泳いでるわ!」

 興奮した様子で、マリアローズがハロルドの腕を掴む。そして右腕で抱きしめるようにしながら、左手であれやこれやと指さしながら、正面の階段まで歩いた。ハロルドが照れくさそうに時折マリアローズを見ていた事に、彼女は一切気がつかなかった。

 階段を上がる事になった時、今度はハロルドがマリアローズの手を、ギュッと恋人繋ぎで握った。ドキリとしたマリアローズは、慌ててハロルドを見たが、彼は前を見ていた。

 ――恋人、いいや婚約者なのだから、手を繋いでいるのを見られても構わないのだ。

 そう思い直し、マリアローズもまた、ギュッと指に力を込めた。
 二人はそのように歩き、二階へと到着した。
 そこからは壁に螺旋階段が取り付けてある形で、塔の一番上の大時計を動かす巨大な歯車動いていた。初めて見る機械に、再びマリアローズは大興奮した。そんなマリアローズを、ハロルドは終始愛おしそうに見つめていた。

「マリアローズ」
「なんです?」

 マリアローズの散策が一段落した時、ハロルドが声をかけた。
 首を傾げた彼女と繋いだままだった手を引き、足がもつれかけたマリアローズをハロルドが抱き留めて、その後抱きしめ直す。

「民草の間で伝わる民間伝承で、ここでキスをすると、生涯愛しあえるというものがあるんだ」
「っ」
「嫌か? 嫌なら――」
「私もキスしたい」

 マリアローズが勇気を出して告げると、ハロルドが虚を突かれたような顔をした後、破顔して、マリアローズをより強く抱きしめた。それから彼女の顎を持ち上げる。どんどん近づいてくるハロルドの端正な顔に惹き付けられるようになってから、ゆっくりとマリアローズは目を伏せた。



 王都中央時計台から帰った後、ハロルドは自室のソファに座り、長い脚を組んで、青い瞳に憂いを浮かべていた。

 ――幸せすぎて怖かった。

 ソファに深く座り直し、背を預けると、軋んだ音が響く。
 正面のテーブルにある燭台の焔をなんとなく見据えてから、ハロルドは双眸を伏せた。

 初めはただ、マリアローズを守りたいと思った幼少時。それだけだった。危なっかしい彼女を放っておけないと、庇護欲と友情と、僅かな胸の疼きがごちゃまぜの心で毎日、マリアローズの横にいた。

 それが明確に恋に変化したのは、己が十三歳の頃だった。
 魔狼の出現に、震えながらも彼女の腕を引いた後、倉庫で彼女はハロルドに腕を確かに回し返してくれた。怖がっているのに、他者を思う優しさが、胸に突き刺さった。だから、これからはもっともっと強くなって、マリアローズを守ろうと決意した。

 十六歳から本格的に王太子としての教育を受ける事になったその日は、十四歳になり随分と大人びたマリアローズが見送りに来てくれた。もう暫く会うことが叶わない。それが無性に悲しかった。けれど彼女は、寂しさなんて一切感じさせない笑顔で、ハロルドを送り出した。それに傷ついている自分に、すぐにハロルドは気づいた。

 そして母にいつか、「マリアローズの事が好きなのね」と言われた記憶を想起し、苦笑した。マリアローズは己の継母だ。叶うことなどありえない恋だ。

 ――忘れよう。

 そう決意し、代わりに無心に勉学と鍛錬に励んだ。ただいつもどこかで、強くなればマリアローズを守れると考えていた。

 そうして、再会したら、もうダメになった。心のたがが外れてしまったように、ハロルドはマリアローズに惚れ直した。まだあどけなさは抜けないが、大人らしい繊細な美を誇るマリアローズは美しく、流麗な声で、ハロルドに挨拶をした。

 あの日も自室に戻り、右手で口元を覆い、自分の中の激情にハロルドは終始困惑していた。共に仕事をするようになれば、平静を保つことに躍起になった。

「……」

 ハロルドは、己が猟師になれなかった時の事を思い出す。マリアローズが願った未来を確かに壊した。強くなると言うことは、時に冷酷になることだと、ハロルドは教育された。それが、国のためになる。だが――そんな己を知られたら? 嫌われてしまうだろうか?

