――一週間後、ハロルドは治療塔を後にした。そしてその翌日からは、自身の執務室の椅子で元気な姿を披露しはじめた。安堵して気が抜けたマリアローズは、微笑しているハロルドをチラチラと見てしまう。本当に良かった、本当に。脱力して、数日間、マリアローズの方が倒れて動けなかった事は、ハロルドには内緒にしてある。
「それにしても、差出人は何者だったんだ?」
執務机に右手で頬杖をついたハロルドを見ながら、マリアローズはしょんぼりしながら、紅茶のカップに両手で触れた。温もりが愛おしい。少しだけ沈んだ気分を癒やしてくれる。
「分からないの。本当にごめんなさい。私が呼び出しに応じたばっかりに……」
「いいや、マリアローズのせいではない。悪いのは全て犯人だ。俺は決して許さない」
サファイア色の瞳が、一瞬だけ暗くなったが、カップの中身を見ていたマリアローズは、全く気がつかなかった。
「犯人を必ず捜し出す」
「どうやって? 名前は何処にも無かったのよ?」
「手がかりはある。まず、犯人は左利きだ」
「え? どうして分かるの?」
小首を傾げ、純粋に疑問だというように、マリアローズが目を丸くする。
「手紙の文字が掠れていただろう?」
「ええ」
「左利きの人間が右に文字を綴ると、あのように掠れることが多いんだ」
知らなかったマリアローズは、ハロルドの洞察力に驚いた。
「だからあの日、外部から王宮へと立ち入り申請をした者の中で、左利きの者を捜せばいい」
「王宮にはたくさんの侍従や侍女がいるわ。疑いたくは無いけれど……」
「ああ、安心していい。それはない」
「どうして?」
「――王宮で働く者には、全て監視をつけている」
「えっ」
知らなかったマリアローズは、驚いてパチパチと瞬きをする。
ハロルドは内心で、使用人に紛れた騎士団の暗部の者が大勢いる事を想起していたが、それは特にマリアローズには告げなかったし、マリアローズもまた深くは追求しなかった。
「今、リストを用意させている」
「そうなの……」
ゆっくりと頷いたマリアローズは、元気になったハロルドの姿を見られたから、犯人についてはあまり関心が無かった。ハロルドがそこにいれば、それでよいのだ。
その時ノックの音がして、宰相府の文官の女性が入ってきた。
いつかハロルドをキラキラした瞳で見ていた彼女を一瞥し、マリアローズは複雑な気分になった。今となっては、自分の好きな相手にそういった眼差しを向けられると、己がフラれてしまうような気がして、あまり気分がよくない。しかしながら彼女は、首から恋人に贈られるという首飾りを提げているのだから、問題は無く、全て自分が自意識過剰なだけだと分かるから、複雑な気分でもある。
「ハロルド陛下、リストをお持ち致しました」
「ありがとうございます」
上辺の笑みで答えたハロルドに、彼女はやはり頬を染めてから、退室していった。
ハロルドは即座に紙に書かれた名前を目で追う。
それから小首を傾げる。
「少なくとも俺に心当たりがある名は無い。マリアローズも見てくれないか?」
「ええ」
犯人には興味が無かったが、大切なハロルドの頼みだ、断るはずも無い。
こうしてリストを受け取ったマリアローズは、上から順に見ていった。
そして、サテリッテ・ナザリアの名前を見つけて、ふと思い出した。彼女は、いつかの茶会の席で、ハロルドを一瞬、非常に冷たい眼で見ていたような気がする。そしてなにより、彼女の生家があるナザリア伯爵領地は、林檎の名産地だ。ジャムをいつもお土産にくれた。左利きなのも記憶にある。
「ねぇ、ハロルド」
「なんだ?」
「青林檎香は、どうやって作るのかしら? 林檎は使う?」
「ああ。大量の林檎を必要とする」
それを聞いて、マリアローズは嫌な胸騒ぎに襲われた。
「ハロルド……勘違いかもしれないけれど、ナザリア伯爵領地は林檎が特産品で……サテリッテは、その……」
冤罪だったらどうしようかと考えながら、小さな声でマリアローズが述べる。すると双眸をスッと鋭くし、納得したように何度かハロルドが頷いた。
「すぐに調査する、助かった、マリアローズ」
「いいえ、お役に立てたのならば光栄よ」
マリアローズが微笑すると、ハロルドもまた笑顔を浮かべた。意識不明の一件以来、ハロルドがマリアローズを見る目は、より一層優しいものへと変化している。それがマリアローズには、少しだけ擽ったい。
その後は二人で書類を片付けた。陽が落ちるのが随分と早くなった。窓辺に飾ってあるシクラメンの鉢植えを一瞥し、マリアローズは休憩に紅茶を飲む。ハロルドはまだ羽ペンを動かし、署名をしている。怜悧な眼差しが格好良く思えて、マリアローズは目を伏せて苦笑する。
「今日はそろそろ帰って構わないぞ」
「そう? それではお暇致します」
頷き、マリアローズは目を開けて立ち上がった。本当はもう少し元気になったハロルドのそばにいたかったけれど、無理は良くない。昨日まで寝込んでいた我が身を振り返りながら、マリアローズは執務室を出て、回廊を歩いて行く。
「そうだ、きちんと《魔法の鏡》にお礼を言わなくちゃ」
独りごちて、マリアローズは帰路を急いだ。
「あ……その前に、少し王都に買い物に出ようかしら」
マリアローズは皇太后となったため、後宮から出ることを許可されている。
なのでごくたまに買い物に行くことがある。
――来週には、聖ヴェリタ教が説く聖夜がある。
今日は早く仕事が終わったのだし、出かける余裕もある。
「ハロルドに、なにをあげようかしら」
優しく微笑み、マリアローズはその足で、王都へと出かける事にした。この前、叡神都市フロノスでお忍びという概念を覚えた彼女は、他の者を呼びつけるのも悪いと感じ、ふらりと裏門から外へと出たのだった。今は、お金もお財布も、きちんとマリアローズは所持している。
「王宮に忍び込んだのは貴族なのだし、平民が多い街なら魔の手はないはずだし」
マリアローズは毒青林檎事件の犯人を想って陰鬱な気持ちに一瞬だけ変わったが、持ち前の明るさで、不安を打ち消した。