 ぐるぐるとハロルドは考える。感情と理性が混じり合った脳裏は、非常に騒がしい。
 マリアローズのために強くなったはずだというのに、それが理由で嫌われる?
 ハロルドは苦しくて、喉で酸素が閊えたようになる。

「マリアローズには、全てを受け入れられたいと想うのは、過ぎた願いか?」

 今、幸せすぎて怖い現在を、ハロルドは絶対に手放したくなかった。けれど。
 ハロルドはまごうことなき国王だ。そしてマリアローズは今後、その隣に並び立つ。
 絶対に守ると誓ってはいる。だが優しく――だから弱い彼女には圧倒的に危機感が足りない。ツキンと頭痛がした。こめかみに触れながら、目を開けたハロルドは、再び正面にある揺らぐ焔を眺める。

 彼女の前でだけ、昔のように笑うことが出来る己の事を、滑稽だとハロルドは考える。まるで子供時代に戻ったかのように純粋に、今は忘れてしまったはずだった自然な笑みが浮かんでくる。マリアローズを前にすると、感情が息を吹き返す。

「隠し事をしての婚姻など、誠実ではないな。やはり、俺は伝えるべきだろう。俺という人間が、どのような事を躊躇いなく行っているのかを」

 それこそが、マリアローズのためだ。もし、嫌われ、離れられても――マリアローズがそれで幸せならばいいではないか。一人そう考えてから、ハロルドは何気なく焔を吹き消した。


 聖夜の日が訪れた。前々からこの日は一緒に過ごそうと約束をしていたから、マリアローズは大切そうにプレゼントを持ち、己が婚姻後に使う部屋へと向かった。ここで二人で話そうと、ハロルドと約束していたからだ。僅かな緊張と胸の疼きの両方を感じながらマリアローズが扉を開けると、既にハロルドの姿があった。

 刺繍の美しい長椅子に座っているハロルドは、マリアローズを見るとどこか苦笑するように笑った。いつもより、その表情が硬く見え、瞳に迷いが見て取れる。そう分かるくらいには、長い時間、共にいた。主に仕事だが。

「座ってくれ」
「ここは私のお部屋よ」

 マリアローズは微笑して、ハロルドの隣に座す。そうして横に顔を向けた。そこにいる白雪王は、まるで精密な人形のように美しい。だが、マリアローズは彼の顔に惚れたわけではない。惚れた結果、顔も好きになっただけだ。

「マリアローズ、聞いて欲しいことがある」
「なに?」
「俺は……――サテリッテを極刑に処すように命じた。今、彼女の遺体は墓地にある」
「っ」

 その声に、マリアローズは息を呑む。冷や汗が伝ってきた。

「お前が庇った彼女を、俺は助けなかった。俺は、そういう人間だ。俺は、俺にとっての敵や悪には容赦をしない。それが俺だ」

 平坦な声音でハロルドが述べた。その声がとても悲しそうに、マリアローズには聞こえた。心に、辛さが響いてくる。ハロルドは、本当はそうしたいわけではないと分かる。けれど、国王として決断したのだろう。

「そう。貴方が決めたのならば、私に異論はありません」
「っ、本音か?」
「ええ。それよりハロルド、どうしてそんなに偽悪的にものを言うの? 決めたのならば、自信を持つべきですわ」

 きっぱりと断言し、強い眼差しを、マリアローズはハロルドへと向ける。
 その瞳の力強さを受け止めると、泣きそうな笑顔で、小さくハロルドが息を吐いた。

「俺は、お前が弱いと誤解をしていたようだ。マリアローズは、俺の想像よりも、ずっと強かったらしい」
「当たり前じゃない。私は貴方の隣に立つのよ? 強くなければ務まらないわ。それは今までだってそうだった。どれだけ私が嫉妬されたと思っているのよ」

 はぁと息を吐いたマリアローズは、それからハロルドの腕を引いた。そしてハロルドの手を両手でギュッと覆うように握る。

「冷酷な選択をする俺が、怖くないのか?」
「それは必要なことなのでしょう? 私は貴方の決断を信じます」
「マリアローズは、いつも俺の欲しい言葉をくれるんだな」

 そう言うと、マリアローズの手を解き、横からハロルドはマリアローズの体を抱き寄せた。そしてマリアローズの髪を自分の肩に押しつけるようにし、天井を見上げる。涙を乾かす事に必死なハロルドには気づかず、マリアローズは心地の良い体温に浸っていた。

「ねぇ、ハロルド。これを開けて」

 マリアローズはプレゼントの事を思い出し、微笑してハロルドへと渡した。

「ああ、悪いな、俺は何も用意していないんだ」
「いいの。私が渡したかっただけだから」

 彼女の声に、素直にハロルドが開封する。そして目を瞠った。中に入っていたのは、銀細工の繊細な腕輪だった。銀色の細い鎖で出来ている。そして一カ所にだけ、青い魔石が嵌まっていた。

「侍女に聞いたの。街で流行しているお守りだと。瞳と同じ色の魔石を、この鎖につけると、悲しい時に、明るい気分になれるそうよ。誰でも落ち込む時はあるけれど、ハロルドには笑っていて欲しいから」

 温かなマリアローズの声音が、室内に響く。柔和に笑って頷いたハロルドが、早速手首にそれを身につける。それからハロルドは、より強くマリアローズを抱き寄せて、彼女の額に口づけを落とした。


 聖夜が過ぎると、この国は年末に向けて本格的な準備が始まる。
 聖夜が恋人達の祝祭とするならば、一年最後の日は、家族同士で過ごすと決まっている大切な日だ。王宮の者達は、年末年始の期間が過ぎてから順番に休みを取ることが多いから、王宮では通常通り働いている者も多いが、例年この日は宰相閣下でさえ王宮には顔を出さない。

 まだ夫婦という意味での家族というわけではないが、年の瀬の最後の日まで仕事をしていたマリアローズは、やっとそれが落ち着いた時、そばでこちらも仕事をしていたハロルドを見た。といっても執務室ではなく、今はハロルドの部屋で、持ち帰った書類を片付けていた。それぞれの部屋で行ってもよかったのだが、なんとなく一緒にいたかった。

「少し飲むか?」

 一段落した時、珍しくハロルドがそう声をかけた。マリアローズが視線を向けると、ハロルドが立ち上がり、チェストへと歩みよる。そこにはシャンパンの瓶があった。魔術のかかった氷で、いつも冷やされている品だ。

「そうね」

 一年最後の日に、家族だけで酒やジュースを飲むのが、この国の文化だ。
 微笑してマリアローズは頷く。
 すると頷き返したハロルドが、瓶をテーブルに置いてから、チェストの上に伏せておいてあったグラスを二つ手に、応接席へとついた。長椅子に座っているハロルドの隣に、マリアローズも腰を下ろす。

 ハロルドが瓶を傾けると、炭酸の弾けるような音がした。二つのグラスが白いシャンパンで満たされる。瓶を置いたハロルドが、片方のグラスをマリアローズに差し出した。笑顔でマリアローズはそれを受け取る。

「乾杯」

 ハロルドの声に、頷きマリアローズはグラスを合わせた。
 そしてシャンパンを口に含めば、炭酸の感覚と同時に、柔らかな葡萄の風味が口の中に広がった。

「美味しい」
「そうだな。俺もこの味は嫌いじゃない」

 飲みやすいシャンパンを、マリアローズは堪能した。

「ハロルドは、お酒が好きなの? あまり率先して飲んでいるイメージは無いけれど」
「好きというわけではないが、弱くはないぞ」
「そうなのね」
「マリアローズこそどうなんだ?」
「私も弱くは無いと思うの。ただ、夜会以外では飲む事はほとんど無いかしら」

 マリアローズが答えると、ゆっくりとハロルドが頷いた。

「仕事で飲む酒、付き合いの酒と、個人的に飲む酒は味が違う気がするんだ。だからこうして、マリアローズと一緒に飲むのなら、俺は酒が好きだと言える」
「そういうものなの?」
「ああ。もっとも、マリアローズが隣にいたら、大体なんだって美味に感じるかも知れないが」

 さらりと言われて、マリアローズは照れそうになった。

「……私も」
「ん?」
「ハロルドが隣にいるのなら、なんでも好きだって言えるかもしれないわ」

 気恥ずかしくなりつつマリアローズがそう答えると、目を丸くした後ハロルドが破顔した。